守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
「それでね、Xiさんとバクスチュアルさん、またあの珈琲屋さんに行ってたんですよ」
桂木弥子がそう言った瞬間、レディオス・ソープは顔を上げた。
場所は、いつものカフェテラス。
昼下がりの席には、ソープ、ラキシス、ログナー、桂木弥子、泉京香、そしてすえぞうがいた。
すえぞうは、テーブルの下でてとてと歩き回りながら、時々顔を出している。
「ハラへった」
「はいはい、すえぞうにはあとで何か頼もうね」
弥子がそう言うと、すえぞうは満足そうに胸を張った。
「うっす」
ソープは、弥子の話に興味を示していた。
「Xiくんとバクスチュアルが?」
ラキシスが小さく微笑む。
「バクスチュアル姉様も、地球での時間を楽しまれているようで何よりですわ」
泉が少しだけ咳払いした。
「弥子さん、ご本人たちのプライベートをあまり大きな声で話すのは……」
「あっ、そうでした」
弥子は慌てて口元を押さえる。
「でも、すごくいい雰囲気だったんです。二人で珈琲飲んでて」
ソープはますます興味深そうに身を乗り出した。
「珈琲か。何を飲んでいたんだい?」
「えっと、今回はコピ・ルアクでした」
その瞬間、泉の顔が少しだけ固まった。
ラキシスも、わずかに首を傾げる。
ソープは、楽しそうに頷いた。
「ああ、ジャコウネコの消化器官を通った珈琲豆だね」
泉が即座に言った。
「説明が直球すぎます」
弥子は苦笑した。
「でも、高級珈琲なんですよね?」
「うん。コーヒーチェリーを食べたジャコウネコの体内を通った豆を回収し、洗浄し、乾燥し、焙煎する。発酵や酵素の作用によって、独特の風味が生まれると言われているね」
ソープの目が、きらりと光った。
泉はその光に気づいた。
「……ソープ様?」
「なるほど」
泉の警戒心が上がる。
「その“なるほど”は、少し危険な響きがします」
ソープは、ゆっくりとすえぞうを見た。
すえぞうは、何も知らない顔でテーブルの脚を見ている。
「ハラへった」
ソープは微笑んだ。
「以前も少し考えたことがあったけれど」
ログナーが、無言で視線を上げた。
その時点で、彼には嫌な予感があった。
ソープは言った。
「このコに珈琲の果実を食べさせる……面白いと思わないか?」
沈黙。
風がカフェテラスを通り抜けた。
すえぞうだけが、元気に返事をする。
「うっす」
泉がまず口を開いた。
「やめてください」
弥子も少し遅れて言う。
「えっと……」
ログナーは淡々としている。
「陛下」
ソープは首をかしげた。
「何だい?」
「実施はお控えください」
ソープは少し不思議そうな顔をした。
「もちろん、無理にとは言わないよ。ただ、理論上は興味深いと思わないかな。ジャコウネコで成立するなら、ドラゴンの消化器官を通った場合、どのような成分変化が――」
「やめてください」
泉がもう一度、はっきり言った。
ラキシスも穏やかに微笑みながら、しかし声には芯があった。
「ソープ様、すえぞうが困ります」
ソープはすえぞうを見る。
すえぞうは胸を張っている。
「ハラへった」
「ほら、本人は前向きだよ」
泉が即答する。
「すべての食べ物に前向きなだけです」
弥子が小さく呟いた。
「でも……コピ・ルアクが成立するなら、理論上は……」
泉が弥子を見る。
「弥子さん」
「はい」
「食欲を学術的好奇心に偽装しないでください」
弥子は少しだけ目を逸らした。
「ちょっとだけ、どんな味になるのか気になって……」
ログナーの表情は変わらなかった。
だが内心では、たぶんこう思っていた。
陛下は相変わらず、頭のネジの締め方が独特でいらっしゃる。
もちろん、口には出さない。
ソープは少し考えた。
「直接、珈琲豆を通すのが問題なら」
泉が警戒する。
「なら?」
「すえぞうの排泄物を肥料にするのはどうだろう?」
今度は、さらに長い沈黙が落ちた。
弥子が瞬きをする。
ラキシスが静かに目を閉じる。
泉は額に手を当てた。
ログナーは、一切表情を動かさなかった。
すえぞうは、元気よく言った。
「ハラへった」
泉が絞り出すように言う。
「方向転換しているようで、方向性はかなり近いです」
ソープは真面目だった。
「でも、肥料として土壌に還元するのなら、農業の範囲だよ」
「言葉を農業に寄せても、対象がすえぞうである以上、問題は残ります」
弥子が少しだけ身を乗り出した。
「でも、肥料なら……野菜とか果物を作るのには、実際にいろいろな有機肥料が使われますよね?」
泉が弥子を見る。
「弥子さん、そちら側に行かないでください」
弥子は慌てて言い訳する。
「いや、食べたいとかじゃなくて、興味として!」
「その興味の向きが危険です」
ソープは、むしろ弥子の言葉に力を得たようだった。
「そう。魚粉や発酵肥料が野菜の品質を高める例はある。魚卵の加工残渣や魚のあらを発酵させた肥料は、アミノ酸やミネラルを含み、作物に良い影響を与えることがある」
泉は冷静に言った。
「一般論としては理解できます」
「なら」
「今回の対象がLEDドラゴンの幼体なのが問題です」
「そこだね」
「そこです」
ソープはすえぞうを見た。
「すえぞうは、命の水を宿すLEDドラゴンの幼体だ。代謝物に、ごく微量の神秘的成分が含まれる可能性は否定できない」
泉は目を閉じた。
「否定してください」
弥子が小さく言う。
「飲んだら、ちょっと元気になる珈琲に……」
泉が即座に言った。
「弥子さん」
「はい」
「期待しないでください」
ラキシスが、やんわりとソープに言う。
「ソープ様。すえぞうを珈琲栽培に関わらせるのは、少々問題があるのではないでしょうか」
「ラキシスもそう思う?」
「はい。すえぞうはまだ幼いですし」
「うん」
「何より、本人が理解して同意できる内容ではありませんわ」
すえぞうは、ラキシスを見上げた。
「エライ?」
ラキシスは微笑んだ。
「すえぞうはエライですわ」
すえぞうは満足そうに言った。
「うっす」
ソープは、少し残念そうに腕を組んだ。
「でも、LEDドラゴン・テロワール珈琲という概念は、なかなか面白いと思うんだ」
泉が言う。
「名前で高級感を出さないでください」
弥子が思わず反応した。
「LEDドラゴン・テロワール珈琲……」
泉がすぐに止める。
「弥子さん、響きに惹かれないでください」
「だって、ちょっと高級そうで」
「高級かどうか以前に、倫理上の問題があります」
ログナーが、ここで初めて口を開いた。
「陛下」
ソープは彼を見る。
「何かな、ログナー」
ログナーは、いつものように淡々としていた。
「現実的ではありません」
ソープは少し首をかしげる。
「なぜ?」
泉は、倫理面の話が続くと思った。
ラキシスも、すえぞうの尊厳について語られると思った。
弥子は、衛生管理の問題だと思った。
だが、ログナーは違った。
「恐らく、すえぞうの排泄量では、コーヒーの木一本分の肥料にもならないかと」
全員が止まった。
泉が小さく言う。
「そこですか」
弥子が思わず呟く。
「一本分にもならないんですか……」
泉が即座に突っ込む。
「弥子さん、残念そうにしないでください」
ソープは、真剣に考え込んだ。
「なるほど。量の問題か」
ログナーは頷く。
「はい」
その無表情の奥で、たぶん彼はこう思っている。
量の問題だけではありません、陛下。
だが、ソープに対しては、感情論より運用論の方が有効なことをログナーは知っていた。
ソープはさらに言う。
「では、すえぞうの食事量を――」
ログナーが即座に遮った。
「摂取量を増やしてまで行う研究ではありません」
泉が深く頷いた。
「そこは大変重要です」
ラキシスも微笑みながら言う。
「すえぞうのお腹を、研究目的で調整してはいけませんわ」
すえぞうは元気よく言う。
「ハラへった」
ソープが少し笑う。
「ほら、やはり――」
ログナーが続けた。
「また、仮に十分量を確保できたとしても、コーヒーの木の栽培から収穫、精製、焙煎までには年単位の管理が必要になります」
ソープは目を輝かせた。
「それはそれで面白いね」
ログナーは、ほんの少しだけ間を置いた。
「面白くありません」
その一言に、泉が小さく吹き出しそうになった。
ラキシスは口元に手を添えて微笑んだ。
弥子は目を丸くした。
「ログナーさんが、ちょっと本音を……」
ログナーは何事もなかったように続ける。
「さらに、作物に何らかの神秘的効果が発現した場合、管理責任が発生します」
ソープは頷く。
「たしかに」
「効果が発現しなかった場合は、研究資源の浪費です」
「うん」
「効果が発現した場合は、より大きな問題になります」
泉が頷く。
「どちらに転んでも大変ですね」
ログナーは結論を出した。
「よって、却下が妥当かと」
ソープは少し残念そうだった。
「そっか」
弥子も、ほんの少し残念そうだった。
「そっか……」
泉が言う。
「弥子さん」
「はい」
「一緒に残念がらないでください」
ソープは、まだ諦めきれない顔をしている。
「では、すえぞうが寝ていた場所の土を採取して――」
ログナーが即答した。
「却下します」
弥子が驚く。
「早い」
泉が感心する。
「非常に迅速な判断です」
ラキシスは穏やかに言った。
「ソープ様。今日は普通の珈琲にいたしましょう」
「普通の珈琲か」
「はい。すえぞうに関係のない珈琲です」
ソープは少し考えた。
「それも、たまにはいいね」
泉が小さく呟く。
「“たまには”ではなく、基本的にそうしてください」
すえぞうは、テーブルの下から顔を出した。
「ハラへった」
弥子が笑う。
「すえぞうは珈琲じゃなくて、おやつにしようね」
「うっす」
ソープはすえぞうを見て、優しく笑った。
「ごめんね、すえぞう。研究対象にするつもりはないよ」
泉がすぐに言う。
「いま少しありました」
「少しだけだよ」
「少しでも駄目です」
ログナーは黙って珈琲を注文した。
普通のブレンド珈琲だった。
ソープは少しだけ残念そうにメニューを見ていたが、ラキシスが微笑みながら選んだ紅茶を見て、気を取り直したようだった。
やがて、普通の珈琲と紅茶、弥子のケーキ、すえぞう用の小さなおやつが運ばれてきた。
すえぞうは目を輝かせる。
「ウマイ」
弥子もケーキを食べる。
「おいしい!」
泉はほっとした。
「普通のカフェタイムになりましたね」
ログナーは淡々と珈琲を飲む。
「それが最善です」
ソープはカップを持ち上げながら、まだ少し考えているようだった。
「でも、テロワールという概念は面白いんだよ。土壌、気候、地形、そこにある生態系。味を作る要素は、豆だけではない」
泉が言う。
「その考え方自体は否定しません」
「だろう?」
「すえぞうを含めないでください」
「うん。そこが難しいね」
ログナーは、無言でカップを置いた。
その沈黙は、言葉よりも雄弁だった。
弥子は小声で言う。
「でも、LEDドラゴン農法……ちょっと気になりますよね」
泉が即座に答える。
「聞こえています」
ログナーも静かに言った。
「聞こえています」
ラキシスも微笑みながら言う。
「弥子さん」
弥子は慌てて背筋を伸ばした。
「はい、すみません!」
すえぞうが元気よく返事をする。
「うっす」
泉が言う。
「すえぞうは返事しなくて大丈夫です」
「うっす」
ソープは楽しそうに笑った。
「やはり、地球の食文化は面白いね」
泉は小さくため息をつく。
「今回は、地球の食文化というより、ソープ様の発想が危険でした」
ラキシスが穏やかに言う。
「けれど、皆様のおかげで未然に防げましたわ」
ログナーは短く答えた。
「当然です」
その顔は、いつも通り無表情だった。
しかし内心では、きっとこう思っている。
陛下の発想を止めるのも、ミラージュの職務のうちか。
すえぞうは、おやつを食べ終えると、満足そうに胸を張った。
「エライ?」
弥子が即答する。
「エライ!」
泉も微笑む。
「今日は何も実験されずに済んで、エラいです」
ソープが少し困ったように笑う。
「その言い方だと、僕が悪いみたいだね」
ログナーが淡々と言った。
「少なくとも、今回の計画は悪手でした」
ソープはカップを傾ける。
「そっか」
そして、少しだけ残念そうに呟いた。
「レディオス・ソープは、テロワールを諦めない……と言いたいところだけれど」
泉がすぐに言う。
「諦めてください」
ラキシスも優しく続ける。
「ソープ様」
ログナーは静かに言った。
「却下です」
弥子はケーキを食べながら、小さく呟く。
「ちょっとだけ、気になったんだけどなあ」
全員の視線が弥子に向いた。
弥子は慌てて手を振る。
「飲みたいとかじゃないです! ちょっとだけです!」
すえぞうは、何もわかっていない顔で言った。
「ハラへった」
その一言で、場の空気が少し緩んだ。
結局、その日も普通のカフェタイムで終わった。
普通の珈琲。
普通の紅茶。
普通のケーキ。
普通のおやつ。
すえぞうのフンは、珈琲の木の肥料にはならなかった。
そしてたぶん、これからもならない。
少なくとも、ログナーがいる限りは。