守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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怪盗Xiは湯けむりから逃げられない その20

 東山温泉の宿を出ると、朝の空気が少しだけ冷たかった。

 

 川の音。

 山の気配。

 名残惜しそうな湯けむり。

 

 二泊三日を過ごした旅館を振り返り、弥子がぽつりと言った。

 

「帰る前にもう一回、煮込みソースカツ丼食べたかった……」

 

 キラが即座に振り向く。

 

「一昨日三杯も食べたのに?!」

 

「一昨日は一昨日、今日は今日だよ!」

 

「その理論、三日間ずっと聞いてる気がする……」

 

 ネウロが満足げに笑った。

 

「桂木弥子の胃袋において、昨日の食事はすでに歴史だ。現在の空腹だけが真実として君臨する」

 

「言い方!」

 

 Xiが頭を抱える。

 

「弥子ちゃん、朝食バイキングでも複数巡回してたよね」

 

「朝は朝!」

 

「強いな、その区分」

 

 ラクスがくすりと微笑む。

 

「それだけ会津のお食事が美味しかったということですわね」

 

 弥子は大きく頷いた。

 

「うん! 煮込みソースカツ丼も、馬刺しも、牛しゃぶも、地鶏鍋も、お蕎麦も、朝食も、全部美味しかった!」

 

 泉が手帳を閉じながら言う。

 

「食事記録としては、非常に充実していますね」

 

「泉さん、それ旅行記じゃなくて弥子ちゃんの摂取記録ですよ」

 

「必要な記録です」

 

「必要なんだ……」

 

 一行は、名残惜しさと荷物の重さを抱えながら、帰路についた。

 

 弥子の土産袋は、出発時より明らかに軽くなっていた。

 

 Xiがそれに気づく。

 

「弥子ちゃん」

 

「なに?」

 

「食べ物のお土産、残ってる?」

 

「残ってるよ!」

 

「どれくらい?」

 

「えーと……帰り道用」

 

「帰宅後用は?」

 

「……帰り道用になった」

 

「予想通り!」

 

 ネウロが冷たく言う。

 

「土産とは、未来の自分への供物だ。この娘の場合、その未来が非常に近い」

 

「ネウロ、黙ってて!」

 

 キラは苦笑しながら、自分の小さな土産袋を確認していた。

 

「ラクス、荷物大丈夫?」

 

「ええ。キラこそ、無理なさらないで」

 

「大丈夫。今回は最後まで大きな事故もなかったし」

 

 Xiが横から言う。

 

「大きな事故はなかったですけど、小さい事故は多かったですよ」

 

「たとえば?」

 

「フェザーゴールド会計事故」

 

「あれは大きい寄りじゃないかな」

 

「確かに」

 

 露伴がその言葉に反応した。

 

「その金貨の話をするなら、もう一度見せてもらいたいところだな」

 

 Xiは即座に金貨の入った袋を抱え込む。

 

「通行止めです」

 

「まだ言っただけだ」

 

「言う前から止めたいくらいです」

 

 泉がすっと露伴の隣に立つ。

 

「先生、金貨の件は終了です」

 

「終了していない。僕の中ではまだ続いている」

 

「先生の中で続いていても、会計上は終了です」

 

「会計で芸術を止めるな」

 

「出版社経費で異星金貨を購入しようとした人が何を言っているんですか」

 

 承太郎が帽子のつばを下げる。

 

「やれやれだぜ」

 

 ソープはそのやり取りを楽しそうに見ていた。

 

「露伴、本当に気に入ったんだね」

 

「当然だ。あれほど資料価値のあるものは滅多にない」

 

 Xiは首を横に振る。

 

「駄目です。これはログナーさんからの仮払いです。僕が勝手に譲ったら、絶対に面倒なことになります」

 

 カイエンが低く言う。

 

「ログナーに知られたら、面倒では済まんぞ」

 

「でしょう!?」

 

 露伴は少しだけ考え、最後に言った。

 

「では、いつか正式に交渉する」

 

「しないでください!」

 

「するかもしれない」

 

「やめてください!」

 

 泉がきっぱり言った。

 

「その時は私も同席します」

 

「泉くん、君は僕の味方ではないのか」

 

「先生の社会的安全の味方です」

 

「厄介な味方だな」

 

 帰りの移動は、行きより少し静かだった。

 

 観光の疲れ。

 温泉の余韻。

 食事の満足感。

 カラオケの記憶。

 そして、最終日のチェックアウトまで無事に終えた安心感。

 

 ソープは窓の外を眺めていた。

 

「二泊三日って、短いようで、いろいろできるんだね」

 

 Xiは隣で答える。

 

「いろいろ詰め込みすぎた気もします」

 

「でも、楽しかった」

 

「……まあ」

 

 Xiは少しだけ視線を逸らした。

 

「悪くはなかったです」

 

 カイエンが鼻で笑う。

 

「素直じゃねぇな」

 

「カイエンさんに言われたくないです」

 

「何だと」

 

「なんでもないです」

 

 アウクソーが穏やかに微笑む。

 

「ソープ様の温泉文化調査としては、非常に有意義だったかと」

 

「うん。湯だけじゃなくて、食事も、足湯も、宿の人たちの対応も、観光も、全部含めて温泉旅行なんだね」

 

 ラクスが頷く。

 

「旅というのは、場所だけではなく、共に過ごす人によっても形が変わりますもの」

 

 キラが少し笑う。

 

「今回の形は、かなり賑やかだったね」

 

 Xiは即答する。

 

「賑やかの上限を超えてました」

 

 ネウロが笑う。

 

「貴様の胃に刻まれた旅だな」

 

「胃に刻まないでください」

 

 弥子が袋から最後の土産菓子を一つ取り出す。

 

「あ、これ最後の一個だ」

 

 Xiが目を見開いた。

 

「もう!?」

 

「帰り道用だから」

 

「帰り道がまだ終わってない!」

 

「だから今食べるんだよ」

 

「理屈としては間違ってないのが悔しい」

 

 弥子は嬉しそうに菓子を食べ、満足げに言った。

 

「会津、また来たいね!」

 

 その一言に、全員が少しだけ静かになった。

 

 ソープが頷く。

 

「うん。また来たいね」

 

 カイエンは短く言う。

 

「酒は悪くなかった」

 

 アウクソーが微笑む。

 

「マスター、お土産の地酒もございます」

 

「帰ってから飲む」

 

 Xiが釘を刺す。

 

「飲みすぎて次の日の稽古に支障が出ても知りませんよ」

 

「出ねぇ」

 

「今回、朝一回寝かせろって言いましたよね?」

 

「忘れた」

 

「忘れないで!」

 

 帰路の終盤、Xiは端末を取り出した。

 

 ソープがそれに気づく。

 

「日報?」

 

「はい。帰るまでが旅行、日報を書き終わるまでが業務ですから」

 

「偉いね」

 

「褒めると逃げ道が減るのでやめてください」

 

「でも偉いよ」

 

「……書きます」

 

 Xiは座席で端末を開き、最終日報を打ち始めた。

 

短期外注業務日報 三日目・最終報告

宛先:ログナー司令

報告者:怪盗Xi

 

一、三日目早朝

当初、朝稽古予定。

カイエンさんが二日酔い気味により「今日は寝かせろ」と発言。

一時、稽古中止かと思われたが、朝風呂後に短時間の訓練実施。

内容は真空斬り、ソニックブレードの基礎感覚。

汗をかかない程度。珍しく本当に軽め。

効果は不明。ただし、少し掴めた気はする。

 

二、朝風呂

ソープさんと二名で男湯。

露伴先生、ネウロさん不在。濃度低め。平和。

ソープさん、湯当たりなし。長湯なし。

静かな朝風呂は非常に良好。

 

三、朝食

バイキング形式。

料理安全。不審物なし。『6』表示なし。

乳酸菌飲料あり。一人一本に制限。

桂木弥子、複数巡回。本人は元気。危険物ではない。

弥子ちゃんの食欲については、もはや定型報告扱いでよいと思います。

 

四、チェックアウト準備

各部屋、忘れ物なし。

桂木弥子の食べ物系土産は出発前時点ですでに減少。帰路にてさらに減少。

僕は起き上がり小法師を無事保全。

カイエンさん、地酒土産を購入。

 

五、チェックアウトおよび会計

宿側対応、最後まで良好。

不審物対応、茶菓子隔離、各種確認についても丁寧に対応いただいた。

支払い時、誤ってフェザーゴールドを提示。即回収。

露伴先生が宿代全額支払いと引き換えに金貨を要求。泉さんが全力阻止。

金貨は保全。現地通貨にて支払い完了。

普通の会計もありがたい。

 

六、帰路

現時点で大きな問題なし。

露伴先生はまだ金貨に未練あり。継続警戒。

桂木弥子の土産菓子は帰宅前に全滅の可能性大。

キラさん、ラクスさん、承太郎さん、泉さん、アウクソーさん、ネウロさん、全員大きな問題なし。

ソープさん、体調良好。

 

総評:

二泊三日、任務完了見込み。

ソープさんの湯当たりなし。

シックス由来の危険物摂取なし。

旅館への被害なし。

露伴先生による金貨資料化は阻止。

カイエンさんの訓練は想定以上に厳しかったが、短期外注契約の範囲内……たぶん。

普通の食事、普通の温泉、普通の観光、普通の会計のありがたさを学んだ。

以上。

 

 Xiはそこまで打って、しばらく画面を見つめた。

 

「……“たぶん”って書いていいかな」

 

 カイエンが横から言う。

 

「消すな」

 

「そこは消させてください」

 

 ソープが笑う。

 

「そのままでいいと思うよ」

 

「二人して……」

 

 Xiは少し迷ったあと、そのまま送信した。

 

 送信完了。

 

 数十秒後、返信が来た。

 

 Xiは一瞬、肩を強張らせる。

 

「早い……」

 

 ログナーからだった。

 

報告を確認した。

短期外注任務、完了と判断する。

ソープの湯当たりなし、不審物摂取なし、宿への被害なし。良好。

フェザーゴールドの提示事故については、以後注意。

岸辺露伴への譲渡は認めない。

報酬は契約通り、三日分を支払う。

帰還後、必要に応じて口頭報告を求める。

ご苦労だった。

 

 Xiは画面を見つめた。

 

「……任務完了」

 

 小さく、そう呟いた。

 

 ソープが嬉しそうに言う。

 

「お疲れさま、Xi」

 

 Xiは少しだけ目を伏せる。

 

「はい。やっと終わりました」

 

 カイエンが言う。

 

「よくやった」

 

 Xiは驚いた顔でカイエンを見る。

 

「え」

 

「何だ」

 

「今、普通に褒めました?」

 

「事実だ」

 

「……ありがとうございます」

 

 少しだけ、素直な声だった。

 

 弥子が前の席から振り返る。

 

「Xi、お疲れ!」

 

 キラも笑う。

 

「本当にお疲れさま」

 

 ラクスが穏やかに言う。

 

「Xiさんのおかげで、安心して旅を楽しめましたわ」

 

 承太郎が短く言った。

 

「やれやれ、よく働いたな」

 

 泉も頷く。

 

「記録上も、業務遂行は良好です」

 

 露伴は腕を組んで言う。

 

「金貨を見せなかった点だけは不満だがね」

 

「そこは永遠に不満でいてください」

 

 ネウロが笑った。

 

「逃げる怪盗が、最後まで逃げ切れず、役目を果たしたわけだ」

 

「逃げ切れなかったんじゃなくて、やり切ったんです」

 

 Xiはそう言ってから、少しだけ自分で驚いた。

 

 やり切った。

 

 その言葉が、思ったよりしっくり来ていた。

 

 帰路の景色が流れていく。

 

 会津の山。

 温泉の記憶。

 湯気。

 川の音。

 飯盛山の静けさ。

 さざえ堂の二重らせん。

 高遠蕎麦の辛味。

 牛しゃぶ。

 馬刺し。

 地鶏鍋。

 普通のキノコ。

 普通のチーズ。

 普通のパイナップル。

 普通のチョコ菓子。

 普通のお茶。

 

 そして、起き上がり小法師。

 

 Xiは荷物の中の小さな包みに触れた。

 

 倒れても起きる。

 

 何度でも。

 

 ソープがそれに気づき、微笑む。

 

「また行こうね」

 

 Xiは一瞬だけ警戒した。

 

「それ、次回契約の話ですか?」

 

「まだ違うよ」

 

「まだ?」

 

「うん。まだ」

 

「言い方が怖い」

 

 カイエンが低く笑う。

 

「次はもっと動けるな」

 

「次を稽古基準にしないでください!」

 

 弥子が元気よく言う。

 

「次はまた煮込みソースカツ丼食べたい!」

 

 キラが即座に返す。

 

「三杯?」

 

「うーん、次は四杯いけるかも」

 

「増えた!」

 

 ラクスが楽しそうに笑い、承太郎が「やれやれだぜ」と呟き、露伴が「次回は金貨を」と言いかけて泉に止められ、ネウロがそれを面白そうに眺めていた。

 

 騒がしい。

 

 最後まで、本当に騒がしい。

 

 けれどXiは、もう前ほど嫌そうな顔をしていなかった。

 

「……悪くはなかったです」

 

 小さく言ったその声を、ソープは聞き逃さなかった。

 

「うん」

 

 それだけ返した。

 

 家に帰るまでが旅行。

 

 日報を書き終わるまでが業務。

 

 そのどちらも、ようやく終わろうとしている。

 

 怪盗Xiは湯けむりから逃げられなかった。

 河原の石からも、卓球台からも、マイクからも、会計からも逃げられなかった。

 

 それでも最後には、ちゃんと帰ってきた。

 

 契約は二泊三日。

 報酬はフェザーゴールド三枚。

 正式採用ではない。

 短期外注。

 

 ただし、得たものはそれだけではない。

 

 普通のものを、普通に楽しむこと。

 誰かと旅をすること。

 逃げずに戻ること。

 

 そして、倒れても起き上がる小さな人形。

 

 帰路の揺れの中で、Xiはようやく深く息を吐いた。

 

「……次は、もう少し普通の旅行でお願いします」

 

 全員が、一瞬だけ黙った。

 

 そして、ほぼ同時に笑った。

 

 Xiはその反応を見て、嫌な予感に顔をしかめる。

 

「今、誰も否定しませんでしたよね?」

 

 カイエンが言った。

 

「普通かどうかは、相手による」

 

 ネウロが笑った。

 

「魔界の普通なら――」

 

「禁止!」

 

 露伴が口を開く。

 

「漫画家の取材旅行としては――」

 

「通行止め!」

 

 弥子が手を上げる。

 

「普通に美味しいものいっぱい食べたい!」

 

「それはいいけど量!」

 

 ソープは、ただ楽しそうに笑っていた。

 

 温泉合宿は終わった。

 

 だが、どうやらこの一行の“普通”をめぐる旅は、まだ少し続きそうだった。

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