守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
その喫茶店は、大通りから一本外れた路地にあった。
看板は小さい。
入口も目立たない。
だが、扉を開けると、焙煎された豆の香りが静かに流れてくる。
壁には、各国の珈琲豆の名前が並んでいた。
エチオピア。
ブラジルサントス。
ブルーマウンテン。
ゲイシャ。
マンデリン。
そして、その奥に小さく書かれた、特別な一杯。
コピ・ルアク。
怪盗Xiは、その文字を見て、わずかに眉を寄せた。
「……ついに来たか」
向かいに座るファティマ・バクスチュアルが、首をかしげる。
「ツイニ?」
「いや。こっちの話」
Xiはメニューから顔を上げ、カウンターの奥にいる店主を見た。
「例の、あります?」
店主は、何も驚かなかった。
「コピ・ルアクですね。少量ですが、ご用意できます」
バクスチュアルが、その名を繰り返す。
「コピ……ルアク」
「そう」
Xiは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「一応、飲む前に説明いる?」
「説明、必要?」
「必要っていうか……人によっては、聞いてから飲むと抵抗ある」
「抵抗」
バクスチュアルは、淡々とその単語を受け取った。
Xiは指でカップの縁を軽く叩いた。
「ジャコウネコって動物がいる。そいつがコーヒーチェリーを食べて、体内を通った豆を洗浄して、乾燥させて、焙煎した珈琲」
バクスチュアルは数秒、黙っていた。
Xiはその反応を見て、慌てて続ける。
「もちろん、ちゃんと洗浄してるし、焙煎もしてる。衛生的な処理はされてる。だけど、まあ、説明だけ聞くとちょっと……」
「体内、通ル」
「そう」
「洗浄、乾燥、焙煎」
「そう」
「不純物、除去。香味、残ル」
「まあ、理屈はそうだけど」
バクスチュアルは静かに頷いた。
「問題、ナイ」
Xiは目を瞬かせた。
「案外あっさり受け入れるね」
「処理、適切。飲用、可能」
「人間には、もうちょっと感情的な壁があるんだよ」
「感情的ナ、壁」
バクスチュアルは、その言葉をゆっくり繰り返した。
Xiは少し笑った。
「まあ、君らしいけど」
店主が、奥から小さな瓶を持ってきた。
「香りを確かめますか」
蓋が開く。
少し湿ったような、甘いような、深い香りが立った。
普通の珈琲豆とは少し違う。
土のような、果実の名残のような、どこか丸い香り。
バクスチュアルが、じっとそれを見つめる。
「変ワッタ、香リ」
「嫌?」
「嫌、デハナイ」
Xiは、ほんの少し安心した。
「じゃあ、二つお願いします」
店主は頷き、丁寧に豆を挽き始めた。
店内に、静かな音が広がる。
ゴリゴリと豆が砕かれる音。
湯が細く注がれる音。
カップに珈琲が落ちる音。
バクスチュアルは、そのすべてを見ていた。
以前もそうだった。
初めてこの店に来た時、彼女は珈琲というものを、味よりもまず工程として見ていた。
豆を挽く。
湯を注ぐ。
成分を抽出する。
香りを楽しむ。
それが、彼女にとっては不思議だったらしい。
ファティマとして作られた存在。
効率と性能と補助機能を求められる存在。
そんな彼女が、ただ香りの違いを楽しむために時間を使う。
Xiは、最初はそれが面白かっただけだった。
エチオピアを飲んだ時、バクスチュアルは少し目を細めた。
ブラジルサントスでは、落ち着いた味だと言った。
ブルーマウンテンでは、しばらく黙ってから「整ッテイル」と言った。
ゲイシャでは、香りに驚いた。
マンデリンでは、「深イ」と呟いた。
そのたびに、彼女の表情がほんの少しだけ変わった。
大きく笑うわけではない。
声を上げるわけでもない。
けれど、Xiにはわかった。
ほんの少し、柔らかくなる。
だから、次の豆を探すようになった。
今日は何なら、彼女が少し笑うだろうか。
今日は何なら、彼女が「不思議」と言うだろうか。
今日は何なら、彼女がまた来たいと思うだろうか。
店主は、たぶん気づいている。
カップが二つ置かれた。
「お待たせしました」
黒い液面から、独特の香りが立ち上る。
Xiはカップを持ち上げた。
「熱いから、ゆっくり」
バクスチュアルは両手でカップを包むように持った。
「ハイ」
まず、香りを確かめる。
そして、ほんの少し口に含んだ。
Xiも続けて飲む。
苦味はある。
けれど、尖っていない。
丸い。
どこか甘く、発酵した果実の名残のような深みがある。
Xiは思わず言った。
「……変わってるな」
バクスチュアルは、カップを見つめたまま呟く。
「苦イ」
「うん」
「デモ、丸イ」
「うん」
「重イ。デモ、嫌ジャナイ」
Xiは少し笑った。
「かなり正しい感想だと思う」
バクスチュアルは、もう一口飲んだ。
それから、静かに言った。
「普通ノ、豆ト、違ウ道、通ッタ」
Xiの手が止まる。
「……そうだね」
「デモ、珈琲」
「うん」
「違ウ道、通ッテモ、珈琲」
Xiは、しばらく黙っていた。
その言葉が、思ったより深いところに刺さったからだ。
普通ではない経路。
普通ではない由来。
普通ではない存在。
それでも、今ここにあるものは、珈琲だ。
バクスチュアルはカップを見つめたまま、ぽつりと言った。
「私モ……違ウ道、通ッタ?」
Xiは、すぐには答えなかった。
バクスチュアルは、彼を見る。
その瞳は、質問の形をしていた。
Xiは少しだけ息を吐く。
「違う道かもしれない」
バクスチュアルは黙っている。
「でも」
Xiは、カップを置いた。
「今ここで珈琲飲んでる君は、君だよ」
バクスチュアルの表情が、ほんの少しだけ動いた。
「私ハ、私」
「そう」
「Xiサンモ、違ウ道」
Xiは苦笑した。
「まあ、俺も普通とは言いづらいな」
「デモ、Xiサン」
「……そっか」
バクスチュアルは、小さく頷いた。
「Xiサンハ、Xiサン」
Xiは視線を落とした。
「そう言われると、なんか照れるな」
「照レル」
「覚えなくていい単語をまた覚えたな」
バクスチュアルは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それは、笑顔と呼ぶには小さすぎる。
けれど、Xiには十分だった。
彼はその表情を見て、次も何か探そうと思った。
また来ようと思った。
その時だった。
店の扉に付いたベルが鳴った。
カラン。
「こんにちはー……あれ?」
Xiの肩が跳ねた。
入口に立っていたのは、桂木弥子だった。
その後ろに、泉京香もいる。
弥子は、店内を見回し、Xiとバクスチュアルを見つけて目を丸くした。
「Xiさん?」
Xiは、反射的に顔を背けた。
「げ」
泉が眼鏡を押さえるような仕草で、落ち着いて言う。
「お二人で珈琲ですか?」
「たまたま」
Xiは即答した。
弥子が首をかしげる。
「たまたま?」
「そう。たまたまこの店に来たら、たまたまバクスチュアルがいて、たまたま同じ席になった」
泉は冷静だった。
「かなり無理がありますね」
店主が、何も知らない顔で言う。
「いつもありがとうございます」
Xiが叫んだ。
「店主!」
弥子の目が輝く。
「いつも!?」
泉がすぐに言う。
「つまり、複数回来店されているということですね」
「記録するな!」
バクスチュアルが、淡々と補足した。
「エチオピア。ブラジルサントス。ブルーマウンテン。ゲイシャ。マンデリン。今日、コピ・ルアク」
弥子が両手を合わせた。
「めっちゃ通ってる!」
Xiは頭を抱えた。
「バクスチュアルまで!」
泉は小さく頷く。
「継続的な珈琲デートですね」
「デートじゃない。珈琲の勉強」
弥子がにやにやする。
「二人きりで?」
「結果的に!」
バクスチュアルが、Xiを見る。
「デート……違ウ?」
Xiは固まった。
「今、その単語を掘り返さなくていい」
泉が穏やかに言った。
「否定するなら、もう少し論理的な説明が必要です」
「セイロニスト発動しないでください!」
弥子は席に近づき、バクスチュアルのカップを見た。
「今日は何飲んでるんですか?」
バクスチュアルは答える。
「コピ・ルアク」
弥子は一瞬考えた。
「……あの、ジャコウネコの?」
Xiが慌てて言う。
「説明の仕方!」
泉は冷静に言う。
「高級珈琲として有名ですね。かなり珍しいものでは?」
店主が頷く。
「はい。今日は良いものが少しだけ入りました」
弥子は感心したようにバクスチュアルを見る。
「すごいですね。抵抗なかったんですか?」
「処理、適切。飲用、可能」
「つよい」
Xiはため息をついた。
「俺より抵抗なかった」
弥子が笑う。
「バクスチュアルさんらしいですね」
バクスチュアルは少し考えてから言った。
「変ワッテイル。デモ、嫌ジャナイ」
「珈琲が?」
「珈琲モ。時間モ」
その場が、少しだけ静かになった。
Xiはバクスチュアルを見た。
バクスチュアルは、カップを両手で持っている。
「Xiサン、選ンダ」
弥子の表情が、ふっと柔らかくなった。
「そっか」
泉も、その空気を察したようだった。
「弥子さん、私たちは別の席にしましょうか」
「ですね」
Xiが慌てる。
「いや、別にそういう気遣いは――」
弥子はにこっと笑った。
「邪魔しませんから」
「だから邪魔とかじゃなくて」
泉が言う。
「大丈夫です。継続的な珈琲デートの邪魔はしません」
「だからデートって言うな!」
バクスチュアルが小さく呟く。
「継続的」
Xiは机に突っ伏しそうになった。
「そこも拾わなくていい」
弥子と泉は、少し離れた席に座った。
店内には、再び穏やかな時間が戻ってくる。
Xiはカップを持ち直し、少し冷めたコピ・ルアクを飲んだ。
「……バレた」
バクスチュアルは静かに言う。
「悪イ、コト?」
Xiは少し考えた。
「悪いことじゃない」
「デハ、問題ナイ」
「いや、恥ずかしいっていう問題がある」
「感情的ナ、壁」
Xiは思わず笑った。
「それ、さっきの話とつながる?」
バクスチュアルは首をかしげる。
「違ウ?」
「違わないかもしれない」
二人は、しばらく黙って珈琲を飲んだ。
コピ・ルアクは、冷めても香りが残っていた。
独特で、丸くて、少し不思議な味。
バクスチュアルが、ふと口を開く。
「Xiサン」
「何?」
「毎回、選ンデイル?」
Xiは目を逸らした。
「豆の話?」
「ハイ」
「まあ……一応」
「私ノ、反応、見テイル?」
Xiは黙った。
バクスチュアルは続ける。
「エチオピア。ブラジルサントス。ブルーマウンテン。ゲイシャ。マンデリン。今日、コピ・ルアク」
「よく覚えてるな」
「覚エテイル」
「そっか」
「Xiサン、毎回、私ヲ見テイル」
Xiは、カップを置いた。
「……見るだろ」
「ナゼ?」
その質問は、まっすぐだった。
Xiは、返答に困った。
格好つけることもできた。
はぐらかすこともできた。
いつものように「珈琲の勉強」と言うこともできた。
だが、バクスチュアルは待っている。
Xiは小さく息を吐いた。
「君が、少し笑うから」
バクスチュアルの瞳が、わずかに揺れた。
「笑ウ」
「ほんの少しだけど」
Xiは照れくさそうに言う。
「豆によって、君の反応が違う。香りで少し目が変わったり、味で少し黙ったり、たまに……ほんの少し笑ったりする」
バクスチュアルは黙っている。
「それが見たいから、選んでる」
言ってから、Xiは視線を逸らした。
「……言わせるなよ」
バクスチュアルは、カップを両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと言った。
「嬉シイ」
Xiは、顔を上げる。
バクスチュアルの口元が、本当に少しだけ緩んでいた。
今までのどの珈琲より、はっきりと。
「Xiサン、選ンダ。私ノ、笑顔、見タイ」
「……まあ」
「嬉シイ」
Xiは、困ったように笑った。
「そっか」
「ハイ」
「なら、よかった」
バクスチュアルは、もう一口コピ・ルアクを飲んだ。
「今日ノ珈琲、変ワッテイル」
「うん」
「デモ、嫌ジャナイ」
「うん」
「次、何、飲ミマスカ?」
Xiは少し驚く。
「次も来る前提なんだ」
バクスチュアルは、まっすぐ彼を見る。
「来マセンカ?」
Xiは、しばらく黙った。
そして、小さく笑った。
「来るよ」
バクスチュアルは頷いた。
「ハイ」
少し離れた席で、弥子が泉に小声で言う。
「今、めっちゃいい雰囲気ですよね」
泉も小声で答える。
「はい。邪魔しないのが正解です」
「でも、あとで何飲んだか聞きたいです」
「それは食文化調査ではなく、恋愛事情調査になります」
「それも文化です」
「否定はしません」
Xiの耳は、それを拾っていた。
「聞こえてるからな」
弥子は笑った。
「邪魔しませんって」
「してるだろ」
だが、Xiの声はそこまで強くなかった。
バクスチュアルは、カップの底に残った珈琲を見つめていた。
普通ではない道を通った豆。
けれど、今は一杯の珈琲になっている。
普通ではない道を来た二人。
けれど、今は同じ席で向かい合っている。
それでよかった。
バクスチュアルは、最後の一口を飲んだ。
「Xiサン」
「何?」
「今日、笑エタ?」
Xiは少しだけ目を細める。
「うん」
バクスチュアルは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ナラ、良カッタ」
その笑顔を見て、Xiは思った。
次は、何を選ぼうか。
怪盗Xiは、コピ・ルアクをまだ完全には信用していない。
説明を聞けば、やはり少し身構える。
けれど。
バクスチュアルが笑うなら、もう一度くらいは悪くない。
いや。
たぶん、次もまた来る。
この小さな喫茶店で、二人だけの珈琲の続きを探すために。