守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
温泉卓球は、どうにか無事に終わった。
卓球台は壊れなかった。
ラケットも折れなかった。
球も砕けなかった。
旅館にも迷惑はかからなかった。
ただし、怪盗Xiの足腰と精神はかなり削られていた。
「……温泉卓球って、もっとこう、浴衣で笑いながらぽんぽん打つものじゃないの?」
卓球場から出たXiは、廊下の壁にもたれながら呟いた。
カイエンは平然としている。
「打っただろ」
「ぽんぽんじゃなくて、ひゅんひゅんでした」
「返せたからいい」
「よくない。僕の想定していた温泉卓球じゃない」
弥子は満足そうにラケットを返却していた。
「楽しかったねー!」
「弥子ちゃんは元気すぎる」
「温泉入って、ご飯食べて、卓球したからね!」
「普通はその順番で疲れるんだよ」
ネウロが笑う。
「この娘は疲労を食欲に変換している」
「永久機関かな?」
Xiは小さく息を吐いた。
その時、ソープが浴場案内を見ながら言った。
「寝る前に、もう一度湯に入るのも良さそうだね」
その一言に、Xiは顔を上げた。
「それは賛成です」
珍しく即答だった。
「汗もかいたし、足も疲れたし、今度こそ普通に湯に浸かりたい」
カイエンが頷く。
「身体を温めておけ。明日の朝、動きが変わる」
「その一言で効能が半分消えました」
キラが苦笑した。
「でも、温泉はいいよね。寝る前に入るとよく眠れそうだし」
Xiはキラの方を見た。
そして、ふと何かを思いついた顔になった。
「キラさん」
「なに?」
「今回、ソープさんはまた女子側に行ってもらいます」
ソープは首を傾げる。
「またソープダッシュモード?」
「はい」
Xiは真剣だった。
「理由は前回と同じです。男湯の人数が多すぎる。露伴先生から引き離せる。僕は卓球で疲れてる。つまり、僕の監査能力が落ちてます」
「自分で言うんだ」
「言います。疲れてる時に無理して見張ると、絶対どこか抜けます」
アウクソーが静かに頷いた。
「妥当な判断かと。ソープ様は私がご一緒いたします」
ラクスも穏やかに微笑む。
「私たちもおりますから、ご安心くださいませ」
泉が露伴の前に立つ。
「先生、今回も女子側への接近は禁止です」
「わかっている」
「本当に?」
「何度も聞くな」
「では、もう一度確認します。禁止です」
「君は僕の担当編集か看守か、どちらなんだ」
「必要に応じて両方です」
露伴は不満げに鼻を鳴らした。
Xiはキラの肩に手を置いた。
「というわけで、キラさん」
「え?」
「男湯の露伴先生とネウロさん、少しだけお願いします」
キラの笑顔が固まった。
「え?」
「僕は今日はもう、のんびりお湯に入りたいんです」
「それはわかるけど」
「キラさんなら大丈夫です。前回の経験もあるし」
「前回の経験って、カイエンさんとの卓球のこと?」
「はい」
「それは経験じゃなくて心の傷かな」
ラクスがそっとキラを見る。
「キラ、無理はなさらないで」
「うん。無理はしないよ」
キラはそう言った。
言ったが、どこかで思っていた。
今回はソープが女子側にいる。
Xiも疲れている。
カイエンはたぶん大人しく湯に浸かる。
承太郎さんもいる。
露伴先生とネウロさんも、さすがに風呂では大人しくするだろう。
大丈夫。
今回は大丈夫。
その考えが甘かったことを、キラは数分後に知る。
ソープは、再びソープダッシュモードになった。
柔らかく印象が切り替わり、女子側の一行とともに浴場へ向かう。
弥子が嬉しそうに言った。
「二回目のお風呂ー!」
ラクスが微笑む。
「今度は、ゆっくり身体を休めましょう」
アウクソーはソープに声をかける。
「ソープ様、先ほどと同じく長湯はお控えください」
「うん。今度も短めにするよ」
泉も頷く。
「夕食と卓球の後ですから、のぼせないようにしましょう」
弥子が手を上げる。
「はーい」
泉は弥子を見た。
「弥子さんもです」
「えっ、あたしも?」
「昼食、夕食、卓球後です。普通に考えて身体に負担はあります」
「でもお腹は元気です」
「基準が胃袋になっています」
女子側は、比較的平和だった。
湯気。
静かな水音。
夜の露天風呂へ続く灯り。
昼とは違う、少し落ち着いた温泉の空気。
ソープは湯に肩まで浸からず、半身でゆっくり息を吐いた。
「夜の温泉は、昼と雰囲気が違うね」
ラクスが隣で頷く。
「ええ。音が少なくなって、湯の音がよく聞こえますわ」
アウクソーは少し安心したように言う。
「お加減はいかがですか、ソープ様」
「大丈夫。気持ちいいよ」
弥子はとろけたような顔をしていた。
「あー……これは寝る前に入るやつだ……」
泉が微笑む。
「ようやく温泉旅館らしい感想ですね」
「夕食も卓球も温泉旅館らしいですよ!」
「弥子さんの場合、食事の比重が大きすぎます」
一方、男湯。
こちらも最初は平和だった。
カイエンは静かに湯に浸かり、承太郎は腕を組んで目を閉じている。
Xiは湯船の端で、完全に脱力していた。
「……あー」
それは、今日一番素直な声だった。
キラが少し笑う。
「ようやく休めてるね」
「今だけは、すべてを湯に流したいです」
「文字通りだね」
「露伴先生の取材欲も、ネウロさんの謎欲も、カイエンさんの稽古欲も、全部流したい」
カイエンが目を閉じたまま言った。
「稽古は流すな」
「残った」
ネウロが湯気の向こうでくつくつと笑う。
「魔界の湯なら、疲労ではなく記憶から流す」
Xiが片手を上げた。
「今は突っ込む元気がないので、キラさんお願いします」
キラが反射で言った。
「魔界の温泉基準を持ち込まないでください」
「助かります」
「僕、引き継いじゃった……」
露伴は湯船の縁に腕を置き、何かを考えている。
Xiは一応、目だけ向けた。
「露伴先生、取材は禁止ですよ」
「わかっている」
「本当に?」
「君まで泉くんのようなことを言うな」
「必要に迫られてます」
露伴は小さく息を吐いた。
「僕は今、取材ではなく観察をしている」
「言い方を変えただけでは?」
キラが思わず言う。
露伴の視線が、すっとキラへ向いた。
「なるほど」
キラは嫌な予感がした。
「え?」
「君は前回、カイエンと卓球で一騒動あったそうだが」
「ありましたけど」
「その時の精神状態と、今回Xiが同じ立場に置かれていた時の精神状態。比較すると面白い」
キラは固まった。
「えっと」
露伴は続ける。
「守る者がいる時の君と、守る対象が一時的に離れている時の君。肩の力の抜け方が違う。だが完全には抜けていない。なぜだ?」
Xiが、湯船の端で目を閉じたまま言った。
「キラさん、答えなくていいです」
キラは少し困ったように笑った。
「いや、まあ……ラクスが向こうにいても、心配はするよ。でも信頼してるから」
露伴の目が光る。
「その“心配”と“信頼”の境界が面白い」
キラの胃が、少しだけ反応した。
「Xi、交代してくれない?」
「すみません。僕は今、湯に溶けています」
「溶けないで」
ネウロが愉快そうに言った。
「ふむ。キラ・ヤマト、貴様もまた胃を痛める資質がある」
「資質って言わないでください」
承太郎が低く言った。
「露伴、ほどほどにしとけ」
「君に言われるまでもない」
「言われねぇと止まらねぇだろ」
「失礼だな」
カイエンが片目を開ける。
「湯の中でまで問答するな。のぼせるぞ」
その一言で、場が少し静かになった。
Xiが目を閉じたまま、しみじみと言う。
「カイエンさんがまともなこと言ってる……」
「斬るぞ」
「まともじゃなくなった」
それでも、男湯は思ったより穏やかだった。
露伴はキラを軽く観察したものの、承太郎とカイエンの視線に押されて深追いはしない。
ネウロも、湯に浸かる人間たちの緩んだ空気を楽しげに眺めるだけだった。
Xiは、ようやく肩の力を抜いた。
温泉の熱が、卓球で張った足に染みる。
河原の石で疲れた膝にも、じんわり効いてくる。
「……気持ちいい」
キラが微笑む。
「よかった」
「今日はじめて、ちゃんと温泉に来た気がします」
「たぶん、最初から温泉には来てたよ」
「気分の問題です」
湯上がり。
廊下で合流した一行は、みな少しだけ顔が穏やかになっていた。
弥子は頬を上気させ、満足そうに伸びをする。
「二回目のお風呂も最高!」
ラクスが微笑む。
「身体がぽかぽかしますわね」
ソープも穏やかに頷く。
「今度はのぼせなかったよ」
アウクソーが安心したように言った。
「何よりです、ソープ様」
Xiはその言葉を聞いて、心底ほっとした。
「よかった……。本当に今日はもう、何も起きないでほしい」
その横で、キラが小さく胃のあたりを押さえていた。
ラクスがすぐに気づく。
「キラ?」
「大丈夫。ちょっと露伴先生に観察されただけ」
Xiは申し訳なさそうに手を合わせた。
「すみません、キラさん」
「ううん。今日はXiも疲れてたし」
「助かりました」
ラクスは二人を見比べて、優しく言った。
「お二人とも、今日はもう某乳酸菌飲料は控えましょうね」
Xiとキラの動きが止まった。
Xiが目を逸らす。
「えっと」
キラも目を逸らす。
「まだ一本くらいなら」
ラクスはにっこり微笑んだ。
「今日はもう十分ですわ」
「はい」
「はい」
二人は同時に頷いた。
弥子が手を上げる。
「じゃあ余った分、あたしが――」
ネウロが即座に言う。
「貴様は夕食後にこれ以上胃を刺激するな」
「えー!」
泉も頷いた。
「明日の朝食がありますから、今日は休みましょう」
弥子の目が輝く。
「朝食!」
Xiが呟く。
「しまった、次の楽しみを与えてしまった」
カイエンが廊下を歩き出す。
「寝るぞ。明日は朝稽古だ」
Xiの顔から、湯上がりの平穏が消えた。
「今その話します?」
「明日の話だ」
「寝る前に聞きたくなかった」
ソープは楽しそうに笑った。
「今日はよく眠れそうだね」
Xiは少し考えて、答えた。
「眠れます。疲れてるので」
キラも頷く。
「僕も」
露伴はその二人を見て、満足げに言った。
「湯上がりの疲労と安堵。いい表情だ」
Xiは即座に振り返る。
「通行止めです」
「表情までか!」
「はい。寝る前なので」
承太郎が帽子のつばを下げた。
「やれやれだぜ」
こうして、二度目の風呂は大きな事件もなく終わった。
ソープは湯当たりせず、Xiはようやく少し休めた。
キラはほんの少しだけ露伴の観察対象になったが、致命傷ではない。
某乳酸菌飲料はラクスによって摂取制限された。
温泉旅館の初日。
危険物検閲から始まり、稽古、夕食、卓球、そして二度目の湯。
ようやく一日が終わろうとしている。
XiはC室へ向かいながら、小さく呟いた。
「……二泊三日って、長いな」
カイエンが答えた。
「まだ一日目だ」
「言わないでください」
ソープは夜の廊下を歩きながら、穏やかに笑った。
「でも、楽しいね」
Xiは少しだけ間を置いた。
「……まあ」
そして、渋々認めるように言った。
「悪くはないです」
その言葉に、ソープは嬉しそうに笑った。