守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
いつものカフェテラス。
屋外である。
風通しは良い。
陽射しも穏やか。
テーブルの間隔もほどよい。
万が一、何かの匂いが発生しても、少なくとも室内にこもることはない。
……はずだった。
「いや、そういう問題じゃないよね」
怪盗Xiは、テーブルの中央に置かれた黒い小箱を前に、深く深くため息をついた。
小箱には、銀色の六角形の紋章。
もはや見慣れたくもない、最悪の印だった。
弥子が、サンドイッチを持ったまま固まっている。
「また……ですか?」
「まただよ」
Xiは力なく答えた。
「しかも今回は、箱の形が細長い。瓶っぽい。液体っぽい。つまり割れたら終わり」
キラが苦い顔をする。
「開ける前から終わりって言うのもすごいね」
「シックス製品は、開ける前が一番安全なんだよ。開けた瞬間から世界が不利になる」
承太郎は黙って珈琲を置いた。
「差出人は」
「ヘキサクス」
「シックスか」
「クソ親父だよ」
Xiは小箱の上に置かれたカードを指差した。
そこには、美しい筆跡でこう書かれている。
我が子へ。
弥子が、またしても「ああ……」という顔をした。
「今回も我が子シリーズ……」
「やめて。シリーズ名みたいに言わないで」
露伴は、すでにスケッチブックを開いている。
「だが、今回は何だ? 前回は歯ブラシ、その前は耳かき、その前は目薬だったか」
「先生、楽しそうに振り返らないでください」
「創作資料としては興味深いだろう」
「被害者側からすると、資料じゃなくて災害記録なんだよ!」
ネウロはくつくつと笑った。
「ククク……悪意の定期便か。人間界にもなかなか趣のある風習がある」
「風習じゃない!」
Xiは黒い小箱を睨む。
「でも中身の確認は必要だ。放置して勝手に揮発されたら困る」
「揮発?」
弥子が嫌そうに身を引いた。
「え、今回、匂い系ですか?」
「箱の形と重さからして、たぶん瓶。瓶でシックス製なら、毒か香水か薬品か、全部嫌」
ラクスが静かに言う。
「どれであっても、開封には注意が必要ですわね」
「はい。だから絶対に誰も素手で触らない」
Xiは一同を見回した。
「露伴先生は特に触らない」
「なぜ僕だけ名指しなんだ」
「前科が多いからです」
「僕は好奇心が強いだけだ」
「危険物の前では、それを前科って言うんですよ」
承太郎が短く言った。
「スタープラチナで開ける」
「お願い」
白金の像が静かに現れた。
スタープラチナの指先が、黒い小箱のリボンをほどき、蓋を慎重に持ち上げる。
中に入っていたのは、小さな香水瓶だった。
黒いガラス。
銀色のキャップ。
六角形のラベル。
瓶には、流麗な文字でこう記されていた。
SOLITUDE FRAGRANCE
孤独の芳香
弥子が、即座に顔をしかめた。
「名前がもう嫌!」
「同感」
Xiは瓶から目を離さない。
「開けてないのに、心が少し疲れた」
箱の底にはカードが入っていた。
スタープラチナがそれを取り出し、テーブルの上に置く。
Xiは嫌そうに読み上げた。
「『我が子へ。
君は姿を変え、声を変え、他人の記憶にまで入り込む。
ならば、存在そのものを薄める香りにも興味があるだろう。
我が一族自慢の調香師に精製させた、至高の香水だ。慣れると癖になる。
常人がこれを纏えば、存在感は絹のように薄れ、誰にも気づかれぬ静寂を得られる。
ただし、自動ドア、監視カメラ、センサー、受付端末にまで無視され、
社会から消えたような孤独を味わうことになるがね。
孤独は、君によく似合う。』」
読み終えた瞬間、Xiはカードを伏せた。
「クソ親父……香水より手紙の方が毒性高いんだよ」
弥子がうんうんと頷く。
「最後の一文、最悪ですね」
キラも眉を寄せた。
「嫌な送り方だね」
ラクスの表情は穏やかだったが、目は笑っていなかった。
「人の孤独を装飾品のように扱うのは、悪趣味ですわ」
「ほんとそれ」
Xiは瓶を睨んだ。
「しかも怪盗に“存在感を薄める香水”って、明らかに便利そうに見せてる罠なんだよ」
露伴が少し身を乗り出した。
「実際、便利ではあるな」
「ほら来た!」
Xiが即座に叫ぶ。
「先生、今“取材に使える”って思いましたね!?」
「否定はしない」
「否定して!」
「相手に気づかれず観察できるなら、漫画家としては有用だ」
「自動ドアにすら無視されるんですよ!? 取材先の建物に入れないかもしれないんですよ!?」
「それは困るな」
「そこで初めて困るんだ……」
弥子が呆れた。
ネウロは香水瓶を眺め、愉快そうに目を細めた。
「ほう……我が輩の魔界777ツ能力(どうぐ)、
無気力な幻灯機”イビルブラインド”に近いな」
弥子がすぐさまツッコむ。
「便利そうに言わないで」
「便利ではある。侵入、逃走、観察、撹乱、嫌がらせ。応用範囲は広い」
「最後が一番ネウロっぽい!」
「だが、これは粗い」
ネウロは笑った。
「存在感を薄めるだけなら良い。だが、機械にまで無視されるとなると、人間社会では致命的だ。自動ドアの前で立ち尽くす怪盗。実に滑稽ではないか」
Xiは真顔で言った。
「絶対嫌だよ。コンビニに入れない怪盗なんて、怪盗として以前に生活者として負けてる」
弥子が深刻そうに頷く。
「コンビニに入れないのは困りますね」
「そこ?」
「ご飯が買えません」
「弥子ちゃんはブレないね」
承太郎が瓶を見た。
「割るな。漏れる」
「そう。そこが問題」
Xiは腕を組んだ。
「耳かきや歯ブラシなら粉砕できた。目薬はログナー司令にインフェルノナパームで処分してもらった。でも香水は駄目。割ったら匂いが広がる。燃やしても揮発しそう。排水も論外」
キラが言う。
「密閉して保管?」
「保管したら、いつか誰かが開ける」
全員の視線が、ちらりと露伴へ向いた。
露伴が不満そうに言う。
「僕を見るな」
「見られる理由があるんですよ」
「僕は勝手に開けたりしない」
「“資料として”なら?」
露伴は少し黙った。
「……可能性はある」
「ほら!!」
弥子が思わず笑った。
「正直すぎる!」
ソープは、瓶をじっと見つめていた。
「これは、姿を隠す香りじゃないね」
皆がソープを見る。
ソープは静かに続けた。
「世界から返事をもらえなくなる香りだ。呼んでも、開かない。立っても、映らない。そこにいるのに、いないものとして扱われる。……それは、少し寂しいね」
空気が少しだけ静かになる。
Xiは、目を伏せた。
「……だから嫌なんだよ」
そしてすぐに顔を上げた。
「というわけで、開封禁止。触るのも禁止。嗅ぐのも禁止。露伴先生が近づくのも禁止」
「最後だけ余計だ」
「必要です」
その時だった。
テーブルの端に置かれていた通信端末が鳴った。
Xiが画面を見る。
「……ログナー司令だ」
カイエンが少し眉を上げる。
「またか」
「まただよ」
Xiは通信を繋いだ。
画面に現れたログナー司令は、いつも通り表情が動かない。
『状況は聞いた。』
Xiは目を細めた。
「早いね」
『シックス製品が届いた時点で報告系統に乗るようにしてある。』
弥子が小声で言った。
「危機管理が本格的……」
ログナーは、画面越しに香水瓶を見た。
『開封するな。』
Xiは頷く。
「もちろん」
『焼却もするな。』
「えっ。インフェルノナパームじゃ駄目?」
『香水だ。熱で拡散する可能性がある。』
「たしかに」
『破砕も不可。水処理も不可。保管も推奨しない。』
「じゃあどうするの?」
ログナーは、少しも迷わず言った。
『バッハトマへ送る。』
沈黙。
長い沈黙。
弥子が、ぽつりと呟いた。
「ボスやん……」
ログナーが即座に言った。
『愛称で呼ぶな。』
弥子はびくっとした。
「す、すみません!」
Xiは画面に詰め寄った。
「いや、待って。処分じゃないの?」
『処分だ。』
「それは処分じゃなくて配送だよ!」
『敵勢力への無力化工作だ。』
「言い方が軍事的すぎる!」
ログナーは平然としている。
『ボスヤスフォートなら耐えるかもしれん。』
ネウロが楽しげに笑った。
「耐えなければ?」
『それも情報だ。』
弥子が震えた。
「怖っ!」
キラが困ったように言う。
「それ、かなり非道では……」
ログナーは短く答える。
『敵だ。』
承太郎が珈琲を飲みながら呟く。
「やれやれだぜ」
露伴は興味深そうに言った。
「存在感の薄いボスヤスフォートか。少し見たいな」
Xiが即座に叫ぶ。
「先生は見たがらないで!」
ラクスが苦笑する。
「ですが、封を開けなければ、香水としては使われませんわね」
「そう。問題は、ボスヤスフォートが開けるかどうかだよ」
ログナーは淡々と言う。
『添え状には、開封は自己責任と記す。』
Xiは頭を抱えた。
「それ、罠だってバレるんじゃない?」
『それで開けるなら自己責任だ。』
「理屈が強い」
数時間後。
香水瓶は、ログナー司令のもとへ届けられた。
厳重な密閉容器に入れられ、さらに緩衝材で固定されている。
もちろん、誰も開封していない。
ログナーはその箱を見下ろした。
そして、なぜか包装紙を用意させた。
黒ではない。
上品な深紫の包装紙。
銀の紐。
あまりにも丁寧なラッピング。
Xiは通信越しに見ていて、思わず声を上げた。
「なんでラッピングしてるの!?」
ログナーは淡々と答えた。
「贈答品だからな」
「危険物だよ!」
「だからこそ、失礼のないように送る」
弥子が、ぽつりと呟いた。
「礼儀正しい非道だ……」
ログナーは筆を取り、添え状を書いた。
『バッハトマ魔法帝国
ボスヤスフォート殿
貴殿に相応しい香りと思い、送付する。
開封は自己責任で願う。
AKD総司令 F.U.ログナー』
Xiが震えた声で言う。
「短い。怖い。しかも完全に責任を切ってる」
ネウロが笑う。
「ククク……実に良い。人間の礼節と悪意が同じ包装紙に包まれている」
「褒めるな!」
アウクソーが静かに言った。
「ログナー司令、輸送中の漏洩対策は」
「三重封印にする」
「よろしいかと」
Xiが振り返る。
「アウクソーまで納得してる!?」
「万一、こちら側で漏洩するよりは安全です」
「それはそうだけど!」
カイエンが小さく笑った。
「バッハトマも災難だな」
Xiは目を細める。
「カイエン、ちょっと楽しんでない?」
「気のせいだ」
「絶対ちょっと楽しんでる」
発送準備は粛々と進んだ。
ラベルには、しっかりと宛名が書かれる。
バッハトマ魔法帝国
ボスヤスフォート殿
弥子がまた小声で言った。
「ボスやん、開けちゃうんですかね……」
ログナーが通信越しに言う。
「愛称で呼ぶな」
「すみません!」
Xiは、封印された箱が運び出されていくのを見送りながら、深く息を吐いた。
「……今回、誰も使わなかった。誰も嗅がなかった。誰も自動ドアに無視されなかった」
キラが頷く。
「よかったね」
「よかった……のかな」
弥子が不安そうに言う。
「でも、これってボスヤスフォートさんに送られたんですよね?」
ネウロが笑う。
「バッハトマの扉が開かなくなるかもしれんな」
露伴がペンを走らせる。
「自動ドアに無視されるボスヤスフォート……絵になるな」
Xiがすかさず言う。
「先生、描かないで!」
「想像するだけだ」
「想像も危ない!」
ラクスは紅茶を口に運び、静かに言った。
「香水とは本来、誰かに気づいてもらうためのものでもありますのに」
ソープが頷く。
「これは、気づかれなくなる香りだね」
承太郎が短く言った。
「迷惑な香水だ」
Xiは心底疲れた顔で椅子に沈んだ。
「クソ親父……もう何も送ってくるな」
弥子が強く頷く。
「それが一番ですね」
「普通のものでも駄目。普通って書いてあるものほど駄目。シックスの普通は、人類基準の異常だから」
ネウロが楽しげに目を細める。
「次は普通のハンカチかもしれんぞ」
Xiが顔を上げた。
「やめて」
「汗だけでなく記憶も拭き取るハンカチ」
「やめて!」
「あるいは普通の靴下」
「絶対普通じゃない!」
「履くと足音が一切しなくなる代わりに、靴擦れで人格が削れる」
弥子が叫ぶ。
「人格は削れないでしょ!?」
露伴が真面目な顔で言う。
「いや、比喩としては面白い」
Xiは両手で顔を覆った。
「もう日用品が全部怖い……」
その時、店員さんがカフェテラスにやって来た。
「皆さん、追加のご注文はありますか?」
Xiはびくっと顔を上げた。
「追加の荷物じゃないよね!?」
店員さんは目を瞬かせる。
「ご注文です」
「ああ……よかった……」
「本日のおすすめは、フルーツの香りのアイスティーです」
Xiは固まった。
弥子が吹き出す。
「香り!」
キラも思わず笑った。
ラクスも口元を押さえる。
承太郎は帽子の庇を下げた。
「やれやれだぜ」
Xiはしばらく考えたあと、真顔で言った。
「普通の珈琲で」
店員さんが頷く。
「かしこまりました」
露伴がにやりと笑う。
「香りを避けたな」
「避けるよ! 今日くらいは避ける!」
ネウロが愉快そうに笑った。
「ククク……怪盗Xi。香水ひとつでここまで警戒するとはな」
Xiは紅茶を見つめながら言った。
「シックス製じゃない香りは信用する」
そして少し間を置き、付け加えた。
「たぶん」
カフェテラスに、笑い声が戻った。
香水瓶はもうここにはない。
誰も使っていない。
誰も消えていない。
誰も自動ドアに無視されていない。
ただ、遠く離れたどこかで、丁寧にラッピングされた小箱が、バッハトマへ向かっている。
それが開けられるかどうかは、まだ誰も知らない。
ただ一つ言えることがある。
ログナー司令は、最後まで真顔だった。