守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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バクスチュアルは普通の苦みを知る

その喫茶店の扉を開けると、前と同じように、小さなベルが鳴った。

 

からん、と澄んだ音がして、豆を挽く香りがふわりと広がる。

 

怪盗Xiは、店内を見回してから、小さく息を吐いた。

 

「……よかった。今日は先客が少ない」

 

隣に立つバクスチュアルは、静かに店内を見ていた。

 

表情はほとんど変わらない。

 

けれど、前回と同じ店だと分かったのか、ほんのわずかに視線が豆の瓶の並ぶ棚へ向いた。

 

「コーヒー……一緒……飲ム……場所……」

 

Xiは少し笑った。

 

「そう。約束した場所」

 

バクスチュアルは、ゆっくりXiを見た。

 

「約束……」

 

「うん。約束」

 

Xiは、少しだけ照れくさそうに目を逸らした。

 

「だから来た」

 

バクスチュアルは、その言葉を確かめるように、もう一度繰り返した。

 

「約束……ダカラ……来タ……」

 

「そう」

 

「命令……デハ……ナイ……」

 

「ない」

 

「任務……デモ……ナイ……?」

 

Xiは少し考えた。

 

「ログナー司令の書類上は、何かしら任務っぽい扱いになってるかもしれないけど」

 

そこで、Xiはすぐに首を振った。

 

「でも、僕にとっては任務じゃない。今日は、君とコーヒーを飲みに来ただけ」

 

バクスチュアルは、黙っていた。

 

その沈黙は、拒絶ではない。

 

ただ、言葉の意味を、ゆっくり奥まで沈めているようだった。

 

「コーヒー……飲ム……相手……」

 

「そう」

 

「マスター……デハ……ナイ……」

 

「ない」

 

「Xi……」

 

「ん?」

 

「約束……守ッタ……」

 

Xiは、一瞬だけ言葉に詰まった。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「うん。守った」

 

店員がやってきて、二人を奥の席へ案内した。

 

前回と同じ、窓際の席。

 

大きすぎず、小さすぎず、隣の席とも少し距離がある。

二人で話すには、ちょうどいい席だった。

 

バクスチュアルは、椅子に座る前に、一度だけ席を見た。

 

「前……同ジ……?」

 

Xiが頷く。

 

「たぶん同じ席」

 

「同ジ……席……」

 

「嫌?」

 

「判定……不能……」

 

「じゃあ、落ち着く?」

 

バクスチュアルは、少しだけ沈黙した。

 

「前ノ……香リ……思イ出ス……」

 

Xiは、目を細めた。

 

「それは、たぶん落ち着くってことに近いかも」

 

「落チ着ク……」

 

「うん」

 

バクスチュアルは、椅子に座った。

 

背筋はまっすぐで、手は膝の上に置かれている。

 

あまりにもきちんとしていて、まるで誰かに見られるための姿勢のようだった。

 

Xiは向かいに座り、メニューを開いた。

 

「今日は、豆を決めてきたんだ」

 

バクスチュアルがXiを見る。

 

「決メテ……キタ……」

 

「ブラジルサントス」

 

「ブラジル……サントス……」

 

「香りも苦みも、酸味も、わりと平均的。クセが強すぎない。だから、基準にしやすいんだって」

 

「基準……」

 

「うん。前回の豆は、香りが華やかだったでしょ?」

 

バクスチュアルは、しばらく黙ったあと、言った。

 

「アタタカイ……ニオイ……」

 

Xiは微笑んだ。

 

「そう。それを覚えてるなら、今日は“前と違う”が分かるかもしれない」

 

「前ト……違ウ……」

 

「うん。好きか嫌いかは、まだ分からなくてもいい。まず、違うって分かれば十分」

 

バクスチュアルは、少しだけ視線を落とした。

 

「違ウ……分カレバ……十分……」

 

「そう」

 

「好キ……嫌イ……後……」

 

「後でいい」

 

バクスチュアルは、小さく頷いた。

 

「了解……」

 

店員が注文を取りに来る。

 

Xiは、ブラジルサントスを二つ頼んだ。

 

「前と同じで、二つとも同じ豆でお願いします」

 

店員がにこりと笑った。

 

「かしこまりました。飲み比べではなく、お二人で同じものを、ですね」

 

Xiは少しだけ照れた。

 

「ええ、まあ」

 

バクスチュアルは、その店員の言葉を拾った。

 

「二人……同ジ……モノ……」

 

Xiが言う。

 

「嫌なら次は変えればいい」

 

「同ジ……始メル……」

 

「そう。前も言ったけど、基準がないなら、同じところから始めればいい」

 

バクスチュアルは、メニューを閉じた。

 

「基準……作ル……」

 

「うん」

 

「普通……作ル……?」

 

Xiは、少しだけ驚いた。

 

「……そうだね。今日は、普通を作る日かも」

 

バクスチュアルは、Xiの言葉を反復する。

 

「普通……作ル……日……」

 

Xiは窓の外を見た。

 

通りには、いつも通り人が歩いている。

 

誰かが笑い、誰かが急ぎ、誰かが立ち止まり、誰かが店の前を通り過ぎる。

 

「普通って、けっこう難しいんだよ」

 

「難シイ……」

 

「僕も、最近よく思う」

 

「Xi……普通……難シイ……?」

 

Xiは苦笑した。

 

「うん。僕の周り、普通じゃない人ばっかりだから」

 

バクスチュアルは、瞬きをした。

 

「ログナー……司令……?」

 

「かなり普通じゃない」

 

「ソープ……様……?」

 

「神様寄りなので普通ではない」

 

「ラキシス……」

 

「姫様も普通ではないかな」

 

「カイエン……」

 

「剣聖なので論外」

 

「弥子……」

 

Xiは少し黙った。

 

「……食欲が普通じゃない」

 

バクスチュアルは、それを記録するように小さく頷いた。

 

「弥子……食欲……普通ジャナイ……」

 

「そこだけ覚えなくていい」

 

その時、離れた席の方から、微かにくしゃみが聞こえた。

 

Xiは反射的に振り向きかけて、やめた。

 

「……気のせい」

 

バクスチュアルが訊く。

 

「気ノ……セイ……?」

 

「そう。今日は二人でコーヒーを飲む日だから」

 

実際、店の奥の奥。

 

観葉植物の陰になった席に、ログナー司令がひとり座っていた。

 

新聞を広げている。

 

だが、その新聞は上下が逆だった。

 

さらに店の外、通りの向かいのベンチには、弥子とネウロがいた。

 

弥子は紙袋に入った焼き菓子を抱え、ネウロは明らかに呆れている。

 

少し離れた場所には、カイエンとアウクソー。

さらにその奥に、ソープとラキシス。

偶然を装っているが、偶然ではない。

 

ただし、誰も近づいては来ない。

 

少なくとも、今は。

 

バクスチュアルは、窓の外を見た。

 

「ミナ……イル……」

 

Xiは少し顔をしかめた。

 

「気づいてた?」

 

「イル……」

 

「だよね」

 

「デモ……来ナイ……」

 

「うん。今日は、来ないでくれてる」

 

「ナゼ……?」

 

Xiは、少しだけ柔らかい声で言った。

 

「ここが、僕たちの約束の場所だからじゃない?」

 

バクスチュアルは、しばらく窓の外を見た。

 

それから、短く言った。

 

「特別……?」

 

Xiは、少しだけ言葉に詰まった。

 

「……かもね」

 

「特別……場所……」

 

「うん」

 

「コーヒー……一緒……飲ム……場所……」

 

「そう」

 

「Xi……ト……」

 

Xiは、何も言わずに頷いた。

 

やがて、コーヒーが運ばれてきた。

 

白いカップが二つ。

 

前回と同じように、湯気が立っている。

 

けれど、香りは違った。

 

前回の華やかな香りより、落ち着いている。

甘さも、酸味も、苦みも、どこか丸い。

派手ではない。

けれど、ちゃんとコーヒーだと分かる香り。

 

Xiはカップを持ち上げる前に言った。

 

「まず香り」

 

「香リ……」

 

バクスチュアルは、カップに顔を近づけた。

 

目を閉じる。

 

前回より、少し長い。

 

Xiは待った。

 

急かさない。

 

答えを求めない。

 

ただ、彼女が何かを見つけるのを待った。

 

バクスチュアルは、ゆっくり目を開けた。

 

「前ノ……違ウ……」

 

Xiの表情が、少し明るくなった。

 

「分かった?」

 

「分カル……少シ……」

 

「どう違う?」

 

バクスチュアルは、言葉を探すように、カップを見た。

 

「前ノ……香リ……上……行ク……」

 

Xiは首を傾げた。

 

「上?」

 

「フワ……ト……」

 

「うん」

 

「今日ノ……香リ……近イ……」

 

「近い」

 

「カップ……近ク……イル……」

 

Xiは、静かに笑った。

 

「それ、すごくいい感想だと思う」

 

バクスチュアルはXiを見る。

 

「イイ……?」

 

「うん。前のは華やかで、広がる感じ。今日のは落ち着いて、近くにある感じ。たぶん、そういうことだと思う」

 

「ワタシ……ノ……感想……?」

 

「そう。君の感想」

 

バクスチュアルは、カップを見つめた。

 

「ワタシ……前ト……違ウ……分カル……」

 

「うん」

 

「データ……デハ……ナイ……?」

 

「違うと思う」

 

「記録……?」

 

「記録でもあるかもしれないけど、それだけじゃない」

 

「デハ……何……?」

 

Xiは少し考えた。

 

「思い出、かな」

 

バクスチュアルは、ゆっくりその言葉を繰り返した。

 

「思イ出……」

 

「前に飲んだコーヒーの香りを覚えてる。だから、今日の香りと比べられる。それは、ただのデータじゃなくて、思い出でいいと思う」

 

バクスチュアルは、目を伏せた。

 

「思イ出……作ル……」

 

「うん」

 

「コーヒー……デ……」

 

「コーヒーで」

 

「Xi……ト……」

 

Xiは少し照れたように、カップに視線を落とした。

 

「まあ、そういうことになるかな」

 

バクスチュアルは、カップを両手で持った。

 

そして、一口飲む。

 

Xiも同じタイミングで飲んだ。

 

苦みが舌に広がる。

 

強すぎない。

軽すぎない。

真ん中にあるような味。

 

Xiは言った。

 

「……うん。普通においしい」

 

バクスチュアルは、少し遅れて言った。

 

「ニガイ……」

 

Xiは頷く。

 

「うん」

 

「デモ……」

 

彼女は、もう一度カップを見る。

 

「前ノ……ニガサト……違ウ……」

 

Xiは、口元を少し緩めた。

 

「分かるんだ」

 

「少シ……分カル……」

 

「どう違う?」

 

バクスチュアルは、また言葉を探す。

 

「前ノ……ニガイ……後カラ……香リ……来タ……」

 

「うん」

 

「今日ノ……ニガイ……最初カラ……イル……」

 

Xiは頷いた。

 

「なるほど」

 

「デモ……強ク……ナイ……」

 

「それが“普通の苦み”かも」

 

「普通ノ……苦ミ……」

 

バクスチュアルは、その言葉を確かめるように、もう一口飲んだ。

 

「普通……」

 

「うん」

 

「普通……ニガイ……」

 

「そう」

 

「嫌イ……デハ……ナイ……?」

 

Xiは少しだけ驚いた。

 

「今、自分で言った?」

 

「嫌イ……デハ……ナイ……」

 

「それ、かなり大事な感想だよ」

 

バクスチュアルは、少しだけ沈黙した。

 

「好キ……?」

 

「無理に決めなくていい」

 

「嫌イ……デハ……ナイ……」

 

「それで十分」

 

バクスチュアルは、ゆっくり頷いた。

 

「十分……」

 

その頃、窓の外のベンチで、弥子がハンカチを目に当てていた。

 

「ネウロ……バクスチュアルさんが……嫌いじゃないって……」

 

ネウロは呆れ顔で言った。

 

「泣くほどか」

 

「泣くほどです!」

 

「貴様は他人の感情にも食欲にも忙しいな」

 

「うるさいです!」

 

別の場所で、ラキシスも目元を押さえていた。

 

ソープは、その隣で優しく微笑んでいる。

 

「よかったね、ラキシス」

 

「はい……姉様が、またひとつ……」

 

アウクソーも静かに目を伏せていた。

 

カイエンは、そんな彼女の横顔を見て、小さく笑った。

 

「よかったな」

 

「はい、マスター」

 

店内に戻る。

 

Xiは、バクスチュアルがカップを見ているのを見守っていた。

 

「次は、ミルク入れてみる?」

 

バクスチュアルが顔を上げる。

 

「ミルク……」

 

「入れると、苦みが丸くなる」

 

「苦ミ……丸イ……?」

 

「うん。言葉だと変だけど、飲むと分かる」

 

バクスチュアルは少し考えた。

 

「今ハ……入レナイ……」

 

Xiは頷いた。

 

「分かった」

 

「普通ノ……苦ミ……覚エル……」

 

Xiは、少しだけ目を見開いた。

 

それから、優しく笑った。

 

「そっか。じゃあ、今日はそのままで」

 

「今日……普通……覚エル……」

 

「うん」

 

「次……別ノ……覚エル……」

 

「いいね」

 

バクスチュアルは、カップを見つめたまま言った。

 

「Xi……」

 

「何?」

 

「普通……難シイ……」

 

Xiは笑った。

 

「うん。難しい」

 

「デモ……今日……少シ……ワカル……」

 

「僕も」

 

「Xiモ……?」

 

「僕も、普通のコーヒーを普通に誰かと飲むって、案外知らなかったかもしれない」

 

バクスチュアルはXiを見た。

 

「Xi……普通……知ラナイ……?」

 

「知らないことだらけだよ」

 

「同ジ……?」

 

Xiは少しだけ黙った。

 

それから言った。

 

「少しだけ、同じかもね」

 

バクスチュアルは、ほんのわずかに首を傾けた。

 

「同ジ……少シ……」

 

「うん」

 

「違ウ……多イ……」

 

「それも、うん」

 

「デモ……一緒……飲ム……」

 

「そう」

 

「一緒……飲ム……相手……」

 

Xiは、静かに頷いた。

 

「うん。一緒に飲む相手」

 

バクスチュアルは、カップに視線を戻した。

 

「マスター……デハ……ナイ……」

 

「ない」

 

「命令……デハ……ナイ……」

 

「ない」

 

「約束……」

 

「そう」

 

「約束……守ラレタ……」

 

Xiは、少し照れくさそうに笑った。

 

「守ったよ」

 

「次……モ……?」

 

「うん。次も」

 

「次……別ノ……豆……」

 

「そうだね。次は酸味が分かりやすいやつにする? それとも香りが強いやつ?」

 

バクスチュアルは、しばらく考えた。

 

「酸味……未確認……」

 

「じゃあ、次は酸味にしようか」

 

「酸味……」

 

「すっぱい、に近いかな。でもコーヒーの酸味は、果物っぽい感じの時もある」

 

「果物……」

 

「それも、いつか試そう」

 

「次……酸味……」

 

「うん」

 

「約束……?」

 

Xiは、一度だけ深く息を吐いた。

 

「約束」

 

バクスチュアルは、小さく頷いた。

 

「了解……」

 

その声は、命令への返事に似ていた。

 

けれど、前回よりも少しだけ違っていた。

 

ただ従うための「了解」ではなく、次の香りを待つための「了解」に聞こえた。

 

店員が、サービスの小さな焼き菓子を持ってきた。

 

「よろしければ、コーヒーとご一緒にどうぞ」

 

Xiが軽く会釈する。

 

「ありがとうございます」

 

バクスチュアルは、皿の上の小さな焼き菓子を見た。

 

「菓子……」

 

「食べてみる?」

 

「甘イ……?」

 

「たぶん、少し」

 

バクスチュアルは、焼き菓子を小さく割った。

 

それから、慎重に口に入れる。

 

しばらく沈黙。

 

「……甘イ」

 

Xiは笑う。

 

「うん」

 

「コーヒー……ニガイ……」

 

「うん」

 

「一緒……」

 

「合う?」

 

バクスチュアルは、コーヒーを一口飲んだ。

 

「甘イ……消エル……」

 

「うん」

 

「ニガイ……戻ル……」

 

「うん」

 

「デモ……悪クナイ……」

 

Xiは、少し身を乗り出した。

 

「今、悪くないって言った?」

 

「悪ク……ナイ……」

 

「それも大事」

 

「嫌イ……デハ……ナイ……」

 

「うん」

 

「悪ク……ナイ……」

 

「うん」

 

Xiは、焼き菓子を一つ取って食べた。

 

「確かに、悪くない」

 

バクスチュアルはXiを見た。

 

「同ジ……?」

 

「同じ」

 

「悪ク……ナイ……」

 

「同じだね」

 

バクスチュアルは、ほんのわずかに目を伏せた。

 

それは笑ったわけではない。

 

けれど、何かが少しだけ柔らかくなったように見えた。

 

Xiは、それを見て何も言わなかった。

 

言葉にすると、壊れてしまいそうだった。

 

遠くの席で、逆さ新聞を持ったログナー司令が、静かにメモを取っていた。

 

Xiはそれに気づいた。

 

「司令」

 

ログナーは新聞の向こうから答える。

 

「何だ」

 

「デートに記録係はいらない」

 

店内の空気が止まった。

 

バクスチュアルがXiを見る。

 

「デート……?」

 

Xiは、自分で言ってから顔を赤くした。

 

「いや、違う。言葉の綾。違うから」

 

バクスチュアルは首を傾げた。

 

「デート……未登録……」

 

Xiは慌てる。

 

「登録しなくていい」

 

ログナーが淡々と言った。

 

「二者で喫茶店に来店し、同じ飲食物を共有し、次回の約束を交わしている」

 

Xiは立ち上がりかけた。

 

「司令、やめて!」

 

「定義上は――」

 

「定義しないで!」

 

バクスチュアルは、少し考えていた。

 

「デート……約束……守ル……?」

 

Xiは頭を抱えた。

 

「その方向で覚えないで」

 

「コーヒー……一緒……飲ム……?」

 

「それは合ってる」

 

「次……約束……?」

 

「合ってる」

 

「デート……?」

 

Xiは黙った。

 

ログナーが新聞の向こうで言った。

 

「否定材料が少ない」

 

「司令!!」

 

窓の外では、弥子が両手で口を押さえていた。

 

「デートって言った!!」

 

ネウロが言う。

 

「叫ぶな。店の外だぞ」

 

「でもデートって!」

 

ラキシスも、ぱっと顔を明るくしていた。

 

「バクスチュアル姉様が、デート……」

 

ソープはにこにこしている。

 

「よかったね」

 

アウクソーは、少しだけ頬を緩めた。

 

カイエンは笑いをこらえている。

 

店内で、Xiは深く息を吐いた。

 

「……まあ、名前は何でもいいよ」

 

バクスチュアルがXiを見る。

 

「何デモ……イイ……?」

 

「うん。大事なのは、次も一緒にコーヒーを飲むこと」

 

「約束……」

 

「そう」

 

バクスチュアルは、小さく頷いた。

 

「デート……デモ……約束……」

 

Xiは一瞬固まった。

 

「いや、そのまとめ方は……」

 

彼女は、カップを持った。

 

「悪ク……ナイ……」

 

Xiは、言葉を失った。

 

それから、諦めたように笑った。

 

「……そっか。悪くないなら、いいか」

 

「イイ……?」

 

「うん。いい」

 

バクスチュアルは、ブラジルサントスをもう一口飲んだ。

 

「普通ノ……苦ミ……」

 

「うん」

 

「嫌イ……デハ……ナイ……」

 

「うん」

 

「悪ク……ナイ……」

 

「うん」

 

「次……酸味……」

 

「うん」

 

「約束……」

 

「約束」

 

その日の結論。

 

バクスチュアルは、ブラジルサントスを飲んだ。

前回の香りとの違いを、少しだけ分かった。

普通の苦みを知った。

嫌いではない、と言った。

悪くない、と言った。

焼き菓子とコーヒーの組み合わせも覚えた。

次は酸味のある豆を試す約束をした。

ログナー司令は記録した。

Xiは「デートに記録係はいらない」と言ってしまった。

バクスチュアルは、デートという言葉を少しだけ誤解した。

しかし、悪くないと判断した。

 

帰り際。

 

店の扉の前で、バクスチュアルは一度振り返った。

 

「Xi……」

 

「何?」

 

「今日……普通ノ……苦ミ……知ッタ……」

 

「うん」

 

「前ノ……香リ……忘レテナイ……」

 

「うん」

 

「今日ノ……苦ミ……モ……忘レナイ……ト……思ウ……」

 

Xiは、静かに頷いた。

 

「それで十分だよ」

 

「十分……」

 

「次は酸味」

 

「次……酸味……」

 

「約束」

 

「約束……」

 

バクスチュアルは、ほんの少しだけ、目を細めた。

 

笑顔ではない。

 

まだ、笑顔とは呼べない。

 

けれど、Xiにはそれが、前回よりも少しだけ柔らかく見えた。

 

「Xi……」

 

「うん?」

 

「次……待ツ……」

 

Xiは、一瞬だけ胸の奥が詰まった。

 

それから、いつものように軽く言った。

 

「じゃあ、待たせすぎないようにするよ」

 

バクスチュアルは頷いた。

 

「了解……」

 

外では、弥子が涙目で親指を立てていた。

 

ネウロは呆れ、キラとラクスは微笑み、ソープとラキシスは穏やかに見守り、カイエンは面白そうに笑い、アウクソーは静かに頭を下げていた。

 

ログナー司令は、記録帳を閉じる。

 

「ブラジルサントス。普通の苦み。次回、酸味系」

 

Xiは言った。

 

「司令、そこだけなら記録していいです」

 

ログナーは短く答えた。

 

「了解した」

 

少し間を置いて、続ける。

 

「デート発言については――」

 

「書かないで!!」

 

バクスチュアルは、そのやり取りを見ていた。

 

「デート……」

 

「忘れて!」

 

「悪ク……ナイ……」

 

「忘れなくていいけど、広めないで!」

 

バクスチュアルは、少しだけ首を傾げた。

 

「広メナイ……了解……」

 

その日の喫茶店には、ブラジルサントスの落ち着いた香りが残っていた。

 

派手ではない。

 

特別に甘いわけでもない。

 

ただ、普通の苦みがあった。

 

けれど、その普通は、バクスチュアルにとっては新しかった。

 

そしてXiにとっても、少しだけ新しかった。

 

誰かと同じカップの香りを確かめること。

 

前と違うね、と言い合うこと。

 

次も来よう、と約束すること。

 

そんな普通を、二人は少しずつ知っていく。

 

バクスチュアルは、普通の苦みを知った。

 

そして、次の酸味を持ち始めた。

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