守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
その日の喫茶店は、少しだけ静かだった。
昼下がり。
窓から差し込む光は柔らかく、棚に並ぶ豆の瓶が淡く照らされている。
怪盗Xiは、いつもの窓際の席でメニューを見ていた。
「……高い」
小さく呟いた。
向かいに座るバクスチュアルが、顔を上げる。
「高イ……?」
Xiはメニューを少し傾けた。
「今日の豆。ゲイシャ」
バクスチュアルは、ゆっくり言葉を繰り返した。
「ゲイシャ……」
そして、少しだけ首を傾げる。
「ニホンノ……芸者……?」
Xiは思わず笑った。
「惜しい! 言葉の響きは同じなんだけどね」
「踊ル……?」
「踊らない。たぶん。豆は踊らない」
「豆……踊ラナイ……」
「そこは記録しなくていい」
バクスチュアルは、メニューを見た。
「ゲイシャ……コーヒー……」
「うん。香りが華やかで、酸味も特徴的らしい。前回のブルーマウンテンより、もっと香りが分かりやすいかも」
「前回……ブルー……マウンテン……」
「覚えてる?」
「青イ……山……ノ……味……デハ……ナイ……」
Xiは吹き出した。
「そこを覚えてるのか」
「酸味……明ルイ……痛クナイ……」
「うん。今日のは、たぶんもっと香りが上に行く感じ」
バクスチュアルは、少しだけ目を伏せた。
「高イ……香リ……?」
Xiはメニューの値段を見た。
「香りも高い。値段も高い」
「値段……高イ……悪クナイ……?」
「そこは悪くないとは言い切れない」
バクスチュアルは、静かに頷いた。
「Xi……少シ……苦シイ……?」
「財布がね」
「財布……苦シイ……」
「それも記録しなくていい」
注文は、ゲイシャを二つ。
店員は少し驚いたように笑った。
「本日はゲイシャですね。香りがとても華やかですので、まずはブラックでお楽しみください」
Xiは頷く。
「お願いします」
バクスチュアルも、Xiに少し遅れて小さく頷いた。
「お願イ……シマス……」
店員が去る。
その背中を見送ってから、バクスチュアルは言った。
「今日……モ……同ジ……豆……」
「うん」
「同ジ……始メル……」
「そう」
「デモ……違ウ……分カル……」
Xiは少しだけ微笑んだ。
「分かるようになってきた?」
バクスチュアルは、しばらく考えた。
「前……アル……」
「うん」
「前ノ……前……アル……」
「うん」
「最初ノ……香リ……アタタカイ……」
「うん」
「普通ノ……苦ミ……」
「うん」
「ブルー……マウンテン……明ルイ……酸味……」
「うん」
「今日……ゲイシャ……」
Xiは、静かに頷いた。
「そう。今日はゲイシャ」
バクスチュアルは、ほんの少しだけカップの置かれる場所を見た。
「次……増エル……」
「増えるね」
「記録……デハ……ナイ……?」
Xiは少し考えた。
「記録でもあると思う。でも、それだけじゃない」
「思イ出……?」
「うん。思い出」
バクスチュアルは、小さく頷いた。
「思イ出……増エル……」
その言葉が、Xiの胸に少しだけ残った。
思い出が増える。
シックスから生まれた怪盗にも。
感情を削られたファティマにも。
そんな普通のことが、少しずつ増えていく。
やがて、コーヒーが運ばれてきた。
白いカップが二つ。
湯気が立つ。
その瞬間、バクスチュアルの視線が少しだけ動いた。
「香リ……」
Xiも顔を近づけた。
前回までとは明らかに違った。
明るい。
軽い。
少し果物のようで、花のようでもある。
コーヒーなのに、どこか紅茶にも似た華やかさがある。
Xiは呟いた。
「これは……確かに高い香りだ」
バクスチュアルは目を閉じる。
長く、静かに香りを確かめる。
「コーヒー……」
「うん」
「デモ……果物……?」
Xiは目を細めた。
「すごい。たぶん、それで合ってる」
「果物……入ッテイル……?」
「入ってない。豆だけ」
「豆……果物……ノ……香リ……」
「そういうこと、あるらしい」
「不思議……」
Xiは少し驚いた。
「今、不思議って言った?」
「不思議……」
「いいね」
「イイ……?」
「うん。分からないけど、嫌じゃない時に使える」
バクスチュアルは、その言葉を覚えるように小さく頷いた。
「不思議……悪クナイ……」
二人はカップを持った。
「飲んでみようか」
「了解……」
同じタイミングで、一口。
バクスチュアルは、ゆっくりとカップを下ろした。
沈黙。
Xiは待つ。
前回も、前々回もそうだった。
彼女が言葉を探す時間は、邪魔してはいけない。
バクスチュアルは、やがて言った。
「酸味……高イ……」
「高い?」
「舌……ノ……上……」
「うん」
「前ノ……酸味……横……」
Xiは少し考える。
「ブルーマウンテンは、舌の端って言ってたね」
「今日……上……」
「なるほど」
「香リ……後カラ……上……行ク……」
Xiは微笑んだ。
「それ、すごくゲイシャっぽい感想だと思う」
バクスチュアルはXiを見る。
「ゲイシャ……ッポイ……」
「うん。たぶん」
「コーヒー……デモ……花……?」
「うん」
「果物……?」
「うん」
「酸味……高イ……」
「うん」
「値段……高イ……」
Xiは少し固まった。
「そこも覚えてたか」
バクスチュアルは、カップを見つめる。
「高イ……悪クナイ……?」
Xiは笑った。
「今日は、悪くない」
バクスチュアルは小さく頷いた。
「悪ク……ナイ……」
窓の外。
少し離れた場所で、弥子が両手を口元に当てていた。
「甘―――――――い!!!」
キラが慌てて言う。
「弥子ちゃん、声、声」
弥子は小声にしたつもりで、あまり小さくない声で続けた。
「ケーキ要らない! いや、いるけど!!」
ラクスがくすっと笑う。
「そこはいるんですね」
ネウロは、心底嫌そうな顔で立ち上がりかけた。
「吾輩は帰る」
弥子が慌てて袖を掴む。
「待ってください! まだ見守りが終わってません!」
「糖分過多だ。喫茶店の外まで甘い」
「でもケーキは要ります!」
「貴様の胃だけは通常運転だな」
店内で、Xiが窓の方をちらりと見た。
「……今、外から何か聞こえた?」
バクスチュアルも窓を見る。
「甘イ……?」
「聞こえてたんだ」
「ケーキ……要ル……?」
Xiは深く頷いた。
「要るらしいね」
「弥子……食欲……普通ジャナイ……」
「そこ、完全に覚えたね」
「重要……?」
「重要じゃないけど、たぶん事実」
バクスチュアルは、少しだけ考える。
「甘イ……空気……?」
Xiは、口に含んだコーヒーでむせかけた。
「誰が教えたの、それ」
「弥子……言ッテイタ……」
「弥子ちゃんか……」
「甘イ……空気……悪クナイ……?」
Xiは視線を逸らした。
「……悪くない、かもしれない」
バクスチュアルは、それを聞いてカップに視線を落とした。
「悪ク……ナイ……」
その声音は、前より少しだけ柔らかかった。
焼き菓子が運ばれてきた。
今日は、少し小さなフルーツのタルトだった。
店員は言う。
「ゲイシャの香りに合わせて、よろしければこちらもどうぞ」
Xiは内心、値段を心配したが、サービスだと聞いて胸を撫で下ろした。
バクスチュアルは、タルトを見た。
「果物……」
「ゲイシャの香りと合わせるんだって」
「香リ……ト……果物……」
「試してみる?」
「試ス……」
バクスチュアルは、小さく切って口に入れた。
「甘イ……酸味……」
「うん」
「果物……酸味……」
「うん」
「コーヒー……酸味……」
「うん」
「違ウ……デモ……近イ……」
Xiは目を細めた。
「かなり分かってきてる」
バクスチュアルは、ゲイシャを一口飲んだ。
「タルト……消エナイ……」
「うん」
「コーヒー……香リ……高イ……」
「うん」
「一緒……悪クナイ……」
「うん」
「甘イ……酸味……高イ……」
「うん」
バクスチュアルは、少しだけ間を置いてから言った。
「今日……多イ……」
「何が?」
「言葉……多イ……」
Xiは驚いた。
「自分で分かる?」
「前ヨリ……言葉……出ル……」
「そっか」
バクスチュアルは、カップを両手で包むように持った。
「香リ……多イ……言葉……必要……」
Xiは、少しだけ胸が詰まった。
「うん。そうだね」
「言葉……足リナイ……デモ……出ス……」
「それでいい」
「Xi……待ツ……」
「待つよ」
「ナゼ……?」
「急がなくていいから」
バクスチュアルは、まっすぐXiを見た。
「Xi……待ツ……側……」
Xiは、今日の自分が少し早く来たことを思い出す。
「まあ、待たせるくらいならね」
「紳士……?」
Xiは完全に固まった。
「誰がそんな言葉を」
「弥子……」
「弥子ちゃん……!」
バクスチュアルは無表情のまま続けた。
「怪物……強盗……デモ……紳士……」
Xiは顔を覆った。
「弥子ちゃん、外で何を言ってるの」
窓の外で、弥子が親指を立てていた。
「聞こえてたー!!」
キラが頭を抱える。
「声量……」
ラクスは楽しそうに笑っている。
ネウロはもう半分帰りかけていた。
「吾輩は帰る。二度目だ」
「ネウロ、あと少し!」
「なぜ吾輩が甘さの見届け人になっている」
店内で、バクスチュアルはXiを見ていた。
「紳士……違ウ……?」
Xiは小さくため息をついた。
「違うって言いたいけど、今日は否定しないでおく」
「否定……シナイ……」
「うん」
「悪ク……ナイ……?」
Xiは笑った。
「悪くない」
バクスチュアルは、少しだけ目を伏せた。
「悪ク……ナイ……」
その時間は、静かに流れた。
トラブルは起きなかった。
シックスの影もない。
通信機を砕く必要もない。
誰かが剣を抜くこともない。
ラキシスが怖い顔になることもない。
ただ、ゲイシャの香りがあった。
高い香り。
高い酸味。
高い値段。
そして、少し高くなった会話の密度。
Xiは、ふと呟いた。
「今日は平和だね」
バクスチュアルは頷いた。
「平和……」
「何も起きない日」
「何モ……起キナイ……」
「うん」
「デモ……思イ出……増エル……」
Xiは少し黙った。
それから、静かに言った。
「そういう日が、一番いいのかも」
「一番……」
「うん」
「一番……悪クナイ……」
Xiは笑った。
「それはもう、かなり良いって意味かも」
「良イ……?」
「うん」
バクスチュアルは、ゲイシャをもう一口飲んだ。
「良イ……日……」
その言葉が、店内の空気にふわりと落ちた。
Xiは何も返さず、ただ頷いた。
会計の時間。
Xiは、今回は慎重だった。
まず財布を確認。
フェザーゴールド金貨が入っていないことを確認。
普通の紙幣を取り出す。
「今日は完璧」
バクスチュアルは隣で見ている。
「金貨……出サナイ……」
「出さない」
「慌テナイ……」
「慌てない」
「笑ウ……ナイ……?」
Xiは少しだけ残念そうにする。
「……そこは期待してた?」
バクスチュアルは、首を傾げた。
「前……悪クナイ……」
Xiは苦笑した。
「そっか。じゃあ、今度は別のことで笑わせるよ」
「笑ワセル……?」
「うん。金貨以外で」
「約束……?」
Xiは一瞬だけ悩んだ。
それから笑った。
「約束」
バクスチュアルは頷いた。
「了解……」
店の外へ出ると、弥子が待ち構えていた。
「甘かったです!!」
Xiは即座に言った。
「見守りの距離感を覚えて」
弥子は涙目で拳を握った。
「でも最高でした! ケーキ要らないくらい甘かったです! いや、ケーキは要りますけど!」
ネウロが低い声で言った。
「吾輩は帰る」
「三回目!」
キラが笑う。
「今日は本当に平和だったね」
ラクスも微笑む。
「ええ。とても穏やかでしたわ」
ラキシスは、バクスチュアルに近づいた。
「バクスチュアル姉様、ゲイシャはいかがでしたか?」
バクスチュアルは答える。
「ゲイシャ……ニホンノ……芸者……デハ……ナイ……」
ラキシスは一瞬きょとんとして、それからくすっと笑った。
「はい」
「香リ……高イ……」
「はい」
「酸味……高イ……」
「はい」
「値段……高イ……」
Xiが慌てる。
「そこはいいから!」
ラキシスは微笑んだ。
「ふふ。大切な記録ですわ」
バクスチュアルは続ける。
「タルト……合ウ……」
「よかったです」
「今日……良イ……日……」
ラキシスは、目元を少しだけ潤ませた。
「はい。良い日でしたね」
アウクソーも静かに頷いた。
「姉様のお言葉が、増えています」
バクスチュアルはアウクソーを見た。
「言葉……増エル……」
「はい」
「香リ……多イ……」
「はい」
「言葉……必要……」
アウクソーは、柔らかく微笑んだ。
「そうかもしれません」
ソープは、その三人を見て穏やかに笑っていた。
「よかったね」
カイエンはXiに小声で言う。
「今日は何もなかったな」
Xiは頷いた。
「何もないのが、こんなにありがたいとはね」
ログナー司令は、少し離れたところに立っていた。
記録帳を開いている。
Xiはすぐに見た。
「司令、今日は何を記録するの?」
ログナーは淡々と言った。
「ゲイシャ。高い香り。酸味を認識。果物と花に近い香り。タルトとの相性、悪くない。次回、金貨以外で笑わせる約束」
Xiは顔を赤くした。
「最後いらない!」
バクスチュアルは静かに言った。
「約束……」
ログナーは頷いた。
「約束として記録する」
Xiは、少しだけ口を尖らせた。
「また約束が増えた」
バクスチュアルはXiを見る。
「嫌……?」
Xiはすぐに首を横に振った。
「嫌じゃない」
「悪ク……ナイ……?」
Xiは少し笑った。
「悪くない」
バクスチュアルは、小さく頷いた。
「悪ク……ナイ……」
その日の結論。
バクスチュアルは、ゲイシャを飲んだ。
ゲイシャは日本の芸者ではないと知った。
豆は踊らないことも知った。
香りが高く、酸味も高く、値段も高いと知った。
果物や花のような香りを、不思議で悪くないと感じた。
タルトと合わせると、甘さと酸味が近づくことを知った。
今日は何も起きなかった。
だから、良い日だった。
弥子は外で甘さに耐えきれず、ケーキは要らないと言いながら、やっぱり要ると言った。
ネウロは三回帰ろうとした。
Xiは、金貨以外でバクスチュアルを笑わせる約束をしてしまった。
帰り道。
バクスチュアルは、隣を歩くXiに言った。
「Xi……」
「何?」
「今日……高イ……香リ……知ッタ……」
「うん」
「ゲイシャ……芸者……デハ……ナイ……」
「うん」
「豆……踊ラナイ……」
「そこは忘れていい」
「値段……高イ……」
「そこも忘れていい」
「タルト……悪クナイ……」
「うん」
「今日……良イ……日……」
Xiは、少しだけ空を見上げた。
「そうだね」
「次……笑ワセル……約束……」
Xiは苦笑した。
「自分で言ったからね」
「待ツ……」
「うん。待ってて」
バクスチュアルは、静かに頷いた。
「了解……」
高い香りは、もう喫茶店の外にはない。
けれど、今日も残った。
バクスチュアルの中に。
Xiの中に。
何も起きなかった、良い日の記憶として。