守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
いつものカフェテラス。
陽射しは柔らかく、風も穏やかだった。
テーブルの上には紅茶、珈琲、焼き菓子。
弥子の前には、すでに「お茶請け」という概念を軽く超えた量のサンドイッチとケーキが並んでいる。
「今日は、平和ですね」
キラが、少しだけ安心したように言った。
ラクスが微笑む。
「ええ。こうして皆さんで静かに過ごせる時間は、大切ですわ」
「静か……いい言葉だよね……」
弥子が、しみじみと呟く。
「おまえが食べている量は静かではないがな」
ネウロが言った。
「量に音はないでしょ!?」
「ある。皿の数がうるさい」
「皿に罪はない!」
承太郎は黙って珈琲を飲んでいる。
ソープは椅子に深く腰掛け、眠そうな顔で空を眺めていた。
露伴は、いつものようにスケッチブックを開いている。
そして怪盗Xiは、なぜかテーブルの端に置かれた黒い小箱を見つめていた。
「……」
その小箱には、銀色の六角形の紋章。
全員が、それを見てはいけないもののように見ていた。
弥子が、恐る恐る言う。
「また……ですか?」
Xiは、深くうなずいた。
「まただよ」
「差出人は?」
キラが訊く。
Xiは嫌そうな顔で答えた。
「ヘキサクス」
沈黙。
ラクスの微笑みが、わずかに硬くなった。
承太郎が、低く言う。
「シックスか」
「そう。悪意の定期便、今月号」
「雑誌みたいに言うな」
露伴が言う。
「雑誌ならまだいいよ! 毎号付録が危険物なんだよ!」
Xiは小箱を指差した。
「今回の宛名、見て」
小箱の上には、美しい筆跡で一言。
我が子へ。
弥子が、そっと目を逸らした。
「ああ……」
キラも困ったような顔をする。
「それは……嫌だね」
Xiは小箱を睨んだ。
「……クソ親父」
「言った!」
弥子が反応した。
「今、はっきり言いましたね!?」
「言うよ。言いたくもなるよ。勝手に作って、勝手に“我が子”扱いして、毎回送ってくるものが全部ろくでもないんだから」
露伴が興味を持ったように顔を上げる。
「具体的には?」
Xiは指を折り始めた。
「食べると前世と対話するキノコ」
弥子が固まる。
「一発目から強い」
「匂いで記憶が飛ぶチーズ」
「食品として駄目ですわね」
ラクスが静かに言った。
「辛さで銀歯が抜けるカレー」
キラが顔をしかめる。
「痛そう……」
「働く意味を忘れる栄養ドリンク」
承太郎が短く言う。
「危険だな」
「必要な角質まで流れる入浴剤」
弥子が自分の腕をさすった。
「肌が怖い!」
「口の粘膜が全部溶けるパイナップル」
「それはもう果物じゃなくて兵器です!」
「象のフンから採取したコーヒー豆」
露伴が少し反応する。
「それは実在の高級品に近いな」
Xiが即座に睨む。
「先生はそこに興味を持たない」
「初恋を忘れるチョコ」
ラクスが目を伏せる。
「悪趣味ですわね」
「顎が笑顔で固定されるガム」
弥子が自分の顎を押さえた。
「うわっ……」
「そして前回は、蚊の羽音が工事現場になる耳かき」
承太郎が帽子の庇を下げる。
「あれは処分した」
「ありがとう。あのオラオララッシュで世界は少し静かになった」
ネウロがくつくつと笑った。
「ククク……実に多彩だな。親子の情より毒性の幅が広い」
「うまいこと言わなくていい!」
Xiは黒い小箱を見下ろした。
「で、今回は何だと思う?」
弥子が嫌そうに言う。
「食べ物じゃないといいですね」
「食べ物じゃなくても危険なんだよ。目薬、耳かきと来たんだよ? 次は綿棒とか爪切りとかでも怖い」
「日用品がどんどん信用できなくなる……」
承太郎が小箱を見た。
「開けるか」
「素手では触らないで」
「ああ」
「スタープラチナで」
「わかっている」
承太郎の背後に、白金の像が静かに現れた。
スタープラチナの指先が、箱の蓋を器用に開ける。
中に入っていたのは――
「……歯ブラシ?」
弥子が言った。
黒檀のように艶のある柄。
銀色の六角形の刻印。
異様に細く、異様に整った毛先。
見た目だけなら、高級な工芸品のようですらある。
箱の内側にはカードが添えられていた。
スタープラチナがそれを取り出す。
Xiは嫌そうな顔で読み上げた。
我が子へ。
君はよく笑う。ある時は無邪気に、ある時は人を騙すために。
ならば、その笑みにふさわしい手入れも必要だろう。
我が一族自慢の工房で作らせた、至高の歯ブラシだ。慣れると癖になる。
一度使えば、歯垢、着色、歯石の兆しまで残さず削ぎ落とす。
ただし常人の場合、エナメル質も例外ではないがね。
笑顔とは、時に最も鋭い刃になる。
読み終えたXiは、無言でカードを伏せた。
弥子が叫ぶ。
「歯を守る道具で歯を削るな!!」
「まさにそれ」
Xiは歯ブラシを睨んだ。
「クソ親父、今度は歯を狙ってきた」
ネウロが楽しげに笑う。
「歯垢どころか防御層まで落とすとは、実に徹底している」
「褒めるな!」
露伴は歯ブラシをじっと見ていた。
「しかし、毛先の造りは興味深いな」
Xiがすぐ反応する。
「先生」
「何だ」
「近づかない」
「見るだけだ」
「見るだけで終わる人間は、そんな目をしない」
「僕を何だと思っている」
「好奇心で危険物に顔を近づける漫画家」
「失礼な」
承太郎が短く言う。
「事実だろう」
露伴が不満げに承太郎を見た。
その時だった。
ホリイさんが、少し困った顔でカフェテラスへやって来た。
「すみません、皆さん。もうひとつお荷物が……」
Xiの顔が引きつる。
「もうひとつ!?」
ホリイさんは、二つ目の黒い箱をテーブルに置いた。
「こちらは……ヒューア・フォン・ヒッター子爵様宛て、となっています」
その場の視線が、一斉にカイエンへ向いた。
カイエンは、紅茶のカップを置いた。
「俺宛てか」
アウクソーが、すっと身を乗り出す。
「マスター、お手を触れないでください」
「まだ触っていない」
「シックスからの品です」
「……なるほど」
カイエンは、それだけで納得した。
Xiが頷く。
「理解が早くて助かる」
アウクソーは、カイエンと箱の間に立つようにして、静かに言った。
「開封は危険です。確認する場合も、直接お手を触れない形でお願いします」
承太郎がスタープラチナを出す。
「こっちも開ける」
「助かります」
アウクソーが礼を言う。
二つ目の箱も、同じだった。
高級そうな歯ブラシ。
銀色の六角形。
そしてカード。
アウクソーがカードを手に取り、読み上げる。
ヒューア・フォン・ヒッター子爵へ。
剣聖と呼ばれ、数多の者を惹きつける君ならば、
刃だけでなく、笑みの輝きにも気を配るべきだろう。
我が一族自慢の工房で作らせた、至高の歯ブラシだ。慣れると癖になる。
一度使えば、歯垢、着色、歯石の兆しまで残さず削ぎ落とす。
ただし常人の場合、エナメル質も例外ではないがね。
君の白い歯が、より多くの者を惑わせることを期待している。
沈黙。
カイエンは、微妙な顔をした。
「……俺を何だと思っている」
Xiが即答した。
「モテモテの色男?」
カイエンが無言でXiを見る。
Xiは両手を上げた。
「言ったのは僕じゃなくて、だいたいシックスの文面」
弥子が小声で言う。
「芸能人は歯が命、みたいな……」
カイエンがさらに嫌そうな顔をする。
「俺は芸能人ではない」
露伴がペンを走らせながら言った。
「だが、被写体としての華はあるな」
「露伴先生、そこで乗らない」
Xiがすぐ止める。
アウクソーは、歯ブラシを冷静に見つめていた。
「マスター。この品は使用不可です」
「使うつもりはない」
「念のため申し上げます。絶対に使用不可です」
「二度言うほどか」
「はい。マスターの歯に万一のことがあっては困ります」
カイエンが少しだけ言葉に詰まる。
「……俺の歯がそんなに大事か」
アウクソーは真顔で答えた。
「はい。マスターの健康管理は、私の責務です」
弥子が小声で呟く。
「いい話っぽいのに、対象がシックス製歯ブラシ……」
キラが苦笑する。
「そこが困るね」
カイエンは、二本の歯ブラシを見下ろした。
「なら、使えなくすればいい」
Xiが目を輝かせる。
「お願いしていい?」
「いい」
アウクソーが、わずかに頭を下げる。
「マスター、お願いします」
「これくらいで畏まるな」
カイエンは一歩前に出た。
その動きは、あまりにも自然だった。
構えたようには見えない。
剣を抜いたようにも見えない。
ただ、ほんの少し指先が動いた。
次の瞬間。
二本の歯ブラシが、空中で静止した。
そして一拍遅れて――崩れた。
柄。
ヘッド。
毛束。
芯材。
銀色の六角形の刻印。
それらが、砂のように細かく裂かれ、音もなく皿の上へ落ちていく。
弥子が目を丸くした。
「……え?」
キラも息を呑む。
「今の……」
承太郎が、わずかに目を細めた。
ネウロは、実に楽しそうに笑う。
「ククク……天技か」
「天技!?」
弥子が叫ぶ。
「歯ブラシ二本に!?」
カイエンは淡々と答える。
「危険物だろう」
Xiは深く頷いた。
「シックス製だからね。正しい」
「歯ブラシを?」
「歯ブラシを」
「剣聖の天技で?」
「剣聖の天技で」
弥子は頭を抱えた。
「危険物処分の基準がおかしい!」
ラクスが穏やかに微笑む。
「ですが、これでどなたも使えませんわ」
アウクソーは粉砕された歯ブラシを確認し、静かに頷いた。
「使用不能です。マスター、ありがとうございます」
カイエンは肩をすくめる。
「歯ブラシを斬っただけだ」
「マスターの歯を守りました」
「……そうか」
その時だった。
露伴が、ものすごい勢いでスケッチブックを開いた。
「今のをもう一度やってくれ」
全員が固まった。
Xiが、ゆっくりと露伴を見る。
「先生」
「何だ」
「今の流れで、その反応になる?」
「当然だろう!」
露伴の目は完全に輝いていた。
「見えなかった。今の動きは見えなかったんだぞ。だが結果だけが残った。対象が分解されるまでの過程が、視覚情報として欠落している。これほど興味深い現象があるか?」
「対象は歯ブラシですよ!?」
「対象は問題ではない。技だ。技術だ。身体運用だ。人間の限界を超えた動作だ!」
カイエンが、露骨に嫌そうな顔をした。
「面倒な奴に見られたな」
Xiが遠い目をする。
「いつものことだよ」
露伴はカイエンに詰め寄ろうとした。
「剣聖ダグラス・カイエン。いや、ヒューア・フォン・ヒッター子爵。今の技について取材したい」
「断る」
「まだ内容を言っていない」
「聞く前から断る」
「なぜだ」
「面倒だからだ」
「歯ブラシを斬るために天技を使った男が、取材を面倒がるのか?」
「歯ブラシは黙っていた」
Xiが吹き出した。
「カイエン、それすごく正しい」
露伴はなおも食い下がる。
「一度でいい。もう一度、今の動きを見せてくれ。歯ブラシでなくてもいい。割り箸でもいい」
「断る」
「小石でもいい」
「断る」
「なら、僕のペン先を――」
アウクソーが、静かに一歩前へ出た。
「お断りします」
露伴はアウクソーを見る。
「僕は危害を加えるつもりはない」
「存じています。ですが、好奇心は時に危害と同じです」
Xiが小さく拍手した。
「アウクソー、今の名言」
カイエンも少しだけ笑った。
「助かる」
アウクソーは淡々と頭を下げる。
「マスターをお守りするのが、私の務めです」
弥子は、粉になった歯ブラシを見ながら言った。
「結局、エナメル質は守られましたけど、カイエンさんの平穏が削られましたね」
ラクスが口元に手を添える。
「今回は、歯ではなく日常の表層が磨耗したようですわね」
ネウロが愉快そうに笑う。
「歯垢の代わりに、平穏を削ぎ落としたか」
Xiが顔を覆った。
「うまいこと言わないで……」
承太郎は珈琲を飲みながら、短く言った。
「やれやれだぜ」
Xiは、粉砕された歯ブラシの残骸を慎重に密閉袋へ入れた。
「とにかく、これで歯ブラシとしては使えない。粉を吸ったらどうなるか分からないから、密閉。絶対に開けない」
弥子が不安そうに訊く。
「粉になっても危険なんですか?」
Xiは真顔で答えた。
「シックス製だからね」
全員が納得した。
露伴だけは、まだ不満そうだった。
「せめて粉砕前の形だけでも描いておけばよかった」
Xiは即座に言う。
「駄目です」
「なぜだ」
「先生が再現しようとするから」
「僕を何だと思っている」
「危険物を文化資料に変換する漫画家」
「否定しきれないな」
キラが思わず笑った。
ソープは、にこにこと皆を見ていた。
「でも、よかったね。誰も使わなかった」
「本当にね」
Xiは深々と椅子に座り直した。
「歯ブラシで人生を削られたくない」
カイエンは紅茶を手に取りながら言った。
「まったくだ」
アウクソーがすぐに言う。
「マスター、後ほど通常の歯ブラシをご用意いたします」
カイエンが少し眉を上げる。
「そこまでしなくてもいい」
「いいえ。安全なものを」
「……わかった」
弥子がにやにやする。
「大事にされてますね、カイエンさん」
カイエンは視線を逸らした。
「健康管理だろう」
アウクソーは真顔で頷く。
「はい。健康管理です」
Xiがぼそっと言う。
「歯が命だしね」
カイエンが睨む。
「Xi」
「ごめん」
だが、カフェテラスには小さな笑いが広がった。
今回もまた、シックスの差し入れは未使用のまま処分された。
歯のエナメル質は守られた。
カイエンの平穏は少し削られた。
露伴の取材欲は、またひとつ危険な方向へ研ぎ澄まされた。
そしてXiは、密閉袋に入れた残骸を見ながら、深くため息をついた。
「クソ親父……次はもう少し普通のものを送ってこいよ」
ネウロがすかさず言った。
「普通の歯ブラシが届いたら?」
Xiは一瞬考えた。
「……それはそれで罠だね」
承太郎が低く呟く。
「だろうな」
露伴はスケッチブックを閉じながら言った。
「しかし、天技は惜しいな。実に惜しい」
カイエンは、露伴を見ずに答えた。
「見せん」
「一度だけ」
「見せん」
「歯ブラシなしでいい」
「見せん」
アウクソーが静かに付け加えた。
「お見せしません」
Xiは紅茶を口に運び、ようやく少しだけ笑った。
「歯ブラシは信用しない。シックス製ならなおさら」
そして、少し間を置いて付け加える。
「でも、普通の歯磨きはちゃんとしよう」
弥子が大きく頷いた。
「そこは大事ですね!」
カフェテラスに、ようやく平和が戻った。
少なくとも、次の黒い小箱が届くまでは。