守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
「脂の乗ったお刺身と、至高のワサビ……」
桂木弥子は、うっとりした顔でそう呟いた。
「言い換えるとその通りなんだけど!」
キラ・ヤマトは思わず声を上げた。
いつものカフェテラス。
陽射しは柔らかく、風は穏やか。
テーブルには紅茶、珈琲、サンドイッチ、ケーキ。
そして弥子の前には、なぜか追加で頼まれた軽食が数皿。
一見すると、いつもの平和な午後だった。
ただし、テーブル中央に置かれた黒い包みを除けば。
銀色の六角形の紋章。
差出人はヘキサクス。
宛名は、怪盗Xi。
そして、同じ包みがもう一つ。
宛名は、桂木弥子。
Xiは、弥子の発言を聞いた瞬間、椅子から半分立ち上がっていた。
「弥子ちゃん、戻ってきて!」
「いや、でも……わさびって、ちゃんとしたやつは本当に香りが違うって言うじゃないですか」
「それは普通のわさびの話!」
Xiは黒い包みを指差した。
「これはシックス製!」
弥子は、そこで少しだけ現実に戻った。
「あっ」
「あっ、じゃないよ! その一瞬の食欲の揺らぎが危ないんだよ!」
ネウロは、隣で愉快そうに笑っている。
「ククク……弥子。食欲に支配されるな」
「ネウロにだけは言われたくない!!」
露伴はスケッチブックを開きながら、黒い包みを観察していた。
「しかし、今度はわさびか。食品に戻ったわけだな」
「戻らなくていいんですよ」
Xiは疲れた顔で言った。
「目薬、耳かき、歯ブラシ、香水と来て、ようやく食品系に戻ったと思ったら、よりによってわさびだよ」
承太郎が珈琲を置いた。
「刺身が駄目なんだったか」
Xiの肩がびくりと揺れた。
「その話、今する?」
弥子が首を傾げる。
「そういえば、Xiさんってお刺身とかお寿司が苦手なんでしたっけ?」
「苦手っていうか、トラウマ」
Xiは遠い目をした。
「シックス一族自慢の港で水揚げされた、慣れると癖になる至高の刺身……」
一同が黙る。
Xiは続けた。
「正体は、バラムツ」
ラクスが静かに目を伏せた。
「それは……」
キラも困ったような顔をした。
「大変だったんだね」
「大変だったよ。詳細は言わない。言いたくない。思い出したくない」
ネウロが、にやりと笑う。
「脂の記憶が胃腸から蘇るわけか」
「蘇らせないで!!」
弥子は少し考え込んだ。
「でも、脂の乗ったお刺身って表現だけなら美味しそうなんですよね」
「だから言い換えが危ないんだって!」
キラが再びツッコむ。
「それは“危険物”を“高級食材”っぽく言い換えてるだけだから!」
ネウロが弥子を見た。
「もっとも、貴様の胃腸なら、バラムツ程度は受け入れたかもしれんがな」
Xiが即座に叫んだ。
「試そうとするな!!」
弥子も慌てて手を振る。
「いやいやいや! 私もそこまで胃腸に自信は……ありますけど!」
「あるんだ!?」
キラが目を丸くした。
「でも、そういう方向では試したくないです!」
「そこは正しい」
承太郎が短く言った。
Xiは黒い包みを睨んだ。
「とにかく、今回のわさびも絶対に使わない。刺身にも蕎麦にも茶漬けにも肉にも何にもつけない」
弥子の肩が少し落ちる。
「肉にも合うんですよね……」
「そこに反応しない!」
「すみません!」
承太郎が、静かにスタープラチナを出した。
「開けるぞ」
Xiが頷く。
「お願い。素手禁止。近距離で嗅がない。粉末だったら風下に行かない。露伴先生は近づかない」
露伴が不満そうに言う。
「なぜ僕だけ毎回名指しなんだ」
「毎回、危険物を資料にしようとするからです」
「今回はわさびだぞ」
「わさびでもシックス製なら資料にしないでください」
スタープラチナが、Xi宛ての包みを器用に開けた。
中から出てきたのは、小さな木箱。
さらにその中には、氷のように澄んだ緑色のわさびが、密封容器に収められていた。
見た目だけなら、確かに美しい。
鮮烈な緑。
しっとりとした質感。
明らかに高級品めいた雰囲気。
だが、ラベルには銀色の六角形。
HEXA WASABI
Xiは顔をしかめた。
「名前だけで嫌だ」
箱の中にはカードが入っていた。
Xiは、嫌そうにそれを読み上げる。
「『我が子へ。
君は寿司も刺身も信用しないと言っていたな。
ならば、まずは添え物から慣れていくのもよいだろう。
我が一族自慢の深い峡谷で、氷のように冷たい湧き水によって育てさせた、
至高のわさびだ。慣れると癖になる。
清冽な辛味は鼻腔を駆け抜け、食材の旨味を鮮烈に引き立てる。
ただし常人の場合、以後三日ほど、
くしゃみをするたびに大型犬の遠吠えのような爆音が響き渡るがね。
静かな夜には、よく通る声となるだろう。』」
Xiはカードを伏せた。
「クソ親父……犬にするな」
弥子は口元を押さえていた。
「すみません、最後ちょっと想像しちゃいました」
「しないで!」
「くしゃみのたびに、ワオーンって」
「しないで!!」
キラが苦笑する。
「三日間それは、かなり困るね」
ラクスが静かに言った。
「劇場や図書館には行けませんわね」
「会議も無理」
承太郎が言う。
「電車も厳しい」
ソープが眠そうな顔で付け加える。
「夜中にくしゃみしたら、近所の犬も返事しそうだね」
弥子が耐えきれず吹き出した。
「遠吠えの連鎖!」
Xiは頭を抱えた。
「笑いごとじゃないよ! くしゃみ一回で地域の犬ネットワークを起動するんだよ!」
「犬ネットワークって何ですか」
「僕にもわからない!」
続いて、弥子宛ての包みが開けられた。
中身は同じ。
小さな木箱。
密封容器入りのわさび。
そしてカード。
弥子は恐る恐る読み上げた。
「『桂木弥子君へ。
君はよく食べる。実に結構なことだ。
食材を味わう者ならば、薬味の価値もまた知るべきだろう。
我が一族自慢の深い峡谷で、氷のように冷たい湧き水によって育てさせた、
至高のわさびだ。慣れると癖になる。
刺身、蕎麦、茶漬け、肉料理。いずれにも合う。
ただし常人の場合、以後三日ほど、
くしゃみのたびに大型犬の遠吠えのような爆音が出るがね。
食事は、賑やかな方がよいだろう?』」
弥子は、カードを握りしめた。
「賑やかの方向性が違う!!」
ネウロは喉の奥で笑う。
「良かったな弥子。食事中の音響効果が増えるぞ」
「いらない! そんな演出いらない!」
露伴は真面目な顔で言った。
「しかし、くしゃみが大型犬の遠吠えになるというのは、漫画表現としては面白いな」
Xiが即座に反応する。
「先生、描かないで」
「まだ描くとは言っていない」
「その目は描く目なんですよ」
承太郎がわさびの容器を見た。
「燃やすか」
Xiは首を振る。
「わさびを燃やした煙とか、絶対嫌な予感しかしない」
キラが言う。
「捨てるのは?」
「ゴミ収集の人に被害が出たら困る」
弥子が言う。
「水で流すのは?」
「下水道から遠吠えが響いたら嫌すぎる」
「下水道が遠吠え……」
弥子が想像してしまい、肩を震わせた。
ラクスが困ったように微笑む。
「処分が難しいですわね」
露伴が少し身を乗り出した。
「なら、少量を――」
「先生は黙って!!」
Xiと弥子が同時に叫んだ。
ネウロが、そこでゆっくりと手を伸ばした。
「仕方あるまい」
弥子が警戒する。
「何する気?」
「我が輩が預かってやる」
沈黙。
Xiが目を細めた。
「預かる?」
「そうだ」
「処分じゃなくて?」
「保管だ」
弥子が叫ぶ。
「絶対悪用するやつ!!」
ネウロは平然としていた。
「安心しろ。人間の食卓には出さん」
「その言い方だと、別の場所では出すみたいじゃん!」
「必要ならばな」
Xiが天を仰いだ。
「ほら悪用宣言!」
ネウロはどこからともなく、黒い小瓶とも箱ともつかない奇妙な容器を取り出した。
表面には、見ていると少し目が疲れる模様が走っている。
蓋なのか口なのか分からない部分が、ぬるりと開いた。
弥子が後ずさる。
「何それ」
「魔界の保存容器だ」
「保存容器って、もっとタッパーみたいなやつじゃないんですか!?」
「魔界にもタッパーはある。これは危険香辛料用だ」
「魔界にも危険香辛料あるの!?」
「当然だ。食した者の舌が三日ほど独立して喋り続ける胡椒や、嗅ぐだけで過去の失言を思い出す山椒などがある」
「聞きたくなかった!!」
ネウロは、スタープラチナに容器を持たせたまま、わさびの密封容器を二つ、その魔界容器の中へ滑り込ませた。
容器は、ぱくりと閉じた。
弥子が不安そうに覗き込む。
「それ、本当に漏れない?」
「漏れん。漏れたら魔界が三日ほど遠吠えに包まれる」
「それはそれで怖い!」
Xiはネウロを疑いの目で見た。
「本当に使わない?」
ネウロはにやりと笑った。
「今はな」
「今はって言った!」
弥子が指差す。
「今はって言ったよ!」
ネウロは楽しげに続けた。
「改良の余地はある」
「改良!?」
Xiが叫ぶ。
「危険物を改良しないで!」
「対象が嘘をつくたびに、鼻腔へ辛味を走らせ、くしゃみを大型犬の遠吠えに変える。尋問には使えるだろう」
弥子が両手を振った。
「完成度を上げるな!!」
ネウロはすでに命名していた。
「魔界777ツ能力――鼻腔爆裂薬味【イビルわさび】」
「命名するな!!」
弥子のツッコミが、カフェテラスに響いた。
Xiは椅子に座り込み、顔を覆った。
「クソ親父……ネウロに素材を渡すな。危険物が進化する」
承太郎が短く言う。
「やれやれだぜ」
キラは苦笑した。
「でも、誰も食べなくて済んだね」
「そこは本当に良かった」
Xiは深く息を吐いた。
「刺身の記憶も蘇らなかった。遠吠えもしなかった。弥子ちゃんも刺身を買いに走らなかった」
弥子が少しだけ目を逸らした。
「ちょっとだけ考えました」
「考えたの!?」
「だって、いいわさびって聞くと……」
「シックス製!」
「はい、戻りました!」
ラクスは紅茶を口に運び、穏やかに言った。
「食べ物は、安心して味わえるものが一番ですわ」
ソープが頷く。
「そうだね。遠吠えしながら食べるのは、たぶん落ち着かない」
「落ち着かないどころじゃないよ」
Xiは疲れた声で言った。
露伴はまだスケッチブックに何かを描いていた。
Xiが目ざとく気づく。
「先生、何を描いてるんですか」
「大型犬の遠吠えくしゃみの擬音を考えている」
「だから描かないで!」
「ワオォォンでは直接的すぎる。ブワォン、いや、クシャオーンか……」
弥子が吹き出した。
「クシャオーン!」
キラも耐えきれず笑う。
「それはちょっと……」
承太郎は帽子の庇を下げた。
「くだらねえ」
だが、口元はわずかに緩んでいた。
ネウロは魔界容器をどこかへしまいながら、満足げだった。
「なかなか有用な素材を得た」
「得ないで!」
弥子が叫ぶ。
「それ、絶対いつか出てくるやつじゃん!」
「必要な時にな」
「必要な時って何!?」
「犯人が沈黙を貫く時などだ」
Xiが頭を抱える。
「尋問の方向性が犬寄りになる……」
ラクスが困ったように笑う。
「犬寄りの尋問、ですか」
ソープがぽつりと言った。
「平和ではないね」
「全然平和じゃないです」
弥子が即答した。
その時、店員さんがカフェテラスにやって来た。
「皆さま、追加のご注文はございますか?」
弥子はメニューを見た。
「えっと……お刺身はないですよね?」
Xiが勢いよく振り向く。
「弥子ちゃん!?」
店員さんは不思議そうに笑った。
「カフェですので、お刺身はございません」
Xiは心底安心した顔をした。
「よかった……」
弥子は少し残念そうだった。
「じゃあ、ローストビーフサンドを」
「肉料理にも合うって書いてあったもんね」
キラが苦笑した。
弥子は慌てて手を振る。
「違います! わさび抜きです! 普通に食べます!」
Xiは真顔で言った。
「今日の合言葉は“普通が一番”だからね」
ネウロがすかさず言う。
「ただし、シックスの普通は除く」
「それ!」
Xiは強く頷いた。
「シックス製の普通は、人類基準の異常だから」
露伴がペンを止めた。
「それは良い表現だな」
「漫画にしないでください」
「するかもしれない」
「しないで!」
カフェテラスに、笑い声が戻ってきた。
至高のわさびは誰の口にも入らず、鼻にも抜けず、犬の遠吠えも発生しなかった。
ただし、魔界のどこかにある危険香辛料用保存容器の中で、二つの密封容器が静かに眠っている。
それがいつか、鼻腔爆裂薬味【イビルわさび】として現れるかどうかは、まだ誰も知らない。
知りたくもない。
Xiは最後に、紅茶を一口飲み、ぽつりと呟いた。
「刺身も、寿司も、わさびも悪くない。悪いのはシックス製だ」
弥子が頷いた。
「食べ物に罪はありません」
ネウロが笑った。
「食欲にもな」
「そこはちょっとあります!」
弥子が即座に返す。
Xiは空を見上げた。
「クソ親父……もう何も送ってくるな。特に食品はやめろ」
少し間を置いて、彼は付け加えた。
「あと薬味も」
その言葉に、また小さな笑いが起きた。