守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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怪盗Xiは湯けむりから逃げられない その19

 三日目の朝。

 

 怪盗Xiは、すでに一仕事終えた気分でいた。

 

 早朝、カイエンが二日酔い気味に「今日は寝かせろ」と言ったため、朝稽古は中止。

 

 ……のはずだった。

 

 その代わりに、ソープと二人で静かな朝風呂へ入り、ようやく温泉らしい穏やかな時間を過ごした。

 露伴はいない。

 ネウロもいない。

 キラの胃痛もない。

 カイエンの木刀もない。

 

 湯けむりと川の音だけ。

 

 それは、二泊三日の中でも数少ない、本当に落ち着いた時間だった。

 

 だが、部屋へ戻ったところで、カイエンは布団から起き上がって言った。

 

「朝飯前に少しやるぞ」

 

 Xiは固まった。

 

「……朝稽古、中止じゃなかったんですか?」

 

「朝は寝かせろと言った」

 

「時間指定だった!」

 

「今は起きた」

 

「起きないでほしかった!」

 

 カイエンは木刀を持たなかった。

 

 それだけが、せめてもの救いだった。

 

「今日は軽く、真空斬り――ソニックブレードの感覚だけだ」

 

「“軽く”で出てくる単語じゃないですよね、それ」

 

「振らん。汗もかかせねぇ」

 

「カイエンさんの“汗をかかせない”を、どこまで信じていいのか……」

 

 ソープは楽しそうに見ている。

 

「朝風呂の後だから、軽めならいいんじゃないかな」

 

「ソープさん、そこで後押ししないでください」

 

 結局、三人は旅館前の河原へ出た。

 

 朝の空気は澄んでいて、川の音がよく聞こえる。

 石の上にはまだ冷たい湿り気が残っていた。

 

 カイエンはXiの前に立つ。

 

「力で斬るな。まず、道を作れ」

 

「道?」

 

「剣が通る道だ。身体より先に、空気の抜ける場所を探す」

 

 Xiは眉をひそめた。

 

「逃げ道みたいに?」

 

「似たようなもんだ」

 

「急にわかりやすくなりましたね」

 

「お前にはその方が早い」

 

 Xiは軽く腕を振った。

 

 剣を持たず、ただ空気を切る。

 

 斬るというより、抜ける。

 押し破るのではなく、隙間を探す。

 

 それは、怪盗の感覚に少し似ていた。

 

「……こう?」

 

 カイエンは短く言う。

 

「悪くねぇ」

 

「出た、“悪くねぇ”」

 

「調子に乗るな」

 

「乗る前に落とす!」

 

 稽古は、本当に短く終わった。

 

 汗だくにはならなかった。

 息も乱れすぎていない。

 

 Xiは少しだけ意外そうにカイエンを見る。

 

「本当に軽かった……」

 

「言っただろ」

 

「カイエンさんの“軽く”を、初めて信用できました」

 

「遅ぇ」

 

 ソープが微笑む。

 

「Xi、少しずつできることが増えてるね」

 

「褒められると逃げ道が減るんですってば」

 

「でも、逃げ道を作る練習だったんでしょう?」

 

「そう言われると、反論しづらい……」

 

 朝の稽古を終え、一行は朝食会場へ向かった。

 

 バイキング形式の朝食である。

 

 その言葉を聞いた瞬間、桂木弥子の目が輝いた。

 

「最終日の朝食!」

 

 Xiは小さく呟く。

 

「来た……略奪者の再降臨……」

 

 ネウロが満足げに笑う。

 

「バイキングとは略奪者。三日目にして、また名が体を表すわけだ」

 

「ネウロさん、それ昨日も言いました」

 

「何度見ても飽きぬ」

 

 弥子は皿を手に取り、堂々と宣言した。

 

「今日は帰る日だから、悔いのないように食べる!」

 

 キラがすぐに声をかける。

 

「弥子ちゃん、乳酸菌飲料は一人一本ね」

 

 弥子は飲み物コーナーの前でぴたりと止まった。

 

「えー」

 

 ラクスがにっこり微笑む。

 

「甘い飲み物ですから、ほどほどにいたしましょうね」

 

「はーい」

 

 弥子は素直に一本を取った。

 

 Xiも一本を手に取り、しみじみと言う。

 

「普通に置いてある乳酸菌飲料……ありがたい……」

 

 キラも頷く。

 

「箱に『6』もないし、添え状もない」

 

「初恋も消えない」

 

「労働の意味も忘れない」

 

 二人は静かに乾杯した。

 

 その横で、弥子の皿にはすでに山ができていた。

 

 泉が眼鏡を直す。

 

「弥子さん、チェックアウト前です。食べ過ぎて動けない、という事態は避けてください」

 

「大丈夫です!」

 

「根拠は?」

 

「経験!」

 

 ネウロが即座に言う。

 

「その経験が一番信用ならん」

 

「ひどい!」

 

 朝食も無事だった。

 

 料理に不審物はない。

 『6』の箱もない。

 謎の添え状もない。

 弥子は複数巡回したが、本人は元気だった。

 

 Xiはメモに書く。

 

『三日目朝食。料理安全。乳酸菌飲料一人一本。桂木弥子、複数巡回。本人は元気。危険物ではない』

 

 キラがそれを覗き込み、苦笑した。

 

「もう定型文になってるね」

 

「ログナーさんも読み慣れてきたと思います」

 

 ネウロが笑う。

 

「摂取量は異常だが、危険物ではない。便利な分類だな」

 

「本当に便利なのが困ります」

 

 朝食後、一行はそれぞれの部屋へ戻り、チェックアウトの準備に入った。

 

 A室では、泉が忘れ物確認を行い、ラクスが荷物を丁寧にまとめ、アウクソーが静かに最終確認をしていた。

 

 弥子は自分のお土産袋を見て、首を傾げた。

 

「あれ? お菓子、けっこう減ってる」

 

 泉が言った。

 

「昨夜、“ひとつだけ”を何度も繰り返していました」

 

「ひとつだけは、ひとつだけですよ?」

 

「回数の問題です」

 

 ラクスが穏やかに微笑む。

 

「帰り道の分は残っていますか?」

 

 弥子は袋を覗き込む。

 

「たぶん!」

 

 泉はため息をついた。

 

「その“たぶん”は危険ですね」

 

 一方、B室では、承太郎がすでに荷物をまとめ終えていた。

 

 キラは忘れ物を確認し、ネウロは何も持っていないように見えて、なぜか弥子のお土産菓子の残量だけ把握していた。

 

 露伴はノートを鞄へしまいながら、満足げだった。

 

「なかなかいい取材だった」

 

 キラが苦笑する。

 

「温泉旅行だったはずなんですけど」

 

「取材旅行でもある」

 

「両立するんですね」

 

「当然だ」

 

 C室。

 

 Xiは、自分で買った小さな起き上がり小法師を丁寧に包んでいた。

 

 ソープがそれを見て微笑む。

 

「大事にするんだね」

 

「割れたら嫌なので」

 

「うん」

 

「……別に深い意味はないです」

 

「そういうことにしておくよ」

 

「その顔!」

 

 カイエンは土産の地酒を包んでいた。

 

 Xiがそれを見る。

 

「カイエンさん、けっこう買いましたね」

 

「悪いか」

 

「いえ。気に入ったんですね」

 

「……悪くなかった」

 

「褒め言葉の幅が狭い」

 

 そして、チェックアウト。

 

 フロントには、女将とスタッフが丁寧に立っていた。

 

「このたびはご宿泊いただき、誠にありがとうございました」

 

 ソープが穏やかに頭を下げる。

 

「こちらこそ、とても良い時間でした」

 

 ラクスも微笑む。

 

「大変お世話になりました」

 

 キラが続けた。

 

「不審な荷物の件でも、ご対応ありがとうございました」

 

 泉もきちんと頭を下げる。

 

「宿側のご対応は非常に丁寧でした。記録にもそう残します」

 

 Xiは一歩前へ出て、深々と頭を下げた。

 

「本当に、ご迷惑をおかけしました。宿の方には一切問題ありません。悪いのは外部から来た変な荷物です」

 

 ネウロが横から言う。

 

「そして、あのクソ親父か」

 

「そこは僕が言うところです!」

 

 女将は少し困ったように、それでも柔らかく笑った。

 

「賑やかなご旅行でございましたね」

 

 Xiは疲れた顔で答えた。

 

「はい。本当に」

 

 いよいよ会計である。

 

 今回の旅費は、ソープの地球温泉文化調査、警護、外注任務、そして諸々の必要経費という扱いで、AKD側にまとめて回すことになっていた。

 

 ログナーからは仮払いも預かっている。

 

 Xiは小さな袋を取り出した。

 

「では、お支払いはこれで……」

 

 そう言って、彼はフロントのカウンターに一枚の金貨を置いた。

 

 ジョーカー太陽星団のフェザーゴールド。

 

 その瞬間、場が止まった。

 

 重み。

 輝き。

 地球の通貨とは明らかに違う存在感。

 

 女将が固まる。

 

 スタッフも固まる。

 

 キラも固まる。

 

 そして、置いた本人であるXiも固まった。

 

「……」

 

 数秒後。

 

 Xiは真っ青になった。

 

「間違えました!!」

 

 慌てて金貨を回収する。

 

「すいません! 本当にすいません! うっかりした! これ地球で出すやつじゃない!」

 

 弥子が吹き出した。

 

「Xi、金貨で払おうとした!」

 

「笑わないで! 仮払い袋に入ってたから反射で!」

 

 キラも慌てて頭を下げる。

 

「すみません、本当にすみません!」

 

 ラクスは上品に微笑んでいたが、少しだけ肩が震えていた。

 

 カイエンは小さく鼻で笑った。

 

「やったな」

 

「カイエンさん、今笑いましたよね!?」

 

「笑ってねぇ」

 

「笑った!」

 

 その時だった。

 

 露伴の目が、完全に変わった。

 

「待て」

 

 Xiは、背筋に嫌なものが走った。

 

「待ちません」

 

「その金貨を、もう一度見せろ」

 

「嫌です」

 

 露伴は一歩前に出た。

 

 その顔は、完全に漫画家の顔だった。

 

「その金貨をくれ」

 

「嫌です」

 

「対価として、今回の宿代は僕が全額払う」

 

 一行が、一斉に固まった。

 

「えっ!?」

 

 キラが思わず声を上げる。

 

 Xiも叫んだ。

 

「いやいやいや! これ、ログナーさんから預かってる仮払いですから! 僕の私物じゃないですから!」

 

 露伴はまったく怯まない。

 

「地球の旅館代程度で、異星文明圏の金貨が手に入るなら安いものだ」

 

 泉が低い声を出した。

 

「先生?」

 

 露伴は当然のように言った。

 

「安心しろ。主に編集部と出版社で処理する」

 

「先生?!」

 

 泉の声が一段階高くなった。

 

「出版社の経費で異星金貨を購入しないでください!」

 

「取材資料だ」

 

「通りません」

 

「通せ」

 

「通しません!」

 

 Xiは金貨を握りしめたまま後ずさる。

 

「怖い! 露伴先生の資料欲、会計より怖い!」

 

 露伴はさらに詰め寄る。

 

「見ろ、この意匠、この重み、この明らかに地球の経済圏に属さない存在感。漫画資料として一級品だぞ!」

 

「だから渡せないんです!」

 

 ソープが穏やかに言った。

 

「露伴、それはログナーの預かりものだからね」

 

 露伴はソープを見る。

 

「なら、ログナー司令に交渉する」

 

 Xiが即座に叫ぶ。

 

「やめてください! 話が大きくなる!」

 

 承太郎が帽子のつばを下げた。

 

「露伴、諦めろ」

 

「君に言われると、余計に諦めたくなくなるな」

 

「やれやれだぜ」

 

 ネウロは実に楽しそうだった。

 

「漫画家の欲望が、会計を歪めたな」

 

「歪めないでください!」

 

 弥子は面白そうに見ていた。

 

「露伴先生、ほんとに払う気だったんだ」

 

 泉が即答する。

 

「払わせません」

 

「泉さん、強い」

 

「当然です。編集部に異星金貨代を請求されてたまるものですか」

 

 露伴は少し考え、妥協案を出した。

 

「では、スケッチだけでも」

 

 Xiは即答した。

 

「通行止めです」

 

「金貨にもか!」

 

「はい。資料化禁止です」

 

「せめて重さを」

 

「禁止です」

 

「意匠の記憶だけでも」

 

「それはもう見たでしょう!」

 

「見たが、精度が足りない」

 

「足りなくていいです!」

 

 キラが深く息を吐き、財布を取り出した。

 

「とりあえず、普通に支払いましょう。普通に」

 

 Xiは心底うなずいた。

 

「普通の支払い、ありがたい……」

 

 ラクスが微笑む。

 

「今回はAKDの経費として、後ほどきちんと精算いたしましょう」

 

 泉も落ち着きを取り戻し、会計内容を確認する。

 

「宿泊費、食事、カラオケ、追加軽食、諸費用。すべて通常の範囲内ですね」

 

 Xiが小声で言った。

 

「僕の歌唱業務は?」

 

「温泉宿の娯楽文化調査です」

 

「泉さんまで!」

 

 ソープは楽しそうに頷く。

 

「うん。文化調査だったね」

 

「ソープさんまで!」

 

 カイエンが言った。

 

「逃げ損ねたな」

 

「会計でもですか!」

 

 結局、支払いは地球の通貨で無事に済まされた。

 

 フェザーゴールドは厳重にXiの袋へ戻された。

 露伴はまだ未練がある顔をしていたが、泉がその前に立ちはだかっている。

 

「先生、帰りますよ」

 

「泉くん、君は資料価値というものを理解していない」

 

「理解しています。その上で止めています」

 

「なお悪い」

 

 女将は、少し驚きながらも、最後には柔らかく笑っていた。

 

「最後まで、賑やかでございましたね」

 

 Xiは疲れ切った顔で答える。

 

「はい。本当に……」

 

 弥子が元気よく手を振る。

 

「ご飯、すっごく美味しかったです!」

 

 カイエンも短く言った。

 

「世話になった」

 

 アウクソーが丁寧に一礼する。

 

「大変お世話になりました」

 

 ソープは、宿を振り返る。

 

「いい宿だったね」

 

 Xiも、少しだけ表情を和らげた。

 

「はい。危険物対応まで含めて、完璧でした」

 

 ネウロが笑う。

 

「何事もなかった、とは言いがたいがな」

 

 Xiは振り向いた。

 

「少なくとも宿には被害なし!」

 

 承太郎が言った。

 

「そこは大事だな」

 

「はい。今回かなり大事です」

 

 宿を出る前に、Xiはメモへこう書いた。

 

『チェックアウト完了。支払い時、誤ってフェザーゴールドを提示。即回収。露伴先生が宿代全額支払いと引き換えに金貨を要求。泉さん、全力阻止。金貨は保全。現地通貨にて支払い完了。宿側対応、最後まで良好』

 

 少し考えて、最後に追記する。

 

『普通の会計もありがたい』

 

 ソープがそれを見て、くすりと笑った。

 

「また“普通”だね」

 

 Xiは肩をすくめる。

 

「この旅行で、普通の価値を学びました」

 

 カイエンが歩き出す。

 

「帰るまでが旅行だ」

 

 Xiは苦笑した。

 

「そして日報を送るまでが外注業務、ですよね」

 

「わかってきたな」

 

「わかりたくなかったです」

 

 朝の空気の中、一行は旅館を後にした。

 

 長かった二泊三日。

 

 危険物検閲。

 河原稽古。

 温泉。

 会津の食事。

 観光。

 カラオケ。

 普通の軽食。

 そして、フェザーゴールド会計事故。

 

 怪盗Xiは、湯けむりから逃げられなかった。

 

 会計からも逃げられなかった。

 

 そしてたぶん、最後の日報からも逃げられない。

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