守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
「脳噛ネウロを食事に誘いたい」
岸辺露伴がそう言った時、桂木弥子は即座に首を横に振った。
「無理ですね」
「早いな」
「ネウロ、基本的にご飯食べませんから」
「知っている」
「じゃあ無理です」
「だが、呼ぶ必要がある」
露伴は真剣だった。
「魔人。人間界に潜み、人間の謎を喰らう存在。あれを取材せずに漫画家を名乗れるか」
弥子は少しだけ呆れた顔をした。
「露伴先生、また危ないこと考えてますね」
「危ないことじゃあない。取材だ」
「取材って言えば許されると思ってません?」
「思っている」
「思ってるんだ……」
その時、部屋の隅から低い声がした。
「ククク……吾輩を食事に誘うとは、ずいぶん無駄なことを考えるな、漫画家」
脳噛ネウロが、いつの間にかそこにいた。
露伴は眉をひそめる。
「君は本当に気配がないな」
「気配を消していたのではない。貴様の感覚が鈍いだけだ」
「初手から失礼だな」
ネウロは笑う。
「食事など、吾輩にとっては無価値だ。吾輩の糧は謎だ」
弥子が手を挙げる。
「なので、私も行きます!」
露伴は弥子を見た。
「なぜそうなる」
「ネウロが食べない分、私が食べます」
「何ひとつ論理がつながっていない」
ネウロは楽しそうに言う。
「ヤコを連れていけば、少なくとも食事は無駄にならんぞ」
露伴は少し考えた。
ネウロだけでは来ない。
食事そのものに興味がない。
しかし、弥子を連れて行けば、ネウロもついてくる可能性が高い。
問題は。
弥子を連れて行くと、食事代が跳ね上がる可能性が高いことだった。
露伴は言った。
「……仕方ない。君も来たまえ」
弥子の顔が輝く。
「やったー!」
「ただし、常識的な量で」
「はい!」
露伴は即座に言った。
「その返事が一番信用できない」
ネウロは口元を歪めた。
「ククク……よい店を選ぶがいい、露伴。魔人をもてなすには相応の覚悟が要る」
「食べないんだろう」
「見物はする」
「最悪の客だな」
その日、三人はトニオ・トラサルディーの店へ向かった。
店に入るなり、トニオは笑顔で出迎えた。
「イラッシャイマセ、露伴先生」
「今日は二名……いや、一名と一体と、食欲だ」
弥子が笑顔で手を挙げる。
「桂木弥子です!」
ネウロは、店内を見回している。
トニオはネウロを見た瞬間、少しだけ動きを止めた。
「……こちらのお客様は」
ネウロが言う。
「何だ」
トニオは慎重に言葉を選んだ。
「体調、という概念が、少し違いマス」
露伴は目を細める。
「やはりわかるのか」
トニオは頷く。
「人間のお客様ではありまセンね」
ネウロは笑う。
「当然だ。吾輩は魔人だ」
トニオはさらに観察する。
「胃腸の状態も……普通ではありまセン」
ネウロは言った。
「胃袋など飾りだ」
弥子がすぐに言う。
「じゃあ私が食べます!」
露伴が睨む。
「自然に引き受けるな」
トニオは弥子を見る。
「お嬢サンは……胃が大変元気デスね」
弥子は胸を張った。
「はい!」
「前にも申し上げましたが、元気すぎマス」
「はい!」
「料理は、もっと味わって食べてクダサイ」
「はい!」
露伴が言う。
「返事だけは本当にいいな」
トニオは少し困ったように笑った。
「ですが、美味しく食べてくださるのは、料理人として嬉しいことデス」
弥子は目を輝かせた。
「ありがとうございます!」
露伴はため息をつく。
「甘やかさないでくれ」
「露伴先生、お客様に合わせた料理をお出しするのがワタシの仕事デス」
ネウロは興味なさそうに椅子に座った。
「では、その人間用の餌とやらを見せてもらおう」
弥子が即座に言う。
「言い方!」
トニオは穏やかに微笑む。
「料理デス」
露伴はネウロの正面に座った。
手帳は膝の上。
ペンはすぐ取れる位置。
ネウロは、それを見ただけで笑った。
「隠しているつもりか、露伴」
「何のことだい」
「貴様の取材欲は、空腹時のヤコよりわかりやすい」
弥子が抗議する。
「私、そんなにわかりやすいですか!?」
露伴とネウロが同時に言った。
「わかりやすい」
弥子は少し黙った。
「……否定できない」
最初に出てきたのは、前菜だった。
色鮮やかな野菜。
香りのよいオリーブオイル。
酸味のあるソース。
一皿の中に、丁寧に整えられた味があった。
トニオが説明する。
「まずは、食欲を整え、胃を落ち着かせる前菜デス」
弥子は一口食べた。
「おいしいです!」
トニオがすぐに言う。
「お嬢サン、もう少しゆっくり」
弥子は口の中のものを飲み込んでから、きちんと頷いた。
「はい!」
露伴が言う。
「今の一口、前菜というより開戦だったぞ」
「ちゃんと味わってます!」
「速度が味わう人間のそれじゃあない」
ネウロは前菜を眺めていた。
「人間の食欲を刺激するために、色、香り、酸味、油分を調整しているのか」
トニオは嬉しそうに頷く。
「ハイ。食材の良さを引き出す料理デス」
ネウロは薄く笑った。
「魔界では逆だ」
露伴の目が光る。
「逆?」
ネウロは頬杖をついた。
「魔界の料理は、食材の良さなど引き出さん。食材の悪意を引きずり出す」
弥子が顔をしかめる。
「食べ物に悪意を求めないで!」
露伴は前のめりになる。
「待て。今のは比喩か? それとも実際の調理思想か?」
ネウロは楽しそうに言った。
「どちらでもある」
露伴のペンが動きかける。
トニオが少し困った顔をする。
「当店では、食材の悪意は引き出しませン」
ネウロは鼻で笑った。
「人間界の料理は、ずいぶん慎ましいな」
弥子は前菜を食べながら言う。
「慎ましい方がいいです!」
「ヤコには、慎ましさより量だろう」
「失礼な!」
露伴はネウロを見る。
「魔界の食文化について、もっと話したまえ」
ネウロは目を細める。
「知りたいか」
「当然だ」
「魔界のランチは、まず太陽をリンチして赤く怒らせるところから始まる」
露伴の手が止まった。
弥子も止まった。
トニオも、少しだけ止まった。
露伴が聞く。
「……比喩か?」
ネウロは笑う。
「どちらでもある」
弥子が頭を抱える。
「またどちらでもあるんだ……」
トニオは真面目に言った。
「当店では、太陽の下処理は行っておりまセン」
露伴がトニオを見る。
「そこは料理人として突っ込むのか」
ネウロは続ける。
「太陽が怒り、空が赤く染まったところで、影を削ぎ落として皿に盛る。そこに夜明け前の悲鳴を少々。これが魔界の軽食だ」
弥子が青ざめる。
「軽食の概念がおかしい」
露伴は目を輝かせている。
「異常だ。だが、実に面白い」
ネウロは露伴を見て笑った。
「貴様、だんだん魔界の食卓に馴染んできたな」
「馴染んでいない。取材しているだけだ」
「同じことだ」
次に運ばれてきたのは、パスタだった。
香草の香りが立ち上り、魚介の旨味がソースに溶けている。
弥子は目を輝かせた。
「パスタ!」
トニオがすぐに言う。
「お嬢サン、飲み物ではありまセン」
「わかってます!」
露伴が言う。
「先に釘を刺されている」
弥子はパスタを食べた。
そして目を閉じた。
「おいしい……!」
今度は少しだけ、ゆっくり食べた。
トニオは満足そうに頷く。
「そうデス。よく味わってクダサイ」
弥子は嬉しそうに言う。
「はい!」
露伴は少し意外そうに見た。
「君も、やればできるんだな」
「できます!」
ネウロが言う。
「三口後には戻る」
「戻りません!」
三口後。
弥子の速度は戻っていた。
露伴は無言で見た。
弥子は目を逸らした。
「……おいしいので」
トニオは優しく言う。
「おいしい時ほど、味わうのデス」
「はい!」
ネウロはパスタを一口だけ口にした。
露伴が反応する。
「食べるのか」
ネウロは咀嚼する。
「人間の肉体調整としては、よくできている」
トニオは頭を下げる。
「ありがとうございマス」
弥子が言う。
「今の褒めてるんですか?」
ネウロは笑った。
「吾輩が口に入れて評価した時点で、最大級の賛辞だ」
露伴が言う。
「態度が最悪すぎる」
ネウロは続けた。
「だが魔界なら、このソースには煮詰めた執念を足す。麺は罪悪感で打つ。仕上げに、敗北者のため息を削る」
弥子がパスタを見た。
「今食べてるパスタに変なイメージ足さないで!」
トニオは少しだけ真剣な顔で言った。
「料理には、食べる人を元気にする力がありマス。罪悪感は、あまり入れたくありまセン」
ネウロは愉快そうに笑う。
「料理人としては、正しい」
露伴はその会話をメモしようとした。
その瞬間、ペン先がぬるりと滑った。
手帳には、意味のない曲線が走る。
露伴は目を見開いた。
「何だこれは」
ネウロが口元を歪める。
「魔界777ツ能力――“筆滑りの悪魔”」
弥子が言う。
「地味!」
露伴は叫ぶ。
「地味じゃあない! 漫画家にとって線が思い通りにならない苦痛がどれほどのものか、君にはわからないのか!」
ネウロは楽しそうに笑う。
「わかるからやったのだ」
「性格が悪いな!」
「魔人だぞ」
露伴は手帳を見た。
さっきまで魔界料理の貴重な証言を書こうとしていたページには、へなへなの線が数本走っている。
露伴は低く言った。
「解除しろ」
「嫌だ」
「解除しろ」
「嫌だ」
弥子はパスタを食べながら言う。
「露伴先生、すごく嫌そうですね」
「嫌に決まっているだろう!」
ネウロは椅子にもたれた。
「貴様が吾輩を読もうとするなら、吾輩も貴様の取材を食い散らかす」
露伴はネウロを睨んだ。
「やはり気づいていたか」
「最初からだ」
「君たちは本当に、誰も彼も油断しないな」
「油断する価値がない」
トニオはメイン料理を運んできた。
肉料理だった。
香ばしく焼かれた肉に、ハーブとソースが添えられている。
弥子はまた目を輝かせた。
「メイン!」
トニオが言う。
「お嬢サン、ゆっくり」
「はい!」
露伴が言う。
「今度は五口もつか?」
ネウロが言う。
「三口だ」
弥子が言う。
「四口はもちます!」
露伴は呆れた。
「目標が低い」
ネウロは肉料理を見ながら言った。
「魔界では、肉はまず泣かせる」
弥子が止まる。
「泣かせる?」
「泣かせた肉は、恐怖で身が締まる」
トニオが静かに言う。
「当店では、お肉を泣かせたりはしまセン」
「人間界は軟弱だな」
「優しい、と言ってクダサイ」
ネウロは少しだけ笑った。
「優しい肉か。悪くはない」
露伴は、その言葉に興味を持った。
「魔人が優しさを評価するのか」
「評価はする。好むとは言っていない」
「なるほど、実に――」
露伴はメモしようとした。
今度は、文字が勝手に書き換わった。
手帳には、こう書かれていた。
**おいしかったです。**
露伴は固まった。
「……何をした」
ネウロは楽しそうに言う。
「魔界777ツ能力――“貧弱なる美食家の舌”」
弥子が手帳を覗く。
「おいしかったです。正しい感想ですね!」
露伴は叫んだ。
「正しいが足りない! 漫画家から語彙を奪うな!」
ネウロは笑う。
「貴様の料理メモは、しばらくすべてその程度になる」
露伴は試しに書いた。
**香草の香りが――**
文字がぐにゃりと歪み、
**おいしかったです。**
に変わった。
露伴は顔を引きつらせた。
「これは許しがたい」
弥子は肉料理を食べながら言う。
「でも、本当においしいです!」
「君はそれでいいだろうが!」
トニオは少し困りながらも微笑んだ。
「おいしかった、と言っていただけるのは嬉しいデス」
露伴が言う。
「トニオさん、今はそういう話じゃあない」
ネウロは、露伴の苛立ちを見て満足そうだった。
「ククク……実に良い顔だ。取材者が取材される側に弄ばれる気分はどうだ」
露伴は低く言う。
「僕を弄んでただで済むと思うなよ」
「済む」
「断言するな」
「貴様は吾輩を読めん」
露伴の目が鋭くなる。
「それは試してみなければわからない」
弥子が箸を止める。
「露伴先生、やめた方がいいですよ」
「君に言われると腹が立つな」
露伴は、ネウロを見た。
一瞬。
ヘブンズ・ドアー。
魔人の内側。
魔界の記憶。
謎への飢え。
人間を見下ろす視線。
そのすべてを本にできれば――。
露伴が動いた。
ネウロが笑った。
「魔界777ツ能力――“閉じた目次”」
何も開かなかった。
露伴の視界に、ページは現れない。
本になるはずの対象が、本にならない。
そこにはただ、底の見えない黒い穴のような笑みを浮かべる魔人がいた。
ネウロは言った。
「魔人の本は、人間の指でめくれるようにはできていない」
露伴は、わずかに息を呑んだ。
弥子が小さく言う。
「だから言ったのに」
露伴は悔しそうに言った。
「……面白いじゃあないか」
ネウロは鼻で笑う。
「負け惜しみか」
「違う。取材対象としての価値が上がっただけだ」
「読めぬ対象に価値を見出すか。貴様も大概、業が深いな」
露伴はペンを握る。
「漫画家だからな」
「人間の業だ」
デザートが出る頃、弥子の前には皿がいくつも重なっていた。
露伴はそれを見て言った。
「……これは何巡目だ」
トニオは答える。
「前菜、パスタ、メイン、デザートを、それぞれ追加で――」
露伴は聞く前に手で止めた。
「いや、いい。聞きたくない」
弥子は幸せそうにデザートを食べている。
「おいしいです!」
露伴は手帳を見る。
そこにも、同じ文字が書かれていた。
**おいしかったです。**
露伴は低く言った。
「腹立たしい」
ネウロは満足げに笑う。
「良い取材だったな」
「僕の手帳には“おいしかったです”しか残っていないんだが」
弥子が言う。
「正しい感想です!」
「君は黙って食べていたまえ」
トニオは弥子に優しく言う。
「お嬢サン、最後のデザートは、よく味わってくださいネ」
弥子はゆっくり頷いた。
「はい!」
そして本当に、少しだけゆっくり食べた。
露伴はそれを見て、少しだけ意外そうにする。
ネウロは言う。
「ヤコでも、学習することはある」
弥子がむっとする。
「私を何だと思ってるんですか」
「腹を空かせた探偵役だ」
「だいたい合ってるのが嫌です」
食事が終わり、伝票が露伴の前に置かれた。
露伴はそれを見た。
しばらく黙った。
もう一度見た。
「……この金額は何だ」
トニオは申し訳なさそうに言う。
「お嬢サンが、大変よく召し上がりましたので」
弥子は満面の笑みで言った。
「ごちそうさまでした!」
露伴は低く言った。
「感想が安い。会計は高い」
ネウロは愉快そうに笑う。
「良かったな露伴。取材費だ」
「一切取材できていない」
「吾輩の嫌がらせを受け、魔界のランチについて聞き、ヤコの胃袋を観察した。十分だろう」
「僕が知りたかったのは魔人の内側だ」
「ならば、もっと高い飯に誘うことだな」
露伴が睨む。
「次があると思うなよ」
ネウロは笑った。
「次は高級中華にするか」
「来る気か!」
弥子が嬉しそうに言う。
「中華もいいですね!」
「君は乗るな!」
トニオはにこやかに頭を下げた。
「またのお越しをお待ちしておりマス」
露伴は伝票を支払いながら、心底悔しそうな顔をしていた。
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
弥子は満足げにお腹を押さえている。
「おいしかったですね!」
露伴は言った。
「今日わかったことがある」
弥子が首をかしげる。
「何ですか?」
「魔人を食事に誘っても、食べるのは君だ」
ネウロが笑う。
「ククク……よい学びを得たな」
「金を払ったのは僕だぞ」
弥子は深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした!」
「二度と呼ばない」
ネウロは楽しそうに言った。
「だが、貴様の目はまだ諦めていないな」
露伴はネウロを見る。
魔人は読めなかった。
手帳は台無しにされた。
会計は高かった。
だが。
魔界の料理。
謎を喰らう者の視点。
人間の食文化を見下ろしながらも、一口だけ味を評価する魔人。
弥子を雑に扱いながらも、彼女の食欲を当然のものとして横に置く関係性。
悔しいが、面白い。
露伴は小さく言った。
「……次は、君が支払いたまえ」
ネウロは笑った。
「魔人が人間界の通貨を持つと思うか」
「最悪だな」
弥子が明るく言う。
「じゃあ次も露伴先生ですね!」
「君は本当に黙っていたまえ!」
ネウロは夜の中で、ひどく楽しそうに笑った。
岸辺露伴は、その日、魔人を読むことには失敗した。
だが、魔人に嫌がらせをされ、弥子に食べ尽くされ、財布に傷を負いながらも、ひとつだけ確信した。
脳噛ネウロは、腹立たしい。
そして、腹立たしいほど面白い。