守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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岸辺露伴は命の水を見る

岸辺露伴のアトリエには、紙とインクの匂いが満ちていた。

 

机の上には原稿用紙。

ペン先。

インク瓶。

資料の山。

そして、なぜか床の上には、すえぞうがいた。

 

「うっす」

 

「うっす、じゃあない」

 

露伴はペンを走らせながら、視線だけを床へ向けた。

 

「部屋を散らかすなよ。資料には触るな。原稿には近づくな。インクを舐めるな。

 

 あと、勝手に寝るな」

 

すえぞうは首をかしげた。

 

「ハラへった」

 

「聞いてないな、こいつ」

 

アトリエの扉が開いた。

 

「露伴先生ー、様子見に来ましたよ」

 

泉京香が顔を出し、その後ろから弥子がひょこっと覗く。

 

「お邪魔しまーす」

 

「邪魔するなら帰れ」

 

露伴は即答した。

 

泉は慣れた様子で笑う。

 

「邪魔しないならいいですよね?」

 

「屁理屈を言うな」

 

弥子はすえぞうを見つけて、ぱっと表情を明るくした。

 

「あ、すえぞう!」

 

「うっす」

 

「ちゃんと大人しくしてた?」

 

「ハラへった」

 

「大人しくはしてたみたいですね」

 

「判断基準が甘すぎる」

 

露伴が言った。

 

すえぞうは、てとてとと弥子の方へ歩いていく。

その足音は軽い。

つい先日、命の水という神秘を見せた存在とは思えないほど、いつも通りだった。

 

泉は原稿机に近づき、露伴の手元を覗き込む。

 

「先生、進みはどうですか?」

 

「見ればわかるだろう。順調だ」

 

「わ、ほんとだ。ペン入れ、いつもより早くないですか?」

 

露伴のペン先が止まった。

 

「……何?」

 

泉は原稿を見ながら言う。

 

「線がすごく安定してます。迷いがないっていうか、細かい線も全然ブレてないし。先生、腕の調子いいんですか?」

 

弥子が、はっとした顔をする。

 

露伴は何でもないようにペンを置いた。

 

「僕はいつでも調子がいい」

 

「でも、この前……」

 

弥子が言いかけると、露伴の視線が飛んだ。

 

「その話はするな」

 

「す、すみません」

 

泉がきょとんとする。

 

「この前?」

 

「何でもない」

 

露伴は袖を少し下ろした。

 

その動作を、弥子は見逃さなかった。

 

「露伴先生」

 

「何だ」

 

「右腕、見せてもらっていいですか?」

 

「なぜだ」

 

「気になるからです」

 

「医者でもないくせに」

 

「でも、心配なんです」

 

露伴はしばらく黙った。

 

それから、あからさまに面倒くさそうな顔で袖をまくる。

 

「見るだけだぞ」

 

弥子と泉が覗き込む。

 

そこには、傷跡がなかった。

 

先日の襲撃で裂かれた傷はもちろん、そこにあるはずだった古い火傷の跡すら消えていた。

 

露伴自身も、その腕を見下ろす。

 

「……やっぱりか」

 

弥子が息を呑む。

 

「古い火傷の跡まで……」

 

泉は目を丸くする。

 

「えっ、火傷? 先生、そんな跡ありましたっけ?」

 

「昔の話だ。大したものじゃない」

 

「いやいや、消えてるってことですよね? どういうことですか?」

 

露伴は答えなかった。

 

代わりに、すえぞうを見た。

 

すえぞうは弥子の足元で、何もわかっていないような顔をしている。

 

「ハラへった」

 

露伴は小さく息を吐いた。

 

「……余計なところまで治したな」

 

すえぞうが首をかしげる。

 

「エライ?」

 

露伴は即答しなかった。

 

泉が目を輝かせる。

 

「何ですか何ですか? すえぞうちゃんが何かしたんですか? 

先生、これ絶対ネタになりますよ!」

 

「ならない」

 

露伴の声は鋭かった。

 

泉がびくっとする。

 

「え?」

 

露伴は右袖を戻した。

 

「ならない。これは描かない」

 

弥子は、少しだけ驚いた顔で露伴を見る。

 

「露伴先生……」

 

泉は信じられないという顔をした。

 

「先生が? 見たものを? 描かない?」

 

「そう言った」

 

「熱あります?」

 

「ない」

 

泉は露伴の顔をじっと見た。

 

「……変ですよ、先生」

 

「失礼な編集だな」

 

「だって、先生なら普通、“この体験は漫画にする価値がある!”って言いますよ」

 

露伴は少しだけ黙った。

 

それから、原稿用紙に視線を戻す。

 

「価値ならある」

 

「じゃあ――」

 

「あるから描かないんだ」

 

アトリエが静かになった。

 

弥子は、すえぞうの頭をそっと撫でた。

 

すえぞうは目を細める。

 

「うっす」

 

露伴は続けた。

 

「描けば、残る。残れば、読む者がいる。読む者がいれば、探す者が出る」

 

泉は何も言えなかった。

 

露伴はペンを手に取る。

 

「それでこいつがまた狙われるなら、描く価値があるものほど描けない。

……腹立たしいことにな」

 

弥子は小さく笑った。

 

「露伴先生、ちゃんと約束守ってるんですね」

 

「岸辺露伴は約束を破らない」

 

「はい」

 

「それに」

 

露伴は右手を軽く握った。

 

「この右手は借り物じゃない。僕の手だ。僕が描くものは、僕が選ぶ」

 

泉は、まだ半分納得していない顔だった。

 

「でも先生、腕の調子がいいなら、原稿は進みますね」

 

「そこだけは編集らしいな」

 

「締切があるので」

 

「台無しだ」

 

弥子が笑う。

 

「でも、良かったです。右腕、痛くないんですよね?」

 

露伴はペン先をインクに浸した。

 

「痛くない。軽い。気味が悪いくらいにな」

 

すえぞうが近づく。

 

「ロハン」

 

「何だ」

 

「イタイ、ナイ?」

 

露伴のペンが、ほんの少し止まった。

 

それから、露伴は視線をそらしたまま答える。

 

「……ない」

 

すえぞうは安心したように胸を張った。

 

「うっす」

 

弥子がにこにこする。

 

「すえぞう、よかったね」

 

「ハラへった」

 

「うん、そこは変わらないね」

 

泉がしゃがみ込んで、すえぞうを眺める。

 

「かわいいですねぇ、この子。先生のアトリエにいると、なんか不思議な感じ」

 

露伴はすぐに言った。

 

「長居はさせない。原稿に毛がつく」

 

「羽じゃないですか?」

 

「どっちでもいい」

 

すえぞうは机の下へ入り込もうとした。

 

露伴が即座に止める。

 

「そこに入るな。資料がある」

 

「オモチャ?」

 

「違う。資料だ」

 

「エライ?」

 

「資料は偉くない」

 

弥子が笑う。

 

「すえぞう、露伴先生の資料は食べちゃダメだよ」

 

「ハラへった」

 

「食べ物じゃないってば」

 

露伴は額を押さえた。

 

「なぜこいつを連れてきた」

 

「すえぞうが露伴先生のこと気にしてたんです」

 

弥子が言う。

 

露伴は少しだけ顔を上げた。

 

「僕を?」

 

「はい。『ロハン、イタイ?』って、ずっと言ってたので」

 

すえぞうは露伴を見上げる。

 

「ロハン」

 

露伴は、しばらくその目を見返した。

 

それから、ふいと視線を外す。

 

「もう痛くないと言っただろう」

 

「うっす」

 

「だから、心配するな」

 

すえぞうが胸を張る。

 

「エライ?」

 

露伴はため息をつく。

 

「なぜそこでお前が褒められる流れになる」

 

弥子がすかさず言った。

 

「でも、すえぞうはエラいですよね?」

 

泉も乗る。

 

「ですね。何したかよくわからないけど、先生を助けたならエラいです」

 

すえぞうが期待に満ちた顔で露伴を見る。

 

「エライ?」

 

露伴はペンを握ったまま、数秒黙った。

 

そして、負けたように言う。

 

「……エラい」

 

すえぞうは誇らしげに鳴いた。

 

「うっす!」

 

弥子が拍手する。

 

「よかったね、すえぞう!」

 

「ハラへった」

 

「じゃああとで何か食べようね」

 

露伴がすかさず言う。

 

「ここでは食べるな。原稿が汚れる」

 

「じゃあ、台所借りてもいいですか?」

 

「なぜそうなる」

 

泉が原稿を覗き込む。

 

「先生、このページすごいですね。右手の調子、ほんとにいいんだなぁ」

 

露伴は少しだけ、右手を見た。

 

古い火傷の跡が消えた手。

傷を受け、涙に触れ、元に戻った手。

 

いや、元に戻っただけではない。

 

ほんの少しだけ、何かが違う。

 

重さがない。

迷いがない。

線が、思った場所へ落ちる。

 

露伴は、すえぞうを見た。

 

すえぞうは床に座り、弥子から何かもらえないか期待している顔をしている。

 

命の水。

涙。

光。

 

漫画にできない体験。

 

だが、漫画を描く手には、確かに残っている。

 

露伴は小さく笑った。

 

「……まったく。厄介な借りを作られたものだ」

 

弥子が聞き返す。

 

「何か言いました?」

 

「何でもない」

 

露伴は原稿用紙に向き直った。

 

「静かにしろ。今、いい線が引けそうなんだ」

 

泉がぱっと笑う。

 

「それは大歓迎です!」

 

「編集は黙って見ていろ」

 

「はいはい」

 

すえぞうが、てとてとと露伴の足元へ戻ってきた。

 

「ロハン」

 

「今度は何だ」

 

「エライ?」

 

露伴はペンを走らせながら答える。

 

「さっき言っただろう」

 

「エライ?」

 

「……エラい」

 

「うっす」

 

その声を聞いて、露伴の線は少しだけ柔らかくなった。

 

弥子はそれに気づいたが、何も言わなかった。

 

泉も、珍しく何も言わずに原稿を見ていた。

 

アトリエには、紙とインクの匂いが満ちている。

 

窓の外では、午後の光が傾き始めていた。

 

岸辺露伴は、命の水を見た。

 

だが、それを描かないと決めた。

 

その代わりに、彼は今日も右手で線を引く。

 

誰にも見せない約束と、

小さなドラゴンの涙を、

その手の奥にしまったまま。

 

すえぞうが、最後にぽつりと言った。

 

「ハラへった」

 

露伴はため息をついた。

 

「……桂木弥子。

 こいつを連れて、何か食わせてこい」

 

弥子が笑う。

 

「はい!」

 

すえぞうは元気よく胸を張った。

 

「うっす!」

 

露伴は原稿に視線を戻した。

 

その右手は、今日もよく動いた。

 

 

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