守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
岸辺露伴のアトリエには、
いつものように紙とインクの匂いが満ちていた。
机の上には、描きかけの原稿。
その横に、何枚もの人物ラフ。
さらに、その下には破り捨てられたスケッチの山。
そのすべてに、共通する特徴があった。
長い髪。
気だるげな目元。
どこか余裕を崩さない口元。
軽く笑っているのに、奥が読めない顔。
泉京香は、机の端からそっとその一枚を持ち上げた。
「センセ……」
露伴は別の紙に向かったまま答える。
「なんだ」
「このロン毛のヒト」
泉は絵を見比べる。
「まんま“あの人”じゃないですか……」
露伴の手が止まる。
「“まんま”ではない」
「いや、かなりまんまですって!」
泉。
「髪型も、目つきも、気だるそうな感じも、
なんかこう……“絵になりすぎてる危ない人”感も!」
露伴はようやく顔を上げた。
「だから違うと言ってるだろう」
「形は借りている」
「だが、本質がまだ足りない」
泉は頭を抱えた。
「またその話ですか……」
露伴は紙を指先で叩く。
「外見は描ける」
「立ち方も、軽い笑い方も、女を見る目も描ける」
「だが、それだけじゃ駄目なんだ」
「十分キャラ立ってますよ……」
泉。
「浅い」
露伴はきっぱりと言う。
「このままじゃ、ただの色男で終わる」
「だが、あの男は違う」
「軽い顔の奥に、“場を一瞬で変える何か”がある」
「それがまだ足りないんだよ」
泉はその言い方に、嫌な予感を強めた。
「……センセ」
「まさかとは思いますけど」
露伴は立ち上がった。
「駄目だ」
「うわ、出た」
「このまま机に向かっていても、外側しか描けない」
露伴はジャケットを掴む。
「必要なのは、構図でもペンでもない」
「現物だ」
泉が即座に叫ぶ。
「言い方が怖いんですよ!!」
「ていうか“現物”って言わないでください!!」
露伴は気にしない。
「泉くん、今日はもう帰れ」
泉が固まる。
「えっ!? またですか!?」
「今の僕に必要なのは取材だ」
露伴。
「君はもう帰っていい」
「よくないです!!」
泉。
「絶対また危ないところに行く気でしょう!?」
露伴はドアへ向かいながら、当然のように言う。
「行く」
「即答!!」
「安心しろ」
露伴。
「今回は無理に読まない」
「その“今回は”が怖いんですってばー!!」
だが露伴はもう聞いていない。
アトリエのドアが閉まり、
泉だけが取り残された。
しばらく沈黙。
泉は机の上のスケッチを見下ろした。
長髪の男が、紙の上でこちらを見ている。
「……いや、やっぱりどう見てもあの人じゃん……」
街へ出た露伴は、
ほとんど迷いなくあのカフェへ向かった。
以前、承太郎やキラたちと鉢合わせた店だ。
あのあたりなら、また誰かしら捕まる可能性がある。
そして実際に、
いた。
窓際の席。
黒いコート。
帽子。
無駄のない姿勢。
空条承太郎だった。
露伴は足早に店へ入り、まっすぐその席へ向かう。
「承太郎さん!」
承太郎が顔を上げる。
そして露伴を見るなり、
露骨に面倒くさそうな顔をした。
「……露伴」
「いたか」
露伴は勝手に向かいへ立つ。
「ちょうどいい」
「何がだ」
承太郎。
露伴は身を乗り出した。
「あの男は!?」
承太郎が一拍置く。
「あのってどいつだ……?」
露伴が苛立ったように言う。
「あのロン毛の!」
承太郎は鼻で息をついた。
「残念ながらカイエンなら今日は居ねぇぜ」
露伴の顔が、わずかに曇る。
「いないのか」
「いねぇ」
承太郎。
「ついでに、今日はあの騒がしいのもいねぇ」
「キラも?」
露伴。
「知らねぇよ」
承太郎はコーヒーを飲む。
「おまえ、探偵か何かか」
「漫画家だ」
露伴。
「より質が悪いな」
そこで承太郎の視線が、
露伴の手元へ落ちた。
露伴はスケッチブックを抱えたままだった。
そのページの端から、例の長髪の男の横顔が少し見えている。
承太郎が無言でそれを見た。
露伴は隠すでもなく、逆に開く。
「違うんだ」
「似ているようで、まだ全然違う」
承太郎が絵を見る。
長髪。
斜めの笑い方。
気だるげな立ち姿。
確かに、どう見てもカイエンっぽい何かだった。
承太郎は深く息を吐く。
「……やれやれだぜ」
露伴が不服そうに言う。
「何だ、その反応は」
「そのまんまじゃねぇか」
「だから違うと言ってるだろう」
露伴。
「形は取れてる」
「だが本質がまだ足りない」
承太郎はコーヒーカップを置いた。
「知らねぇよ」
「君には分からないだろうが」
露伴は本気だ。
「この男は、軽い顔をしている時ほど底が見えないんだ」
「それがまだ描けない」
承太郎は短く言う。
「だからって本人を追うな」
「追うに決まってるだろう」
露伴。
「だろうな」
承太郎。
その諦めきった返答に、露伴が少しだけむっとする。
「止める気があるのかないのか、どっちなんだ」
「止めてる」
承太郎。
「聞いてねぇのはおまえだ」
露伴は少し黙った。
それはその通りだった。
承太郎が珍しく、露伴のスケッチブックへ視線をもう一度向けた。
「どこが足りねぇ」
露伴が顔を上げる。
「……ほう」
「答えろ」
承太郎。
「どうせ聞くまで帰らねぇ顔してる」
露伴は満足そうに、だが真面目に答えた。
「全部だ」
「雑だな」
承太郎。
「雑じゃない」
露伴はスケッチを指で示す。
「この男は、軽い」
「そこは描ける」
「気さくで、女を見る目もあって、口説き文句も似合う」
「だが、それだけじゃない」
承太郎は黙って聞いている。
「次の瞬間には、空気ごと変える」
露伴。
「剣を抜いたのかどうかも分からないまま、場を終わらせる」
「それでいて、自分がすごいことをした顔をしない」
「その“当然さ”がまだ足りない」
承太郎がぼそりと呟く。
「……なるほどな」
露伴が少し意外そうに見る。
「分かるのか」
「少しはな」
承太郎。
「だが、たぶんまだ足りねぇぞ」
露伴の目が光る。
「何がだ」
承太郎は短く答える。
「おまえ、あいつの“軽い時”は見てる」
「“やる時”も少し見た」
「だが、あいつが“面倒くさがってる時の本気”はまだ見てねぇ」
露伴が黙る。
その沈黙は、図星だった。
承太郎は続ける。
「あと、あいつは一人だとまた違う」
「誰かがいる時と、いねぇ時でも変わる」
「……」
露伴はスケッチを見下ろす。
「やはり、足りないな」
「最初からそう言ってるだろ」
承太郎。
「だが今ので少し整理できた」
露伴。
「そうかよ」
露伴はページをめくり、新しくメモを書き足す。
軽い時
やる時
面倒くさがってる時の本気
一人の時
誰かがいる時
顔が変わる
同じ男に見えて、同じではない
承太郎がそれをちらりと見て、
また一言だけ漏らす。
「……やれやれだぜ」
二回目だった。
その時、露伴のスマホが鳴った。
泉からだった。
露伴が出る。
「何だ」
『何だ、じゃないですよ!』
泉の声が飛ぶ。
『センセ、また出ましたよね!?』
「出た」
『出た、じゃないです!!』
『しかも絶対、またあの人たち探しに行ってますよね!?』
露伴は承太郎を見た。
承太郎は露骨に嫌そうな顔をする。
「半分当たりだ」
『半分!?』
『ああもう、やっぱり!!』
露伴は少しだけ口元を上げた。
「安心しろ」
「今はただ承太郎さんと話しているだけだ」
『その“だけ”で安心できたこと、一回もないですからね!?』
承太郎が小さく呟く。
「まともだな」
露伴が受話口を押さえずに返す。
「泉くんは編集だからな」
『聞こえてますからね!?』
電話越しに泉の疲れ切った声が響く。
『センセ、せめて今日は帰ってきてから描いてください!』
『そのまま勢いでまた尾けたりしないでくださいよ!?』
露伴はあっさり言う。
「善処する」
承太郎が即座に言った。
「しねぇな」
『しませんよね!?』
露伴は電話を切った。
承太郎がコーヒーを飲みながら言う。
「いい編集だな」
「そうだろう」
露伴。
「だが、分かっていない」
「何をだ」
「描けないものを前にして、家に帰れる漫画家がいるか」
「知らねぇよ」
承太郎。
「いない」
露伴。
「少なくとも僕は帰れない」
「勝手にしろ」
露伴はスケッチブックを閉じた。
「承太郎さん」
「なんだ」
「君は、あいつに会う予定はあるのか」
「あるかもしれねぇし、ねぇかもしれねぇ」
承太郎。
「教える義理はねぇな」
露伴は舌打ちこそしないが、不満げだった。
「非協力的だな」
「協力する理由がねぇ」
承太郎。
「だが、君も認めていた」
露伴。
「面白いと」
承太郎は少しだけ目を細める。
「認めたからって、餌をやる理由にはならねぇだろ」
露伴は数秒黙ったあと、小さく笑う。
「なるほど」
「そういうところは本当に面倒だな、承太郎さん」
「おまえにだけは言われたくねぇ」
二人の間に、妙な静けさが落ちた。
露伴は立ち上がる。
「いい」
「今日は帰る」
承太郎が意外そうに見る。
「素直だな」
「違う」
露伴はスケッチブックを軽く持ち上げる。
「材料は増えた」
「今なら少し描ける」
「……そうかよ」
「だが、まだ足りない」
露伴は言い切った。
「だからまた会う」
承太郎は深く息を吐く。
「やれやれだぜ」
三回目だった。
露伴が店を出たあと。
承太郎は一人でコーヒーを飲み干し、窓の外を見た。
あの漫画家は、たぶん本当にまた来る。
しかも今度は、今までより少しだけ“見えてしまった”分、余計に厄介だ。
「……面倒だな」
そう呟いて席を立つ。
一方その頃、露伴は歩きながら、
もう次のコマ割りを考えていた。
長髪の男が笑う。
その次のコマで、場が凍る。
さらに次で、何事もなかったように軽口へ戻る。
だが、まだ違う。
「足りない……」
露伴は呟く。
「もう一枚」
「もう一段」
「あと少し、本質がいる」
その目は、まだ全然懲りていなかった。