守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
河原での稽古を終えた怪盗Xiは、旅館の廊下を歩きながら、足元を少し引きずっていた。
石の上での足さばき。
カイエンによるパラレルアタック基礎講座。
そして、足湯から見物する一行。
温泉旅行のはずなのに、到着早々すでに一戦終えた気分である。
「……温泉って、癒やしに来る場所だよね?」
Xiが呟く。
カイエンは平然と言った。
「汗は流せる」
「心は?」
「知らん」
「知っててほしかった」
ソープは浴場案内を手に、真面目に読んでいた。
「大浴場、露天風呂、泉質、入浴時間……なるほど。足湯だけではなく、ちゃんと広い湯があるんだね」
「そりゃ温泉旅館ですから」
Xiは答えながらも、ふと足を止めた。
頭の中で、男湯の人数を数える。
ソープ。
カイエン。
キラ。
承太郎。
露伴。
ネウロ。
Xi。
七人。
濃い。
大浴場とはいえ、濃すぎる。
しかもその中に、岸辺露伴がいる。
Xiは、ゆっくりと顔を上げた。
「……ソープさん」
「何かな」
「久しぶりに、ソープダッシュモードで女子風呂に行きません?」
周囲が一瞬、静まった。
ソープが目を瞬かせる。
「え?」
カイエンが眉を上げた。
「ほう」
キラが困惑した顔をする。
「それ、急にどういう判断?」
Xiは指を立てた。
「理由は三つあります」
泉が反射的に手帳を出した。
「聞きましょう」
「一つ。男湯にこの人数は多い。大浴場とはいえ、ソープさん、カイエンさん、キラさん、承太郎さん、露伴先生、ネウロさん、僕。濃度が高すぎる」
承太郎が帽子のつばを下げる。
「否定はしねぇ」
「二つ。僕は男湯でソープさんを見張れるけど、同時に露伴先生も見張らないといけない。負担が二倍」
露伴が不満げに言う。
「僕を不審者のように数えるな」
「実績です」
「何の実績だ」
「取材欲です」
泉が静かに頷いた。
「否定できません」
「泉くん」
Xiは三本目の指を立てた。
「三つ。ソープさんが女子側に行けば、僕は見張れない。でもアウクソーさんがいる。ラクスさんもいる。泉さんもいる。弥子ちゃんは……食べ物がなければたぶん大丈夫」
「なんであたしだけ条件付き!?」
「そして何より」
Xiは露伴を指差した。
「露伴先生から物理的に引き離せる」
露伴が即座に声を上げた。
「待て。僕は間近で取材を――」
Xiが両手を広げた。
「通行止めです」
「まだ言い終わっていない!」
「言い終わる前に止める案件です」
カイエンは少しだけ面白そうに笑った。
「理屈は通ってるな」
「でしょう?」
Xiは少し得意げになった。
「僕はちゃんと任務として判断してます」
アウクソーはソープに向き直り、静かに確認した。
「ソープ様、ご無理はなさらず。湯当たり対策として、長湯は避け、水分補給を行ってください」
ソープは浴場案内を畳み、穏やかに頷いた。
「大丈夫だよ。今回はちゃんと気をつける」
カイエンが短く言った。
「湯当たりには気をつけろよ」
「大丈夫だよ」
Xiがすかさず反応する。
「その“大丈夫”を信用しすぎないのが今回の運用方針です」
「運用方針」
ソープが少し笑う。
「じゃあ、短めに入る。泉質を確認して、雰囲気を味わって、無理はしない」
「よし」
Xiは頷いた。
「それなら、ソープダッシュモードで女子風呂側へお願いします」
ソープは、少し楽しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね」
次の瞬間。
ふわり、と空気が変わった。
大げさな光も音もない。
ただ、そこにいたソープの印象が、すっと切り替わる。
柔らかく、軽やかに。
それでいて、底の知れない気配はそのまま。
弥子がぱっと顔を輝かせた。
「おお、ソープダッシュモード!」
ラクスが穏やかに微笑む。
「ご一緒できるのですね」
アウクソーは一礼した。
「では、私が責任を持ってお側に」
泉は露伴の前に立った。
「先生、こちらは女子側です」
「わかっている」
「本当に?」
「……わかっている」
「間がありました」
露伴は不満げに腕を組む。
「僕は取材対象が移動しただけだと思っている」
Xiは即答した。
「取材対象ではなく、入浴者です。通行止めです」
承太郎が低く言った。
「露伴、諦めろ」
「君に言われると余計に腹が立つな」
「やれやれだぜ」
こうして浴場組は二手に分かれた。
女子側。
ラクス、アウクソー、泉、弥子。
そしてソープダッシュモードのソープ。
脱衣所では、まずアウクソーが丁寧に入浴手順を確認した。
「長湯は避け、最初は短めに。湯に入る前にかけ湯を行い、湯上がりには水分補給を」
「うん」
ソープは素直に頷く。
弥子が感心した顔で言った。
「今回は本当にちゃんとしてる」
「前回の反省があるからね」
ソープは少しだけ苦笑した。
ラクスは湯気の向こうを眺めながら、静かに言った。
「温泉というのは、身体だけではなく、心もほどけるような場所ですのね」
泉が苦笑する。
「露伴先生も似たようなことを言いそうですが、先生が言うと途端に危険になります」
「わかる!」
弥子が力強く頷いた。
湯は広く、窓の外には緑が見えた。
水音と湯気。
木と石の落ち着いた空気。
足を伸ばせるほどの大きな湯船。
ソープは静かに湯へ浸かり、小さく息を吐いた。
「……なるほど」
アウクソーがすぐに声をかける。
「ソープ様、お加減は」
「大丈夫。熱すぎない。気持ちいいよ」
「長湯はなさいませんように」
「わかってる」
弥子は肩まで浸かって、心底幸せそうな顔をしていた。
「あー……温泉……最高……」
ラクスが微笑む。
「弥子さん、お昼にカツ丼を三杯召し上がっていたのに、まだ夕食も楽しみにしていらっしゃいますのね」
「温泉に入ったら、お腹が空くと思うんです」
泉が真顔で言った。
「普通はそこまで早く空きません」
弥子が首を傾げる。
「そうかな?」
「そうです」
ソープはそれを聞いて、くすりと笑った。
「地球の温泉文化には、食欲を増進させる効果もあるのかな」
「弥子さん限定かもしれません」
泉の言葉に、全員が少し笑った。
一方、男湯。
ソープがいないだけで、Xiの負担は少し減った。
少しだけ、である。
なぜなら男湯には、カイエン、キラ、承太郎、露伴、ネウロがいる。
Xiは湯に入る前から、露伴の位置を確認していた。
「露伴先生、浴場内での取材は禁止です」
「わかっている」
「メモも駄目です」
「持ってきていない」
「頭の中でメモるのも控えめに」
「それは無理だ」
「無理だから警戒してるんです」
ネウロが湯気の向こうで笑った。
「くくく。湯に浸かってなお、怪盗の心は休まらぬか」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「我が輩ではない」
「一因ではあります」
キラは湯に浸かり、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「……いいお湯ですね」
承太郎が短く答える。
「ああ」
カイエンも湯船に入り、目を細めた。
「稽古後には悪くねぇ」
Xiがぼそりと言う。
「稽古がなければもっと良かった」
「明朝もやるぞ」
「今、湯の効能が半分消えました」
露伴は窓の外の景色を見ながら言った。
「なるほど。湯気、山の緑、水音。人間が余計な警戒を外すには十分な環境だ」
Xiがすかさず横に移動する。
「通行止めです」
「僕は景色を見ていただけだ」
「発想がもう危険なんです」
「ひどい言われようだな」
承太郎が低く呟いた。
「自業自得だ」
「承太郎、君は本当に一言が余計だ」
ネウロが楽しそうに笑った。
「魔界の湯なら、警戒心ではなく皮膚から先に溶ける」
Xiが即座に反応した。
「魔界の温泉話は禁止!」
カイエンが続ける。
「ジョーカー太陽星団の――」
「カイエンさんも禁止!」
「まだ何も言ってねぇ」
「言い出しが危なかった!」
キラが小さく笑った。
「Xi、だいぶ慣れてきたね」
「慣れたくなかったです」
そう言いながらも、Xiはようやく湯に肩まで浸かった。
河原で冷えた足。
石で疲れた膝。
緊張で固まった肩。
湯が、じわりとほぐしていく。
「……あ」
思わず声が漏れた。
キラが微笑む。
「気持ちいいよね」
「悔しいけど、すごくいいです」
承太郎が短く言った。
「そういうもんだ」
Xiは天井を見上げた。
不審物。
部屋割り。
稽古。
露伴先生。
シックスの茶菓子。
色々あった。
けれど、温泉はちゃんと温泉だった。
その事実に、少しだけ救われる。
しかし。
露伴が湯気の向こうで、ふと呟いた。
「ところで、ソープ君は向こうでどんな反応をしているんだろうな」
Xiは目を開いた。
「露伴先生」
「何だ」
「通行止めです」
「だから何もしていない!」
「考えが通行止めです」
ネウロが愉快そうに笑う。
「怪盗よ、ついに思考の交通整理まで始めたか」
「必要になったんです!」
男湯と女湯。
それぞれの湯で、一行はようやく旅館らしい時間を過ごし始めた。
ただし、完全な平穏とは言いがたい。
湯上がり。
女子側から出てきた弥子は、頬を上気させながら満面の笑みで言った。
「お風呂最高! で、夕食は何時?」
Xiは、男湯側から出てきて、髪を拭きながら答えた。
「弥子ちゃん、昼にカツ丼三杯食べたよね」
「温泉入ったからリセット!」
「されない!」
ラクスが楽しそうに微笑む。
「弥子さん、本当にお元気ですわ」
ソープも穏やかに頷いた。
「短めに入ったけれど、とても良かったよ。湯の音と景色も含めて、温泉なんだね」
アウクソーが安心したように言った。
「湯当たりもなさそうで何よりです」
カイエンはソープを見て、短く言った。
「無理はしてねぇな」
「うん。大丈夫」
Xiはそれを聞いて、ようやく息を吐いた。
「よかった……」
その時、露伴が一歩近づいた。
「ソープ君、向こうの湯の感想を少し――」
Xiが即座に前に出る。
「通行止めです」
「湯上がりまでか!」
「湯上がりもです」
泉がすっと露伴の横に立つ。
「先生、夕食前です。取材は後ほど、ロビーで時間を区切ってお願いします」
「君たちは僕を何だと思っているんだ」
Xiと泉と承太郎が、ほぼ同時に答えた。
「露伴先生」
「先生」
「岸辺露伴」
露伴は一瞬黙り、ふん、と鼻を鳴らした。
「正確すぎて腹が立つな」
ネウロが笑う。
「湯けむりの中でも、危険人物は危険人物というわけだ」
「自分を棚に上げないでください」
Xiはそう言って、廊下の向こうを見た。
夕食の時間が近づいている。
弥子はすでに完全に戦闘態勢。
ラクスは楽しそうに微笑み、キラは少しほっとした顔をしている。
カイエンは酒と料理に少し興味を示し、ソープは食文化調査として準備万端。
露伴は取材欲を隠しきれず、泉はそれを止める気でいる。
ネウロは、どこかに謎が潜んでいないかと楽しげに目を細めていた。
Xiは、湯上がり用に買っておいた乳酸菌飲料を手に取った。
「……とりあえず、夕食前に一本」
キラも隣で同じものを取り出した。
「僕も」
二人は無言で乾杯した。
弥子が笑う。
「お風呂上がりなら牛乳じゃないの?」
Xiは真顔で答えた。
「この旅では胃を守る飲み物が優先です」
キラも深く頷いた。
「同感です」
カイエンが呆れたように言う。
「お前ら、本当に温泉に何しに来たんだ」
Xiは少しだけ考えた。
「……危険物検閲と、露伴先生の通行止めと、ソープさんの湯当たり監視と、カイエンさんの稽古を受けに?」
「温泉は?」
「今、思い出しました」
ソープは楽しそうに笑った。
「でも、いいお湯だったね」
Xiは少しだけ肩をすくめた。
「……それは、はい」
湯けむりからは逃げられない。
けれど、湯そのものは悪くない。
怪盗Xiは、ようやくその事実を認めた。