守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
カフェテラスの午後は、いつも通り騒がしかった。
弥子の前には、サンドイッチの皿。
その横にはケーキ。
さらにその横には、なぜか追加注文用のメニュー。
「弥子、もう昼食は食べたんじゃなかったのか」
ネウロが呆れたように言う。
「これは昼食後の調整です」
「調整とは何だ」
「胃袋の」
「貴様の胃袋は天体軌道か」
キラが苦笑する。
承太郎は帽子の影で静かに珈琲を飲み、ソープは穏やかに笑っていた。
その足元では、すえぞうがてとてと歩いている。
「うっす」
「すえぞう、こっちこっち」
弥子が手を振ると、すえぞうは首をかしげながら近づいてきた。
「ハラへった」
「さっき食べたでしょ?」
「ハラへった」
「ぶれないなぁ」
弥子は笑って、すえぞうの頭を撫でた。
岸辺露伴は、その様子をスケッチブック越しに見ていた。
「……やはり妙だな」
Xiが横目で見る。
「何が?」
「この生物だ。鳥類のようで鳥類ではない。人語を理解し、火を吐き、食欲に支配されているようでいて、危険物に対する判断は妙に的確だ」
「まあ、間違ってはいないけどさ」
「しかもこの顔だ」
露伴はすえぞうを指差した。
「資料価値がある」
Xiは半眼になった。
「先生、すえぞうは資料じゃなくて仲間」
「仲間であることと、資料価値があることは両立する」
「そこ両立させんなよ」
すえぞうは露伴を見上げた。
「ロハン」
露伴は少し眉を動かした。
「何だ」
「エライ?」
「なぜ僕に訊く」
弥子が笑う。
「最近、すえぞうは褒められるの好きなんですよ」
「ふん。褒めて伸びるタイプか」
「かわいいでしょ?」
「……観察対象としてはな」
「また資料扱いしてる」
Xiが呆れたように言った、その時だった。
外の通りに、妙な気配が走った。
承太郎が先に顔を上げる。
「……来るぞ」
カイエンも視線を鋭くした。
「複数だな」
次の瞬間、カフェテラスの窓ガラスが、鋭い音を立てて砕けた。
飛び込んできたのは、黒い装備に身を包んだ数人の男たち。
その手には、ワイヤーのような捕獲具と、細い針を仕込んだ筒状の器具。
弥子が叫ぶ。
「すえぞう!」
男の一人が低く言った。
「対象確認。大型鳥類に酷似した未知生物。生体サンプルとして捕獲する」
Xiの顔が変わった。
「……おい」
男は淡々と続ける。
「シックス様の指示だ。詳細な実験に回す」
その一言で、空気が凍った。
すえぞうは首をかしげる。
「オモチャ?」
「違う!」
Xiが叫ぶより早く、ワイヤーがすえぞうに向かって放たれた。
弥子が立ち上がる。
「すえぞう、逃げて!」
カイエンが動こうとする。
承太郎も拳を握る。
だが、その一瞬、別方向からもう一本の捕獲ワイヤーが飛んだ。
すえぞうの首元を狙って。
「ちッ――!」
露伴が動いた。
誰よりも近かった。
考えるより先に、身体が出た。
露伴はすえぞうの前へ半身を入れ、右腕を伸ばしてワイヤーを弾こうとした。
次の瞬間。
鋭い刃が、露伴の右腕を裂いた。
「露伴先生!」
弥子の悲鳴が響く。
露伴は一歩よろめき、テーブルに手をついた。
右腕から、血が落ちる。
ペンを持つ手。
原稿を描く手。
岸辺露伴にとって、それはただの腕ではなかった。
キラが青ざめる。
「右腕が……!」
Xiが男たちを睨んだ。
「てめえら……!」
カイエンの気配が変わった。
「俺の前で、よくもやったな」
襲撃者たちは次の捕獲具を構える。
だが、そこから先は戦いではなかった。
カイエンが一歩踏み込む。
「逃さねぇヨ」
その声は低く、静かだった。
男たちが散ろうとした。
だが散れない。
逃げ道を選んだはずの一人は、ラキシスの前で足を止めた。
ラキシスは、穏やかに微笑んでいた。
「そちらへは行かせません」
男が舌打ちする。
「どけ!」
ラキシスの表情は変わらない。
「私は帝ほど甘くありません」
その言葉に、Xiが一瞬だけ冷や汗を浮かべた。
「……出た」
弥子が震えた声で言う。
「ラ、ラキシスさん……?」
ソープだけが心配そうに言った。
「ラキシス、無理をしてはいけないよ。君はか弱いファティマなのだから」
Xiとキラと弥子の視線が、同時にソープへ向いた。
今それを言うのか。
ラキシスは微笑む。
「大丈夫ですわ、ソープ様」
その後の動きは、ほとんど見えなかった。
カイエンの剣気が空間を断ち、ラキシスの静かな圧が逃走経路を閉ざす。
承太郎が一人を叩き伏せ、Xiが記録端末を蹴り飛ばした。
キラは弥子とすえぞうを庇うように立ち、ネウロは愉快そうに目を細めていた。
「ククク……実験対象を捕獲するつもりが、自分たちの力量を実験することになったか」
数分もかからなかった。
襲撃者たちは制圧され、捕獲具は破壊され、通信端末はすべて取り上げられた。
ログナーがいつの間にか店内に入り、冷静に周囲を確認する。
「通信遮断。記録媒体を回収しろ」
ログナーの部下たちが動く。
Xiはまだ荒い息をしていた。
「すえぞうの情報は?」
ログナーは短く答えた。
「外には出ていない」
「……ならいい」
そう言いかけて、Xiは振り返った。
露伴が膝をついていた。
「露伴先生!」
弥子が駆け寄る。
露伴は顔をしかめながらも、強がるように口を開く。
「騒ぐな。これくらい――」
その声が止まった。
右手の指が、震えていた。
自分でわかってしまったのだ。
ペンを握る手が。
線を引く指が。
自分の命と同じくらい大事なものが、今、損なわれたかもしれないと。
露伴は歯を食いしばる。
「……くそ」
すえぞうが、そっと近づいてきた。
いつものように「ハラへった」とは言わなかった。
「エライ?」とも言わなかった。
ただ、血の落ちる右腕を見ていた。
露伴が少しだけ睨む。
「……見るな」
すえぞうは止まらなかった。
てと、てと。
小さな足音で近づき、露伴の前で首を低くする。
「ロハン」
露伴の目が揺れた。
すえぞうは、傷口をじっと見つめた。
「イタイ?」
露伴は答えなかった。
答えられなかった。
すえぞうは、そっと傷口に顔を寄せた。
「おい、すえぞう――」
Xiが止めようとしたが、ソープが静かに手を上げた。
「待って」
すえぞうの舌が、露伴の傷口をそっと舐めた。
まるで、痛いものを消そうとする子どものように。
ぽたり。
すえぞうの目から、透明な雫が落ちた。
それは涙だった。
雫は露伴の血に触れた瞬間、淡く光った。
炎ではない。
熱でもない。
傷を焼く光ではなく、命そのものが静かに戻ってくるような、柔らかな光。
血が止まる。
裂けた皮膚が閉じる。
震えていた指が、ゆっくりと動く。
露伴は息を呑んだ。
「……動く」
右手を開く。
握る。
指先に力が戻っている。
痛みがない。
傷もない。
弥子は言葉を失っていた。
キラも、承太郎も、Xiも、ただその光景を見ていた。
ソープが、低く呟く。
「……命の水」
ログナーの目が細くなる。
「まさか、幼体で……」
露伴は右腕を見つめたまま、かすれた声で言った。
「今のは……何だ」
すえぞうは、露伴の顔を覗き込む。
「イタイ、ナイ?」
露伴はしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ目を逸らす。
「……ない」
すえぞうは、安心したように胸を張った。
「うっす」
そのいつもの一言で、弥子の目に涙が浮かんだ。
「すえぞう……」
Xiは深く息を吐いた。
「ほんと、とんでもない奴だな、お前」
すえぞうは首をかしげる。
「エライ?」
「……ああ」
Xiは苦笑した。
「めちゃくちゃエライ」
だが、ログナーの表情は硬いままだった。
「今の光景を見た者は」
カイエンが答える。
「ここにいる者と、あいつらだけだ」
ラキシスが静かに言う。
「あの者たちは、もう語れません」
弥子が一瞬だけ息を止める。
ラキシスの声は、どこまでも穏やかだった。
「すえぞうを実験材料にしようとした者たちです。
命の水を外へ漏らすわけにはいきません」
ソープは、少しだけ悲しそうにラキシスを見た。
「ラキシス」
「ソープ様」
ラキシスは微笑んだ。
「この子を守るためです」
ソープは、ゆっくり頷いた。
「……そうだね」
ログナーは部下に短く命じた。
「記録媒体は全て破棄。通信履歴も追跡しろ。シックス側に、この情報は渡すな」
「はっ」
Xiは露伴を見た。
「先生」
露伴はまだ右手を見ていた。
「何だ」
「今のは描くな」
その言葉に、露伴の目が鋭くなる。
「僕に、見たものを描くなと言うのか」
「言う。今回は本気で言う」
Xiの声に、いつもの軽さはなかった。
「先生がそれを描いたら、すえぞうが狙われる。
今度はもっと大掛かりに。もっと汚いやり方で」
弥子も言う。
「お願いします、露伴先生。すえぞうが……実験されちゃいます」
すえぞうは、露伴を見上げた。
「ロハン?」
露伴は右手を握った。
命を救われた手。
漫画を描く手。
今この瞬間を、どうしようもなく描きたがっている手。
しばらく沈黙があった。
やがて、露伴は小さく息を吐いた。
「……わかった」
Xiが目を細める。
「本当に?」
露伴は不機嫌そうに言った。
「岸辺露伴は約束を破らない」
それから、少しだけ言い足す。
「ただし、忘れたわけじゃないからな」
Xiは、ようやく少し笑った。
「それでいいよ」
弥子はすえぞうの頭をそっと撫でた。
「すえぞう、ありがとう。露伴先生を助けてくれて」
すえぞうは目を細める。
「うっす」
露伴は少し気まずそうに視線をそらした。
「……礼は言っておく」
すえぞうが首をかしげる。
「エライ?」
露伴は眉を寄せた。
「調子に乗るな」
「エライ?」
「……」
露伴は負けたように、ほんの少しだけ顔を背けた。
「少しはな」
弥子が笑った。
「すえぞう、エライって!」
すえぞうは胸を張った。
「うっす!」
その瞬間、すえぞうのお腹が鳴った。
ぐう。
場の空気が、少しだけ緩む。
すえぞうはいつもの調子で言った。
「ハラへった」
弥子は涙を拭きながら笑った。
「うん。今日はいっぱい食べよう。すえぞう、すっごくエラかったから」
Xiも頷く。
「特盛りだな。今日は文句なし」
ネウロが呆れたように言う。
「結局、最後は食欲か」
弥子は胸を張った。
「それが日常です!」
キラが穏やかに笑う。
「戻ってこられる場所があるって、大事だよね」
承太郎は帽子を押さえ、短く言った。
「やれやれだぜ」
ソープはすえぞうを見つめていた。
その目には、優しさと、少しの畏れがあった。
「命の水……か」
ラキシスは静かにすえぞうを見つめる。
「この子は、守られなければなりません」
ログナーが低く応じる。
「承知しております、陛下。情報は外へ出しません」
ソープは少し困ったように笑った。
「ここではソープでいいよ、ログナー」
ログナーは一瞬だけ沈黙し、それから頭を下げた。
「承知しました、ソープ様」
Xiが小声で言う。
「そこは直すんだな」
カイエンが露伴の右腕を見て、ふっと笑った。
「運がいいな、漫画家」
露伴は鼻を鳴らす。
「僕は運で漫画を描いているわけじゃない」
「そうかよ」
「だが」
露伴はすえぞうを見た。
「……今日のところは、少しだけ感謝してやる」
すえぞうは嬉しそうに胸を張った。
「うっす!」
夕方。
カフェテラスには、再び温かい飲み物と食事が並んだ。
弥子とすえぞうは、並んで食べていた。
すえぞうの前には、特別に用意された大盛りの皿。
「ハラへった」
「食べてる最中でしょ」
「ハラへった」
「はいはい」
弥子は笑って、すえぞうの皿に追加を乗せた。
露伴は少し離れた席で、右手にペンを持っていた。
何かを描こうとして、止まる。
その視線の先には、すえぞうがいた。
命の水。
涙。
光。
治った右腕。
描きたい。
漫画家として、これほどの体験を描かずにいることは、苦痛ですらあった。
だが、露伴はページを閉じた。
「……まったく」
Xiが横から覗く。
「描いてないだろうな?」
「うるさい。約束は守ると言っただろう」
「ならいいけど」
露伴はペンを回しながら、すえぞうを見た。
「ただ、あいつのことはもう少し観察する」
Xiが呆れる。
「まだ資料扱い?」
「違う」
露伴は少しだけ間を置いた。
「……借りができた相手を、知らないままにしておくのは気に入らないだけだ」
Xiはにやりと笑った。
「へえ。素直じゃん」
「黙れ」
すえぞうがこちらを振り向いた。
「ロハン」
露伴は目を細める。
「何だ」
「ハラへった」
「僕に言うな!」
カフェテラスに、笑い声が戻った。
それは、いつもの騒がしい日常だった。
けれど、その日から。
岸辺露伴は知っていた。
あの小さなドラゴンが、ただの奇妙な生物ではないことを。
その涙が、命を繋ぐ水になることを。
そして、その秘密を描かないという約束を、自分が守ると決めたことを。
すえぞうは、今日もてとてと歩く。
「うっす」
「ハラへった」
「エライ?」
その言葉は少ない。
けれど、その涙は確かに、誰かの未来を救ったのだった。