守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
ログナーは、店の前で一度だけ周囲を確認した。
夜の住宅街。
人通りは少ない。
目立った気配もない。
任務ではない。
護衛でもない。
警戒行動でもない。
報告書に残す必要もない。
ただの食事だった。
それでもログナーは、周囲を確認した。
隣に立つファティマ、イエッタが静かに尋ねる。
「マスター」
「何だ」
「ここが、トニオ様のお店ですか」
「ああ」
「お忍び、ですか」
「そうだ」
イエッタは少しだけ首を傾げる。
「なぜ、お忍びなのですか」
ログナーは店の扉を見た。
「余計な者に見つかると面倒だ」
「余計な者」
「岸辺露伴などだ」
イエッタは少しだけ目を伏せた。
「露伴様は、少し熱心な方ですね」
「少しではない」
「では、とても」
「とても、でも足りん」
イエッタは静かに微笑んだ。
ログナーは、その微笑みを見ていないふりをした。
「入るぞ」
「はい、マスター」
店の扉を開けると、温かな香りが迎えた。
イタリア料理店。
白い壁。
小さなテーブル。
整えられた食器。
派手さはないが、店全体が清潔で、穏やかだった。
トニオ・トラサルディーが、にこやかに頭を下げる。
「イラッシャイマセ」
ログナーは静かに言った。
「予約していたログナーだ」
「ハイ。お待ちしておりマシタ」
トニオはイエッタを見る。
「本日は、お二人でのお食事デスね」
ログナーはわずかに間を置いて答えた。
「そうだ」
イエッタは丁寧に頭を下げる。
「よろしくお願いいたします」
トニオは柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ。どうぞ、お席へ」
案内されたのは、店の奥の静かな席だった。
外からは見えにくい。
店の入口も、窓も、ログナーの位置から確認できる。
イエッタは席に着く前に、その配置を見た。
「マスター」
「何だ」
「この席は、マスターが選ばれたのですか」
「そうだ」
「入口が見えます」
「ああ」
「窓も見えます」
「ああ」
「お忍びでも、警戒はなさるのですね」
「癖だ」
イエッタは少しだけ微笑む。
「マスターらしいです」
ログナーは答えず、椅子を引いた。
イエッタが座る。
その動きは自然だった。
彼は言葉にしない。
だが、イエッタが座るまで、自分は座らない。
それは儀礼でも、命令でも、任務でもなかった。
ただ、そうするものだった。
トニオは二人を見て、少しだけ目を細めた。
「本日は、どのようなお料理をご希望デスか」
ログナーは答えた。
「彼女に合わせてほしい」
イエッタが少し驚く。
「マスター」
「お前が食べるために来た」
「マスターは」
「私は何でもいい」
トニオは穏やかに言った。
「お二人とも、合わせマス」
ログナーは少しだけ眉を動かした。
「私は不要だ」
イエッタが静かに言う。
「マスター」
ログナーはイエッタを見る。
「何だ」
「マスターも、お食事をなさってください」
「している」
「まだ、していません」
「……」
「今日は任務ではありません」
ログナーは一瞬だけ沈黙した。
それから、短く言う。
「わかった」
トニオは嬉しそうに微笑んだ。
「では、お二人に合う料理をお出ししマス」
最初の前菜が運ばれてきた。
小さな皿に、色鮮やかな野菜と魚介が並ぶ。
香りは軽く、酸味は穏やか。
食事の始まりに、身体を急かさない一皿だった。
トニオが説明する。
「まずは、緊張をほどく前菜デス。強く働いている神経を、少し休ませマス」
ログナーは皿を見た。
「緊張しているように見えるか」
トニオはにこやかに答える。
「見えマス」
「職務上、必要だ」
「今日は職務ではありまセン」
イエッタが静かに続けた。
「マスター、トニオ様もそうおっしゃっています」
ログナーはトニオを見た。
「二対一か」
トニオは笑顔で言う。
「お食事では、よくあることデス」
イエッタは前菜を口に運んだ。
しばらく、何も言わなかった。
ログナーはその横顔を見た。
「どうだ」
イエッタは小さく頷く。
「おいしいです」
「そうか」
「優しい味です」
「……そうか」
ログナーは、それ以上言わなかった。
だが、その声はほんの少しだけ低く、落ち着いていた。
イエッタがもう一口食べる。
ログナーは、自分の皿にはまだ手をつけていなかった。
トニオが言う。
「貴方も、ドウゾ」
ログナーは軽く息を吐き、一口食べた。
「……うまい」
イエッタがログナーを見る。
「マスターも、そう思われますか」
「ああ」
「よかったです」
「なぜ、お前がよかったと言う」
「同じものを、おいしいと思えたので」
ログナーは少しだけ黙った。
「そうか」
イエッタは微笑んだ。
その時。
店の扉が開いた。
ログナーの視線が即座に動く。
入口に立っていたのは、岸辺露伴だった。
露伴は何気なく店に入りかけて、奥の席を見た。
ログナー。
そして、その向かいのイエッタ。
三秒、沈黙があった。
露伴の目が細くなる。
「……ほう」
ログナーが低く言った。
「岸辺露伴」
露伴は口元を少し上げる。
「これは珍しい。ログナー司令が、ファティマを連れて私的な食事とは」
ログナーは立ち上がらない。
だが、その声だけで十分だった。
「帰れ」
露伴は眉を上げた。
「客に対してそれはないだろう」
「客なら別の日に来い」
「君に店の利用日を指定される覚えはない」
ログナーは静かに言った。
「この件は他言無用だ」
露伴は肩をすくめる。
「まだ何も言っていない」
「言う顔だ」
「また顔か」
「通行止めだ」
露伴は少し笑った。
「会話の入口で封鎖するな」
イエッタが静かに立ち上がりかける。
「露伴様」
露伴は彼女を見る。
「何だい」
「今日は、マスターの休息です」
露伴の表情が少しだけ変わった。
イエッタは続ける。
「どうか、通行止めにしていただけますか」
露伴はしばらく黙った。
それから、小さく息を吐く。
「君までその言葉を使うのか」
イエッタは静かに答えた。
「はい」
露伴は、ログナーを見た。
「ログナー司令」
「何だ」
「君のファティマは、君より頼み方が上手いな」
ログナーは答えない。
露伴は店内を見回した。
そして、少しだけ肩をすくめる。
「わかった。今日は引く」
ログナーの視線は緩まない。
「本当にか」
「本当だ。食事中の取材が、いつも成功するとは限らないことくらい、最近は学んでいる」
「遅い学習だ」
「君に言われたくない」
露伴は扉の方へ戻りかける。
だが、足を止めて言った。
「ひとつだけ」
ログナーの声が低くなる。
「通行止めだ」
「まだ内容を言っていない」
「予防だ」
露伴は少しだけ笑った。
「君にも、通行止めにしたいほど大切な道があるということだな」
ログナーは黙った。
その沈黙を、イエッタが静かに見ていた。
露伴はそれ以上言わなかった。
「今日は書かない」
ログナーが言う。
「書くな」
「同じ意味だろう」
「違う。命令だ」
露伴は店の扉に手をかけた。
「本当に不愉快な男だな」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めていない」
露伴は店を出た。
扉が閉まる。
店内に、静かな空気が戻った。
トニオは少しだけ困ったように微笑む。
「お知り合いデスか」
ログナーは短く答えた。
「厄介な知り合いだ」
イエッタは静かに座り直す。
「マスター」
「何だ」
「露伴様は、引いてくださいました」
「一時的にな」
「でも、今日は」
「ああ」
ログナーは前菜の皿を見た。
「今日は食事だ」
イエッタは頷いた。
「はい、マスター」
次に運ばれてきたのは、温かいスープだった。
白い器から、柔らかな湯気が立ち上る。
野菜の甘みと、少しの香草。
身体の中心から、静かに温まる味だった。
トニオが言う。
「これは、長く張っていた糸を、少しだけ緩めるスープデス」
イエッタはスプーンを取る。
「長く張っていた糸」
「ハイ。ずっと緊張していると、休むことも難しくなりマス」
イエッタはスープを口に運んだ。
「……温かいです」
「よかったデス」
イエッタはログナーを見る。
「マスターも」
ログナーは少しだけ間を置き、スープを飲む。
「……悪くない」
イエッタは小さく微笑む。
「マスターの“悪くない”は、おいしい、ですね」
ログナーは彼女を見る。
「そう聞こえるか」
「はい」
「なら、そうだ」
イエッタは少し嬉しそうに目を伏せた。
トニオは、二人の邪魔をしないように静かに下がった。
ログナーは言葉数が少ない。
だが、イエッタの皿が空く速度を見ている。
水が足りなくなれば、何も言わずにグラスを少し寄せる。
スープが熱ければ、視線だけで待つよう促す。
料理の説明を聞く時も、自分の皿より先にイエッタの皿を見る。
イエッタは、それをすべて受け取っていた。
「マスター」
「何だ」
「このお店に、私を連れてきたかったのですか」
ログナーは答えない。
イエッタは、しばらく待つ。
ログナーはようやく言った。
「……前に、陛下たちがこの店を使った」
「はい」
「料理の効果は確かだ。味も悪くないと報告を受けた」
「はい」
「お前にも、合うと思った」
イエッタは、静かにログナーを見た。
「それで、連れてきてくださったのですね」
ログナーは短く言う。
「そうだ」
イエッタは微笑む。
「ありがとうございます、マスター」
ログナーは少しだけ視線を逸らした。
「礼を言うことではない」
「いいえ」
「必要だと思っただけだ」
「それでも、嬉しいです」
ログナーは黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
パスタが運ばれてきた。
香草と魚介の香り。
軽いソースが絡んだ細い麺。
味は深いが、重くはない。
イエッタは一口食べる。
「おいしいです」
ログナーは頷く。
「ゆっくり食べろ」
「はい」
「急ぐ必要はない」
「マスターも、ゆっくり」
ログナーは少しだけ手を止める。
「……そうだな」
イエッタが笑う。
ログナーは、その笑顔を正面からは見ない。
だが、見逃してもいなかった。
トニオはメイン料理を運ぶ前に、少しだけ二人を見た。
「お二人は、言葉が少ないデスね」
ログナーは答える。
「必要なことは伝わる」
イエッタが静かに続ける。
「はい。マスターは、あまり多くはおっしゃいません」
トニオは微笑む。
「でも、伝わっていマスね」
イエッタは小さく頷いた。
「はい」
ログナーは何も言わなかった。
メイン料理は、白身魚と野菜を使った優しい皿だった。
イエッタのために整えられた一皿だと、ログナーにはすぐわかった。
トニオが言う。
「こちらは、静かに疲れを抜く料理デス。無理に力を出すのではなく、休むための料理デス」
イエッタは丁寧に食べた。
一口ごとに、少しだけ表情が柔らかくなる。
ログナーはそれを見ていた。
任務中なら、彼女の反応は戦闘補助や情報処理の変化として把握する。
だが、今は違う。
ただ、美味しいものを食べている。
ただ、それだけだった。
それだけのことを、ログナーは見せたかったのだと、少し遅れて自覚した。
イエッタが言う。
「マスター」
「何だ」
「おいしいものを食べると、少し静かになります」
「お前は元から静かだ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
「でも、今日は違う静かさです」
ログナーは少しだけ考えた。
「……そうか」
「はい」
イエッタは微笑んだ。
「怖いものが近くにない静かさです」
ログナーは、その言葉にほんの少しだけ目を細めた。
「怖いものか」
「はい」
「私のそばは、怖いか」
イエッタは少しだけ考える。
「少し」
ログナーは視線を落とした。
「なら離れればいい」
イエッタは即答した。
「それはいやです」
ログナーは黙る。
イエッタは続けた。
「マスターのそばは、少し怖いです。でも、離れるのはもっといやです」
ログナーは、しばらく何も言わなかった。
店内の音は静かだった。
皿の上の料理の香りだけが、ゆっくりと漂っている。
やがてログナーは短く言った。
「そうか」
イエッタは頷く。
「はい」
それだけで、会話は成立した。
デザートは、小さな果物の菓子だった。
甘すぎず、香りがよく、食後の身体に優しい。
イエッタは一口食べて、ほんの少し目を細めた。
「甘いです」
ログナーが聞く。
「嫌か」
イエッタは首を振る。
「好きです」
「そうか」
「マスターは?」
ログナーも食べる。
「悪くない」
イエッタは微笑む。
「おいしい、ですね」
「……そうだ」
トニオは満足そうに微笑んだ。
「本日は、よいお食事になりマシタか」
ログナーは少しだけ間を置いて答える。
「ああ」
イエッタも丁寧に頭を下げる。
「とても、おいしかったです」
「ありがとうございマス」
会計を済ませる時、ログナーは何も言わずに支払った。
イエッタは隣で静かに待っている。
店を出る前に、トニオが言った。
「また、お二人でいらしてクダサイ」
ログナーは答えない。
イエッタがログナーを見る。
ログナーは少しだけ沈黙したあと、短く言った。
「機会があれば」
イエッタの表情が、ほんの少し明るくなった。
「はい、マスター」
店を出ると、夜風が少し冷たかった。
ログナーは周囲を確認する。
人影はない。
気配もない。
いや。
少し離れた路地の影に、ひとつだけ気配があった。
ログナーはそちらを見ずに言った。
「岸辺露伴」
物陰で、露伴が小さく舌打ちした。
「気づいていたのか」
「当然だ」
露伴は姿を見せた。
「誤解するな。偶然、同じ方向に出ただけだ」
ログナーは言った。
「この件は他言無用だ」
露伴は肩をすくめる。
「わかっている。今日は書かないと言っただろう」
「念押しだ」
「君は本当にしつこいな」
「通行止めだ」
露伴は少しだけ笑った。
「安心したまえ。今日のことは、僕の手帳には残さない」
ログナーは露伴を見る。
「本当だな」
「ああ」
露伴は、少しだけイエッタを見た。
そして言った。
「ただし、覚えてはおく」
ログナーの目が細くなる。
「消せ」
「記憶は消せない」
「通行止めだ」
「記憶まで封鎖するな」
イエッタが静かに言う。
「露伴様」
「何だい」
「今日のマスターは、休息中です」
露伴は少し黙った。
それから、軽く手を上げた。
「わかった。ここから先は、僕も通行止めにしておこう」
ログナーは短く言った。
「そうしろ」
露伴は踵を返す。
去り際に、一言だけ残した。
「ログナー司令」
「何だ」
「君にも、誰にも通らせたくない道があるんだな」
ログナーは答えなかった。
露伴は笑う。
「今の沈黙、実にいい」
ログナーの声が低くなる。
「帰れ」
「はいはい」
露伴は夜の道へ消えた。
イエッタはログナーを見た。
「マスター」
「何だ」
「露伴様は、書かないでしょうか」
「書かないと言った」
「信じますか」
ログナーは少し考えた。
「半分は」
イエッタは小さく笑った。
「半分」
「ああ」
「では、残り半分は?」
ログナーは夜道を歩き出す。
「通行止めだ」
イエッタは、その隣を歩いた。
「はい、マスター」
その日、ログナー司令はイエッタと食事をした。
誰にも見せるつもりのない、任務ではない時間。
口には出さなかった。
優しい言葉も、甘い言葉も、ほとんどなかった。
けれど、彼は席を選んだ。
料理を選ばせた。
先に彼女の皿を見た。
彼女がおいしいと言うまで、自分の感想を急がなかった。
それは、ログナーという男にとっての、精一杯のやさしさだった。
そしてイエッタは、それをすべて知っていた。