守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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怪盗Xiは湯けむりから逃げられない その10

 二度目の湯を終えた一行は、すぐに部屋へ戻る……はずだった。

 

 しかし、温泉旅館の夜には、不思議な引力がある。

 

 湯上がりの身体。

 少し火照った頬。

 畳と木の匂い。

 廊下の灯り。

 そして、ロビーから漂う、どこか落ち着いた空気。

 

 弥子が足を止めた。

 

「ちょっと休んでいかない?」

 

 Xiは即座に警戒した。

 

「食べ物目的?」

 

「違うよ!」

 

「本当に?」

 

「……飲み物くらいは欲しいかも」

 

「やっぱり」

 

 ラクスが柔らかく微笑む。

 

「せっかくですし、少しロビーで休憩いたしましょう。お風呂上がりに、皆さまでゆっくりお話しするのも素敵ですわ」

 

 その言い方があまりに自然だったので、Xiも反論できなかった。

 

「まあ……それくらいなら」

 

 カイエンが短く言う。

 

「明日に響かん程度にな」

 

「明日の稽古を前提に話さないでください」

 

「前提だ」

 

「ですよね」

 

 ロビーには、落ち着いた椅子とテーブルが並んでいた。

 外は夜。

 窓の向こうには、暗い山影と、かすかな水音。

 昼間の賑やかさとは違う、温泉宿らしい静けさがあった。

 

 弥子は椅子に座るなり、幸せそうに伸びをした。

 

「あー、温泉、夕食、卓球、また温泉……最高だね」

 

 キラが笑う。

 

「かなり盛りだくさんだったね」

 

「昼にカツ丼三杯もあったし!」

 

「そこも入るんだ」

 

 ネウロが冷ややかに言う。

 

「この娘の旅程表は、食事を中心に組まれている」

 

「いいじゃん、美味しいもの大事!」

 

 ソープはロビーの雰囲気を眺めていた。

 

「夜の宿は、昼と全然違うね。音が少なくて、時間がゆっくりしているように感じる」

 

 露伴が即座に反応した。

 

「いい表現だ。湯上がりの感覚と、旅館の夜の静けさ。人間はこういう時に――」

 

 Xiが、すっとソープと露伴の間に座った。

 

「通行止めです」

 

「僕は感想を述べようとしただけだ」

 

「距離が近づきそうだったので」

 

「君はもはや道だけでなく会話にも関所を設けるのか」

 

「必要に応じて」

 

 泉が頷く。

 

「先生、今日はもう取材控えめでお願いします」

 

「泉くん、君は本当に僕を休ませたいのか、邪魔したいのかどっちなんだ」

 

「原稿に支障が出ない程度に休ませたいです」

 

「やけに現実的だな」

 

 そんなやり取りをしていると、弥子がロビーの隅にある一角を見つけた。

 

「あれ?」

 

 そこには、小さな案内表示があった。

 

『カラオケルーム』

 

 弥子の目が、夕食の馬刺しを見た時とはまた別の輝きを帯びた。

 

「カラオケある!」

 

 キラがその声に振り向く。

 

「本当だ」

 

 ラクスも案内板を見る。

 

「あら。皆さまで歌えるお部屋があるのですね」

 

 弥子はすぐに振り向いた。

 

「明日の晩、みんなでやろうよ!」

 

 Xiは反射的に言った。

 

「えっ」

 

「温泉、夕食、カラオケ! 旅行っぽい!」

 

「旅行っぽいけど、このメンバーでカラオケって絶対普通じゃない」

 

 ネウロが愉快そうに目を細める。

 

「人間は、歌にも本性が出るのだろう?」

 

「出るかもしれないけど、ネウロさんがそれを観察すると不穏になる!」

 

 露伴がすでに興味を示していた。

 

「カラオケか。確かに、選曲には人間性が出る。何を歌い、何を歌わないか。キーを変えるか、原曲にこだわるか。実にいい」

 

「ほら! 危険人物が二人とも食いついた!」

 

 泉がすぐに言う。

 

「先生、カラオケ中の取材は禁止です」

 

「歌うなということか?」

 

「歌ってください。取材だけしないでください」

 

「無茶を言う」

 

 ラクスは少し楽しそうに微笑んだ。

 

「皆さまで歌うのも、良い思い出になりそうですわ」

 

 キラがラクスを見た。

 

「ラクスが歌うなら、みんな聴き入っちゃうかも」

 

「キラもご一緒にいかがです?」

 

「えっ、僕も?」

 

 弥子がすかさず乗る。

 

「キラさんとラクスさんのデュエット!」

 

 キラの顔が少し赤くなった。

 

「いや、それは急に言われても」

 

 Xiが小声で言う。

 

「キラさん、今の胃痛じゃなくて照れの反応ですね」

 

「分析しないで」

 

 カイエンは興味なさそうに腕を組んでいた。

 

「俺は歌わん」

 

 弥子が即座に言う。

 

「えー、カイエンさんの歌、聞きたい!」

 

「聞いてどうする」

 

「強そう!」

 

「歌に強いも弱いもあるか」

 

 ネウロが笑う。

 

「魔界の歌は弱い者から内臓が震える」

 

 Xiがすぐに指差す。

 

「魔界のカラオケは禁止!」

 

 カイエンが続ける。

 

「ジョーカー太陽星団の――」

 

「カイエンさんも禁止!」

 

「まだ何も言ってねぇ」

 

「言い出しが危険なんです!」

 

 ソープは案内板を見て、楽しそうに言った。

 

「歌も文化調査になるね」

 

 Xiは頭を抱えた。

 

「ソープさんが興味を持った……」

 

「明日の夜なら、今日ほど慌ただしくないだろうし」

 

「そう願いたいです」

 

 アウクソーが静かに言う。

 

「ソープ様がご希望であれば、時間を決めて利用するのはよろしいかと」

 

 泉も手帳を開いた。

 

「では、明日の夕食後にカラオケルーム利用。時間は一時間から一時間半程度。先生の取材は禁止。弥子さんの飲食注文は常識の範囲内」

 

「なんであたしだけ注意書き!?」

 

「実績です」

 

「Xiみたいなこと言う!」

 

 Xiは苦笑した。

 

「泉さん、こっち側に来てますね」

 

「必要に迫られています」

 

 こうして、二日目夜の予定が決まった。

 

 明日の晩は、カラオケ回。

 

 Xiはその予定を手元のメモに書き込みながら、嫌な予感しかしなかった。

 

「……僕、マイクから逃げられない気がする」

 

 ネウロが満足げに言う。

 

「逃げる怪盗に、歌わせる場か。面白い」

 

「面白くない」

 

 ロビーでの休憩は、思いのほか穏やかに終わった。

 

 某乳酸菌飲料は、ラクスの優しい制限により追加摂取禁止。

 代わりに、Xiとキラは温かいお茶を飲んだ。

 

「普通のお茶って、いいですね」

 

 Xiがしみじみ言う。

 

 キラも頷いた。

 

「うん。何も起きない飲み物って、安心する」

 

 露伴がそれを聞いて呟く。

 

「“何も起きない飲み物”という表現、妙に切実だな」

 

「露伴先生、そこ拾わないでください」

 

 やがて、それぞれ部屋へ戻る時間になった。

 

 A室の面々は、女子部屋らしく少しだけ夜の話を続ける様子。

 B室のキラは、承太郎とネウロと露伴に挟まれる夜を前に、静かに覚悟を決めている。

 C室のXiは、ようやく眠れると思っていた。

 

 だが。

 

 部屋に戻ったところで、ソープが言った。

 

「Xi、日報は?」

 

 Xiの動きが止まった。

 

「……日報」

 

 カイエンが荷物を置きながら言う。

 

「ログナーへ送るんだろ」

 

「忘れてた……いや、忘れたかった……」

 

 ソープは楽しそうに座卓の前に座った。

 

「今日は色々あったからね」

 

「ありすぎました」

 

 Xiは観念して、端末を取り出した。

 

 畳の上に正座……はしない。

 足が疲れているので、あぐらである。

 

 画面に件名を打ち込む。

 

『短期外注業務日報 一日目』

 

 Xiは、しばらく画面を見つめた。

 

「……何から書けばいいんだろう」

 

 カイエンが言った。

 

「事実を書け」

 

「事実が多すぎるんです」

 

 ソープが指を折る。

 

「到着、茶菓子検閲、部屋割り、河原稽古、温泉、夕食、卓球、二度目の温泉、ロビー休憩、明日のカラオケ予定」

 

「改めて並べると、業務と旅行が混線してますね」

 

 Xiはため息をつき、入力を始めた。

 

短期外注業務日報 一日目

宛先:ログナー司令

報告者:怪盗Xi

 

一、移動および宿到着

予定通り、会津東山温泉の宿へ到着。

昼食として煮込みソースカツ丼を摂取。桂木弥子が三杯食べた。異常なし。いや異常はあるが、危険物ではない。

 

二、不審物対応

宿到着後、事前連絡のあった差出人不明の茶菓子を確認。

外装に大きく『6』の表示。

内容物は「至高のチョコレート」。添え状には、常人が一粒で初恋を思い出し、二粒でその相手の顔を忘れる旨の記述あり。

未摂取のまま隔離。宿側対応は極めて良好。

悪いのは全部、あのクソ親父。

 

三、部屋割り

A室:泉、ラクス、アウクソー、弥子。

B室:承太郎、露伴、キラ、ネウロ。

C室:カイエン、ソープ、Xi。

露伴先生がC室を希望したが却下。通行止め実施。

 

四、訓練

旅館前の河原にて、カイエンさんによる足さばき指導。

足場が石で悪い。かなり悪い。

パラレルアタックの基礎として実施されたが、こちらの認識では基礎の範囲を超えている。

ただし、多少の効果はあった。悔しい。

 

五、入浴

一度目の入浴では、ソープさんはソープダッシュモードにて女子側へ。アウクソーさんが同伴。湯当たりなし。

二度目の入浴も同様。湯当たりなし。

僕は二度目でようやく少し休めた。

 

六、夕食

牛しゃぶ、馬刺し等。料理は安全。宿側の配膳にも不審点なし。

カイエンさんは地酒を評価。「いい酒だ」と発言。

桂木弥子の摂取量は多いが、本人は元気。

 

七、温泉卓球

カイエンさんにより、卓球を用いた足さばき確認が実施された。

「まず二分身からだな」と言われた。卓球で。

器物破損なし。旅館被害なし。僕の足腰に被害あり。

 

八、翌日予定

朝稽古予定。

朝食予定。

夜、カラオケルーム利用予定。

露伴先生の取材行為については継続監視が必要。

 

総評:

一日目にして業務量が多い。

ただし、ソープさんの湯当たりなし。不審物摂取なし。宿への被害なし。

任務としては、たぶん順調。

僕の胃は順調ではない。

 

以上。

 

 Xiは、そこまで打って手を止めた。

 

「……これ、送っていいかな」

 

 ソープは楽しそうに読んでいる。

 

「わかりやすいと思うよ」

 

「感情が出すぎてません?」

 

「日報としては少し出てるね」

 

 カイエンが覗き込む。

 

「事実だろ」

 

「カイエンさんの“事実だろ”は、たまに刃物より強い」

 

 Xiは諦めて送信ボタンを押した。

 

 送信完了。

 

 ようやく、今日の業務が終わった。

 

 そう思った数秒後。

 

 端末が鳴った。

 

 ログナーからの返信だった。

 

 Xiは嫌な予感しかしない顔で開く。

 

確認した。

一日目の対応は概ね良好。

不審物未摂取、ソープの湯当たりなし、宿への被害なし。評価する。

明朝の稽古については、カイエンの判断に従え。

二日目のカラオケについても、必要なら監査対象とすること。

引き続き任務を遂行せよ。

 

 Xiは画面を見つめた。

 

「……カラオケも監査対象になった」

 

 ソープが笑った。

 

「よかったね。正式な仕事だ」

 

「よくないです」

 

 カイエンが布団を敷きながら言う。

 

「寝ろ。明日も早い」

 

 Xiは端末を伏せ、畳に倒れ込んだ。

 

「二泊三日って、長い……」

 

 ソープは布団に入りながら、穏やかに言った。

 

「でも、楽しいね」

 

 Xiはしばらく黙っていた。

 

 そして、天井を見つめたまま、小さく答えた。

 

「……まあ、悪くはないです」

 

 初日の夜。

 

 危険物は隔離され、湯当たりはなく、旅館への被害もなく、日報も送った。

 怪盗Xiは、ようやく布団に入ることを許された。

 

 ただし、明日の朝には稽古がある。

 

 そして夜には、カラオケがある。

 

 Xiは目を閉じながら、最後にひとつだけ呟いた。

 

「……マイクから逃げる方法、考えておこう」

 

 それを聞いたカイエンが、暗がりの中で言った。

 

「逃げるな」

 

「聞こえてたんですか」

 

「聞こえる」

 

「怖い」

 

 温泉旅館の夜は、静かに更けて行った。

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