守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
「今日は、モーターヘッドではない」
ログナー司令は、いつものように無表情でそう言った。
怪盗Xiは、喫茶店の椅子に座ったまま、ゆっくり顔を上げた。
「……本当に?」
「本当だ」
「ミラージュでもない?」
「違う」
「兄弟機でもない?」
「違う」
「プロトタイプKOGでもない?」
「違う」
「旧世代機でもない?」
「違う」
「じゃあ、今日は本当に普通の喫茶店回?」
ログナーは短く答えた。
「普通ではない」
Xiは額を押さえた。
「そうだと思ったよ!」
そこは、豆の種類が多いことで知られる喫茶店だった。
壁際には、産地ごとに分けられたコーヒー豆の瓶が並び、店内には苦くて甘い香りが静かに漂っている。
いつものカフェテラスよりも落ち着いていて、声を張るのが少しためらわれるような空気だった。
弥子はメニューを見ながら、すでに目を輝かせている。
「豆の種類、すごいですね! あとケーキもあります!」
ネウロが言った。
「貴様は豆ではなく糖分を見ているな」
「コーヒーにはケーキでしょう!」
キラは瓶のラベルを見ながら、少し感心したように言った。
「産地によって、香りも味もかなり違うんですね」
ラクスが微笑む。
「キラ、今日は機械ではなく豆に興味津々ですわね」
「うん。こういう違いも面白いなって」
露伴は、店内の雰囲気を見てすでに何か描きたそうにしていた。
「豆の瓶が並ぶ喫茶店。いい空間だな」
泉さんがすぐに言う。
「露伴先生、お店の方に許可を取ってからにしてください」
「分かっている」
承太郎が帽子の庇を下げる。
「本当か?」
「君は僕を信用していないな」
「していない」
「即答か」
Xiは、ログナーを見た。
「それで、司令。モーターヘッドじゃないなら、今日は何?」
ログナーは言った。
「ファティマだ」
Xiは固まった。
「……ついに来たか」
カイエンがコーヒーを一口飲みながら笑った。
「お前、顔色が変わったな」
「変わるよ! 恐れていた方向から来た!」
ログナーは続ける。
「お前が今後、MHに搭乗する可能性を考えるなら、ファティマとの相性確認は避けられない」
Xiは即座に言った。
「その可能性を閉じたい」
「閉じるな」
「開けないで!」
その時、喫茶店の入口のベルが小さく鳴った。
入ってきたのは、ひとりのファティマだった。
長い黒髪。
整った顔立ち。
白い衣装。
けれど、その表情には、ほとんど揺らぎがない。
人形のように美しい。
だが、人形と呼ぶには、あまりにも静かに生きている。
ラキシスが、そっと立ち上がった。
「バクスチュアル姉様……」
アウクソーも、カイエンのそばで静かに姿勢を正す。
「姉様」
Xiは小さく息を呑んだ。
「姉様……?」
ソープが穏やかに説明する。
「バクスチュアル。バランシェ・ファティマの十一番目だよ」
カイエンが続ける。
「アウクソーは三十八番目、ラキシスは四十四番目。バランシェの娘たち、という意味では姉妹だな」
弥子は目を丸くした。
「じゃあ、ラキシスさんのお姉さんなんですね」
ラキシスは、少しだけ嬉しそうに頷いた。
「はい。バクスチュアル姉様です」
バクスチュアルは、ラキシスとアウクソーを見た。
その瞳は静かだった。
「ラキシス……アウクソー……」
声は、途切れ途切れだった。
柔らかさよりも、機械的な正確さが先に来る声。
「ミナ……イル……」
ラキシスは、ほんの少し寂しそうに微笑んだ。
「はい。皆おります、姉様」
ログナーはXiを見た。
「特定のマスターを持たないファティマだ。臨時任務には適している」
Xiは言った。
「紹介の仕方が人材派遣みたいで怖い」
バクスチュアルは、ゆっくりXiを見た。
「アナタ……Xi……」
Xiは少し身構える。
「そう。怪盗Xi。外注のお目付け役。短期契約。正式採用じゃない」
バクスチュアルは少し首を傾げた。
「ガイチュウ……」
「そこ、大事なところだから覚えて」
ログナーが言う。
「臨時ファティマ候補だ」
Xiは即座に叫んだ。
「お見合いみたいに言わないで!」
弥子が小声で言う。
「でも、喫茶店で向かい合って座るなら、ちょっとお見合いっぽいですね」
「弥子ちゃん!」
ネウロが笑う。
「ククク……怪盗とファティマの見合いか。悪くない」
「悪い!」
泉さんが冷静に言った。
「まずは普通にお話しするだけでよろしいのでは?」
Xiは泉さんを見る。
「泉さん、今日も常識が強い」
「場所が喫茶店ですから」
その一言で、席が整えられた。
Xiの向かいに、バクスチュアルが座る。
ログナーは少し離れた席。
カイエンとアウクソー、ソープとラキシスも近くにいる。
キラとラクス、弥子とネウロ、露伴と承太郎、泉さんも、それぞれ妙に気を遣いながら様子を見ている。
Xiは小声で言った。
「見守られすぎて、全然落ち着かない」
バクスチュアルは、静かに座っていた。
「モンダイ……アル……?」
「問題というか、圧がある」
「アツ……」
「いや、分からなくていい」
店員が水を置き、注文を取りに来た。
「本日はどの豆にされますか?」
Xiはメニューを見た。
そこには、産地や焙煎度、香りの説明が細かく書かれている。
「僕は……あまり苦すぎないやつで。おすすめの中煎りを」
店員が頷く。
「では、エチオピアの中煎りはいかがでしょう。華やかな香りで、酸味もやわらかいです」
「それでお願いします」
店員はバクスチュアルを見る。
「お客様は?」
バクスチュアルは、メニューを見たまま止まった。
「……」
Xiは訊いた。
「コーヒー、飲んだことは?」
「アル」
「好き嫌いは?」
「設定……サレテイナイ」
その一言に、少しだけ場が静かになった。
ラキシスが、手元のカップをそっと握る。
アウクソーも、静かに目を伏せた。
Xiは、バクスチュアルを見た。
「設定されていない、か」
バクスチュアルは言う。
「好キ……嫌イ……判定……不要」
Xiは少しだけ眉を寄せた。
「不要って、誰が決めたの?」
「開発……制御……」
「そっか」
Xiはメニューを見る。
そして、店員に言った。
「じゃあ、彼女にも同じものを。苦すぎないやつで」
バクスチュアルがXiを見る。
「ナゼ……同ジ……?」
「選ぶ基準がまだないなら、とりあえず同じところから始めればいいかなって」
「同ジ……」
「嫌なら次は変えればいい」
バクスチュアルは、ほんのわずかに首を傾げた。
「次……」
Xiは苦笑した。
「コーヒーは、一回で決めなくていいんだよ」
やがて、コーヒーが運ばれてきた。
白いカップ。
静かに立つ湯気。
豆の香りが、ふわりと広がる。
弥子が鼻をひくひくさせた。
「いい香り……」
ネウロが言う。
「貴様はケーキの匂いも同時に嗅いでいるな」
「だって注文しましたもん!」
キラはカップを見ながら言った。
「香りが全然違いますね」
ラクスが微笑む。
「ええ。とても華やかですわ」
バクスチュアルは、カップを見ていた。
Xiは言った。
「まず、香りを嗅ぐんだって」
「カオリ……」
「うん」
バクスチュアルはカップに顔を近づけた。
しばらく、何も言わない。
Xiは訊いた。
「どう?」
バクスチュアルは答えた。
「データ……未登録」
「データじゃなくて、感じたこと」
「感ジタ……コト……」
彼女は少しだけ黙った。
「アタタカイ……ニオイ……」
Xiは、少し表情を緩めた。
「いいじゃん」
「イイ……?」
「うん。今のは君の感想だと思う」
バクスチュアルは、カップを見た。
「ワタシ……ノ……」
ラキシスは、少しだけ目を潤ませていた。
「姉様……」
バクスチュアルはラキシスを見る。
「ラキシス……ナゼ……泣ク……?」
ラキシスは微笑んだ。
「泣いておりません」
「水分……確認……」
「少しだけです」
ソープが優しく言う。
「ラキシスは、嬉しいんだよ」
バクスチュアルは、また首を傾げた。
「嬉シイ……」
アウクソーが静かに言った。
「姉様。嬉しい時、人は涙を浮かべることがあります」
「嬉シイ……涙……」
「はい」
バクスチュアルは、それを記録するように小さく頷いた。
Xiはコーヒーを一口飲んだ。
「……うん。苦いけど、香りがいい」
バクスチュアルも、ゆっくりカップを口元に運ぶ。
一口。
その表情はほとんど変わらない。
けれど、彼女は少しだけ沈黙した。
Xiは訊いた。
「苦い?」
「ニガイ……」
「嫌?」
「判定……不能」
「じゃあ、もう一口飲みたい?」
バクスチュアルは、カップを見た。
「……飲ム」
Xiは頷いた。
「それでいいと思う」
ログナーが静かに言った。
「相性は悪くないようだな」
Xiは即座に振り向いた。
「今の流れでそう判断しないで!」
「会話が成立している」
「成立したら即ファティマ候補なの!?」
カイエンが笑う。
「まあ、悪くはない」
「カイエンまで!」
弥子がにこにこする。
「でも、Xiさん優しいですね」
「報酬分です」
ラクスが微笑む。
「それだけではないと思いますわ」
Xiは目を逸らした。
「ラクスはそういうところを逃さない」
バクスチュアルは、Xiをじっと見た。
エストの時ほど、刺すような視線ではない。
ただ、観察している。
「Xi……マスター……?」
Xiは、すぐに首を横に振った。
「違う」
ログナーが少しだけ目を細める。
Xiは、はっきり言った。
「僕は君のマスターじゃない」
バクスチュアルは、静かに問う。
「デハ……何……?」
Xiは少し考えた。
「今日だけ、コーヒーを一緒に飲む相手」
バクスチュアルは、その言葉を繰り返した。
「コーヒー……一緒……飲ム……相手……」
「そう」
「マスター……デハ……ナイ……」
「ない」
「命令……シナイ……?」
「しない」
「必要……ナイ……?」
Xiは少しだけ言葉に詰まった。
そして、ゆっくり言った。
「君が何を好きか、何を嫌いか。それを知るのに、命令は必要ないと思う」
バクスチュアルは黙った。
喫茶店の中に、豆を挽く音が響く。
ごりごり、という低い音。
香りがまた少し濃くなる。
バクスチュアルは、小さく言った。
「ワタシ……好キ……ワカラナイ」
Xiは頷いた。
「うん」
「嫌イ……ワカラナイ」
「うん」
「マスター……ナイ」
「うん」
「デモ……」
彼女は、カップを見た。
「コノ……カオリ……」
Xiは続きを待った。
バクスチュアルは、少しだけ時間をかけて言った。
「忘レナイ……ト……思ウ」
Xiは、目を細めた。
「そっか」
ラキシスが、今度こそ涙を拭った。
「バクスチュアル姉様……」
アウクソーも、静かに微笑んでいる。
ソープは優しい顔で三人を見ていた。
「よかったね、ラキシス」
「はい、ソープ様」
弥子が小声で言う。
「いい話……」
ネウロが言った。
「珍しく糖分ではなく香気で満たされているな」
「ネウロ、今日は茶化さないでください」
「少しは空気を読む」
「読めたんですね」
「失礼な」
露伴は、ペンを持つ手を止めていた。
Xiが気づく。
「先生、描かないんですか?」
露伴は少しだけ真面目な顔をして言った。
「今は、描く場面じゃない」
承太郎が短く言う。
「珍しいな」
「うるさい」
泉さんは、静かに頷いた。
「良い時間ですね」
ログナーは、それでもログナーだった。
「臨時ファティマとしての適性は――」
Xiが素早く遮る。
「今はその話をしない!」
ログナーは少し黙った。
カイエンが苦笑する。
「今日くらいはいいだろう」
ログナーは、短く答える。
「……保留する」
Xiは胸を撫で下ろした。
「保留で助かったと思う日が来るとは」
バクスチュアルは、もう一度コーヒーを飲んだ。
「ニガイ……」
Xiは言う。
「うん」
「アタタカイ……」
「うん」
「カオリ……アル……」
「あるね」
「豆……種類……多イ……」
「この店の売りらしいよ」
「次……別ノ……豆……?」
Xiは少し驚いた。
「次?」
バクスチュアルはXiを見た。
「一回デ……決メナクテ……イイ……」
Xiは、少し笑った。
「覚えてたんだ」
「覚エタ……」
「じゃあ、次は違う豆にしよう」
バクスチュアルは小さく頷いた。
「了解……」
その言葉は、命令への返答のようでもあった。
けれど、ほんの少しだけ違って聞こえた。
Xiは、それ以上何も言わなかった。
ラキシスが、そっとバクスチュアルのそばへ来る。
「姉様」
「ラキシス……」
「今度は、私とも一緒にお茶を飲んでくださいませ」
バクスチュアルはラキシスを見た。
「ラキシス……ト……茶……」
「はい」
「了解……」
アウクソーも静かに言う。
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
バクスチュアルはアウクソーを見る。
「アウクソー……モ……」
「はい」
「了解……」
三姉妹というには、あまりにも不器用な会話だった。
けれど、そこには確かに、何かがあった。
Xiはそれを見て、少しだけ目を伏せた。
自分は、シックスの体細胞クローンだ。
作られた。
利用されるはずだった。
血筋の意味を押しつけられた。
バクスチュアルもまた、作られた存在だ。
感情を削られ、用途を定められ、マスターのために在るものとして設計された。
けれど。
コーヒーの香りを、忘れないと思う。
その一言だけで、十分な気がした。
ログナーが言う。
「Xi」
「何?」
「相性確認は、継続する」
Xiは深くため息を吐いた。
「司令、余韻」
「必要な確認だ」
「今いい話だったのに!」
カイエンが笑う。
「まあ、今日のところは悪くなかったな」
「それは認めます」
キラが静かに言った。
「バクスチュアルさんは、少しずつ知っていくんですね」
ラクスが頷く。
「ええ。香りも、味も、誰かと過ごす時間も」
弥子が言う。
「次はケーキも食べましょう!」
バクスチュアルは弥子を見る。
「ケーキ……」
弥子は力強く頷いた。
「甘いです!」
ネウロが言う。
「貴様基準の甘さは危険だ」
「普通のケーキです!」
バクスチュアルは少し考えた。
「甘イ……未登録……」
Xiは言った。
「じゃあ、それも次回」
「次回……」
バクスチュアルは、小さく頷いた。
「了解……」
その日の結論。
バクスチュアルは、バランシェ・ファティマ十一番目。
アウクソーとラキシスの姉。
感情を削られ、言葉は少なく、好き嫌いもまだ分からない。
特定のマスターは持たない。
ログナー司令は、Xiの臨時ファティマ候補として引き合わせた。
Xiは、マスターではないと言い張った。
それでも、同じコーヒーを飲んだ。
バクスチュアルは、豆の香りを「忘れないと思う」と言った。
ラキシスは泣いた。
アウクソーは微笑んだ。
ログナーは記録しようとした。
Xiは止めた。
帰り際。
バクスチュアルは、喫茶店の入口で少しだけ振り返った。
「Xi……」
「何?」
「コーヒー……一緒……飲ム……相手……」
Xiは頷いた。
「うん」
「次……別ノ……豆……」
「そうだね」
「了解……」
そして彼女は、ログナーの方へ歩いていった。
ラキシスは、ソープの隣で小さく手を振った。
「またお茶をいたしましょう、バクスチュアル姉様」
バクスチュアルは、少し遅れて振り返る。
「ラキシス……アウクソー……茶……了解……」
アウクソーは静かに頭を下げた。
Xiは、その光景を見て、ぽつりと言った。
「豆の香り、知らなかったんだな」
キラが言う。
「でも、今日知りましたね」
ラクスが微笑む。
「ええ。きっと、忘れませんわ」
ネウロが笑う。
「ククク……香りとは、記憶を縛る鎖でもある」
弥子が言う。
「今日はいいこと言いますね、ネウロ」
「吾輩は常に――」
「はいはい」
露伴は、珍しく静かに言った。
「描くなら、今じゃないな」
承太郎が少しだけ目を細めた。
「分かってるじゃねえか」
泉さんは、微笑んだ。
「良い喫茶店でしたね」
Xiは空を見上げる。
「普通の喫茶店回じゃなかったけど」
カイエンが笑う。
「でも、悪くなかっただろう」
Xiは少しだけ笑った。
「うん。悪くなかった」
ログナー司令は、店の外で静かに言った。
「記録する」
Xiは即座に振り向いた。
「何を?」
「バクスチュアル、Xiとの会話成立。次回、別の豆を試す約束」
Xiは少し黙った。
「……それなら、まあいいです」
ログナーは続けた。
「臨時ファティマ候補として――」
「そこは書かない!」
「保留する」
「保留も書かない!」
バクスチュアルは、少し離れたところで、喫茶店の扉を見ていた。
豆の香りは、もう店の外では薄くなっている。
それでも、彼女はほんの少しだけ目を閉じた。
「アタタカイ……ニオイ……」
誰にも聞こえないほど小さく、そう言った。
バクスチュアルは、豆の香りを知らなかった。
けれど今日、少しだけ知った。
そしてたぶん。
それは、彼女の中に残る。