守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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怪盗Xiは湯けむりから逃げられない その11

 翌朝。

 

 まだ旅館全体が静かな時間だった。

 

 窓の外は薄明るく、川の音だけが澄んで聞こえる。

 夜の湯けむりとは違う、冷たい朝の空気。

 

 C室の布団の中で、怪盗Xiは深く眠っていた。

 

 昨日一日で、彼は十分すぎるほど働いた。

 

 危険物検閲。

 露伴先生の通行止め。

 河原稽古。

 温泉。

 夕食確認。

 温泉卓球。

 日報。

 

 短期外注契約一日目としては、明らかに過密である。

 

 だから、せめて朝くらいはゆっくり眠っても許される。

 

 はずだった。

 

「起きろ」

 

 低い声がした。

 

 Xiは布団の中で目を開けた。

 

 目の前に、カイエンが立っていた。

 

「……おはようございます」

 

「河原に行くぞ」

 

「おやすみなさい」

 

 Xiは即座に布団をかぶった。

 

 だが、布団は容赦なく剥がされた。

 

「朝稽古だ」

 

「温泉旅館の朝って、もっとこう……鳥の声とか、朝風呂とか、朝食の匂いで起きるものじゃないんですか」

 

「鳥は鳴いてる」

 

「そこだけ拾わないでください」

 

 隣の布団から、ソープがゆっくり身を起こした。

 

「おはよう。もう朝稽古?」

 

「はい」

 

 カイエンは当然のように答えた。

 

 ソープは少し眠そうに目を細めたあと、楽しそうに微笑んだ。

 

「僕も見に行くよ」

 

「ソープさんまで……」

 

 Xiは布団の上に座り込み、天井を見上げた。

 

「二泊三日って、長いな……」

 

「まだ二日目の朝だ」

 

「言わないでください」

 

 早朝の河原は、前日とはまた違う顔をしていた。

 

 空気は冷たく、石の上にはうっすらと朝露が残っている。

 川の音は近く、山の向こうから光が差し始めている。

 

 普通なら、清々しい散歩である。

 

 ただし、Xiの手には木刀が握らされていた。

 

「まず昨日の復習だ」

 

 カイエンが言った。

 

「足場を見ろ。石を踏むな、石の間を使え。逃げ道を先に作れ」

 

 Xiは眠そうな顔で構える。

 

「朝から要求が高い……」

 

「朝だからだ。余計な力が抜けてる」

 

「眠いだけです」

 

「ならちょうどいい」

 

「ちょうどよくない」

 

 ソープは少し離れた場所で、川の音を聞きながら見ていた。

 

「朝の河原もいいね。温泉宿の朝は、水の音から始まるのか」

 

 Xiは木刀を構えたまま振り向く。

 

「ソープさん、情緒ある感想を言うと、僕の状況との差がひどくなるので控えめに」

 

「でも、いい景色だよ」

 

「見たいです。僕も。普通に」

 

 カイエンが木刀を軽く構えた。

 

「余所見」

 

「してない!」

 

「してた」

 

 次の瞬間、カイエンが踏み込んだ。

 

 Xiは横へ逃げる。

 

 足元の石を避け、昨日より少しだけ滑らかに体を動かす。

 木刀の切っ先が、肩口をかすめる位置で止まった。

 

「昨日よりはましだ」

 

「褒め方が渋い!」

 

「寝起きにしては動けてる」

 

「それ褒めてます?」

 

「褒めてる」

 

「わかりづらい!」

 

 何本か打ち合ううちに、Xiの身体も目覚めてきた。

 

 逃げるだけではなく、足を置き換える。

 前に出る。

 引く。

 相手の肩を見る。

 手元だけを追わない。

 

 カイエンの指導は相変わらず雑に見えて、要点は鋭い。

 

「右へ逃げる癖が出てる」

 

「見えてるんですか」

 

「見えてるから言ってる」

 

「ですよね」

 

「逃げ癖は悪くねぇ。だが、読まれたら終わりだ」

 

 Xiは息を吐いた。

 

「怪盗に逃げ癖があるのは仕様です」

 

「仕様なら強化しろ」

 

「言い方!」

 

 ソープがそこで少し笑った。

 

「でも、カイエンの言う通りかもしれないね。Xiの逃げる力は、ちゃんと磨けば守る力にもなる」

 

 Xiは一瞬黙る。

 

「……そういう言い方をされると、逃げ道が減るんですよ」

 

「うん」

 

「わかってて言ってますね」

 

「少しだけ」

 

 カイエンが木刀を下ろした。

 

「今日はここまでだ」

 

 Xiは肩で息をしながら、目を丸くした。

 

「早い」

 

「朝飯前にやりすぎると、飯がまずくなる」

 

「カイエンさん、珍しく温泉旅館の人みたいなことを」

 

「斬るぞ」

 

「通常運転でした」

 

 稽古のあとは、三人で朝風呂へ向かった。

 

 今度は、ソープも含めて男湯である。

 

 まだ朝早い大浴場は、人も少なく、静かだった。

 湯気の向こうに、朝の光が差し込んでいる。

 昨日の夜よりも空気は澄んでいて、湯の音がよく響く。

 

 Xiは湯に入るなり、心底ほっとした声を出した。

 

「……これは正しい朝」

 

 カイエンが湯に浸かりながら言う。

 

「稽古後の湯は効くだろ」

 

「稽古がなければもっと効きます」

 

「甘い」

 

「温泉くらい甘くしてください」

 

 ソープは湯の温度を確かめながら、慎重に浸かっていた。

 

「朝の湯は、夜と違って目が覚める感じがするね」

 

「長湯はしないでくださいね」

 

 Xiがすぐに言う。

 

「昨日の日報に“湯当たりなし”って書いたんですから、二日目の朝から訂正報告とか嫌です」

 

「大丈夫。短めにするよ」

 

 カイエンも短く言った。

 

「湯当たりには気をつけろ」

 

「うん」

 

 Xiはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。

 

「なんか、そこは本当にちゃんとしてきましたね」

 

 ソープは湯気の向こうで穏やかに笑う。

 

「経験は活かすものだからね」

 

 三人の朝風呂は、珍しく平和だった。

 

 露伴はいない。

 ネウロもいない。

 キラの胃痛もない。

 弥子の食欲も、今はまだ朝食会場に封印されている。

 

 Xiは、湯に肩まで浸かって目を閉じた。

 

「……静かだ」

 

 カイエンが言う。

 

「今だけだ」

 

「言わないでください」

 

 そして、朝食会場。

 

 全員が合流した頃には、旅館の朝の空気は一気に賑やかになっていた。

 

 朝食はバイキング形式。

 

 和食の小鉢。

 焼き魚。

 卵料理。

 ご飯。

 味噌汁。

 サラダ。

 漬物。

 そして、飲み物コーナー。

 

 弥子は会場に入った瞬間、動きを止めた。

 

 その目が、獲物を見つけたように輝く。

 

「……バイキング」

 

 ネウロが背後で低く笑った。

 

「略奪者が目覚めたな」

 

 Xiが即座に言う。

 

「言い方!」

 

 弥子は両手を軽く握った。

 

「桂木弥子、行きます!」

 

「出撃宣言しないで!」

 

 キラが慌てて声をかける。

 

「弥子ちゃん、落ち着いて。バイキングは逃げないから」

 

「でも、取りに行かないと!」

 

「取れるけど、常識の範囲でね!」

 

 泉が冷静に皿を取る。

 

「弥子さん、一皿目は様子見でお願いします」

 

「様子見ってどれくらい?」

 

「普通の一人前です」

 

「普通……」

 

 Xiがびくっと反応した。

 

「普通って言葉に怯える体になってきた……」

 

 朝食会場の一角には、小さな乳酸菌飲料が並んでいた。

 

 それを見つけた瞬間、Xiとキラの目が同時に動く。

 

「ある」

 

「あるね」

 

 二人の声が重なった。

 

 しかし、その二人より先に弥子が手を伸ばそうとした。

 

 キラが慌てて言う。

 

「弥子ちゃん、一人一本ね!」

 

 弥子が振り向く。

 

「えっ」

 

「一人一本」

 

 キラの声は優しい。

 しかし、その目は本気だった。

 

「昨日からみんな飲みすぎ気味だから」

 

 ラクスもにっこり微笑む。

 

「ええ。甘い飲み物ですし、ほどほどにいたしましょうね」

 

 Xiは小さく頷いた。

 

「ラクスさんの笑顔が優しいのに逃げ道がない」

 

 弥子は少し考えたあと、一本を手に取った。

 

「じゃあ一本」

 

「よし」

 

 キラが安心した瞬間、弥子は続けた。

 

「で、ご飯は何杯まで?」

 

 Xiが即座に言う。

 

「そこも確認するの!?」

 

 ネウロが満足そうに言った。

 

「この娘にとって、飲料は前哨戦にすぎん」

 

「朝から戦わないで!」

 

 ソープは料理を眺めて、興味深そうに言った。

 

「朝食も、自分で選ぶ形式なんだね。旅館の食文化として面白いな」

 

 アウクソーが静かに答える。

 

「ソープ様、お好きなものを少しずつお取りください」

 

「うん。食べすぎないようにする」

 

 カイエンは焼き魚とご飯、味噌汁を手に取り、実に堅実な朝食を組んでいた。

 

 Xiがそれを見て言う。

 

「カイエンさん、朝食はまともですね」

 

「飯は動くために食う」

 

「その後に稽古が見えるので、ちょっと嫌です」

 

 露伴は皿を持ちながら、周囲を観察している。

 

「朝食バイキングは、人間の優先順位が露骨に出るな。最初に何を取るか、どれだけ盛るか、何を避けるか」

 

 泉がすぐに言った。

 

「先生、食事中の取材は控えめに」

 

「これは取材ではなく、観察だ」

 

「同じです」

 

 承太郎は静かに皿を取り、必要な分だけ選んでいる。

 

 キラも控えめに、ラクスは彩りよく。

 ソープは少量ずつ試すように。

 アウクソーはソープの様子を見ながら、自分の分もきちんと整える。

 

 そして弥子の皿だけが、明らかに山だった。

 

 Xiがそれを見て、頭を抱えた。

 

「一皿目から本気じゃん!」

 

 弥子は満面の笑みで答える。

 

「これは様子見!」

 

「略奪者の様子見!」

 

 ネウロが冷ややかに言う。

 

「バイキングとは本来、略奪者を意味する。つまり、この娘は言葉の原義に忠実だ」

 

「忠実じゃなくていい!」

 

 弥子は席に戻り、手を合わせた。

 

「いただきます!」

 

 そして、食べ始める。

 

 早い。

 

 だが本人は、間違いなく味わっている顔だった。

 

 Xiが小声で言う。

 

「もう少し味わって食べればいいのに」

 

 弥子はすぐに反応した。

 

「ちゃんと味わってるよ!」

 

「速度が味わう速度じゃない!」

 

 ラクスが微笑む。

 

「でも、本当に美味しそうに召し上がりますわね」

 

 キラも笑う。

 

「朝から元気だね」

 

 弥子は乳酸菌飲料を一本だけ大事そうに飲み、満足げに言った。

 

「温泉旅館の朝、最高!」

 

 Xiは自分の一本を見つめながら、しみじみ言った。

 

「普通に置いてある乳酸菌飲料って、いいですね」

 

 キラが頷く。

 

「うん。箱に『6』も書いてないし」

 

「添え状もない」

 

「初恋も消えない」

 

 二人は静かに乾杯した。

 

 ラクスが微笑みながら言う。

 

「お二人とも、それで本日はまず一本ですわね」

 

「はい」

 

「はい」

 

 即答だった。

 

 朝食は、にぎやかに進んだ。

 

 カイエンは静かに食べ、ソープは文化調査として料理を観察し、アウクソーはその隣で丁寧に見守る。

 キラとラクスは穏やかに会話し、承太郎は無駄なく食べる。

 露伴は観察し、泉に止められる。

 ネウロは弥子の食欲を「人間界の謎」として眺めていた。

 

 そして弥子は、二皿目へ向かった。

 

 Xiが言う。

 

「弥子ちゃん、一応聞くけど、それは本番?」

 

 弥子は振り向いて、明るく言った。

 

「一皿目が様子見、二皿目が本番!」

 

「昨日のカツ丼と同じ理論!」

 

 ネウロが笑った。

 

「三皿目は検証だな」

 

「先に言わないで!」

 

 その朝、朝食会場に危険物はなかった。

 

 不審物もなかった。

 『6』の箱もなかった。

 謎の添え状もなかった。

 

 ただし、桂木弥子という略奪者だけは、確かに降臨していた。

 

 Xiは朝食後のメモに、こう書き込んだ。

 

『朝食バイキング。料理安全。乳酸菌飲料あり。摂取は一人一本に制限。桂木弥子の摂取量は多いが、引き続き本人は元気』

 

 そして、少し考えてから追記する。

 

『なお、バイキングの原義については、ネウロさんが余計なことを言った』

 

 キラがそれを覗き込み、苦笑する。

 

「それも日報に書くの?」

 

「必要なら書きます」

 

「ログナー司令、どう読むんだろうね」

 

 Xiは真顔で答えた。

 

「たぶん、“桂木弥子については想定範囲内”って流します」

 

 弥子が三皿目を持って戻ってきた。

 

「なに話してるの?」

 

 Xiはメモを閉じた。

 

「何でもないです。検証、頑張って」

 

「うん!」

 

 キラが小さく呟いた。

 

「本当に三皿目が検証になった……」

 

 温泉旅行二日目。

 

 朝から稽古。

 朝風呂。

 そして朝食バイキング。

 

 怪盗Xiは悟った。

 

 湯けむりから逃げられないだけではない。

 

 朝食会場からも、たぶん逃げられない。

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