守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
二度目の湯を終えた一行は、すぐに部屋へ戻る……はずだった。
しかし、温泉旅館の夜には、不思議な引力がある。
湯上がりの身体。
少し火照った頬。
畳と木の匂い。
廊下の灯り。
そして、ロビーから漂う、どこか落ち着いた空気。
弥子が足を止めた。
「ちょっと休んでいかない?」
Xiは即座に警戒した。
「食べ物目的?」
「違うよ!」
「本当に?」
「……飲み物くらいは欲しいかも」
「やっぱり」
ラクスが柔らかく微笑む。
「せっかくですし、少しロビーで休憩いたしましょう。お風呂上がりに、皆さまでゆっくりお話しするのも素敵ですわ」
その言い方があまりに自然だったので、Xiも反論できなかった。
「まあ……それくらいなら」
カイエンが短く言う。
「明日に響かん程度にな」
「明日の稽古を前提に話さないでください」
「前提だ」
「ですよね」
ロビーには、落ち着いた椅子とテーブルが並んでいた。
外は夜。
窓の向こうには、暗い山影と、かすかな水音。
昼間の賑やかさとは違う、温泉宿らしい静けさがあった。
弥子は椅子に座るなり、幸せそうに伸びをした。
「あー、温泉、夕食、卓球、また温泉……最高だね」
キラが笑う。
「かなり盛りだくさんだったね」
「昼にカツ丼三杯もあったし!」
「そこも入るんだ」
ネウロが冷ややかに言う。
「この娘の旅程表は、食事を中心に組まれている」
「いいじゃん、美味しいもの大事!」
ソープはロビーの雰囲気を眺めていた。
「夜の宿は、昼と全然違うね。音が少なくて、時間がゆっくりしているように感じる」
露伴が即座に反応した。
「いい表現だ。湯上がりの感覚と、旅館の夜の静けさ。人間はこういう時に――」
Xiが、すっとソープと露伴の間に座った。
「通行止めです」
「僕は感想を述べようとしただけだ」
「距離が近づきそうだったので」
「君はもはや道だけでなく会話にも関所を設けるのか」
「必要に応じて」
泉が頷く。
「先生、今日はもう取材控えめでお願いします」
「泉くん、君は本当に僕を休ませたいのか、邪魔したいのかどっちなんだ」
「原稿に支障が出ない程度に休ませたいです」
「やけに現実的だな」
そんなやり取りをしていると、弥子がロビーの隅にある一角を見つけた。
「あれ?」
そこには、小さな案内表示があった。
『カラオケルーム』
弥子の目が、夕食の馬刺しを見た時とはまた別の輝きを帯びた。
「カラオケある!」
キラがその声に振り向く。
「本当だ」
ラクスも案内板を見る。
「あら。皆さまで歌えるお部屋があるのですね」
弥子はすぐに振り向いた。
「明日の晩、みんなでやろうよ!」
Xiは反射的に言った。
「えっ」
「温泉、夕食、カラオケ! 旅行っぽい!」
「旅行っぽいけど、このメンバーでカラオケって絶対普通じゃない」
ネウロが愉快そうに目を細める。
「人間は、歌にも本性が出るのだろう?」
「出るかもしれないけど、ネウロさんがそれを観察すると不穏になる!」
露伴がすでに興味を示していた。
「カラオケか。確かに、選曲には人間性が出る。何を歌い、何を歌わないか。キーを変えるか、原曲にこだわるか。実にいい」
「ほら! 危険人物が二人とも食いついた!」
泉がすぐに言う。
「先生、カラオケ中の取材は禁止です」
「歌うなということか?」
「歌ってください。取材だけしないでください」
「無茶を言う」
ラクスは少し楽しそうに微笑んだ。
「皆さまで歌うのも、良い思い出になりそうですわ」
キラがラクスを見た。
「ラクスが歌うなら、みんな聴き入っちゃうかも」
「キラもご一緒にいかがです?」
「えっ、僕も?」
弥子がすかさず乗る。
「キラさんとラクスさんのデュエット!」
キラの顔が少し赤くなった。
「いや、それは急に言われても」
Xiが小声で言う。
「キラさん、今の胃痛じゃなくて照れの反応ですね」
「分析しないで」
カイエンは興味なさそうに腕を組んでいた。
「俺は歌わん」
弥子が即座に言う。
「えー、カイエンさんの歌、聞きたい!」
「聞いてどうする」
「強そう!」
「歌に強いも弱いもあるか」
ネウロが笑う。
「魔界の歌は弱い者から内臓が震える」
Xiがすぐに指差す。
「魔界のカラオケは禁止!」
カイエンが続ける。
「ジョーカー太陽星団の――」
「カイエンさんも禁止!」
「まだ何も言ってねぇ」
「言い出しが危険なんです!」
ソープは案内板を見て、楽しそうに言った。
「歌も文化調査になるね」
Xiは頭を抱えた。
「ソープさんが興味を持った……」
「明日の夜なら、今日ほど慌ただしくないだろうし」
「そう願いたいです」
アウクソーが静かに言う。
「ソープ様がご希望であれば、時間を決めて利用するのはよろしいかと」
泉も手帳を開いた。
「では、明日の夕食後にカラオケルーム利用。時間は一時間から一時間半程度。先生の取材は禁止。弥子さんの飲食注文は常識の範囲内」
「なんであたしだけ注意書き!?」
「実績です」
「Xiみたいなこと言う!」
Xiは苦笑した。
「泉さん、こっち側に来てますね」
「必要に迫られています」
こうして、二日目夜の予定が決まった。
明日の晩は、カラオケ回。
Xiはその予定を手元のメモに書き込みながら、嫌な予感しかしなかった。
「……僕、マイクから逃げられない気がする」
ネウロが満足げに言う。
「逃げる怪盗に、歌わせる場か。面白い」
「面白くない」
ロビーでの休憩は、思いのほか穏やかに終わった。
某乳酸菌飲料は、ラクスの優しい制限により追加摂取禁止。
代わりに、Xiとキラは温かいお茶を飲んだ。
「普通のお茶って、いいですね」
Xiがしみじみ言う。
キラも頷いた。
「うん。何も起きない飲み物って、安心する」
露伴がそれを聞いて呟く。
「“何も起きない飲み物”という表現、妙に切実だな」
「露伴先生、そこ拾わないでください」
やがて、それぞれ部屋へ戻る時間になった。
A室の面々は、女子部屋らしく少しだけ夜の話を続ける様子。
B室のキラは、承太郎とネウロと露伴に挟まれる夜を前に、静かに覚悟を決めている。
C室のXiは、ようやく眠れると思っていた。
だが。
部屋に戻ったところで、ソープが言った。
「Xi、日報は?」
Xiの動きが止まった。
「……日報」
カイエンが荷物を置きながら言う。
「ログナーへ送るんだろ」
「忘れてた……いや、忘れたかった……」
ソープは楽しそうに座卓の前に座った。
「今日は色々あったからね」
「ありすぎました」
Xiは観念して、端末を取り出した。
畳の上に正座……はしない。
足が疲れているので、あぐらである。
画面に件名を打ち込む。
『短期外注業務日報 一日目』
Xiは、しばらく画面を見つめた。
「……何から書けばいいんだろう」
カイエンが言った。
「事実を書け」
「事実が多すぎるんです」
ソープが指を折る。
「到着、茶菓子検閲、部屋割り、河原稽古、温泉、夕食、卓球、二度目の温泉、ロビー休憩、明日のカラオケ予定」
「改めて並べると、業務と旅行が混線してますね」
Xiはため息をつき、入力を始めた。
短期外注業務日報 一日目
宛先:ログナー司令
報告者:怪盗Xi
一、移動および宿到着
予定通り、会津東山温泉の宿へ到着。
昼食として煮込みソースカツ丼を摂取。桂木弥子が三杯食べた。異常なし。いや異常はあるが、危険物ではない。
二、不審物対応
宿到着後、事前連絡のあった差出人不明の茶菓子を確認。
外装に大きく『6』の表示。
内容物は「至高のチョコレート」。添え状には、常人が一粒で初恋を思い出し、二粒でその相手の顔を忘れる旨の記述あり。
未摂取のまま隔離。宿側対応は極めて良好。
悪いのは全部、あのクソ親父。
三、部屋割り
A室:泉、ラクス、アウクソー、弥子。
B室:承太郎、露伴、キラ、ネウロ。
C室:カイエン、ソープ、Xi。
露伴先生がC室を希望したが却下。通行止め実施。
四、訓練
旅館前の河原にて、カイエンさんによる足さばき指導。
足場が石で悪い。かなり悪い。
パラレルアタックの基礎として実施されたが、こちらの認識では基礎の範囲を超えている。
ただし、多少の効果はあった。悔しい。
五、入浴
一度目の入浴では、ソープさんはソープダッシュモードにて女子側へ。アウクソーさんが同伴。湯当たりなし。
二度目の入浴も同様。湯当たりなし。
僕は二度目でようやく少し休めた。
六、夕食
牛しゃぶ、馬刺し等。料理は安全。宿側の配膳にも不審点なし。
カイエンさんは地酒を評価。「いい酒だ」と発言。
桂木弥子の摂取量は多いが、本人は元気。
七、温泉卓球
カイエンさんにより、卓球を用いた足さばき確認が実施された。
「まず二分身からだな」と言われた。卓球で。
器物破損なし。旅館被害なし。僕の足腰に被害あり。
八、翌日予定
朝稽古予定。
朝食予定。
夜、カラオケルーム利用予定。
露伴先生の取材行為については継続監視が必要。
総評:
一日目にして業務量が多い。
ただし、ソープさんの湯当たりなし。不審物摂取なし。宿への被害なし。
任務としては、たぶん順調。
僕の胃は順調ではない。
以上。
Xiは、そこまで打って手を止めた。
「……これ、送っていいかな」
ソープは楽しそうに読んでいる。
「わかりやすいと思うよ」
「感情が出すぎてません?」
「日報としては少し出てるね」
カイエンが覗き込む。
「事実だろ」
「カイエンさんの“事実だろ”は、たまに刃物より強い」
Xiは諦めて送信ボタンを押した。
送信完了。
ようやく、今日の業務が終わった。
そう思った数秒後。
端末が鳴った。
ログナーからの返信だった。
Xiは嫌な予感しかしない顔で開く。
確認した。
一日目の対応は概ね良好。
不審物未摂取、ソープの湯当たりなし、宿への被害なし。評価する。
明朝の稽古については、カイエンの判断に従え。
二日目のカラオケについても、必要なら監査対象とすること。
引き続き任務を遂行せよ。
Xiは画面を見つめた。
「……カラオケも監査対象になった」
ソープが笑った。
「よかったね。正式な仕事だ」
「よくないです」
カイエンが布団を敷きながら言う。
「寝ろ。明日も早い」
Xiは端末を伏せ、畳に倒れ込んだ。
「二泊三日って、長い……」
ソープは布団に入りながら、穏やかに言った。
「でも、楽しいね」
Xiはしばらく黙っていた。
そして、天井を見つめたまま、小さく答えた。
「……まあ、悪くはないです」
初日の夜。
危険物は隔離され、湯当たりはなく、旅館への被害もなく、日報も送った。
怪盗Xiは、ようやく布団に入ることを許された。
ただし、明日の朝には稽古がある。
そして夜には、カラオケがある。
Xiは目を閉じながら、最後にひとつだけ呟いた。
「……マイクから逃げる方法、考えておこう」
それを聞いたカイエンが、暗がりの中で言った。
「逃げるな」
「聞こえてたんですか」
「聞こえる」
「怖い」
温泉旅館の夜は、静かに更けて行った。