守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
珈琲専門店の扉には、前回と同じ札が掛けられていた。
『本日貸切』
豆を挽く香り。
静かな店内。
磨き込まれた木製のテーブル。
そして、その中央に置かれた一枚の書類。
怪盗Xiは、それを見た瞬間、露骨に顔をしかめた。
「……また会議?」
ログナーは、珈琲カップを置いた。
「回答期限だ」
「知ってるよ。だから来たんだよ」
「逃げずに来たのは評価する」
その一言に、桂木弥子がぱっと顔を明るくした。
「えらい!」
「褒めないで!」
Xiが即座に叫ぶ。
「褒められると逃げ道が減るから!」
「それ、褒められ慣れてない人の反応だね」
「違う! 僕は怪盗として正しい危機管理をしてるの!」
その横で、脳噛ネウロが愉快そうに笑った。
「逃げ道を失うことに敏感な獣ほど、罠にかかった時の味が良い」
「僕を食材みたいに見るな!」
テーブルには、ログナー、ソープ、カイエン、アウクソー、弥子、ネウロ。
そして今回は、泉編集も同席していた。
泉は手帳を開き、眼鏡の位置を直す。
「契約内容の確認でしたら、第三者的に文面を見る人間がいた方がいいでしょう。特に、あとで『そんなつもりじゃなかった』が発生しそうな面子ですので」
「泉さん、いきなり全員に刺してない?」
「事実確認です」
「編集さん怖い!」
カイエンが腕を組んだまま鼻で笑った。
「ビビってる場合か。さっさと返事しろ、怪盗」
「急かさないでよ。今から僕が、人生と自由と報酬を守る大事な交渉をするんだから」
「大げさだな」
「カイエンさんは大げさじゃない人生送ってないでしょ!」
「まあな」
「認めるんだ……」
ログナーは淡々と書類を指で叩いた。
「結論は」
その一言で、店内の空気が少しだけ張り詰める。
Xiは、しばらく黙っていた。
いつものように軽口を叩き、隙を見つけて煙のように逃げることもできた。
だが、今日は逃げなかった。
椅子に座り直し、ソープを見る。
それからログナーを見る。
「常時契約はしない」
ログナーは表情を変えなかった。
「理由は」
「僕は怪盗だよ。誰かの部下でも、ミラージュナイトでもない。毎日どこかに詰めるとか、常時監視されるとか、そういうのは無理」
「常時監視とは言っていない」
「似たような空気は出してた!」
「そうか」
「そこは否定してよ!」
ソープがくすりと笑った。
「じゃあ、Xiは全部断るの?」
Xiは少しだけ口を尖らせた。
「全部とは言ってない」
弥子が身を乗り出す。
「あ、条件付き?」
「そう」
Xiはテーブルの上に指を立てた。
「ソープさんが旅行とか、合宿とか、ログナーさんが同行できない外出をする時。そういう期間限定なら受ける」
泉がすぐにメモを取る。
「期間限定。常時契約ではない、と」
「大事だからそこ太字にして」
「手書きなので二重線にします」
「妙に現実的!」
Xiは続けた。
「期間は二泊三日。三日間だけ。任務内容は、ソープさんの同行補助、安全確認、危険な差し入れの監査。あと、変な飲食物と、変な入浴剤は絶対に通さない」
ネウロの目が光った。
「ほう。危険飲食物の監査か」
「ネウロさんは食べ物を謎の餌にする側だから黙ってて」
「失礼な。我が輩は食材ではなく謎を喰う」
「なおさら黙ってて!」
弥子が首を傾げる。
「危険な差し入れって、たとえば?」
「ヘキサクス製の野菜とか、果物とか、チーズとか、カレーとか、入浴剤とか!」
「入浴剤まで!?」
「入浴剤は今回かなり重要!」
Xiは妙に真剣な顔で言い切った。
「温泉に来てまで、シックスさんちの畑と蔵と研究所の匂いに巻き込まれたくない」
「それはまあ……嫌だね」
弥子も素直に頷いた。
ログナーは資料に目を落とす。
「任務期間は二泊三日。任務内容は、ソープの同行補助、文化調査時の安全確認、危険飲食物、危険入浴剤、不審な差し入れの監査」
「そう!」
「さらに」
ログナーが視線を上げる。
「朝または夕方に、カイエンによる剣技指導を受ける」
Xiの動きが止まった。
「……今、何か増えなかった?」
カイエンがにやりと笑った。
「よかったな。温泉外注後輩」
「肩書きに温泉を足すな!」
「外注後輩はいいのか」
「よくないよ!」
アウクソーが静かに口を挟む。
「ですが、契約期間中に護衛補助を務めるのであれば、最低限の実戦対応力を確認する必要があります。マスターの稽古は合理的かと」
「アウクソーさんが言うと反論しにくい!」
ソープも穏やかに頷いた。
「それに、カイエンに師事するのは悪いことじゃないよ」
「ソープさん、他人事みたいに言ってるけど、カイエンさんの稽古って普通に死にかけるやつじゃない?」
「大丈夫」
「何が?」
「たぶん」
「一番信用しちゃいけないやつ!」
泉がメモを取りながら確認する。
「訓練については、“任務遂行に支障のない範囲で実施”と入れておきましょう。温泉宿で死人が出ると、旅館側にも迷惑です」
「泉さん、もっと情で止めて」
「実務上の理由です」
「編集者って怖い!」
ログナーは、そこで本題に戻した。
「報酬は」
Xiの目が鋭くなる。
「日当一フェザーゴールド」
「三日間で三枚だな」
「そう。三枚。宿泊費と食費はそっち持ち。正式採用ではない。ミラージュナイトでもない。あくまで短期外注。臨時のお目付け役。ここ、全部明記して」
泉が頷く。
「明記します。正式採用ではない、短期外注契約。報酬は稼働日数に応じて一日フェザーゴールド金貨一枚」
Xiは少し得意げに胸を張った。
「どう? これなら僕の自由は守られるし、そっちもソープさんの外出時の補助を確保できる。かなり良心的な提案だと思うけど」
ログナーは、一拍置いて言った。
「OKだ」
「早い!」
Xiがテーブルに手をついた。
「もうちょっと悩んでよ!」
「妥当だ」
「妥当って言われると、また見積もりで負けた気がする!」
カイエンが笑った。
「よかったじゃねぇか。自分で条件を出して、自分で負けたんだ」
「負けてない!」
Xiは即座に言い返した。
「僕は常時契約を拒否した。正式採用も拒否した。期間も報酬も任務範囲も決めた。これは僕の勝ち!」
「なら胸張っとけ」
「なんかカイエンさんに言われると腹立つ!」
ソープは楽しそうに珈琲を飲み、ぽつりと言った。
「温泉か。地球の入浴文化として面白そうだね」
その瞬間、Xiが勢いよく指を突きつけた。
「ヘキサクス製入浴剤は禁止!」
店内の全員が、一瞬だけ固まった。
弥子が苦笑する。
「早い」
「ここは最初に釘を刺すところ!」
Xiは真剣だった。
「“至高の湯”とか“我が一族自慢の薬草を配合した入浴剤”とか、絶対に来るから! 絶対に!」
ネウロが顎に手を当てる。
「常人は湯気だけで記憶の一部を失うが、慣れると癖になる、という類か」
「やめて! 具体化しないで!」
カイエンが眉をひそめる。
「そんなもん旅館に届いたら、俺が斬る」
「入浴剤を斬るって何!?」
「袋ごとだ」
「そういう問題じゃない!」
アウクソーは静かに頷いた。
「では、旅館到着時に荷物の確認を行いましょう。不審な荷物、差出人不明の差し入れ、ヘキサクス関連企業からの配送物は、怪盗Xi殿の監査対象とします」
「アウクソーさん、完璧」
「ありがとうございます」
泉がすぐに書き足す。
「危険入浴剤、危険飲食物、不審差し入れの監査。特にヘキサクス関連物品は要確認、と」
「泉さんも完璧!」
「契約書に“危険入浴剤”と書く日が来るとは思いませんでした」
「僕も思わなかったよ!」
弥子がそこで手を上げた。
「質問。旅館飯と朝食バイキングは任務に含まれますか?」
「含まれないよ!」
「えー」
「えーじゃない!」
ネウロが冷たく言う。
「貴様の場合、朝食バイキングは任務ではなく侵攻だ」
「失礼な!」
「違うのか」
「……ちょっと違わないかも」
「認めたぞ、この娘」
ログナーは淡々と書類をまとめた。
「では、契約内容を確認する」
泉が清書用の紙を取り出す。
ログナーは読み上げた。
「一つ。怪盗Xiは、ソープの二泊三日の温泉合宿に同行する」
「温泉合宿って言い方がもう逃げ場ないんだけど」
「二つ。契約は期間限定であり、常時契約ではない」
「そこ大事!」
「三つ。正式採用ではなく、短期外注扱いとする」
「もっと大事!」
「四つ。報酬は日当一フェザーゴールド。三日間で計三枚」
「よし!」
「五つ。任務内容は、ソープの同行補助、文化調査時の安全確認、危険飲食物、危険入浴剤、不審な差し入れの監査」
「危険入浴剤が正式に入った……」
「六つ。任務に支障のない範囲で、カイエンによる剣技指導を受ける」
「そこはまだ納得してない!」
「七つ。契約期間中、怪盗Xiはソープを置いて逃走しない」
Xiの表情が、少しだけ変わった。
さっきまでの軽口が止まる。
ソープも、何も言わずにXiを見ていた。
ログナーの声は静かだった。
「ここは譲れない」
Xiは、しばらく黙ったあと、椅子にもたれた。
「……契約中は、ね」
「ああ」
「僕は怪盗だから、逃げる時は逃げる。でも、契約中にソープさんを置いて一人で逃げるのは違う」
Xiは少しだけ視線を逸らした。
「そこは守る」
ソープが柔らかく笑った。
「ありがとう、Xi」
「まだサインしてない」
「でも、今のは約束に聞こえたよ」
「そういうところだよ、ソープさん……」
Xiは小さくため息をついた。
泉が書類を確認し、ログナーへ渡す。
ログナーが内容を見て、頷く。
「問題ない」
カイエンがXiの方を見る。
「で、どうすんだ。温泉外注後輩」
「その呼び方やめてってば!」
「サインするのか、しねぇのか」
Xiはペンを見た。
逃げ道はある。
常時契約ではない。
正式採用でもない。
報酬も出る。
任務範囲も明記した。
つまりこれは、押し切られた契約ではない。
自分で選んだ条件だった。
Xiはペンを取る。
「……言っとくけど、これは僕の勝ちだからね」
ログナーが言った。
「そう思いたいなら、そう思え」
「またその言い方!」
ソープがにこにこしながら言う。
「僕は、Xiの勝ちでいいと思うよ」
「それ、絶対そっちも勝ってるやつ!」
「うん」
「認めた!」
Xiはぶつぶつ言いながら、契約書に署名した。
泉がそれを受け取り、確認する。
「はい。怪盗Xi氏、短期外注契約、成立です」
弥子が拍手した。
「おめでとう!」
「おめでたくない!」
「じゃあ契約成立記念にケーキ頼もうよ」
「弥子ちゃん、絶対それ言いたかっただけでしょ!」
「うん!」
「素直!」
ネウロが店員を呼ぶ。
「この娘にはケーキを三つ。怪盗には苦い珈琲を」
「なんで僕だけ罰ゲーム!?」
「契約とは苦いものだ。味わえ」
「魔人に社会の厳しさを説かれた!」
その時、ソープがふと思い出したように言った。
「そういえば、温泉宿はどこにする?」
ログナーが答える。
「すでに候補は絞ってあります。二泊三日。稽古に使える河原か広場が近く、料理が良く、貸切風呂があり、余計な干渉の少ない宿です」
「準備済み!?」
Xiが叫んだ。
「僕が断ったらどうするつもりだったの!?」
ログナーは平然と言った。
「別案に切り替えるだけだ」
「別案って何!?」
「カイエンを行かせる」
「それ、旅館が壊れる!」
カイエンが眉を上げる。
「壊さねぇよ」
「卓球台は?」
「相手による」
「壊す気あるじゃん!」
弥子がぱっと手を挙げた。
「温泉卓球ある?」
ソープが嬉しそうに言う。
「地球の温泉文化には、卓球も含まれるのかな」
「含まれる! たぶん!」
ネウロが不敵に笑った。
「面白い。湯上がりの人間が、板と球で闘争本能を発露する儀式か」
「急に魔界解釈しないで!」
泉は額を押さえた。
「露伴先生に話したら、絶対に来たがりますね……」
Xiが嫌な予感に顔を引きつらせる。
「露伴先生も来るの?」
「温泉宿は人間が緩む場所だ、と言いながら取材に来る可能性は高いです」
「セイロニストの編集さん、止めてよ!」
「止めます。止めますが、止まる保証はありません」
「編集の敗北宣言!」
アウクソーが静かに言った。
「賑やかな合宿になりそうですね、マスター」
カイエンは面倒くさそうに鼻を鳴らす。
「稽古はやるぞ、Xi」
「温泉なのに!?」
「温泉だからだ。身体が温まる」
「そんな健康法みたいに!」
「のぼせたら叩き起こす」
「健康法じゃなかった!」
ソープは、そんな面々を眺めながら、楽しそうに微笑んだ。
「いいね。温泉文化調査、楽しみだ」
Xiは契約書の控えを見下ろした。
逃げられなかった。
回答期限からも。
契約からも。
そしてたぶん、湯けむりからも。
けれど。
常時契約ではない。
正式採用でもない。
自分で条件を出して、自分で選んだ。
だから、これは負けではない。
Xiはそう自分に言い聞かせるように、控えを封筒へしまった。
「……で、出発はいつ?」
ログナーが答えた。
「明後日だ」
「早いよ!!」
怪盗の悲鳴が、珈琲専門店に響いた。
弥子はケーキを前にして、満面の笑みで言った。
「温泉楽しみだね!」
「僕はまだ心の準備ができてない!」
ネウロが笑う。
「安心しろ。貴様の心が準備できる前に、現実が来る」
「一番嫌な励まし!」
こうして、怪盗Xiの短期外注契約は成立した。
任務期間、二泊三日。
報酬、フェザーゴールド三枚。
任務内容、ソープの同行補助と危険物監査。
備考、正式採用ではない。
そして新たな問題が一つ。
温泉宿に届くかもしれない、謎の差し入れ。
危険飲食物。
危険入浴剤。
不審な荷物。
そのすべてを監査する怪盗は、ぼそりと呟いた。
「……僕、怪盗だよね?」
カイエンが答えた。
「今は温泉外注後輩だ」
「だからその肩書きやめて!!」
次なる舞台は、湯けむりの向こう。
怪盗Xiは、どうやら温泉からも逃げられない。