守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
旅行当日の朝。
怪盗Xiは、集合場所に一番早く来ていた。
理由は、真面目だからではない。
逃げ道を確認するためである。
「駅。バス乗り場。タクシー乗り場。コンビニ。人通り。裏手の路地。よし、逃走経路は三つ……いや、露伴先生が来ることを考えると五つは欲しい」
Xiは小さく呟きながら、周囲を見回していた。
その手には、小さな紙パックの乳酸菌飲料。
もう片方の手には、GABA入りチョコレート。
完全に胃痛対策である。
「……僕、怪盗だよね」
自分で自分に問いかける。
すると、背後から明るい声がした。
「Xi、おはよう!」
弥子だった。
手には、朝からすでにコンビニ袋がある。
中身はおにぎり、パン、飲み物、そして追加のチョコ。
「顔色悪いよ。飲む?」
弥子が差し出したのは、同じ乳酸菌飲料だった。
Xiは、それを見て固まった。
「……弥子ちゃんまで持ってきたの?」
「美味しいよ。胃にも良さそうだし」
「僕、怪盗なのに胃腸から守られようとしてるの?」
そこへ、キラがやって来た。
少し疲れたような、しかし妙に悟ったような顔をしている。
「Xi、その気持ち、ちょっとわかるよ」
「キラさんの目が経験者の目!」
キラの横にはラクスがいた。
ラクスは小さな袋を差し出す。
「こちらもどうぞ。気持ちを落ち着ける助けになるかもしれませんわ」
中には、GABA入りチョコが入っていた。
Xiは、そっと受け取った。
「優しさが沁みる……」
キラが静かに頷く。
「胃に来る旅って、あるよね」
「キラさん、今回B室ですよね」
「うん」
「承太郎さん、露伴先生、ネウロさんと同室ですよね」
「うん」
「……頑張ってください」
「ありがとう。XiもC室、頑張って」
二人は一瞬だけ、固い握手を交わした。
それは、戦友の握手だった。
そこへ、カイエンが現れた。
「何やってんだ、お前ら」
「胃痛同盟です」
「くだらん」
「カイエンさんには一生わからないやつ!」
カイエンの後ろから、ソープとアウクソーも歩いてくる。
ソープは朝から機嫌が良さそうだった。
「いい朝だね。温泉日和だ」
「ソープさん、その無邪気さが怖い」
「どうして?」
「今日このあと、絶対何か起きるから」
アウクソーが静かに言った。
「すでに旅館宛ての不審な茶菓子が確認されています」
「そうだった! 思い出させないで!」
Xiが頭を抱えたところで、承太郎、露伴、泉、ネウロも合流した。
承太郎はいつも通り、帽子のつばを下げている。
「やれやれ、朝から騒がしいな」
露伴は小型の取材ノートを手にしていた。
「旅行当日の朝というのはいい。人間の期待と不安が、無防備に表情へ出る」
Xiは即座に一歩下がった。
「露伴先生、ソープさんに必要以上に近づかないでください」
「まだ近づいていない」
「視線が近づいてます」
「視線まで監査対象なのか?」
「対象です」
泉が手帳を開く。
「本日の行程を確認します。午前中に移動。昼食は会津名物を予定。その後、東山温泉方面へ移動し、宿にチェックイン。到着後、まずフロントで不審物の確認を行います」
弥子が手を上げた。
「昼食って何?」
その瞬間だけ、弥子の目が鋭くなった。
泉は一拍置いて言った。
「煮込みソースカツ丼です」
弥子の顔が輝いた。
「勝った」
「まだ食べてないよね?」
Xiが即座に突っ込む。
ネウロが笑う。
「この娘にとって、食事予定の確定はすでに勝利なのだ」
「弥子ちゃん、人生が強いな……」
ラクスが興味深そうに首を傾げる。
「ソースカツ丼を、さらに煮込むのですか?」
キラも少し驚いた顔をする。
「普通のカツ丼と、ソースカツ丼の中間みたいな感じなのかな」
Xiは説明しようとして、少し考えた。
「たぶん、会津の力技」
「力技?」
「ソースのパンチと、卵とじの優しさを、丼の上で和解させた料理」
承太郎が低く呟いた。
「悪くねぇな」
カイエンも腕を組む。
「腹に溜まりそうだ」
弥子はすでに遠くを見ていた。
「ソース……カツ……煮込み……丼……」
「弥子ちゃん、戻ってきて」
ソープは楽しそうに言った。
「地元の食文化調査だね」
「そうです。これは安全な文化調査です」
Xiは強調した。
「象の消化を経たコーヒーでも、シックス農園のチョコでもない。ちゃんとした地元料理。安全。安心。美味しい」
ネウロが横から言う。
「油断するな。食とは常に謎を孕む」
「美味しいものを不穏にするな!」
移動は、思いのほか平和だった。
少なくとも、表面上は。
ソープは車窓から見える街並みや山の稜線を興味深そうに眺めている。
ラクスは会津の歴史や温泉地について泉と穏やかに話している。
アウクソーは荷物と人数を静かに確認している。
承太郎は無言で座り、カイエンはすでに昼食の量を気にしている。
露伴は窓の外ではなく、人間の表情を観察している。
ネウロは、旅の空気そのものから謎を嗅ぎ取るように笑っている。
弥子は昼食のことしか考えていない。
そしてXiは、全員を見ていた。
「……胃が痛い」
隣のキラが、小声で言った。
「乳酸菌飲料、もう一本あるよ」
「ありがとう、キラさん……」
昼食の店に到着した時、弥子は誰よりも早く暖簾を見た。
「ここ?」
「まだ入ってもいないのに目が輝きすぎです」
泉がそう言う間にも、弥子は店内の匂いを吸い込んでいた。
「ソースの匂いがする!」
煮込みソースカツ丼。
会津の名物。
ソースをくぐらせたカツを、卵でとじて丼にする。
甘辛いソースの香りと、卵のやわらかさ。
カツの衣には味が染み、それでいて丼としての満足感がある。
テーブルに丼が置かれた瞬間、弥子は静かに手を合わせた。
「いただきます」
次の瞬間には、もう箸が動いていた。
Xiはその速さに引いた。
「早い」
ネウロが冷たく言う。
「遅い方だ」
「これで!?」
弥子は、既に1杯目が空だった。
「美味しい……!」
Xiが胸を撫で下ろす。
「よかったね」
「じゃあ次は、ちゃんと味わって食べるね」
「今の一杯は何だったの!?」
ネウロが笑う。
「試食だろう」
「丼一杯を試食って言うな!」
キラは一口食べて、少し目を丸くした。
「美味しい。ソースなのに、卵でまとまってる」
ラクスも微笑む。
「不思議ですわね。濃い味なのに、どこか懐かしい感じがします」
承太郎は黙って食べ、短く言った。
「うまい」
それだけで十分だった。
カイエンは丼を見下ろして、満足げに頷く。
「稽古前の飯としては悪くねぇ」
Xiが即座に反応する。
「稽古前って言わないで。今日は移動日。今日は移動日!」
「夕方、軽くやる」
「軽くの基準が信用できない!」
ソープは丼をゆっくり観察していた。
「ソースで味付けしたカツを、さらに卵でまとめる。面白いね。料理の発想として、足し算なのに喧嘩していない」
露伴がすかさずノートを取る。
「その感想、いいね。食文化への観察が自然だ」
Xiは箸を置いた。
「露伴先生」
「何だ」
「近い」
「会話しただけだ」
「会話の距離が近い」
泉が冷静に言った。
「先生、ソープ様への取材は事前許可制です」
「泉くん、君は僕の担当編集であって、取材妨害者ではないはずだ」
「今回は兼任です」
「勝手に兼任するな」
承太郎が低く言った。
「露伴、飯ぐらい静かに食え」
「君に食事中の態度を指図される筋合いはない」
「やれやれだぜ」
弥子は、2杯目も片付けた。
「うーん、ソースの味が染みてるのに卵でまとまってて……
これは三杯目で確認したい」
キラがギョッとした目で見る。
「確認って何を!?」
ネウロは含み笑いをした。
「この娘の胃袋は、会津の観光資源を正面から受け止めている」
キラはそっと乳酸菌飲料に手を伸ばした。
「キラさん、今飲むんですか」
「予防だよ」
「わかる」
XiもGABA入りチョコを一粒食べた。
温泉旅行は、まだ昼食である。
それなのに、胃痛対策の消費ペースが早すぎた。
結局、煮込みソースカツ丼を3杯食べて、弥子は満足そうに息をついた。
「美味しかった……」
「弥子さん、本当に幸せそうですわ」
ラクスが微笑む。
「食は旅の大事な楽しみですから」
「ラクスさん、いいこと言う」
弥子が頷く。
ネウロが横から言った。
「この娘の場合、旅が食の付属品だ」
「否定しづらい!」
Xiは会計を確認しながら、露伴の方をちらりと見た。
露伴は当然のように多めに支払う気で財布を出していた。
「僕は取材も兼ねている。少し多めに出す」
「出資者みたいな顔で参加権を強化しないでください」
「正当な対価だ」
「その正当さが怖い」
ソープは楽しそうにそのやり取りを見ていた。
「にぎやかだね」
「ソープさん、他人事じゃないです。半分くらいあなたが中心です」
「そうかな」
「そうです」
午後。
一行は東山温泉へ向かった。
街の空気が少しずつ変わる。
温泉地特有の、どこかゆるやかな時間。
川の音。
山の気配。
宿へ近づくにつれて、ソープの目が輝いていく。
「水の音がするね」
アウクソーが頷く。
「渓流沿いの宿です。露天風呂からも滝の音が聞こえるそうです」
「いいね。地球の入浴文化は、環境も含めて楽しむものなのかな」
「そうですね。湯だけではなく、景色、音、食事、部屋、もてなし。全部含めて温泉宿だと思います」
ラクスが穏やかに言った。
Xiはその横で、少しだけ表情を緩めた。
「……こういう話だけしてれば、普通に良い旅行なんだけどな」
ネウロが笑う。
「普通で終わると思うか?」
「言わないで」
宿が見えてきた。
会津東山温泉、原瀧。
渓流のそばに建つ、落ち着いた温泉宿。
滝の音と湯けむりが似合う場所。
到着した瞬間、弥子が声を上げた。
「おおー! 温泉宿!」
キラも少し安心したように言った。
「いいところだね」
ラクスが微笑む。
「風情がありますわ」
ソープは建物と周囲の景色をゆっくり見回した。
「ここが、今回の調査地か」
Xiは荷物を持ち直した。
表情は真剣だった。
「まずフロント」
弥子が首を傾げる。
「え、部屋じゃなくて?」
「部屋より先に茶菓子」
「あっ」
「忘れないで。昨日の時点で届いてるんだから」
旅館のスタッフは、こちらを見て丁寧に迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
Xiは一歩前へ出た。
普段の怪盗らしい軽さではなく、妙にしっかりした声だった。
「お世話になります。昨日お電話した、不審な荷物の件ですが」
スタッフの表情が、すぐに引き締まる。
「はい。ご連絡いただいていたお荷物でございますね。開封せず、別室にて保管しております」
アウクソーが小さく頷いた。
「完璧な対応です」
Xiも深く頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に助かります。宿の方には一切問題ありません。問題は送り主です」
そこまで言って、Xiは一瞬だけ言葉を止めた。
そして、疲れ切った顔で小さく呟く。
「……悪いのは全部、あのクソ親父……」
弥子が小声で言った。
「クソ親父って言った……」
ネウロが目を細める。
「材料からして同じ影を貼りつけられた者の悪態か」
Xiは低い声で返した。
「貼りついてるだけだよ。背負ってなんかない」
一瞬だけ、空気が静かになった。
弥子がぽつりと言う。
「でも、XiはXiでしょ」
Xiは答えなかった。
ただ、わざとらしく手を叩いた。
「はい、この話終わり! 茶菓子確認! 誰も勝手に近づかない! 特に弥子ちゃん、露伴先生、ネウロさん!」
「なんであたし名指し!?」
「なぜ僕まで」
「我が輩は当然だな」
「自覚ある魔人が一番厄介!」
旅館スタッフが、少し困惑しつつも丁寧に案内してくれる。
「こちらでございます」
一行は、フロント脇の静かな別室へ案内された。
机の上には、一つの箱が置かれていた。
高級感のある包装。
深い黒の箱。
金色のリボン。
そして、中央に貼られた白い紙。
そこには、大きく一文字。
『6』
Xiはそれを見た瞬間、深く息を吐いた。
「……捨てよう」
弥子が叫んだ。
「まだ中身見てない!」
露伴の目が輝く。
「面白い」
キラが胃のあたりを押さえる。
「もう始まった……」
ソープは静かに箱を見つめる。
「これが、例の茶菓子か」
泉が眼鏡を直し、添え状を確認する。
「封筒があります。読みますか?」
Xiは即答した。
「読みたくない」
ネウロが笑う。
「読め」
カイエンが腕を組む。
「読まねぇと処理もできねぇだろ」
アウクソーも頷く。
「内容確認は必要です」
Xiは天井を仰いだ。
「温泉着いて最初にやることが、茶菓子の検疫……」
泉が封筒を開く。
そして、一行目を見た瞬間、ほんのわずかに眉を動かした。
「……題名があります」
「題名?」
弥子が訊く。
泉は淡々と読み上げた。
「至高のチョコレート」
Xiは静かに目を閉じた。
「やっぱり食べ物じゃなくて事件だった」
湯けむりの旅は、まだ部屋に入る前である。
だが怪盗Xiの仕事は、すでに本番を迎えていた。