守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇   作:ギアっちょ

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岸辺露伴はディナーを取材する

 午後。

 

 岸辺露伴の仕事場では、ペン先が紙を擦る音だけが響いていた。

 

 机の上には原稿。

 

 資料。

 

 スケッチ。

 

 以前取材した純喫茶の写真。

 

 その中には、果実を思わせる香りを持つ、希少な珈琲のカップも描かれている。

 

「露伴先生」

 

 泉京香は、原稿を確認しながら声をかけた。

 

「何だ」

 

「以前、先生が漫画に描かれた純喫茶ですが、今もお客様が絶えないそうです」

 

「僕には関係ない」

 

「先生の漫画を読んで、場所を特定した方が大勢いらっしゃるんですよ」

 

「店の外観を正確に描いた。それだけだ」

 

「それを世間では、聖地巡礼のきっかけと呼ぶんです」

 

「僕は観光案内を描いたんじゃあない」

 

 露伴はペンを止めない。

 

 泉は一枚の資料を、原稿の邪魔にならない位置へ置いた。

 

「とあるホテルで、特殊なディナーコースが評判になっているそうです」

 

 ペン先が止まった。

 

「ホテル?」

 

「はい。コーンスープと、ヴィンテージワインを使った牛ほほ肉の煮込みが中心のコースです」

 

「どこが特殊なんだ」

 

「元になった商品に、それぞれ少し問題があったとか」

 

「少し?」

 

「詳しい説明には、こうあります」

 

 泉が資料を読み上げる。

 

「特殊食品を安全な調理工程によって正常化し、本来の美味しさを引き出した限定ディナー」

 

 露伴が顔を上げた。

 

「正常化」

 

「はい」

 

「元の商品が、普通に食べられなかったということか?」

 

「そういう意味ではないでしょうか」

 

 露伴は資料を手に取った。

 数秒読む。

 

「面白いな」

 

「取材なさいますか?」

 

「当然だろう」

 

 即答だった。

 

 泉は手帳を開く。

 

「では、ホテルへ取材の申し込みを入れます。コースは二名分で」

 

「君も食べるのか?」

 

「同行取材ですから」

 

「僕は一人でも構わない」

 

「先生を一人で行かせたら、厨房まで入り込んで料理長を三時間拘束するでしょう」

 

「必要ならそうする」

 

「だから同行するんです!」

 

 露伴は資料へ視線を戻した。

 

「費用は編集部へ回せ」

 

「やっぱり編集部負担なんですか?」

 

「取材費だ」

 

「実際に漫画へ使われるんですよね?」

 

「使えるかどうかを判断するために取材するんだ」

 

「使えないと判断した場合は?」

 

「使えないという結論を得た。それも成果だろう」

 

「その説明、経理部には先生からお願いします」

 

「君は何のための担当編集なんだ」

 

「先生のディナー代を通すためではありません!」

 

     ◇

 

 その日の夕方。

 

 露伴と泉は、ホテルレストランを訪れた。

 

 入口には、限定ディナーを告知する案内板が置かれている。

 

特殊食品正常化記念ディナー

 

数百年熟成ヴィンテージワインの牛ほほ肉煮込み

濃厚コーンポタージュ

季節のデザート

食後のお飲み物

 

 露伴は案内板を一通り確認した。

 

「情報が少ないな」

 

「詳しく書いたら、お客様が不安になるんじゃないですか?」

 

「料理に必要な背景を隠すのは感心しない」

 

「安全性は確認済みと書いてありますよ」

 

「安全なのは当然だ。問題は、どうして安全にする必要があったのかだ」

 

「先生が楽しそうで何よりです」

 

「嫌味か?」

 

「半分くらいは」

 

 二人がレストランへ入ると、ジョーイ係長が待っていた。

 

「岸辺露伴先生、泉さん。本日はありがとうございます」

 

「君が担当者か」

 

「株式会社ヘキサクス、営業管理部のジョーイです。

 特殊食品在庫正常化責任者も兼任しております」

 

「長い肩書だな」

 

「本人もそう思っとります」

 

 ジョーイ係長は二人へ名刺を差し出した。

 

 露伴は受け取り、肩書を読み直す。

 

「係長なのに、在庫正常化の責任者?」

 

「給料と階級はそのままです」

 

「待遇がおかしいですね」

 

 泉が即座に言った。

 

「わかってくれます!?」

 

「話を脱線させるな」

 

 露伴が店内を見る。

 

「料理長への取材もできるんだろうな」

 

「もちろんです。ただ、まずは料理を食べてください。説明だけ聞いても、味はわかりませんから」

 

「当然だ」

 

「先生、その意見だけはいつも正しいんですよね……」

 

 二人は窓際の席へ案内された。

 

 テーブルには、真新しい白いナプキンが置かれている。

 

 露伴は座る前に、その布へ触れた。

 

「織りが細かい。ホテルの通常品じゃあないな」

 

 ジョーイ係長が驚く。

 

「わかります?」

 

「見ればわかる」

 

「先日から導入されたA.K.D.宮廷工房製のリネンです」

 

「食事の取材ですよ、先生」

 

 泉が椅子へ座りながら言った。

 

「店の空気を作るものは、料理だけじゃあない。

 テーブル、照明、食器、布。全部が客の印象に影響する」

 

「ナプキンまで漫画に描くんですか?」

 

「必要ならな」

 

「本当に何でも見てますね……」

 

     ◇

 

 最初に運ばれてきたのは、魚介と季節野菜の前菜だった。

 

 白い皿の上へ、彩りよく盛り付けられている。

 

 給仕が説明する。

 

「こちらは、一般的な食材のみを使用した前菜でございます」

 

 泉が少し身構えた。

 

「一般的な食材のみ、という説明が必要なんですか?」

 

「当コースでは、お客様へ安心してお召し上がりいただくためにご案内しております」

 

「次から普通じゃないものが来るってことですよね?」

 

「現在は、すべて通常のお料理として安全です」

 

「“現在は”……」

 

 泉の警戒が増した。

 

 露伴は気にせず、魚介を一口食べる。

 

「悪くない」

 

「先生の“悪くない”は、褒めている方なんですよね」

 

「柑橘の酸味が強すぎない。魚の味を殺していない」

 

 泉も食べる。

 

 爽やかな酸味と、魚介の旨味。

 

 野菜の食感もよい。

 

「本当に美味しいですね」

 

「だから悪くないと言った」

 

「普通に美味しいと言えないんですか?」

 

「感想に普通も異常もない」

 

 露伴は皿の盛り付けを、小さな手帳へ描き始めた。

 

「もう描くんですか?」

 

「忘れてから描く方が不自然だろう」

 

「食べながら取材する人は多いですけど、先生の場合、料理が冷める前にスケッチが終わるのが怖いです」

 

     ◇

 

 二品目。

 

 白いカップへ注がれた、濃厚なコーンポタージュ。

 

 表面にはクルトンとパセリ。

 

 露伴がスプーンを入れる。

 

 コーンの粒が、いくつも持ち上がった。

 

 泉も同じように粒をすくう。

 

「普通のコーンスープに見えますね」

 

「見た目はな」

 

 ジョーイ係長が、テーブルの脇へ立った。

 

「元は、缶入りの商品でした」

 

「缶入り?」

 

 泉が尋ねる。

 

「味は最初から良かったんです。濃厚で、コーンの粒もしっかり入っとった」

 

「でしたら、そのまま売れたのでは?」

 

「缶の飲み口に、特殊な返しがありまして」

 

 ジョーイ係長は、持参した見本の缶をテーブルへ置いた。

 

「中身のスープは出ます。でも、粒だけは引っかかる」

 

「偶然ですか?」

 

「意図的です」

 

「何のために?」

 

「飲んだ人が、最後まで粒を出せずに苛立つように」

 

 泉は数秒、缶を見つめた。

 

「暇なんですか、その会社は!」

 

 店内へ、よく通る声が響いた。

 

 少し離れた席の客が振り返る。

 

 泉は慌てて声を落とした。

 

「す、すみません。でも、何でそんなことに開発費を使うんですか!」

 

「ワシも聞きたいです」

 

 ジョーイ係長は深く頷いた。

 

 露伴は缶を手に取り、飲み口の内側を観察していた。

 

「よくできている」

 

「先生?」

 

「コーンの粒だけを止める構造としては、精度が高い」

 

「褒めるところですか?」

 

「技術の評価と、目的の評価は別だ。技術は高い。目的は最低だ」

 

「ものすごく岸辺先生らしい評価ですな」

 

 ジョーイ係長が言った。

 

 露伴は缶を傾け、中の構造を光へ透かして見る。

 

「それで、どうやって正常化した?」

 

「缶の上を全面開封して、鍋へ移しました」

 

 泉が瞬きをする。

 

「缶の構造を直したわけではないんですね」

 

「直すより早くて確実でした」

 

「悪意のある仕組みを、わざわざ使う必要はない」

 

 露伴が缶を置いた。

 

「目的は、コーンスープを客へ届けることだ。なら、鍋へ移せばいい」

 

「すごく当たり前の結論なのに、そこへ至るまでが遠すぎます」

 

 泉はスープを一口飲んだ。

 

 濃厚な甘味。

 

 滑らかな舌触り。

 

 コーンの粒もしっかり口へ入る。

 

「……美味しい」

 

「味は問題なかったと言ったでしょう」

 

 ジョーイ係長が、少し誇らしそうに答える。

 

 露伴も一口飲む。

 

「粒の食感を残している。厨房で温め直しても、火を入れすぎていないな」

 

「料理長が調整しています」

 

「缶のまま飲むより、こっちの方が完成度は高い」

 

「それ、開発スタッフが聞いたら喜びますわ」

 

「伝えればいい」

 

「お名前を出しても?」

 

「勝手に宣伝文句へ使うな。言葉を変えるのも駄目だ」

 

「前と同じ条件ですね」

 

「当然だ」

 

 泉が露伴を見る。

 

「先生、また販促へ協力するんですか?」

 

「評価しただけだ」

 

「前回も、それで店が繁盛したんです」

 

「客が勝手に来たんだろう」

 

「先生の漫画を読んでです!」

 

「漫画が面白かったからだ」

 

「そこは否定できないのが悔しいです……」

 

     ◇

 

 ホテルの厨房。

 

 料理長は、給仕から露伴の感想を聞いていた。

 

「火を入れすぎていない、と」

 

「はい」

 

「缶のままより完成度が高いとも」

 

 料理長は静かに頷いた。

 

「厳しい方だと聞いていましたが、きちんと味を見てくださっていますね」

 

 ジョーイ係長が厨房へ戻ってくる。

 

「見てるどころか、缶の返しまでスケッチしてます」

 

「容器も?」

 

「料理より先に、悪意の構造へ興味持ってましたわ」

 

「漫画家の取材とは、そういうものなのですね」

 

「岸辺先生を基準にせん方がええと思います」

 

 料理長は、次の皿を確認した。

 

 牛ほほ肉の煮込み。

 

 深い赤色のソースが、皿の上で静かに光っている。

 

「メインを出しましょう」

 

「赤い汗の説明、お願いします」

 

「承知しています」

 

「岸辺先生、飲用前のワインを見せろ言うかもしれません」

 

「見せるだけなら可能です」

 

「飲ませたらアカンですよ」

 

「もちろんです」

 

 二人は、同じ方向を見た。

 

 客席では露伴が、すでに次の取材対象を待っていた。

 

     ◇

 

 メイン料理が運ばれてきた。

 

 数百年熟成ヴィンテージワインの牛ほほ肉煮込み。

 

 柔らかく煮込まれた肉。

 

 深い赤色のソース。

 

 温野菜とマッシュポテト。

 

 香りが立ち上った瞬間、露伴の表情が変わった。

 

「熟成香が残っているな」

 

「こちらには、数百年熟成されたヴィンテージワインを使用しております」

 

 料理長が、自ら説明に現れた。

 

「ただし、このワインには飲用上の問題がございました」

 

「どういう問題ですか?」

 

 泉が尋ねる。

 

「そのまま飲みますと、原因物質が汗から排出され、全身から赤い汗が出ます」

 

 泉の手が止まった。

 

「赤い汗?」

 

「通常量で、およそ一日から二日です」

 

「料理の説明ですよね?」

 

「はい」

 

「急に症例の説明になってませんか?」

 

「この料理では、九十五度以上で三十分以上加熱し、原因物質を分解しております」

 

「最初からそこまで一息に説明してください!」

 

 露伴は、肉へナイフを入れた。

 

「安全性は確認済みか」

 

「ログナー司令による分析で、加熱後は原因物質が検出限界以下となっております」

 

「検査記録は?」

 

「こちらに」

 

 料理長が資料を差し出す。

 

 露伴は食事より先に資料を読み始めた。

 

「先生、冷めますよ」

 

「数分で冷める料理を出す店じゃあないだろう」

 

「そういう問題ではありません!」

 

 露伴は検査記録を読み終えると、ようやく肉を一口食べた。

 

 肉の繊維が、舌の上でほどける。

 

 濃厚なソース。

 

 丸みのある酸味。

 

 樽と長期熟成による、複雑な香り。

 

 露伴は何も言わず、二口目を食べた。

 

 泉が尋ねる。

 

「どうですか?」

 

「悪くない」

 

「またそれですか」

 

「ワインの香りを残しながら、酸味を飛ばしすぎていない。肉の脂も重く感じない」

 

 料理長が頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、付け合わせの人参は、もう少し食感を残してもいい」

 

「参考にいたします」

 

「先生、頼まれていない改善案まで言わないでください」

 

「料理長は聞いている」

 

「喜んでおられますから構いません」

 

 料理長が答えた。

 

「ほら見ろ」

 

「先生の味方をしないでください!」

 

 泉も恐る恐る、肉を一口食べる。

 

 目が少し大きくなる。

 

「……美味しい」

 

「加熱済みだと言っただろう」

 

「安全性と味は別の話です!」

 

「どちらも問題ない」

 

「先生まで検査報告みたいな言い方になってますよ」

 

 露伴は料理長へ尋ねた。

 

「元のワインは見られるか?」

 

「先生!」

 

 泉が反応する。

 

「飲むとは言っていない」

 

「先生の場合、瓶を見たら栓を開けかねません!」

 

「取材対象を観察するだけだ」

 

 料理長が、封印されたワインボトルを運んできた。

 

 黒に近い赤。

 

 古いラベル。

 

 長い年月を経たガラス。

 

 ラベルの下部には、小さな注意書き。

 

常人が飲むと、全身から赤い汗を流す。

慣れるとクセになる。

 

 泉が注意書きを読む。

 

「慣れたくありません」

 

「一日から二日なら、表記は誇張だな」

 

 露伴が言った。

 

「最大条件では、一週間ほど続く可能性もございます」

 

「一本近く飲んだ場合か?」

 

「はい」

 

「誰が飲むんですか、一人で一本も!」

 

「カイエン様なら、可能性があると」

 

「その人、以前も何か食べてひどい目に遭ってませんでした?」

 

「複数回」

 

「学習しないんですか?」

 

 ジョーイ係長が遠い目をした。

 

「油断するんです」

 

 露伴はラベルを手帳へ描き写す。

 

「味を作るのに数百年。異常作用を足すのに数分。くだらない話だ」

 

 料理長が露伴を見る。

 

「その通りです」

 

「だが、料理にすれば味は残った」

 

「はい」

 

「悪意だけを加熱して消したわけだ」

 

 露伴は、再び皿へナイフを入れた。

 

「取材する価値はある」

 

 泉が少し笑う。

 

「先生がそこまで言うなら、かなり高評価ですね」

 

「僕の評価を勝手に換算するな」

 

     ◇

 

 メイン料理を食べ終えると、デザートが運ばれてきた。

 

 チョコレートムース。

 

 赤い果実のソース。

 

 小さな焼き菓子。

 

 給仕が説明する。

 

「こちらには、特殊な食材を使用しておりません」

 

 泉が心から安堵する。

 

「普通のデザート!」

 

「普通かどうかで味は決まらない」

 

 露伴が言った。

 

「今は、普通という情報がありがたいんです!」

 

 泉はムースを一口食べた。

 

「美味しい……」

 

「酸味との配分がいいな」

 

 露伴も食べながら、断面を手帳へ描く。

 

「デザートまで描くんですか?」

 

「料理の流れとして必要なら使う」

 

「今回の取材、どんな漫画になるんでしょう」

 

「まだ決めていない」

 

「ここまで描いておいて?」

 

「描くことと使うことは別だ」

 

「先生の没資料だけで、普通の漫画家さんなら何作も描けそうです」

 

「質の話を量へ置き換えるな」

 

 デザートは平和に終わった。

 

 叫び声もない。

 

 異常作用の説明もない。

 

 泉は、ようやく肩の力を抜いた。

 

「どの料理も、結局は美味しかったですね」

 

「ああ」

 

「コーンスープも、シチューも。元の商品は変でしたけど」

 

「問題は、味ではなく余計な仕組みだ」

 

「余計な仕組み?」

 

「コーンを止める缶。赤い汗を出す成分。どちらも、美味しい食品には必要ない」

 

「それを取り除いたら、普通に良い料理になった」

 

「そういうことだ」

 

「ジョーイ係長、いい仕事をしてるんですね」

 

「ようやく商品の本質を客へ届けただけだ」

 

「先生は厳しいですね」

 

「褒めている」

 

「本人には伝わりにくいと思います」

 

     ◇

 

 食後。

 

 給仕が、二人の前へ珈琲を置いた。

 

 黒い液面。

 

 柔らかな香り。

 

 わずかに果実を思わせる甘い匂い。

 

「お食後のお飲み物でございます」

 

 泉はカップへ顔を近づけた。

 

「良い香りですね」

 

「ああ」

 

 露伴は、何の迷いもなくカップを持ち上げた。

 

 泉も続く。

 

 一口飲む。

 

 柔らかな苦味。

 

 雑味が少ない。

 

 果実のような香りが、口の中へ静かに広がる。

 

「美味しい……」

 

 泉は素直に呟いた。

 

 露伴も一口飲み、カップを見た。

 

「以前の喫茶店より、抽出温度を少し下げているな」

 

「わかるんですか?」

 

「ああ。この豆は、苦味を強く出さない方がいい」

 

「以前の喫茶店って、先生が漫画に描かれた」

 

「同じ象の珈琲だ」

 

 泉の動きが止まった。

 

 カップを持ったまま、露伴を見る。

 

「……今、何と?」

 

「同じ象の珈琲だと言った」

 

 泉はゆっくりと、自分のカップを見る。

 

 次に給仕を見る。

 

 最後に、再び露伴を見る。

 

「象の珈琲って」

 

「君は僕の原稿を読んだだろう」

 

「まさか、あの」

 

「象が食べ、消化過程を経た後に回収された豆だ」

 

「先に言ってください!!」

 

 再び、よく通る声が店内へ響いた。

 

 ほかの客が振り返る。

 

 泉は慌てて声を落とす。

 

「先生! どうして飲む前に教えてくれなかったんですか!」

 

「知っていると思った」

 

「存在を知っていることと、自分が飲むことへの同意は別です!」

 

「メニューに書いてある」

 

「どこに!?」

 

 露伴はメニューの裏面を開き、下部を指差した。

 

 小さな文字で記されている。

 

食後には、象の消化過程を経て回収された希少珈琲豆を使用しております。

洗浄、焙煎、安全性検査済み。

 

「小さい!」

 

「編集者なら、小さい文字も読め」

 

「ホテルで校正能力を試さないでください!」

 

「誰も試していない。君が読まなかっただけだ」

 

「先生は気づいてたんですよね?」

 

「店へ入った時からな」

 

「それなのに何も言わなかった!」

 

「君も以前、原稿で製法を確認している」

 

「確認しました! でも自分で飲む予定はありませんでした!」

 

 ジョーイ係長が、恐る恐る近づいてきた。

 

「泉さん。安全性には問題ありません」

 

「それはわかっています!」

 

「洗浄と焙煎も適切に」

 

「知識の問題じゃないんです!」

 

「気持ちの問題ですね」

 

「そうです!」

 

 露伴は珈琲をもう一口飲んだ。

 

「君は一口飲んで、美味しいと言った」

 

「言いましたけど!」

 

「製法を知った後も、さっき飲んだ珈琲の味は変わらない」

 

「記憶の味は変わります!」

 

「それは先入観だ」

 

「先入観を発生させる情報が強すぎるんです!」

 

 泉はカップを見つめた。

 

 香りは良い。

 

 実際、美味しかった。

 

 衛生面にも問題はない。

 

 露伴は平然と飲んでいる。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「本当に、美味しいと思って漫画に描いたんですか?」

 

「不味いものを、理由もなく美味そうに描くと思うか?」

 

「思いません」

 

「なら答えは出ている」

 

 泉は数秒迷った。

 

 そして、もう一度カップを持ち上げた。

 

 小さく一口飲む。

 

 やはり、柔らかな苦味。

 

 果実の香り。

 

「……美味しいです」

 

「だから描いたんだ」

 

「悔しい……」

 

「何と戦っているんだ、君は」

 

「理性と製法です!」

 

 ジョーイ係長が安心したように息をついた。

 

「全部飲まれます?」

 

「残すのは、もったいないですから」

 

「正しい判断だな」

 

「露伴先生に言われると腹が立ちます!」

 

 泉は、結局最後まで飲み切った。

 

     ◇

 

 食事と取材を終えた二人の前へ、会計の伝票が運ばれてきた。

 

 泉が金額を確認する。

 

「限定ディナー二名分……」

 

「取材費だ」

 

「まだ何も言ってません」

 

「顔に書いてある」

 

「経理部へ、何と説明すればいいんですか」

 

「特殊食品の正常化工程と、料理への転用に関する取材」

 

「象の珈琲二杯分も含まれていますけど」

 

「コースに含まれている」

 

「私の精神的な負担は?」

 

「経費にならない」

 

「即答しないでください!」

 

 ホテル側から、料理代を割り引くという提案はなかった。

 

 露伴も求めなかった。

 

 取材対象へ正規の対価を支払う。

 

 その点については、泉も異論はない。

 

「領収書の宛名は、編集部でお願いします」

 

 泉が給仕へ伝えた。

 

 露伴が言う。

 

「但し書きは取材費で」

 

「先生」

 

「何だ」

 

「実際に原稿へ使ってくださいね」

 

「僕の漫画に使う価値があればな」

 

「使わなかったら、先生から経理部へ説明してください」

 

「君の仕事だ」

 

「食べるところまで同行したんですから、先生も協力してください!」

 

「君も珈琲を飲んだだろう」

 

「被害を成果扱いしないでください!」

 

     ◇

 

 数日後。

 

 露伴の仕事場。

 

 机の上には、新しい原稿が並んでいた。

 

 細かく描き込まれたホテルレストラン。

 

 白いテーブルクロス。

 

 A.K.D.製のナプキン。

 

 コーンスープ。

 

 缶の飲み口に仕込まれた、小さな返し。

 

 鍋へ移されたスープ。

 

 数百年熟成ワインの瓶。

 

 加熱されるソース。

 

 牛ほほ肉の煮込み。

 

 そして、食後の珈琲。

 

 泉は原稿を一枚ずつ確認した。

 

「全部使ってるじゃないですか」

 

「使えるものを捨てる理由がない」

 

「コーンスープの缶まで、正確に描いてますね」

 

「悪意は、形に現れる」

 

「シチューも美味しそうです」

 

「実際に美味かった」

 

「珈琲も……」

 

 泉は、原稿に描かれた黒いカップを見る。

 

 その味を思い出す。

 

 同時に、製法も思い出す。

 

「もう少し、製法を思い出さない描き方にはできませんか?」

 

「リアリティを捨てろと言うのか?」

 

「味のリアリティだけでいいです!」

 

「背景を知らなければ、この話を描く意味がない」

 

 露伴は原稿の一枚を取り上げた。

 

 そこには、登場人物が牛ほほ肉の煮込みを食べる場面が描かれている。

 

「美味しい食品へ、余計な悪意を加えた者がいた」

 

「はい」

 

「なら、その悪意だけを取り除けばいい。缶を捨て、成分を分解し、料理として完成させる」

 

「ジョーイ係長たちがしたことですね」

 

「悪意の仕組みに付き合う必要はない。味を届ける方法を選べばいい」

 

 泉は原稿をもう一度見た。

 

「良い話ですね」

 

「僕の漫画だからな」

 

「掲載後、またホテルにお客様が殺到しそうです」

 

「僕はホテルの宣伝を描いたんじゃあない」

 

「でも、外観も料理も正確です」

 

「リアリティが命だからだ」

 

「前回も同じことを言ってました」

 

「事実は何度言っても変わらない」

 

「ホテル側は喜ぶでしょうね」

 

「勝手に喜べばいい」

 

     ◇

 

 原稿が掲載された数日後。

 ホテルレストランには、今まで以上に問い合わせが相次いだ。

 

漫画に出たコーンスープは食べられますか。

牛ほほ肉の煮込みは予約できますか。

食後の珈琲も、作中と同じものですか。

 

 限定ディナーの予約枠は、すぐに埋まった。

 

 ジョーイ係長は、販売報告書を持って露伴の仕事場を訪れた。

 

「岸辺先生! また売れました!」

 

「僕には関係ない」

 

「ホテルの予約、満席です!」

 

「漫画を読んだ人間が、自分で予約したんだろう」

 

「先生の漫画がきっかけです!」

 

「僕は取材した事実を描いただけだ」

 

 泉が横から口を挟む。

 

「結果的に販促になりましたね」

 

「勝手に結果を出すな」

 

「もう出ています!」

 

 ジョーイ係長は深く頭を下げた。

 

「本当にありがとうございました」

 

「礼を言うな。宣伝料を請求する気もない」

 

「そこは助かります」

 

「ただし、料理の質を落とすな」

 

「もちろんです」

 

「客が増えたからといって、最初に採用した店や、既存の客を後回しにするのも駄目だ」

 

 ジョーイ係長は、真剣な顔で頷いた。

 

「それは、ワシも同じ考えです」

 

「ならいい」

 

 泉は、二人を見比べた。

 

「先生、ずいぶん細かく気にしてますね」

 

「漫画に描いた料理が、後から別物になれば困るだけだ」

 

「それを心配していると言うんです」

 

「言わない」

 

     ◇

 

 その夜。

 

 泉は編集部で、取材費の精算書を作成していた。

 

取材先:ホテルレストラン

目的:特殊食品の正常化および調理工程の取材

人数:二名

成果:掲載原稿に使用

 

 経理担当者が領収書を見る。

 

「食後の飲み物も含まれていますか?」

 

「コース料金に含まれています」

 

「どのような飲み物でした?」

 

 泉の手が止まった。

 

 少し考える。

 

「……希少な珈琲です」

 

「具体的には?」

 

「そこまで精算書に必要ですか?」

 

「いえ。先生の原稿を読めばわかりますね」

 

「読まなくて大丈夫です!」

 

 泉の声が、編集部へ響いた。

 

 取材費は無事に認められた。

 

 露伴の漫画は好評だった。

 

 ホテルの料理は、変わらず美味しかった。

 

 コーンの粒は、すべて客の口へ届いた。

 

 ヴィンテージワインの悪意は、鍋の中で消えた。

 

 象の珈琲も、泉によって最後まで飲み切られた。

 

 ただし泉京香は、それ以降、食後の珈琲を飲む前に、

 メニューの小さな文字まで必ず読むようになった。

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