守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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怪盗Xiは湯けむりから逃げられない その3

 旅行当日の朝。

 

 怪盗Xiは、集合場所に一番早く来ていた。

 

 理由は、真面目だからではない。

 逃げ道を確認するためである。

 

「駅。バス乗り場。タクシー乗り場。コンビニ。人通り。裏手の路地。よし、逃走経路は三つ……いや、露伴先生が来ることを考えると五つは欲しい」

 

 Xiは小さく呟きながら、周囲を見回していた。

 

 その手には、小さな紙パックの乳酸菌飲料。

 もう片方の手には、GABA入りチョコレート。

 

 完全に胃痛対策である。

 

「……僕、怪盗だよね」

 

 自分で自分に問いかける。

 

 すると、背後から明るい声がした。

 

「Xi、おはよう!」

 

 弥子だった。

 

 手には、朝からすでにコンビニ袋がある。

 中身はおにぎり、パン、飲み物、そして追加のチョコ。

 

「顔色悪いよ。飲む?」

 

 弥子が差し出したのは、同じ乳酸菌飲料だった。

 

 Xiは、それを見て固まった。

 

「……弥子ちゃんまで持ってきたの?」

 

「美味しいよ。胃にも良さそうだし」

 

「僕、怪盗なのに胃腸から守られようとしてるの?」

 

 そこへ、キラがやって来た。

 

 少し疲れたような、しかし妙に悟ったような顔をしている。

 

「Xi、その気持ち、ちょっとわかるよ」

 

「キラさんの目が経験者の目!」

 

 キラの横にはラクスがいた。

 

 ラクスは小さな袋を差し出す。

 

「こちらもどうぞ。気持ちを落ち着ける助けになるかもしれませんわ」

 

 中には、GABA入りチョコが入っていた。

 

 Xiは、そっと受け取った。

 

「優しさが沁みる……」

 

 キラが静かに頷く。

 

「胃に来る旅って、あるよね」

 

「キラさん、今回B室ですよね」

 

「うん」

 

「承太郎さん、露伴先生、ネウロさんと同室ですよね」

 

「うん」

 

「……頑張ってください」

 

「ありがとう。XiもC室、頑張って」

 

 二人は一瞬だけ、固い握手を交わした。

 

 それは、戦友の握手だった。

 

 そこへ、カイエンが現れた。

 

「何やってんだ、お前ら」

 

「胃痛同盟です」

 

「くだらん」

 

「カイエンさんには一生わからないやつ!」

 

 カイエンの後ろから、ソープとアウクソーも歩いてくる。

 ソープは朝から機嫌が良さそうだった。

 

「いい朝だね。温泉日和だ」

 

「ソープさん、その無邪気さが怖い」

 

「どうして?」

 

「今日このあと、絶対何か起きるから」

 

 アウクソーが静かに言った。

 

「すでに旅館宛ての不審な茶菓子が確認されています」

 

「そうだった! 思い出させないで!」

 

 Xiが頭を抱えたところで、承太郎、露伴、泉、ネウロも合流した。

 

 承太郎はいつも通り、帽子のつばを下げている。

 

「やれやれ、朝から騒がしいな」

 

 露伴は小型の取材ノートを手にしていた。

 

「旅行当日の朝というのはいい。人間の期待と不安が、無防備に表情へ出る」

 

 Xiは即座に一歩下がった。

 

「露伴先生、ソープさんに必要以上に近づかないでください」

 

「まだ近づいていない」

 

「視線が近づいてます」

 

「視線まで監査対象なのか?」

 

「対象です」

 

 泉が手帳を開く。

 

「本日の行程を確認します。午前中に移動。昼食は会津名物を予定。その後、東山温泉方面へ移動し、宿にチェックイン。到着後、まずフロントで不審物の確認を行います」

 

 弥子が手を上げた。

 

「昼食って何?」

 

 その瞬間だけ、弥子の目が鋭くなった。

 

 泉は一拍置いて言った。

 

「煮込みソースカツ丼です」

 

 弥子の顔が輝いた。

 

「勝った」

 

「まだ食べてないよね?」

 

 Xiが即座に突っ込む。

 

 ネウロが笑う。

 

「この娘にとって、食事予定の確定はすでに勝利なのだ」

 

「弥子ちゃん、人生が強いな……」

 

 ラクスが興味深そうに首を傾げる。

 

「ソースカツ丼を、さらに煮込むのですか?」

 

 キラも少し驚いた顔をする。

 

「普通のカツ丼と、ソースカツ丼の中間みたいな感じなのかな」

 

 Xiは説明しようとして、少し考えた。

 

「たぶん、会津の力技」

 

「力技?」

 

「ソースのパンチと、卵とじの優しさを、丼の上で和解させた料理」

 

 承太郎が低く呟いた。

 

「悪くねぇな」

 

 カイエンも腕を組む。

 

「腹に溜まりそうだ」

 

 弥子はすでに遠くを見ていた。

 

「ソース……カツ……煮込み……丼……」

 

「弥子ちゃん、戻ってきて」

 

 ソープは楽しそうに言った。

 

「地元の食文化調査だね」

 

「そうです。これは安全な文化調査です」

 

 Xiは強調した。

 

「象の消化を経たコーヒーでも、シックス農園のチョコでもない。ちゃんとした地元料理。安全。安心。美味しい」

 

 ネウロが横から言う。

 

「油断するな。食とは常に謎を孕む」

 

「美味しいものを不穏にするな!」

 

 移動は、思いのほか平和だった。

 

 少なくとも、表面上は。

 

 ソープは車窓から見える街並みや山の稜線を興味深そうに眺めている。

 ラクスは会津の歴史や温泉地について泉と穏やかに話している。

 アウクソーは荷物と人数を静かに確認している。

 承太郎は無言で座り、カイエンはすでに昼食の量を気にしている。

 露伴は窓の外ではなく、人間の表情を観察している。

 ネウロは、旅の空気そのものから謎を嗅ぎ取るように笑っている。

 弥子は昼食のことしか考えていない。

 

 そしてXiは、全員を見ていた。

 

「……胃が痛い」

 

 隣のキラが、小声で言った。

 

「乳酸菌飲料、もう一本あるよ」

 

「ありがとう、キラさん……」

 

 昼食の店に到着した時、弥子は誰よりも早く暖簾を見た。

 

「ここ?」

 

「まだ入ってもいないのに目が輝きすぎです」

 

 泉がそう言う間にも、弥子は店内の匂いを吸い込んでいた。

 

「ソースの匂いがする!」

 

 煮込みソースカツ丼。

 

 会津の名物。

 ソースをくぐらせたカツを、卵でとじて丼にする。

 甘辛いソースの香りと、卵のやわらかさ。

 カツの衣には味が染み、それでいて丼としての満足感がある。

 

 テーブルに丼が置かれた瞬間、弥子は静かに手を合わせた。

 

「いただきます」

 

 次の瞬間には、もう箸が動いていた。

 

 Xiはその速さに引いた。

 

「早い」

 

 ネウロが冷たく言う。

 

「遅い方だ」

 

「これで!?」

 

 弥子は、既に1杯目が空だった。

 

「美味しい……!」

 

 Xiが胸を撫で下ろす。

 

「よかったね」

 

「じゃあ次は、ちゃんと味わって食べるね」

 

「今の一杯は何だったの!?」

 

 ネウロが笑う。 

 

「試食だろう」

 

「丼一杯を試食って言うな!」

 

 キラは一口食べて、少し目を丸くした。

 

「美味しい。ソースなのに、卵でまとまってる」

 

 ラクスも微笑む。

 

「不思議ですわね。濃い味なのに、どこか懐かしい感じがします」

 

 承太郎は黙って食べ、短く言った。

 

「うまい」

 

 それだけで十分だった。

 

 カイエンは丼を見下ろして、満足げに頷く。

 

「稽古前の飯としては悪くねぇ」

 

 Xiが即座に反応する。

 

「稽古前って言わないで。今日は移動日。今日は移動日!」

 

「夕方、軽くやる」

 

「軽くの基準が信用できない!」

 

 ソープは丼をゆっくり観察していた。

 

「ソースで味付けしたカツを、さらに卵でまとめる。面白いね。料理の発想として、足し算なのに喧嘩していない」

 

 露伴がすかさずノートを取る。

 

「その感想、いいね。食文化への観察が自然だ」

 

 Xiは箸を置いた。

 

「露伴先生」

 

「何だ」

 

「近い」

 

「会話しただけだ」

 

「会話の距離が近い」

 

 泉が冷静に言った。

 

「先生、ソープ様への取材は事前許可制です」

 

「泉くん、君は僕の担当編集であって、取材妨害者ではないはずだ」

 

「今回は兼任です」

 

「勝手に兼任するな」

 

 承太郎が低く言った。

 

「露伴、飯ぐらい静かに食え」

 

「君に食事中の態度を指図される筋合いはない」

 

「やれやれだぜ」

 

 弥子は、2杯目も片付けた。

 

「うーん、ソースの味が染みてるのに卵でまとまってて……

 これは三杯目で確認したい」

 

 キラがギョッとした目で見る。

 

「確認って何を!?」

 

ネウロは含み笑いをした。

 

「この娘の胃袋は、会津の観光資源を正面から受け止めている」

 

 キラはそっと乳酸菌飲料に手を伸ばした。

 

「キラさん、今飲むんですか」

 

「予防だよ」

 

「わかる」

 

 XiもGABA入りチョコを一粒食べた。

 

 温泉旅行は、まだ昼食である。

 

 それなのに、胃痛対策の消費ペースが早すぎた。

 

 結局、煮込みソースカツ丼を3杯食べて、弥子は満足そうに息をついた。

 

「美味しかった……」

 

「弥子さん、本当に幸せそうですわ」

 

 ラクスが微笑む。

 

「食は旅の大事な楽しみですから」

 

「ラクスさん、いいこと言う」

 

 弥子が頷く。

 

 ネウロが横から言った。

 

「この娘の場合、旅が食の付属品だ」

 

「否定しづらい!」

 

 Xiは会計を確認しながら、露伴の方をちらりと見た。

 

 露伴は当然のように多めに支払う気で財布を出していた。

 

「僕は取材も兼ねている。少し多めに出す」

 

「出資者みたいな顔で参加権を強化しないでください」

 

「正当な対価だ」

 

「その正当さが怖い」

 

 ソープは楽しそうにそのやり取りを見ていた。

 

「にぎやかだね」

 

「ソープさん、他人事じゃないです。半分くらいあなたが中心です」

 

「そうかな」

 

「そうです」

 

 午後。

 

 一行は東山温泉へ向かった。

 

 街の空気が少しずつ変わる。

 温泉地特有の、どこかゆるやかな時間。

 川の音。

 山の気配。

 宿へ近づくにつれて、ソープの目が輝いていく。

 

「水の音がするね」

 

 アウクソーが頷く。

 

「渓流沿いの宿です。露天風呂からも滝の音が聞こえるそうです」

 

「いいね。地球の入浴文化は、環境も含めて楽しむものなのかな」

 

「そうですね。湯だけではなく、景色、音、食事、部屋、もてなし。全部含めて温泉宿だと思います」

 

 ラクスが穏やかに言った。

 

 Xiはその横で、少しだけ表情を緩めた。

 

「……こういう話だけしてれば、普通に良い旅行なんだけどな」

 

 ネウロが笑う。

 

「普通で終わると思うか?」

 

「言わないで」

 

 宿が見えてきた。

 

 会津東山温泉、原瀧。

 渓流のそばに建つ、落ち着いた温泉宿。

 滝の音と湯けむりが似合う場所。

 

 到着した瞬間、弥子が声を上げた。

 

「おおー! 温泉宿!」

 

 キラも少し安心したように言った。

 

「いいところだね」

 

 ラクスが微笑む。

 

「風情がありますわ」

 

 ソープは建物と周囲の景色をゆっくり見回した。

 

「ここが、今回の調査地か」

 

 Xiは荷物を持ち直した。

 

 表情は真剣だった。

 

「まずフロント」

 

 弥子が首を傾げる。

 

「え、部屋じゃなくて?」

 

「部屋より先に茶菓子」

 

「あっ」

 

「忘れないで。昨日の時点で届いてるんだから」

 

 旅館のスタッフは、こちらを見て丁寧に迎えてくれた。

 

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

 

 Xiは一歩前へ出た。

 

 普段の怪盗らしい軽さではなく、妙にしっかりした声だった。

 

「お世話になります。昨日お電話した、不審な荷物の件ですが」

 

 スタッフの表情が、すぐに引き締まる。

 

「はい。ご連絡いただいていたお荷物でございますね。開封せず、別室にて保管しております」

 

 アウクソーが小さく頷いた。

 

「完璧な対応です」

 

 Xiも深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます。本当に助かります。宿の方には一切問題ありません。問題は送り主です」

 

 そこまで言って、Xiは一瞬だけ言葉を止めた。

 

 そして、疲れ切った顔で小さく呟く。

 

「……悪いのは全部、あのクソ親父……」

 

 弥子が小声で言った。

 

「クソ親父って言った……」

 

 ネウロが目を細める。

 

「材料からして同じ影を貼りつけられた者の悪態か」

 

 Xiは低い声で返した。

 

「貼りついてるだけだよ。背負ってなんかない」

 

 一瞬だけ、空気が静かになった。

 

 弥子がぽつりと言う。

 

「でも、XiはXiでしょ」

 

 Xiは答えなかった。

 

 ただ、わざとらしく手を叩いた。

 

「はい、この話終わり! 茶菓子確認! 誰も勝手に近づかない! 特に弥子ちゃん、露伴先生、ネウロさん!」

 

「なんであたし名指し!?」

 

「なぜ僕まで」

 

「我が輩は当然だな」

 

「自覚ある魔人が一番厄介!」

 

 旅館スタッフが、少し困惑しつつも丁寧に案内してくれる。

 

「こちらでございます」

 

 一行は、フロント脇の静かな別室へ案内された。

 

 机の上には、一つの箱が置かれていた。

 

 高級感のある包装。

 深い黒の箱。

 金色のリボン。

 

 そして、中央に貼られた白い紙。

 

 そこには、大きく一文字。

 

『6』

 

 Xiはそれを見た瞬間、深く息を吐いた。

 

「……捨てよう」

 

 弥子が叫んだ。

 

「まだ中身見てない!」

 

 露伴の目が輝く。

 

「面白い」

 

 キラが胃のあたりを押さえる。

 

「もう始まった……」

 

 ソープは静かに箱を見つめる。

 

「これが、例の茶菓子か」

 

 泉が眼鏡を直し、添え状を確認する。

 

「封筒があります。読みますか?」

 

 Xiは即答した。

 

「読みたくない」

 

 ネウロが笑う。

 

「読め」

 

 カイエンが腕を組む。

 

「読まねぇと処理もできねぇだろ」

 

 アウクソーも頷く。

 

「内容確認は必要です」

 

 Xiは天井を仰いだ。

 

「温泉着いて最初にやることが、茶菓子の検疫……」

 

 泉が封筒を開く。

 

 そして、一行目を見た瞬間、ほんのわずかに眉を動かした。

 

「……題名があります」

 

「題名?」

 

 弥子が訊く。

 

 泉は淡々と読み上げた。

 

「至高のチョコレート」

 

 Xiは静かに目を閉じた。

 

「やっぱり食べ物じゃなくて事件だった」

 

 湯けむりの旅は、まだ部屋に入る前である。

 だが怪盗Xiの仕事は、すでに本番を迎えていた。

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