守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
午後の陽射しが、街路樹の葉を透かして揺れていた。
通りに面したカフェテラス。
白いパラソルの下、ダグラス・カイエンは一人、脚を組んでコーヒーを飲んでいた。
黒の上着。長い髪。
それだけで妙に絵になる。
その視線は、通りを行き交う人々へと、いかにも何気なく向けられていた。
若い女が二人、笑いながら通り過ぎる。
買い物帰りらしい御婦人が、紙袋を抱えて歩いていく。
少し離れた席では、大学生らしき男女がスマホを見せ合って笑っている。
カイエンは小さく息をついた。
「やれやれ……」
「地球のカフェもなかなか悪くない」
「ジョーカーのカフェだと、ここでもう少し色っぽい音楽が流れてるもんだがね」
「また始まったな」
向かいの席に、当然のように岸辺露伴が座っていた。
カイエンは目だけ動かして、わずかに笑う。
「ほう。漫画家先生」
「今日は尾けるんじゃなく、堂々と来たか」
「君が一人でいる機会は貴重だからな」
「なるほど」
「つまり、今なら話が聞けると思ったわけだ」
「そうだ」
露伴は迷いなく言った。
「前回より、もう一歩踏み込みたい」
「その言い方がすでに危ないんだがね」
店員が露伴のコーヒーを置いていく。
露伴はそれにも目をくれず、カイエンを見ていた。
前回と同じだ。
軽い。柔らかい。危険な刃物をわざと鞘に納めて、伊達男の顔だけ表に出している。
だが露伴には分かる。
それは本性が消えているわけではない。隠しているだけだ。
「今日は、誰かを待っているのか?」
「ん?」
カイエンはカップを置いた。
「まあ、そんなところだ」
「女か」
「君は直球だな、漫画家先生」
「当たっているのか?」
「さてね」
カイエンは肩をすくめる。
「御婦人を待つ時間というのは、それだけで絵になるだろう?」
「君の場合は、自分で言うんだな」
「言わなきゃ誰が言う」
露伴は鼻で笑った。
「相変わらずだな」
「何がだい?」
「軽い」
「軽くなきゃ生きてられん時もあるさ」
その返しに、露伴の目がわずかに細くなった。
――今のも、いい。
軽口のようでいて、少しだけ重い。
こういう断片があるから、この男は面白い。
露伴はコーヒーを一口飲むと、切り込むように言った。
「君が本気になる瞬間を、僕はまだ見ていない」
カイエンの口元が、少しだけ笑った。
「見たいのかい?」
「見たい」
露伴は即答した。
「君は軽い顔もするが、それだけの男じゃない」
「そこがまだ足りないんだ」
「何に足りない?」
「僕の漫画にだ」
カイエンが吹き出した。
「ははっ」
「ずいぶん正直だな、漫画家先生」
「正直で悪いか」
「いや、嫌いじゃない」
その時だった。
通りの向こうから、甲高い悲鳴が上がった。
「きゃっ――!」
「ど、泥棒っ!!」
ざわ、と空気が揺れる。
振り向けば、若い男がひとり、ブランド物らしいバッグをひったくって走っていた。
被害に遭ったらしい女性が、ヒールのまま数歩追い、すぐに膝をつく。
周囲は騒ぐだけで、誰もすぐには動けない。
露伴が椅子から少し腰を浮かせる。
だがその横で、カイエンはすでに立っていた。
「やれやれ……」
ひったくり犯は、まっすぐこの通りへ走り込んでくる。
カフェテラスの前を抜ければ、そのまま細い路地へ逃げ込める。
露伴が思うより早く、カイエンは片手をポケットに入れたまま、もう片方の手をひらりと上げた。
「……って、これは不良の台詞だったか」
その声音は、さっきまでと変わらない。
気だるく、軽い。
だが。
次の瞬間、露伴の目の前で、空気がわずかに鳴った。
ヒュッ――と。
本当に、ほんの小さな音だった。
カイエンは剣を抜いていない。
少なくとも、露伴の目にはそう見えた。
ただ、指先で空を払っただけだ。
ひったくり犯の足元のアスファルトが、ぱし、と細く弾ける。
まるで見えない何かが地面を走ったように。
「うおっ!?」
男の体勢が崩れる。
さらに、もう一度。
カイエンが今度は、手首を返すように軽く空を弾いた。
今度は犯人の手首のすぐ横を、見えない斬撃が掠めたらしかった。
びくん、と男の腕が跳ね、バッグが手から離れる。
「な、なんだ……!?」
そのまま男は二、三歩もつれて、盛大に前のめりに転んだ。
額を石畳に打ちつけ、伸びる。
周囲が、一拍遅れてざわつく。
「えっ……?」
「今、何した……?」
「転んだ……?」
「いや、違うだろ……」
露伴は言葉を失っていた。
見えなかった。
いや、何かは見た。
だが、分からない。
抜いたのか。
抜いていないのか。
斬ったのか。
地面を叩いたのか。
そもそも、どうしてあの距離で、あの男だけが崩れたのか。
カイエンは、何事もなかったような顔で歩き出し、落ちたバッグを拾う。
「ほら、お嬢さん」
被害者の女性へ向かって、軽く持ち上げる。
「ぼんやりしてると、地球じゃこういうのに遭うらしい」
女性は呆然としながら受け取った。
「あ……あの……ありがとうございます……!」
「礼なら警察にでも言っとくといい」
カイエンは苦笑する。
「ぼくは面倒事は苦手なんだ」
どの口が言う、と露伴は思った。
倒れた犯人は、完全に気絶している。
死んではいない。
周囲の誰が見ても、それは明らかだった。
だが、ただの転倒ではないことも、なんとなく皆が感じ取っている。
通行人たちが距離を取りながら犯人を囲み始める。
誰かが通報したらしい。
露伴はゆっくり立ち上がり、カイエンへ歩み寄った。
「……今のは何だ」
カイエンは肩越しに振り返る。
「何って?」
「とぼけるな」
露伴の声が低い。
「どうやって止めた」
「ひったくりを止めただけだろう」
カイエンは涼しい顔をしている。
「大げさだな、漫画家先生」
「大げさなものか」
露伴はさらに一歩踏み込む。
「剣を抜いたのか?」
「さてね」
「抜いていないように見えた」
「見えたなら、それでいいんじゃないかい」
「よくない」
露伴はきっぱり言った。
「僕には全然足りない」
カイエンはそこで、少しだけ楽しそうに目を細めた。
「君、ほんとに面倒くさいな」
「今さらだ」
「違いない」
露伴はなおも食い下がる。
「君は、最初から殺す気はなかったな」
「公共の場で剣を振り回すほど、ぼくも野暮じゃない」
カイエンは軽く鼻で笑う。
「少し眠ってもらっただけさ」
「少し、で済むのか?」
「済んでるだろう」
カイエンは気絶した犯人を顎で示した。
「ちゃんと生きてる」
露伴は黙った。
やはり、この男は軽い。
軽い顔で、とんでもないことをする。
それでいて、その線引きは妙に冷静だ。
怖い。
だが同時に、どうしようもなく面白い。
露伴の指先がわずかに震えた。
これだ。
これがまだ描けていない。
軽口を叩きながら、場を一瞬で制圧する。
しかも見せびらかさない。
まるで当然のようにやる。
……駄目だ。
まだ全然、足りない。
その時、背後から静かな声がした。
「お待たせしました、マスター」
アウクソーだった。
いつの間にか、カフェテラスの端に立っていた。
騒ぎの余韻の中でも、その姿だけが妙に落ち着いている。
カイエンが振り返る。
「ほう。いいところに来たな」
「少々、騒がしかったようですが」
「ちょっと地球のならず者に昼寝してもらっただけだよ」
アウクソーは、倒れている犯人と、妙に興奮している露伴を順に見た。
「……そうでしたか」
露伴がすぐ反応する。
「君は驚かないんだな」
「何にでしょうか」
「今のだ」
露伴はカイエンを指す。
「見ていたのか?」
「少し」
アウクソーは静かに答える。
「マスターが、いつも通り加減なさったかと」
露伴の目が見開かれる。
「……今のが“加減”か」
「十分に」
アウクソー。
「本気でしたら、周囲の被害がもう少し大きくなります」
「おいおい」
カイエンが笑う。
「変な補足はよしなさい」
「事実です」
露伴は、思わずメモ帳を取り出した。
カイエンがそれを見て呆れたように言う。
「今ここで書くのかい?」
「書く」
露伴は即答した。
「書かないと逃げる」
「何が」
「今の感触がだ」
カイエンは、やれやれと肩をすくめる。
「だから漫画家は厄介なんだ」
「褒め言葉として受け取っておく」
「勝手にしろ」
露伴は、メモ帳に走り書きする。
軽い
だが一瞬で空気を変える
抜いたかどうか分からない
殺さない
“当然”の顔で止める
アウクソー曰く加減
まだ足りない
最後の一行を書いた時、露伴は自分で少し笑った。
カイエンがそれを見る。
「何だい」
「いや」
露伴はメモ帳を閉じた。
「やっぱり、君は見逃せないと思ってな」
カイエンはふっと口元を上げた。
「それは光栄」
「だが、ほどほどにしとけよ、漫画家先生」
「無理だな」
「だろうね」
アウクソーが静かに一礼する。
「では、私どもはこれで」
「待て」
露伴が言う。
「次も会うぞ」
「予告かい?」
「宣言だ」
カイエンは一瞬だけ空を仰ぎ、楽しそうに笑った。
「やれやれ……
厄介なのに目をつけられたもんだ」
「お互い様です」
アウクソーが静かに言う。
「君までそう言うのか」
「事実です」
二人が去っていく背を見ながら、露伴はもう一度メモ帳を開いた。
一番下に、たった一言だけ書き足す。
――本物だった。