守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
三日目の朝。
怪盗Xiは、夢の中で字幕を見ていた。
『常人なら一曲で初恋を思い出し、二曲で歌詞を忘れるがね』
「やめろ僕の夢!!」
叫んで、目が覚めた。
畳の匂い。
薄い朝の光。
窓の外から聞こえる川の音。
旅館の朝だった。
Xiは布団の中でしばらく固まったあと、小さく呟いた。
「……普通のチーズだったよね?」
昨夜のカラオケルームで食べたチーズ盛り合わせを思い出す。
記憶は消えていない。
匂いで倒れてもいない。
普通のチーズだった。
ただし夢は普通ではなかった。
「スティルトンでも入ってたのかな……」
そう呟いたところで、Xiはふと現実を思い出した。
朝稽古。
カイエンは言っていた。
『明朝もやるぞ』
ログナーの返信にもあった。
『明朝の稽古は予定通り実施せよ』
つまり、逃げられない。
Xiは布団の中で深く息を吸い、諦めたように起き上がった。
「……起きましたよ。起きました。怪盗なのに、三日連続で健康的すぎる」
時刻は早朝。
まだ旅館全体が静かだ。
ソープは隣の布団で、少しだけ身じろぎした。
カイエンは、布団をかぶったまま動かない。
Xiは顔を洗い、軽く身支度を整えた。
木刀も確認する。
昨日よりは足も動く。
河原の石にも、少しは慣れた。
やるしかない。
そう腹を括って、カイエンの布団の横に立つ。
「カイエンさん。朝です」
返事はない。
「朝稽古ですよ」
返事はない。
「……カイエンさん?」
Xiが恐る恐る覗き込むと、布団の中から低い声がした。
「……今日は寝かせろ」
Xiは固まった。
「え」
「寝かせろ」
「ええええ!?」
思わず声が裏返った。
「昨日あれだけ“明朝もやる”って言ってたじゃないですか!」
「予定は変わる」
「僕がちゃんと起きた日に限って!?」
「うるせぇ。頭に響く」
Xiの目が丸くなる。
「まさか……酒、残ってるんですか?」
カイエンは布団の中で不機嫌そうに言った。
「少しだ」
「残ってたんだ!!」
「騒ぐな」
「いや騒ぎますよ! 僕、ちゃんと起きたんですよ!? 夢の中でシックスさんのカラオケ字幕に襲われながらも!」
「何の話だ」
「僕にもわかりません!」
その騒ぎで、ソープがゆっくり目を開けた。
「……おはよう。朝稽古?」
Xiは、木刀を片手に立ち尽くしたまま振り向いた。
「未遂になりました」
「未遂」
「カイエンさんが寝たいそうです」
ソープは眠そうに瞬きをして、それから小さく笑った。
「珍しいね」
カイエンは布団の中から短く言う。
「珍しくねぇ」
「珍しいですよ」
Xiは即答した。
「というか、僕が稽古中止を期待してた時はやるって言って、覚悟して起きた日に限って中止って、どういう罠ですか」
「罠じゃねぇ」
「じゃあ理不尽です」
「寝ろ」
「もう起きちゃいました!」
ソープは布団から身を起こし、窓の外を見た。
朝の光が、薄く部屋に入っている。
「じゃあ、Xi」
「はい?」
「二人で朝風呂に行こうか」
Xiは少しだけ止まった。
「……二人で?」
「うん。カイエンは寝ていたいみたいだし、他のみんなもまだ起きていないだろうし」
カイエンは布団の中から言った。
「ソープ、長湯するなよ」
「わかってるよ」
Xiが思わず笑う。
「寝ててもそこは言うんですね」
「当然だ」
「はいはい。じゃあソープさん、朝風呂行きましょう。今日は僕も、ちゃんと普通に入れそうです」
「普通に?」
「露伴先生もいない。ネウロさんもいない。キラさんの胃痛もない。カイエンさんの稽古もない。これはもう、かなり普通です」
ソープはくすりと笑った。
「普通って、いいね」
「最近、身に沁みてます」
二人は静かな廊下を歩いた。
早朝の旅館は、昼とも夜とも違う。
人の声は少なく、足音も自然と小さくなる。
窓の外には、まだ柔らかい朝の光。
川の音だけが、ずっと同じ調子で聞こえている。
Xiは歩きながら言った。
「……こういう時間もあるんですね」
「うん」
「昨日まで、到着したらチョコ、部屋割り、稽古、風呂、夕食、卓球、日報。二日目も朝稽古、観光、蕎麦、土産、取材、夕食、カラオケ、風呂、日報」
「盛りだくさんだったね」
「盛りすぎです」
ソープは楽しそうに笑った。
大浴場には、まだほとんど人がいなかった。
湯気の向こうに、朝の光が差している。
夜の湯のような濃さはなく、空気が澄んでいる。
露天の方からは、水音と風の音が聞こえた。
Xiは湯に入る前に、きちんと確認する。
「ソープさん、長湯禁止です」
「うん」
「水分補給しました?」
「したよ」
「少しでものぼせそうなら出る」
「わかってる」
「よし」
ソープが湯に浸かりながら、少し笑った。
「Xi、すっかり慣れたね」
「慣れたくなかったです」
そう言いながら、Xiも湯に入った。
朝の湯が、足に染みる。
昨日の河原。
卓球。
観光で歩いた足。
カラオケ後の妙な疲れ。
それらが、ゆっくりほどけていく。
「……あー」
思わず声が漏れた。
ソープが隣で微笑む。
「気持ちいい?」
「はい。悔しいくらい」
「悔しいんだ」
「カイエンさんが言ってた“稽古後の湯は効く”が正しかったので」
「それは悔しいね」
「はい」
少しの間、二人は黙って湯に浸かっていた。
会話がないのに、気まずくはなかった。
水音。
湯気。
朝の光。
それだけで十分だった。
やがてソープが言った。
「Xi、二泊三日、どうだった?」
Xiは少し考えた。
「まだ終わってませんけど」
「うん。でも、もう最終日だ」
「……長かったです」
即答だった。
ソープは笑う。
「そうだね」
「でも」
Xiは湯面を見つめる。
「悪くはなかったです」
「うん」
「危険物は届くし、露伴先生は通行止めだし、カイエンさんは稽古するし、ネウロさんは謎を探すし、弥子ちゃんはずっと食べてるし、日報は長くなるし」
「うん」
「でも、普通のものが普通に美味しいってわかったし、普通の風呂が普通に気持ちいいってわかったし、普通の観光がありがたいって思いました」
ソープは静かに聞いていた。
Xiは少しだけ視線を逸らす。
「……あと、僕はあのクソ親父の“至高”じゃなくても、ちゃんと楽しめるんだなって」
ソープは、何も急かさなかった。
Xiは続ける。
「普通のキノコでいい。普通のチーズでいい。普通のパイナップルでいい。普通のチョコでいい。普通のお茶でいい。別に“選ばれし何か”じゃなくていい」
湯気がゆっくり流れる。
「僕も、そういう普通の側にいていいんだなって。ちょっとだけ思いました」
ソープは穏やかに言った。
「いいんじゃないかな」
Xiはソープを見る。
「軽いですね」
「重く言うことでもないよ。XiはXiだから」
その言葉に、Xiは小さく息を吐いた。
「みんな、それ言いますね」
「大事だからじゃない?」
「……逃げ道が減る言葉です」
「逃げなくてもいい時もあるよ」
Xiは湯面を指で揺らした。
「怪盗にそれ言います?」
「言うよ」
「ソープさん、結構ひどいですよね」
「そうかな」
「そうです」
二人は少し笑った。
やがて、Xiが立ち上がる。
「そろそろ出ましょう。長湯禁止です」
「うん」
「最終日に“湯当たりしました”って日報に書くのは嫌です」
「それは僕も嫌だな」
脱衣所で身体を拭きながら、ソープが言った。
「今日、帰るんだね」
「はい」
「少し寂しい?」
Xiはタオルを肩にかけたまま、少しだけ黙った。
「……まあ、少しは」
そしてすぐに付け足す。
「でも契約は二泊三日ですから。延長はしません」
「うん。わかってる」
「わかってる顔じゃない」
「わかってるよ」
「本当かな……」
部屋へ戻ると、カイエンはまだ布団の中だった。
ただし、目は開いていた。
「戻ったか」
「戻りました。長湯なし、湯当たりなし、問題なし」
「そうか」
Xiは少しだけ得意げに言う。
「今日の朝稽古は中止ですね」
カイエンは布団の中から低く言った。
「朝食後に軽くやる」
Xiの動きが止まった。
「……え?」
「軽くな」
「それ、中止じゃなくて延期ですよね!?」
「そうだ」
「寝かせろって言ったじゃないですか!」
「朝はな」
「時間指定だった!!」
ソープが楽しそうに笑う。
Xiは頭を抱えた。
「平和平和って思ったのに……」
カイエンは起き上がりながら言った。
「朝飯食ったら動ける」
「二日酔いは?」
「抜けた」
「抜けるの早い!」
「鍛え方が違う」
「そこも鍛錬なんですか!?」
Xiは天井を仰いだ。
せっかくの静かな朝風呂。
少し落ち着いた会話。
普通の側にいていいかもしれない、と思えた時間。
その余韻は、カイエンの一言で半分くらい吹き飛んだ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
Xiはため息をつきながら言う。
「……軽くですよ」
「動き次第だ」
「それ、軽くないやつ!」
ソープは笑っていた。
最終日の朝。
朝稽古は未遂に終わった。
代わりに、怪盗Xiはソープと二人で、静かな朝風呂に入った。
平和だった。
少なくとも、朝食までは。