守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
「……あかねちゃんの髪に使わなくてよかった……」
桂木弥子は、心の底からそう呟いた。
いつものカフェテラス。
今日も、テーブルの上には紅茶と珈琲、サンドイッチ、ケーキ、焼き菓子。
弥子の前には、相変わらず人数計算を間違えたような量の軽食。
そして。
テーブル中央には、黒いボトルが二本置かれていた。
銀色の六角形の紋章。
無駄に高級感のあるラベル。
そして、流麗な文字。
HEXA SHAMPOO
至高のシャンプー
怪盗Xiは、椅子にもたれたまま天を仰いでいた。
「クソ親父……今度は髪かよ」
弥子が、ボトルをじっと見る。
「シャンプー……なんですよね」
「シックス製のね」
「それだけで一気に信用できない……」
「正しい判断だよ」
承太郎は、珈琲を置いた。
「宛先は」
Xiは、二本のボトルのうち一本を指差す。
「僕」
そして、もう一本を指差す。
「カイエン」
カイエンは、紅茶を飲みかけていた手を止めた。
「俺宛てか」
アウクソーが即座に一歩前へ出る。
「マスター、お手を触れないでください」
「まだ触っていない」
「シックス製です」
「……なるほど」
カイエンは、それだけで納得した。
Xiは小さく頷く。
「理解が早くて助かる」
露伴はすでにスケッチブックを開いていた。
「しかし、今度はシャンプーか。歯ブラシ、耳かき、のど飴、わさび、香水……実に生活に密着しているな」
「生活に密着した危険物なんですよ」
Xiは疲れた声で言った。
「毎回、日用品への信頼を削ってくる」
ネウロがくつくつと笑う。
「ククク……人間は日用品に囲まれて生きている。その一つを疑わせるだけで、平穏は崩れる」
「分析しないで」
キラがボトルを見て、少し困った顔をした。
「でも、シャンプーなら……普通は髪をきれいにするものだよね」
「普通ならね」
Xiは即答した。
「シックスの普通は、人類基準の異常だから」
ラクスが静かに頷く。
「それは、近頃よく分かってまいりましたわ」
弥子がボトルのラベルを覗き込む。
「見た目だけなら、すごく高級そうなんですけどね」
「そこが罠」
Xiはボトルを睨む。
「高級そうな見た目で安心させて、実際には必要なものまで削ってくる」
「歯ブラシの時みたいに?」
「そう。エナメル質まで持っていく歯ブラシの頭皮版だと思っていい」
弥子は自分の頭を押さえた。
「嫌すぎる!」
まず、Xi宛てのカードが開かれた。
もちろん、スタープラチナの精密動作によってである。
承太郎は、カードをテーブルに置く。
Xiは嫌そうに読み上げた。
「『我が子へ。
君は姿を変え、髪型を変え、時には他人の姿すら借りる。
ならば、髪の手入れにも気を配るべきだろう。
我が一族自慢の工房で精製させた、至高のシャンプーだ。慣れると癖になる。
一度使えば、皮脂、汚れ、整髪料、頭皮に残った余分な成分まで、すべて洗い流す。
ただし常人の場合、必要な皮脂と水分まで根こそぎ奪われ、
三日ほど髪が藁のようにパサつくがね。
清潔とは、余分なものを残さぬことだ。』」
Xiはカードを伏せた。
「余分なものの基準が雑すぎる」
弥子が頷く。
「必要な皮脂と水分は余分じゃないです!」
ネウロが笑う。
「だが、洗浄力としては優秀そうだ」
「人体用としては駄目なんだよ!」
続いて、カイエン宛てのカード。
アウクソーが警戒しながら読み上げる。
「『ヒューア・フォン・ヒッター子爵へ。
剣聖と呼ばれ、数多の者を惹きつける君ならば、
刃だけでなく、髪の艶にも気を配るべきだろう。
我が一族自慢の工房で精製させた、至高のシャンプーだ。慣れると癖になる。
一度使えば、汗、皮脂、汚れ、旅の疲れまで洗い流す。
ただし常人の場合、必要な油分と水分まで奪われ、
三日ほど髪が藁のようにパサつくがね。
君の髪が、より多くの者の視線を奪うことを期待している。』」
カイエンは、ものすごく微妙な顔をした。
「……俺を何だと思っている」
Xiは即答した。
「モテモテの色男」
カイエンが無言でXiを見る。
Xiは両手を上げた。
「僕じゃない。シックスの文面がそう言ってる」
弥子が小声で言う。
「芸能人は歯が命、の次は、色男は髪が命……」
カイエンはさらに嫌そうな顔をした。
「俺は芸能人ではない」
アウクソーは、真剣な顔でボトルを見つめていた。
「マスター、この品は使用不可です」
「使うつもりはない」
「念のため申し上げます。絶対に使用不可です」
「二度言うほどか」
「はい。マスターの髪に万一のことがあっては困ります」
カイエンは少し言葉に詰まった。
「……俺の髪がそんなに大事か」
アウクソーは即答した。
「はい。マスターの健康管理は、私の責務です」
Xiがぼそりと呟く。
「歯の次は髪まで守られてる……」
弥子がにやにやする。
「大事にされてますね」
カイエンは視線を逸らした。
「健康管理だろう」
アウクソーは真顔で頷く。
「はい。健康管理です」
露伴がボトルを見ながら言った。
「しかし、成分表は興味深いな。界面活性剤の配合が――」
Xiが即座に遮る。
「先生、読まない」
「なぜだ」
「先生が読んだら研究しそうだから」
「シャンプーを研究して何が悪い」
「シックス製シャンプーを研究するのが悪いんです!」
承太郎が短く言った。
「使わねえなら、処分だな」
キラが少し考え込む。
「でも、液体だよね。捨てるのも難しそう」
Xiは頷いた。
「排水にそのまま流すのは怖い。燃やすのも怖い。ボトルを割るのも怖い」
弥子が言う。
「でも……洗浄力はすごいんですよね?」
Xiがぴたりと止まった。
「弥子ちゃん」
「はい」
「今、シックス製品を活用しようとした?」
「いや、その……人体には駄目でも、掃除用洗剤としてなら……?」
ネウロが楽しげに目を細める。
「理にはかなっている。人間の頭皮には過剰でも、汚れには適正かもしれん」
「ネウロまで乗らないで!」
弥子は、ふと思い出したように両手を打った。
「あっ」
「何?」
「うちの事務所の風呂場の排水溝、最近ちょっと流れが悪くて」
Xiが嫌な予感に顔をしかめる。
「まさか」
「抜け毛とか、詰まりやすいじゃないですか」
ネウロが弥子を見た。
「貴様の髪か」
「違います! たぶん違います!」
「では、あかねのか」
弥子は、そこで真顔になった。
「……あかねちゃんの髪に使わなくてよかった」
カフェテラスの空気が、一瞬だけ妙な方向に曲がった。
キラが不思議そうに訊く。
「あかねちゃん?」
弥子が説明する。
「うちの魔界探偵事務所の壁に埋まってる……髪だけ外に出てる謎の女性です」
キラが固まる。
「壁に?」
「はい」
ラクスが瞬きをする。
「髪だけ?」
「はい」
ソープがぽつりと言う。
「それは、元気なの?」
弥子は少し考えた。
「たぶん元気です。髪だけは最高に綺麗です」
露伴の目が輝いた。
「何だそれは。詳しく聞きたい」
Xiが即座に言う。
「先生、今はシャンプーの話です」
「壁に埋まった髪だけの女性など、シャンプーより興味深いだろう」
「どっちも危険なんですよ!」
ネウロは、涼しい顔で言った。
「あかねの髪にこれを使えば、壁から出ている部分だけ藁になるかもしれんな」
弥子が叫ぶ。
「やめてください!!」
Xiも全力で頷く。
「駄目! 絶対駄目! あかねちゃんの髪は事務所の貴重な戦力でしょ!」
「戦力?」
キラが困惑する。
弥子は真剣に言った。
「筆談もできますし、パソコンも操作できますし、ケータイのストラップにもなります」
キラはさらに困惑した。
「情報量が多い……」
承太郎が帽子の庇を下げる。
「やれやれだぜ」
結局、一同は後日、桂木弥子魔界探偵事務所の風呂場に集まることになった。
もちろん、シャンプーは未開封のまま厳重に持ち込まれた。
換気。
手袋。
マスク。
保護メガネ。
なぜか承太郎のスタープラチナ。
そしてアウクソーの厳しい監視。
カイエンは、少し離れた場所で腕を組んでいる。
「そこまでする必要があるのか」
アウクソーが即答した。
「あります」
「シャンプーだぞ」
「シックス製です」
「……そうだったな」
Xiは、風呂場の排水溝を見下ろした。
「一滴だけ。ほんの一滴だけね」
弥子が訊く。
「そんなに少なくて効きます?」
「効かないなら効かないでいい。効きすぎる方が怖い」
ネウロは楽しそうだった。
「さあ、見せてもらおうか。人間用ではない洗浄力とやらを」
「人間用ではないって言い切った!」
Xiは慎重にボトルを開けた。
ただし、スタープラチナがキャップを外し、Xi自身は距離を取っている。
中から出てきた液体は、透明に近い淡い銀色だった。
弥子がぞっとした顔をする。
「シャンプーの色じゃない……」
「高級感はある」
露伴が言った。
「先生、近づかない」
「見るだけだ」
「見るだけの距離じゃない」
スタープラチナが、スポイトでほんの一滴、排水溝へ落とした。
ぽたり。
一瞬、何も起きなかった。
弥子が首を傾げる。
「あれ?」
次の瞬間。
シュワ……
排水溝の奥から、細かな泡が立った。
妙にきめ細かい。
妙に上品。
妙に高級そう。
そして、妙に嫌な泡だった。
弥子が言う。
「泡に高級感があるの嫌ですね」
Xiは、じっと排水溝を見つめる。
「様子を見る。誰も近づかない」
シュワシュワシュワ……
泡は、排水溝の奥へすいすいと吸い込まれていった。
数秒後。
ゴボッ。
「今、変な音しませんでした?」
弥子が一歩下がる。
「した」
Xiも一歩下がった。
ゴボゴボッ。
排水溝の奥で、何かが溶けるような音がした。
キラが不安そうに言う。
「大丈夫かな」
ネウロは嬉しそうに笑っている。
「効いているな」
「効き方が怖いんだよ!」
やがて泡が引いた。
排水溝の奥は――
ピカピカだった。
ただの掃除後ではない。
長年の汚れやぬめりどころか、存在していたはずのくすみまで消え、金属部分が鏡のように光っている。
弥子が、目を丸くした。
「すごい……」
Xiは顔をしかめる。
「すごいけど怖い」
承太郎が低く言う。
「抜け毛は」
弥子がライトを当てる。
そして、固まった。
「……ない」
「え?」
「詰まってた抜け毛が、ないです」
Xiも覗き込む。
本当に、ない。
髪の毛の塊も、ぬめりも、汚れも、何もない。
排水溝は、新品のようにすっきりしていた。
キラが呟く。
「溶けた……?」
Xiが叫んだ。
「シャンプーなのに髪を溶かすな!!」
弥子は、真っ青になって自分の髪を押さえた。
「あかねちゃんに使わなくてよかった……本当に……」
ネウロが平然と言う。
「あかねなら、数日ほど筆談の字がパサつく程度で済んだかもしれんぞ」
「済みません!!」
弥子は本気で怒った。
「髪そのものが本体みたいな子に、髪を溶かすシャンプー使うとか絶対駄目です!」
露伴は目を輝かせていた。
「壁に埋まった少女の髪が、シャンプーでどう反応するか……実に興味深い」
Xiと弥子が同時に叫んだ。
「先生も駄目です!!」
カイエンは、自分の髪に無意識に触れていた。
アウクソーが静かに言う。
「マスター」
「……使わなくて正解だったな」
「はい。大変正しい判断です」
「髪まで溶かすとは思わなかった」
「シックス製ですので」
「便利な言葉だな、それは」
Xiは排水溝を見下ろした。
「洗剤としては一級品」
弥子が頷く。
「シャンプーとしては災害」
ネウロが満足げに言う。
「至高のシャンプーではなく、至高の排水溝洗浄剤だったわけだ」
露伴がメモを取る。
「至高の排水溝洗浄剤……」
Xiが即座に止める。
「先生、商品名にしない!」
「いい響きだろう」
「よくない!」
その後、残りのシャンプーは厳重に封印された。
人体用としては完全に不適格。
だが、排水溝洗浄剤としては異常な性能。
処分に困った一同は、結局ログナー司令へ報告した。
通信画面の向こうで、ログナーは報告を聞き終えると、短く言った。
『工業用洗浄剤として保管する。』
Xiは疲れた声で言う。
「シャンプーだよ?」
『人体用ではない。』
「そこは完全に同意」
『ミラージュの整備場で使えるかもしれん。』
Xiが顔を上げる。
「LEDミラージュの排水溝掃除に使わないで!」
ログナーは少しも表情を変えない。
『必要なら使う。』
「絶対使うやつ!」
カイエンが横から言った。
「風呂場は綺麗になったな」
Xiがカイエンを見る。
「それ、言っちゃう?」
「事実だ」
「事実だけど、シックス製品で生活改善したくなかった……」
弥子は排水溝を見下ろして、少しだけ感心していた。
「でも、本当に綺麗になりましたね」
Xiは即座に言う。
「弥子ちゃん、感心しないで。人間の頭に使ったら事件だから」
「はい」
「あと、あかねちゃんには絶対使わないで」
「絶対使いません!」
ネウロはくつくつと笑う。
「あかねに使う場合は、せめて一滴を千倍に薄めてからだな」
「使いません!!」
弥子の声が、事務所に響いた。
その声に反応したのか、壁の方から、三つ編みの髪がするすると伸びてきた。
そして、メモ帳にさらさらと文字を書いた。
『何の話?』
弥子は、ものすごく優しい顔で答えた。
「何でもないよ、あかねちゃん。絶対に使わないからね」
髪が、少しだけ首を傾げるように揺れた。
『シャンプー?』
弥子は即答した。
「違う。排水溝洗浄剤」
Xiがぼそっと言う。
「元シャンプー」
弥子はXiを睨んだ。
「元でも駄目です」
あかねちゃんの三つ編みは、なぜか安心したように、すっと壁の方へ戻っていった。
露伴がその様子を凝視していた。
「……実に興味深い」
弥子が振り返る。
「露伴先生」
「何だ」
「あかねちゃんを取材対象にしないでください」
「まだ何も言っていない」
「目が言ってます」
Xiも頷く。
「その目は描く目」
露伴は不満そうに腕を組んだ。
「まったく。今日は取材対象が多すぎる」
承太郎が帽子の庇を下げる。
「やれやれだぜ」
こうして、至高のシャンプーは誰の髪にも触れることなく、風呂場の排水溝だけを異様なまでに綺麗にした。
Xiの髪は守られた。
カイエンの髪も守られた。
あかねちゃんの髪も守られた。
弥子の事務所の排水溝は、なぜか新品同様になった。
Xiは、封印された残りのボトルを見ながら、深くため息をついた。
「クソ親父……シャンプーを送るな」
少し間を置いて、彼は排水溝を見た。
「……でも、掃除用ならちょっと助かったのが腹立つ」
弥子は、ぴかぴかになった排水溝を見て言った。
「次から普通の排水溝洗剤を買います」
Xiは強く頷いた。
「それが一番」
ネウロが笑う。
「普通の洗剤が、シックスから届いたら?」
Xiは即座に答えた。
「捨てる」
そして、すぐ訂正した。
「いや、封印する。いや、ログナー司令に相談する」
弥子が笑った。
「判断が慎重になってる」
「シックス製品を雑に扱うと、日用品が全部敵になるんだよ」
壁の向こうで、あかねちゃんの三つ編みが、こくこくと頷くように揺れた。
それを見て、弥子はもう一度呟いた。
「あかねちゃんの髪に使わなくてよかった……」
全員が、静かに同意した。