守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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怪盗Xiは湯けむりから逃げられない その5

 不審な茶菓子――もとい、至高のチョコレートの検閲。

 部屋割りをめぐる岸辺露伴の異議申し立て。

 そして、B室に押し込まれたキラ・ヤマトの静かな覚悟。

 

 それらを乗り越え、一行はようやく客室へ向かった。

 

 C室。

 

 そこは今回の温泉合宿における、いわば中心拠点だった。

 

 宿泊者は三名。

 

 ソープ。

 ダグラス・カイエン。

 そして怪盗Xi。

 

 畳の香り。

 低い座卓。

 窓の外から聞こえる水音。

 温泉宿らしい落ち着いた空気。

 

 Xiは部屋に入るなり、荷物を置いて畳に座り込んだ。

 

「……やっと一息つける」

 

 その声は、到着からここまでの疲労を物語っていた。

 

 ソープは部屋に置かれていた案内冊子を手に取り、興味深そうにめくっている。

 

「温泉の説明があるね」

 

 Xiは一瞬で顔を上げた。

 

「温泉?」

 

「泉質、効能、入浴時の注意事項」

 

 ソープは、まるで貴重な文献を読むような表情で案内を見ていた。

 

「地球の温泉は、湯の成分によって分類されるんだね。面白いな」

 

 カイエンが窓際に荷物を置きながら、ちらりとソープを見る。

 

「湯当たりには気をつけろよ」

 

 ソープは顔を上げ、いつものように穏やかに笑った。

 

「大丈夫だよ」

 

「前に似たようなこと言ってなかった?」

 

 Xiが即座に突っ込んだ。

 

「大丈夫って言う人ほど、大丈夫じゃない時があるんだよ」

 

「今回はちゃんと読むよ。入浴時間、休憩、水分補給。泉質も確認した」

 

「本当に対策してる……」

 

 Xiは少しだけ感心した顔になる。

 

 ソープは案内冊子に目を落としたまま、真面目に頷いた。

 

「文化調査は、対象に敬意を払うところから始めるべきだからね」

 

「良いこと言ってるのに、前回湯当たりしかけた反省が見える」

 

 カイエンは短く鼻を鳴らした。

 

「無理すんな。それだけだ」

 

「うん」

 

 ソープは素直に頷いた。

 

 その光景に、Xiは少しだけ肩の力を抜いた。

 

 よし。

 今度こそ平和だ。

 

 畳。

 水音。

 温泉の案内。

 ようやく、温泉旅館らしい時間が始まる。

 

 そう思った瞬間だった。

 

 カイエンが言った。

 

「行くぞ」

 

 Xiは動きを止めた。

 

「……どこへ?」

 

「河原だ」

 

「河原?」

 

「稽古だ」

 

 Xiは、ゆっくりとカイエンを見た。

 

「今?」

 

「今だ」

 

「部屋で一息ついたばかりなんだけど」

 

「一息ついただろ」

 

「“ついた”の判定が早い!」

 

 カイエンは当然のように木刀を手に取った。

 

 買い出しの時に、Xiが泣く泣くカートへ入れた訓練用品である。

 

「温泉入る前に汗かいてどうするの」

 

「汗かいたら湯に入ればいい」

 

「合理的だけど! 合理的だけど温泉旅行の情緒じゃない!」

 

 ソープは冊子を閉じ、楽しそうに立ち上がった。

 

「僕も見学するよ」

 

「ソープさんまで!?」

 

「文化調査の一環として」

 

「剣技指導は地球の温泉文化じゃないです!」

 

「でも、温泉合宿文化ではあるかもしれない」

 

「変なところで解像度が高い!」

 

 Xiは逃げ道を探すように部屋の出口を見た。

 

 だが、そこにはすでにアウクソーが立っていた。

 

「皆さま、足湯の場所を確認いたしました。河原の様子も見られそうです」

 

「準備がいい!」

 

「ありがとうございます」

 

「褒めてない!」

 

 結局、Xiは連れて行かれた。

 

 旅館の前を流れる川。

 その河原には、大小さまざまな石が転がっていた。

 

 水音が近い。

 風は少し冷たいが、温泉地らしい湿り気を含んでいる。

 遠くには湯けむりが見え、宿の建物が夕方の光を受けていた。

 

 普通なら、情緒ある景色である。

 

 ただし、Xiの前には木刀を持ったカイエンがいる。

 

「まず足さばきだ」

 

 カイエンが言った。

 

「パラレルアタックは足さばきが全てだ」

 

 Xiは河原の石を見下ろす。

 

「石で足場が悪い……」

 

「だからいいんだろうが」

 

「よくない!」

 

 カイエンは木刀を肩に担いだ。

 

「整った床の上でしか動けない技なんざ、実戦じゃ飾りだ。足場が悪い場所で、どう重心を置くか。どこに逃げるか。どこから踏み込むか。それを身体に叩き込め」

 

「温泉旅行で“身体に叩き込め”って言葉を聞きたくなかった」

 

「行くぞ」

 

「待って、まだ心の準備が――」

 

「遅い」

 

 カイエンが踏み込んだ。

 

 Xiは横へ跳ぶ。

 

 だが、着地した足元の石がぐらりと揺れた。

 

「うわっ!」

 

 体勢が崩れる。

 

 そこへ、カイエンの木刀がぴたりと肩口で止まった。

 

「死んだな」

 

「温泉旅館の河原で死の判定をしないで!」

 

 少し離れた場所では、一行が足湯に浸かっていた。

 

 弥子は足を湯に入れ、ほわっとした顔をしている。

 

「あったかーい。Xi、大変そう」

 

 キラは足湯に浸かりながらも、若干胃のあたりを押さえていた。

 

「見てるだけで足首が痛くなりそうだね」

 

 ラクスは穏やかに眺めている。

 

「でも、カイエン様のおっしゃることにも理がありますわ。足場の悪い場所で動けることは、大切ですもの」

 

 承太郎は無言で腕を組んでいたが、短く言った。

 

「足元を見る余裕がねぇと、実戦じゃきついな」

 

 ネウロは足湯に浸かるでもなく、縁に腰かけて笑っている。

 

「くくく。湯に足を預ける者たちと、石に足を奪われる怪盗。実に良い構図だ」

 

「構図とか言うな!」

 

 Xiが河原から叫ぶ。

 

 露伴は当然のようにノートを開いていた。

 

「いいね。怪盗が河原で足さばきを叩き込まれる。屈辱と成長が同居している」

 

「取材するな!」

 

「君の動きは面白い。逃げ方に癖がある」

 

「分析もするな!」

 

 泉が足湯に浸かりながら、きっぱりと言った。

 

「先生、足湯から出ないでください」

 

「泉くん、僕は近くで観察を――」

 

「出ないでください」

 

「……わかった」

 

 Xiはそのやり取りを見て、思わず呟いた。

 

「泉さん、露伴先生に対してだけ最強だな……」

 

 カイエンの木刀が、次の瞬間にはXiの足元を払うように動いた。

 

「余所見すんな」

 

「してない!」

 

「してた」

 

「足湯組がうるさいんだよ!」

 

「実戦なら敵はもっと喋る」

 

「ジョーカー太陽星団の実戦基準を温泉旅館に持ち込まないで!」

 

 カイエンは構えを変えた。

 

「次は、三方向だ」

 

「三方向?」

 

「正面、右、左。どこから来ても、足を置き換えて逃げろ」

 

「パラレルアタックって、そういう」

 

「足さばきが鈍いと、分身する前に斬られる」

 

「説明が物騒!」

 

 Xiは息を整えた。

 

 石の上に足を置く。

 重心を低くする。

 足場を確かめる。

 次に逃げる場所を視界の端で探す。

 

 カイエンが動いた。

 

 Xiは左へ逃げる。

 石がずれる。

 それでも踏みとどまる。

 

 次の攻撃。

 

 今度は右。

 

 Xiは後ろへ下がる。

 膝を曲げ、石の凹凸を利用して身体を回す。

 

 木刀が空を切った。

 

 カイエンの眉が、わずかに動く。

 

「今のは悪くねぇ」

 

 Xiは肩で息をしながら、目を丸くした。

 

「え、褒めた?」

 

「調子に乗るな」

 

「一瞬で打ち消した!」

 

 ソープが足湯の方から微笑む。

 

「いい動きだったよ、Xi」

 

「ソープさんに褒められると、逃げ道が減るんだってば!」

 

 弥子が両手を口に当てて声を張る。

 

「Xi、頑張れー! 夕食まであと少し!」

 

「応援の基準が食事!」

 

 ネウロが笑う。

 

「この娘にとって、あらゆる苦行は食事までの前座だ」

 

「それはちょっとわかる!」

 

 カイエンが再び構える。

 

「もう一本」

 

「夕食前にどれだけやる気!?」

 

「温泉前だ」

 

「温泉前でもあるけど!」

 

 Xiは息を吐いた。

 

 足場は悪い。

 石は転がる。

 水音で集中も削られる。

 

 だが、悪い条件の中で動く感覚は、確かに少しずつ身体に入ってきていた。

 

 怪盗としての逃げ足。

 カイエンから叩き込まれる剣の足さばき。

 その二つが、ほんの少しだけ噛み合う。

 

 露伴が、それを見逃さなかった。

 

「なるほど。逃走の技術と剣技の接点か。面白い」

 

 Xiが振り向く。

 

「だから取材するなって!」

 

「今のは創作上の発見だ」

 

「余計駄目!」

 

 カイエンの木刀がまた迫る。

 

「余所見」

 

「うわっ!」

 

 今度こそXiは足を滑らせ、河原の石の上に尻もちをついた。

 

 足湯組から、弥子の「あっ」という声が上がる。

 

 カイエンは木刀を肩に担ぎ、見下ろした。

 

「今日はここまでだ」

 

「……終わり?」

 

「ああ。湯に入って汗を流せ」

 

 Xiは、石の上に座り込んだまま空を見上げた。

 

「やっと温泉……」

 

 ソープが足湯から立ち上がる。

 

「では、最初の入浴だね」

 

 カイエンが短く言う。

 

「湯当たりには気をつけろよ」

 

 ソープはまた、穏やかに笑った。

 

「大丈夫だよ」

 

 Xiは疲れた顔で言った。

 

「その“大丈夫”を、僕が監視するんだよね……」

 

 アウクソーが静かに頷く。

 

「お願いいたします」

 

「休ませて……」

 

 弥子が足湯から上がりながら、元気よく言った。

 

「お風呂のあとは夕食だね!」

 

 キラが小さく笑う。

 

「弥子さん、昼にカツ丼三杯食べたよね」

 

「昼は昼、夕食は夕食!」

 

 ネウロが満足そうに頷いた。

 

「この娘の胃袋に時系列は通用せん」

 

 承太郎が帽子のつばを下げる。

 

「やれやれだぜ」

 

 露伴はノートを閉じた。

 

「次は風呂か。温泉では、人間の警戒心がさらに緩む」

 

 Xiは即座に立ち上がった。

 

「露伴先生、男湯でも通行止めです」

 

「まだ何も言っていない」

 

「言う前に止めます」

 

 泉が足湯から出ながら、冷静に言った。

 

「先生、入浴中の取材は禁止です」

 

「わかっている」

 

「本当に?」

 

「……わかっている」

 

「間がありましたね」

 

 こうして、河原稽古は終了した。

 

 Xiの足は疲れ、胃は疲れ、心も疲れていた。

 だが、温泉は目の前にある。

 

 汗を流し、湯に浸かり、ようやく旅館らしい時間を過ごせる。

 

 はずだった。

 

 Xiは脱衣所へ向かう廊下で、ふと気づく。

 

 男湯の参加者。

 

 ソープ。

 カイエン。

 キラ。

 承太郎。

 露伴。

 ネウロ。

 Xi。

 

 濃い。

 

 あまりにも濃い。

 

 Xiは小さく呟いた。

 

「……温泉って、癒やしの場所だよね?」

 

 カイエンが答えた。

 

「汗は流せる」

 

「心は?」

 

「知らん」

 

 ネウロが笑う。

 

「湯に溶けぬ疲労もある」

 

「やめて!」

 

 ソープは楽しそうに言った。

 

「まずは短めに入ろう。泉質も確認したし、水分補給もするよ」

 

 Xiはそれを聞いて、少しだけ安心した。

 

「そこはちゃんとしてる……」

 

 だが、その後ろで露伴が小さく呟いた。

 

「温泉宿の湯気の中で、人間がどこまで本音を隠せるか……」

 

 Xiは振り返った。

 

「通行止めです」

 

「だからまだ何もしていない!」

 

 温泉旅行、最初の入浴。

 

 怪盗Xiは、汗を流す前からすでに一仕事終えた顔をしていた。

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