守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
夕食後。
旅館の廊下には、食事を終えた宿泊客たちの穏やかな空気が漂っていた。
浴衣。
足袋。
湯上がりの頬。
どこか眠たげな声。
食後の満足感。
温泉旅館の夜としては、実に正しい。
ただし、この一行に限っては、正しさが長続きしない。
「卓球場、こっちだって!」
弥子が先頭を歩いている。
昼に煮込みソースカツ丼を三杯食べ、夕食で牛しゃぶと馬刺しを堪能した人間とは思えない足取りだった。
キラがその背中を見ながら、少し遠い目をする。
「弥子さん、本当に元気だね……」
ラクスは微笑む。
「温泉とお食事で、さらに活力が増したのかもしれませんわ」
「増しちゃったんだ……」
怪盗Xiは、食後用に取っておいたGABA入りチョコを一粒かじりながら、隣のカイエンを警戒していた。
「一応確認しますけど」
「何だ」
「温泉卓球って、遊びですよね?」
カイエンは短く答えた。
「遊びだ」
「本当に?」
「相手による」
「やっぱり!」
承太郎が帽子のつばを下げる。
「前にも似たような流れがあったな」
キラの表情が、少し固まる。
「ありましたね……」
以前の温泉卓球。
キラVSカイエン。
温泉旅館の娯楽室が、一瞬だけ戦場と化しかけた事件である。
ラクスがそっとキラを見る。
「キラ、今日は無理をなさらないで」
「うん。今日は見守る側でいたいな」
ネウロが横で笑った。
「見守る者が最も安全とは限らんがな」
「怖いこと言わないでください!」
卓球場に着くと、そこには一台の卓球台があった。
普通の卓球台。
普通のラケット。
普通の白い球。
ただし、周囲にいる面子が普通ではない。
露伴はすでにノートを取り出しかけていた。
泉が即座に言う。
「先生、卓球中の取材はほどほどに」
「僕は旅館文化を記録しているだけだ」
「人物観察に寄せないでください」
「無茶を言うな」
Xiは卓球台を見つめた。
「普通の卓球台だ……」
キラが苦笑する。
「普通だよ」
「普通って言葉、今はありがたいです」
カイエンがラケットを手に取る。
「Xi」
「嫌です」
「まだ何も言ってねぇ」
「何を言うか分かります」
カイエンはXiにラケットを投げて渡した。
「入れ」
「やっぱり!」
Xiはラケットを受け取りながら叫んだ。
「夕食後ですよ!? しかも温泉卓球ですよ!? ここで何を鍛える気ですか!」
カイエンは平然と言った。
「足さばき」
「河原でやった!」
「河原は不整地。ここは床だ。条件が違う」
「卓球場を訓練場として分類しないで!」
弥子がぱっと顔を輝かせる。
「Xi対カイエンさん? 面白そう!」
「面白がらないで!」
ソープは穏やかに卓球台を眺めている。
「温泉卓球も、地球の温泉文化の一部なんだね」
「たぶん、ここまで殺気立たないです」
アウクソーが静かに補足する。
「器物破損にはくれぐれもご注意ください」
Xiはすぐにカイエンを見る。
「聞きました? 器物破損禁止です」
「台は斬らん」
「球は?」
「打つ」
「強さは?」
「相手による」
「僕に来るやつ!」
カイエンは台の向こう側に立った。
Xiは、しぶしぶ反対側に立つ。
ラケットを握る手に、じんわり汗がにじんだ。
「普通にラリーからですよね?」
カイエンは球を手に取る。
「まず二分身からだな」
その場の空気が止まった。
キラが思わず声を漏らす。
「え?」
Xiも同じ顔をした。
「え?」
カイエンは当然のように説明した。
「右に一人、左に一人。どちらに打たれても返せるように動け」
「温泉卓球で分身を要求しないで!」
「河原より足場はいい」
「基準がおかしい!」
露伴の目が一気に輝いた。
「いいね。温泉卓球で二分身指導。娯楽が修練へ変質する瞬間だ」
「取材するな!」
「これは記録する価値がある」
「ないです!」
泉が淡々と言う。
「先生、ラケットを持っていないので、卓球台には近づかないでください」
「僕は観察しているだけだ」
「近いです」
「君もXiに似てきたな」
「必要に迫られています」
ネウロがくつくつと笑う。
「人間界の遊戯も、極まれば鍛錬になるか。面白い」
「面白がる人しかいない!」
Xiが叫ぶと、弥子が両手を口に当てた。
「Xi、頑張れー!」
「ありがとう、弥子ちゃん!」
「勝った方のほっぺにちゅーしてあげる!」
Xiの動きが止まった。
キラも止まった。
承太郎が、ほんのわずかに眉を動かした。
ラクスが「あら」と小さく声を漏らす。
そしてカイエンが、珍しく口元をわずかに緩めた。
「ふっ」
Xiが叫んだ。
「笑った! 今ちょっと笑った!」
カイエンは平然とした顔に戻る。
「くだらん」
「くだらないって言いながら笑った!」
弥子が悪びれずに笑う。
「だって、温泉卓球っぽいかなって」
「景品の発想が昭和!」
キラが慌てて言う。
「弥子さん、それは冗談でもちょっと……」
ラクスも優しく微笑みながら言った。
「弥子さん、ご褒美にするなら、拍手くらいがよろしいかもしれませんわ」
「はーい」
弥子は素直に手を上げた。
「じゃあ勝った方には、あたしが全力で拍手します!」
Xiは胸を撫で下ろす。
「よかった。温泉卓球の倫理が守られた」
ネウロが冷たく言う。
「貴様は今、魔界探偵事務所の女子高生に倫理を心配したのか」
「必要な心配だったでしょ!」
カイエンは球を軽く弾ませる。
「褒美はいらん。動きを見せろ」
「やっぱり稽古だ!」
そして、第一球。
カイエンのサーブは、見た目だけなら穏やかだった。
見た目だけなら。
球は低く、鋭く、台の端へ滑るように落ちる。
「うわっ!」
Xiは横へ動いた。
ラケットに当てる。
球は何とか返った。
だが、その返球は甘い。
カイエンのラケットが、ほとんど音もなく動く。
ぱん。
鋭いスマッシュ。
Xiは反射で右へ跳んだ。
球が頬をかすめるように飛び、後ろの壁に軽く当たって落ちた。
「今の、温泉卓球の速度じゃない!」
カイエンは涼しい顔だ。
「返せ」
「返せる速度で打って!」
「敵は待たん」
「だから卓球だってば!」
承太郎が低く言う。
「反応は悪くねぇな」
キラも頷く。
「今の、よく避けたね」
Xiは振り向いた。
「避ける競技じゃないです!」
ネウロが笑う。
「だが避けねば当たる。実に単純な謎だ」
「謎じゃない!」
カイエンが次の球を持つ。
「二分身だ」
「本当にやるんですか!?」
「右と左、両方に逃げ道を作れ。球を見るな。相手の肩と手首を見ろ」
Xiは、息を呑んだ。
その言葉だけは、冗談ではなかった。
カイエンの目は、いつもの面倒くさそうなものではなく、完全に師匠の目だった。
「……卓球で?」
「卓球でもだ」
Xiはラケットを握り直した。
右足を少し引く。
左足に重心を置く。
でも、すぐに入れ替えられるように。
河原の石の感覚を思い出す。
足場が悪い。
重心が崩れる。
それでも動く。
今は床だ。
滑らかで、石よりはずっとまし。
「来い」
カイエンが打った。
右。
Xiは反応した。
返す。
次は左。
返す。
中央。
詰まる。
足が絡みかける。
けれど、そこで無理に手を伸ばさず、身体ごと入れ替えた。
返った。
球は山なりに台を越える。
カイエンのスマッシュが来る。
Xiは一瞬、右へ行くふりをした。
そして左へ切り返す。
ラケットの端に当たった球が、ぎりぎりで返った。
「おっ!」
弥子が声を上げる。
キラも目を丸くした。
「返した!」
カイエンの眉が、わずかに動く。
「今のは悪くねぇ」
Xiは肩で息をしながら叫んだ。
「褒めるならもっと優しく!」
「調子に乗るな」
「即打ち消し!」
露伴が猛烈な勢いでノートに書いていた。
「逃走の技術が、反撃ではなく返球に転じる。なるほど、面白い」
Xiが振り向く。
「取材するな!」
泉がすかさず言う。
「先生、卓球台に近づかないでください」
「近づいていない」
「目が近いです」
「君までそれを言うのか」
ソープは楽しそうに見ていた。
「Xi、さっきの河原より動きが良いね」
「ソープさんに褒められると逃げ道が減る!」
アウクソーが微笑む。
「ですが、確かに良い動きでした」
「アウクソーさんに言われると、ちょっと嬉しい……」
カイエンが三球目を構える。
「次は三方向」
「増えた!」
「右、左、短い球」
「温泉卓球で短い球の処理まで!?」
「前に出ろ。逃げるだけじゃ届かん」
Xiは一瞬、言い返そうとした。
だが、言葉を飲み込む。
逃げるだけでは届かない。
それは、少しだけ胸に刺さった。
カイエンが打つ。
右。
左。
前。
Xiは前へ出た。
足が床を蹴る。
ラケットが球を拾う。
返った。
弥子が拍手する。
「Xiすごい!」
キラも笑った。
「いい感じだよ!」
ラクスが穏やかに言う。
「本当に、少しずつ形になっていますわね」
ネウロが目を細める。
「逃げる怪盗が、逃げずに前へ出たか」
Xiは息を切らしながら言った。
「言い方が重い!」
カイエンは、そこでラケットを下ろした。
「今日はここまでだ」
「えっ、終わり?」
「ああ」
Xiは驚いた顔をする。
「まだ地獄の追加メニューがあるのかと」
「食後だ。やりすぎると動きが鈍る」
「ちゃんと考えてた!」
「当たり前だ」
Xiは、ようやくその場に座り込んだ。
「……温泉卓球って、こんなに疲れるものだったかな」
キラが苦笑する。
「普通は違うと思う」
弥子が元気よくラケットを持った。
「じゃあ次、普通に卓球しよう!」
Xiは顔を上げる。
「弥子ちゃん、まだ動くの?」
「もちろん!」
「夕食あれだけ食べたよね!?」
「温泉卓球は別腹!」
「その言葉、今日二回目!」
ラクスが楽しそうにラケットを受け取る。
「では、私も少しだけ」
キラが慌てる。
「ラクス、無理しないでね」
「大丈夫ですわ。普通の卓球ですもの」
カイエンが横から言う。
「普通にやれ」
Xiがすぐにカイエンを見る。
「今の説得力ゼロです」
承太郎もラケットを取る。
「軽くなら付き合う」
露伴が言った。
「僕もやる」
泉がすぐに答えた。
「先生はまず準備運動をしてください」
「泉くん、僕を子ども扱いするな」
「怪我をすると原稿に響きます」
「……それは困る」
ネウロはラケットを眺めた。
「この薄い板で球を打ち返すだけか」
弥子が嫌な予感に目を細める。
「ネウロ、変な打ち方しないでよ」
「魔界の卓球では――」
Xiが反射的に叫んだ。
「魔界の卓球は禁止!」
カイエンが続ける。
「ジョーカー太陽星団の卓球は――」
「カイエンさんも禁止!」
シックスはいない。
だがXiの脳裏には、勝手に添え状の声が蘇った。
『常人なら、温泉卓球は娯楽だがね』
「やめろ僕の脳内!」
キラが心配そうに近づく。
「Xi、大丈夫?」
「大丈夫じゃないけど、だいぶ慣れてきました」
「それ、大丈夫じゃないね」
その後は、本当に普通の卓球になった。
少なくとも、最初の五分は。
弥子は勢いで球を打ち、ラクスは意外にも丁寧に返し、キラは安定してラリーをつなげた。
承太郎は最小限の動きで球を返し、露伴はやたらとフォームにこだわり、泉に「先生、構えより球を見てください」と言われた。
ネウロは途中で奇妙な回転をかけようとして、弥子に怒られた。
カイエンは、それを見ながら腕を組んでいた。
ソープは楽しそうに笑っていた。
「温泉卓球、面白いね」
Xiは床に座ったまま、ラケットを膝に置いて答えた。
「普通にやれば、面白いです」
「普通じゃない部分も含めて?」
「それは……まあ、ちょっとだけ」
ソープが微笑む。
「Xi、楽しかった?」
Xiは一瞬だけ黙った。
それから、少し目を逸らす。
「……疲れました」
「うん」
「でも、悪くはなかったです」
カイエンがそれを聞いて、短く言った。
「明日の朝、続きだ」
「今の感想、撤回していいですか!?」
全員が笑った。
温泉卓球回。
台は壊れなかった。
球も無事だった。
旅館にも迷惑はかからなかった。
ただし、怪盗Xiの足さばきは、確実に少し鍛えられた。
そしてキラは、心底ほっとした顔で呟いた。
「今日は僕じゃなくてよかった……」
Xiがそれを聞いて振り向く。
「キラさん?」
「ごめん」
「本音が出てます!」
ラクスが楽しそうに笑った。
「キラも、前回は大変でしたものね」
承太郎が低く言う。
「今回は台が無事で何よりだ」
露伴はノートを閉じながら満足げに言った。
「いい取材だった」
Xiが即座に立ち上がる。
「露伴先生、何を書いたんですか」
「見せない」
「通行止めです!」
「それは道に使う言葉だ!」
ネウロが愉快そうに笑う。
「道どころか、怪盗は好奇心にも通行止めをかけるか」
弥子がラケットを掲げる。
「次、ダブルスやろうよ!」
Xiは全力で首を横に振った。
「僕は休憩!」
カイエンが言う。
「休め。明日動けなくなる」
「それ優しさですか?」
「管理だ」
「知ってた!」
湯けむりの夜は、まだ続く。
夕食の満腹感。
卓球の笑い声。
少しだけ身についた足さばき。
そして、寝る前にはもう一度、温泉。
怪盗Xiは、床に座り込んだまま小さく呟いた。
「……温泉旅行って、忙しいんだな」
キラが隣に座り、苦笑した。
「このメンバーだからだと思うよ」
「ですよね」
その答えに、Xiは深く納得した。