守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
夜。
街の裏通りにひっそりと灯る、小さなショットバー。
黒を基調とした内装、低い照明、磨かれたカウンター。
棚には洋酒の瓶が整然と並び、静かなジャズが店の空気を薄く満たしている。
大人が、声を少し落として飲むための場所だった。
そのカウンターの端に、
空条承太郎とダグラス・カイエンが並んでいた。
そして、その少し後ろ。
控えめに、しかし自然な位置にアウクソーがいる。
騒がしい面子も、卓球台も、旅館の大広間もない。
今夜はずいぶん静かだ。
カイエンがグラスを軽く傾ける。
「ほう……」
「これが地球のショットバーか」
承太郎がウイスキーを口に運ぶ。
「今さらだな」
カイエンは気だるげに笑った。
「ジョーカーのショットバーは――」
承太郎が即座に切った。
「それはもういい」
カイエンが目を細める。
「まだ何も言ってないんだが」
「どうせ嘘が混じる」
承太郎。
「やれやれ」
カイエンは肩をすくめる。
「信用がないな」
アウクソーが静かに言った。
「マスター、日頃の行いかと」
承太郎がほんの少しだけグラスを止める。
「……いい補佐だな」
カイエンがぼそりと返す。
「そうだろう」
アウクソーはそれ以上は何も言わず、
ただ静かに立っている。
酒の場には華があったほうがいい、というカイエンの言葉どおり、
そこにいるだけで場が締まっていた。
カイエンは少しだけグラスを見つめてから言う。
「たまにはこういうのもいいだろう」
承太郎が横目で見る。
「珍しいことを言うな」
「そうかい?」
カイエンは小さく笑った。
「静かな酒は嫌いじゃないさ」
「……だろうな」
カウンターの向こうで、バーテンダーが無駄のない動きで氷を回す。
グラスの中で、小さく音が鳴る。
今夜は平和だった。
……少なくとも、表向きは。
同じ頃。
少し離れた路地の角で、
岸辺露伴は壁に背を預けていた。
「先生」
泉京香が小声で言う。
「本当にやるんですか」
露伴は店の看板を見上げたまま答える。
「やる」
「やっぱり……」
泉は額を押さえる。
「この前のミュージアム回で懲りてないんですか?」
「懲りる?」
露伴は眉をひそめる。
「何にだ」
「何にって、あの長髪の人にですよ!」
泉。
「絶対“これ以上踏み込むな”って空気出してたじゃないですか!」
露伴は平然としている。
「だからいいんだ」
「本当に面白い人間は、簡単には読ませない」
「読めないからこそ、追う価値がある」
泉が呆れた顔になる。
「それ、完全に面倒なストーカーの理屈ですよ」
「失礼だな」
露伴。
「僕は漫画家だ」
「違いが見えません!」
だが露伴はもう話を切り上げていた。
店の扉のガラス越し、
中の様子を観察している。
カウンターに並ぶ承太郎とカイエン。
その後ろにいるアウクソー。
露伴の目が、わずかに細くなる。
「……なるほど」
「何がですか」
「あの女だ」
露伴。
泉がガラス越しに見る。
「女?」
「あ、付き添いの人ですか」
「付き添い、ではないな」
露伴は低く言った。
「ただの同伴者じゃない」
「整いすぎている」
泉が嫌な予感を強める。
「先生、その言い方、また“見つけた時の目”になってますよ」
「当たり前だ」
露伴。
「前回は長髪の男しか見えていなかったが、今回は違う」
「あの女も妙だ」
泉が頭を抱えた。
「最悪だ……」
やがて露伴は、何のためらいもなく扉を開けた。
カラン、と小さなベルが鳴る。
承太郎が一番先に気づく。
「……露伴」
カイエンがグラスを置く。
「知り合いかい?」
承太郎は面倒くさそうに言った。
「面倒なのが来た」
露伴は当然のようにカウンターへ歩いてくる。
「失礼だな」
「偶然だよ、承太郎さん」
承太郎が即答する。
「嘘つけ」
カイエンが少し笑う。
「やれやれ。
君、嘘つき呼ばわりされる程度には信用がないらしい」
「承太郎さんが疑い深いだけだ」
露伴。
「そういうことにしておきたいなら勝手にしろ」
承太郎。
「やれやれだぜ」
一方、アウクソーは静かに露伴へ視線を向けていた。
露伴もそれに気づく。
その一瞬で分かる。
やはりただの女ではない。
立ち方、視線の運び、呼吸の浅さ、気配の置き方。
すべてが整いすぎている。
露伴が言う。
「……誰だ、この人は」
カイエンが気だるげに答えた。
「アウクソーだ」
アウクソーが静かに一礼する。
「アウクソーです」
その一言だけで、露伴の目の色がまた変わった。
「ほう……」
承太郎がそれを見て、低く言う。
「露伴」
「分かってる」
露伴は視線を外さない。
「まだ何もしていない」
カイエンが笑った。
「“まだ”かい」
「そう聞こえたなら仕方ないな」
露伴。
アウクソーは落ち着いた声で言った。
「ご期待に沿うような珍しいものではありません」
露伴が即座に返す。
「いや、珍しい」
「君は“珍しいことを珍しく見せない”」
アウクソーはわずかに目を細めるだけだった。
「恐縮です」
カイエンがグラスを揺らしながら、少し面白そうに言う。
「さすが漫画家先生」
「鼻は利くらしい」
「当然だ」
露伴。
「僕は人を見るのが仕事だからな」
承太郎が低く呟く。
「仕事の範囲を広げすぎだ」
「承太郎さん、それは君にも言える」
露伴。
「知らねぇな」
露伴はバーテンダーにブレンドを頼み、
頼んでもいないのに会話へ居座った。
泉は少し離れた席へ座って、
完全に監視役である。
「先生……」
と小さく呟くが、露伴は無視だ。
露伴はまずカイエンへ目を向ける。
「前回の続きだが」
「君はやはり“描かれた顔”ではなく、“描けない顔”のほうが多そうだな」
カイエンが笑う。
「いきなりだな」
「時間は有限だ」
露伴。
「こうして座っていても、君の顔には情報が多すぎる」
「褒め言葉としては受け取っておくよ」
カイエン。
「褒めてる」
露伴。
「だが同時に、読めないことに苛立ってもいる」
承太郎がグラスを口に運ぶ。
「面倒くせぇな」
「面倒だろうな」
カイエンも同意する。
「ぼかぁ厄介事は苦手なんだが、君はなかなかしつこい」
露伴は平然としていた。
「しつこいのではない」
「価値のあるものを簡単に手放さないだけだ」
泉が遠くから頭を抱える。
「うわぁ……言っちゃった……」
今度は露伴の視線がアウクソーへ向く。
「君は、彼の秘書か何かか?」
アウクソーは静かに答える。
「そのようなものではありません」
「では側近?」
露伴。
「近くにいることは多いです」
「曖昧だな」
露伴。
「だが、曖昧さの置き方が自然すぎる」
カイエンが少しだけ笑う。
「やれやれ。
今度はそっちを読む気かい」
露伴ははっきりと言った。
「読むというより、知りたい」
「君の危うさとは別の方向で、この人も異質だ」
承太郎がグラスを置く。
「露伴」
「分かってる」
二回目だった。
「だからまだ何もしていないと言ってるだろう」
「その言い方が信用ならねぇんだよ」
承太郎。
バーの空気は静かだ。
だが静かなだけに、会話の温度差が際立つ。
カイエンは酒を飲みながら面白がっている。
承太郎は明らかに警戒している。
露伴は観察欲を隠していない。
アウクソーだけが、静かに、だが状況全体を見ていた。
ふと露伴が言う。
「君」
「アウクソーと言ったな」
「はい」
「君は、ただ仕える人間の目をしていない」
「もっと計算されている」
アウクソーは少しだけ間を置いてから答えた。
「観察がお好きなのですね」
露伴は満足そうに言う。
「好きだ」
「でなければ漫画家なんてやっていない」
「そうですか」
「それだけかい?」
カイエンが面白そうに聞く。
アウクソーはカイエンを一瞥してから、露伴へ戻る。
「観察はご自由かと思います」
「ただし、踏み込みすぎるのはおすすめしません」
露伴の目が少し細くなる。
「君もそう言うのか」
「必要なことは申し上げます」
アウクソー。
承太郎が低く言う。
「聞いたか、露伴」
「聞いた」
露伴。
「だが、警告されると余計に気になる」
泉が席で小さく机に額をつけた。
「最悪だ……」
カイエンが苦笑する。
「君、筋金入りだな」
「プロだからな」
露伴。
承太郎がぼそりと呟く。
「ただの厄介者だろ」
「おまえにだけは言われたくない」
露伴。
「やれやれだぜ」
三回目だった。
しばらくして、
カイエンがグラスを置いて言った。
「まあ、たまにはこういうのもいいだろう」
「あの若いのがいると、面白いのも事実だがね」
露伴が眉を上げる。
「若いの?」
「キラ・ヤマト」
カイエン。
「あれがいると場が勝手に回る」
承太郎も短く言う。
「たしかに……それはあるな」
露伴は少し意外そうに二人を見る。
「ほう」
「君たちがそう評価するのは珍しいな」
「言うほど褒めてるつもりもないんだが」
カイエン。
「事実を言ってるだけだ」
承太郎。
アウクソーも静かに補う。
「キラ様は、皆さまへの気遣いが自然ですから」
露伴は少しだけ考え込む。
「なるほど」
「やはり、彼が中心に“されている”理由はそこか」
「また変な言い方をするな」
承太郎。
「正確だろう?」
露伴。
「面倒な正確さだ」
カイエン。
夜も深くなり、
そろそろ店を出る空気になる。
露伴は最後まで粘っていたが、
さすがにこれ以上は踏み込まない。
いや、踏み込めない。
承太郎の警戒も、
アウクソーの静かな線引きも、
そしてカイエン本人の“それ以上はやめておけ”という空気も、
今夜の露伴には十分だった。
それでも、露伴は帰り際に言った。
「なるほど」
「前回よりずっと面白かった」
承太郎が眉をひそめる。
「嬉しくねぇな」
露伴は続ける。
「君は相変わらずだが」
カイエンを見る。
「やはり描きたい」
次にアウクソーを見る。
「そして君は、まだ分からない」
「それがいい」
アウクソーは静かに答える。
「恐縮です」
カイエンが少しだけ笑う。
「やれやれ。
どうやら君は、妙なものばかり見つけるのが得意らしいな」
「見つけるべきものを見つけているだけだ」
露伴。
承太郎が最後に一言。
「尾けてくるなよ」
露伴が少しだけ口元を上げる。
「善処する」
「しねぇな」
承太郎。
「しませんね」
と、珍しく泉が小さく同意した。
一瞬、空気が止まり、
カイエンが吹き出しかける。
「君の編集、いい味を出すな」
泉は疲れた顔で頭を下げる。
「いつもすみません……」
アウクソーが静かに言った。
「ご苦労がしのばれます」
「ありがとうございます……」
泉。
「そう言ってもらえるの、今日初めてです……」
露伴が不満そうに言う。
「泉くん」
「はいはい、帰りますよ先生」
店の外。
夜風が少し冷たい。
露伴と泉が去っていくのを見ながら、
承太郎が帽子を押さえた。
「……やれやれだぜ」
四回目だった。
カイエンはグラスの余韻をまだ引きずるように言う。
「面白い男ではあるな」
「面倒なだけだ」
承太郎。
「違いない」
カイエンは笑う。
「だが、君の周りはそういうのが多い」
「おまえに言われたくねぇな」
承太郎。
アウクソーが静かに一礼するように視線を落とした。
「お二人とも、お帰りの道はお気をつけください」
「君は最後までちゃんとしてるな」
承太郎。
「恐縮です」
アウクソー。
カイエンが小さく息をつく。
「やれやれ……
静かに飲むつもりだったんだが」
承太郎が短く返す。
「無理だったな」
「無理だったな」
二人の声が、珍しく少しだけ揃った。