守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇   作:ギアっちょ

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料理長は限定料理だけに頼りたくない

 ホテルレストランの予約電話が、朝から鳴り続けていた。

 

「お問い合わせありがとうございます。はい、漫画に登場した牛ほほ肉の煮込みでございますね」

 

 担当者は予約表を確認する。

 

「申し訳ございません。ヴィンテージワインを使用した限定ディナーは、現在二か月先まで満席となっております」

 

 電話の向こうから、落胆した声が聞こえた。

 

「通常のお席でしたら、来週にもご案内できます。ただ、漫画に登場したものと同じ煮込み料理は、数量限定となっておりまして……」

 

 隣の電話も鳴る。

 

「はい。コーンポタージュでしたら、ランチでもお召し上がりいただけます」

 

 さらに別の電話。

 

「象の珈琲のみのご利用ですか? 喫茶時間でしたらご案内できます」

 

 少し離れた受付では、客が真剣な顔で質問していた。

 

「コーンの粒、本当に出るんですよね?」

 

「はい。缶から直接お出しするのではなく、厨房で全面開封して調理しております」

 

「赤い汗は?」

 

「コーンスープでは出ません」

 

「珈琲を飲んでも?」

 

「出ません」

 

「口の中で何時間も鳴ったりは?」

 

「珈琲ですので鳴りません」

 

 ホテルの受付担当者は、笑顔を崩さなかった。

 

 以前なら想定すらしなかった質問にも、今では迷わず回答できる。

 

 岸辺露伴の漫画が掲載されてから、レストランには問い合わせが殺到していた。

 

 客が求めているのは、漫画に描かれた料理。

 

 粒まで食べられる濃厚なコーンスープ。

 

 数百年熟成ヴィンテージワインの牛ほほ肉煮込み。

 

 象の消化過程を経た希少珈琲。

 

 そのすべてを一度に味わえる限定ディナーは、予約開始から短時間で埋まった。

 

 客室の予約を取らず、食事だけを目的に遠方から来る客までいる。

 

 ホテルにとっては、願ってもない反響だった。

 

 ただし。

 

 料理長は、厨房の片隅に置かれた一本のワインボトルを見つめていた。

 

 黒に近い赤色。

 

 古びたラベル。

 

 数百年という時間を内側に閉じ込めたガラス瓶。

 

 残された本数は少ない。

 

 注文が増えたからといって、畑から収穫することはできない。

 

 追加発注もできない。

 

 同じものを新たに仕込めば、完成するのは数百年後だ。

 

「本日分、三本目を開けます」

 

 料理人が声をかけた。

 

 料理長は時計を見る。

 

「予定通りだ。開栓後の状態を確認してから鍋へ」

 

「はい」

 

「一滴も無駄にするな」

 

「承知しました」

 

 料理人は慎重に瓶を運んでいく。

 

 その背中を見送った後、料理長は予約表へ目を落とした。

 

 満席。

 

 その翌日も満席。

 

 さらに翌週も、その先も。

 

 予約表には、期待が詰まっている。

 

 同時に、限界も記されていた。

 

「料理長」

 

 ホテル支配人が厨房へ入ってきた。

 

「少し、お話が」

 

「限定ディナーの件ですね」

 

「ええ」

 

 支配人は一枚の集計表を見せた。

 

「問い合わせ数は、掲載前の十二倍。レストラン全体の予約率も上がっています」

 

「ありがたいことです」

 

「ですが、限定ディナーを予約できなかったお客様の中には、来店そのものを取りやめる方も少なくありません」

 

 料理長は黙って数字を見る。

 

「漫画に登場した料理を食べたい。そのお気持ちはわかります」

 

 支配人が続ける。

 

「しかし、あのワインには限りがあります」

 

「はい」

 

「そこで、通常の赤ワインを使用した牛ほほ肉の煮込みを、同じコースの別仕様として提供できないでしょうか」

 

 料理長は、すぐには答えなかった。

 

 支配人が言葉を補う。

 

「もちろん、ヴィンテージ版と同じ料理として売るつもりはありません。価格も名称も変えます」

 

「廉価版ですか」

 

「そういう意味では」

 

「代用品として、ですか」

 

「料理長」

 

 支配人の声が少し弱くなる。

 

 料理長は集計表を置いた。

 

「申し訳ありません。あなたを責めているのではありません」

 

「わかっています」

 

「ただ」

 

 料理長は、厨房を見回した。

 

 鍋の音。

 

 包丁の音。

 

 火の音。

 

 香味野菜を炒める匂い。

 

 料理人たちが働いている。

 

「数百年熟成のワインがなければ、お客様を満足させられない料理人だとは思われたくありません」

 

 静かな声だった。

 

 だが、その奥には熱があった。

 

「ヴィンテージワインは素晴らしい食材です。

 あの時間を、現代の技術だけで再現することはできないでしょう」

 

「ええ」

 

「だからこそ、同じ料理を安く作ったものとして出すつもりはありません」

 

「では」

 

「別の料理として作ります」

 

 料理長は白衣の袖を整えた。

 

「今、手に入る赤ワインで。今の食材と、今の厨房で。あの限定料理とは違う形で、お客様がまた食べたいと思える煮込みを」

 

 支配人の表情が明るくなる。

 

「お願いできますか」

 

「やります」

 

「必要な食材や予算は」

 

「まず試作します。判断は食べてからにしてください」

 

「もちろんです」

 

「ただし」

 

「何でしょう」

 

「岸辺先生の漫画に描かれたものと同じだとは、絶対に宣伝しないでください」

 

「約束します」

 

「限定品は限定品です。価値を薄めるつもりはありません」

 

「その上で、新しい名物を」

 

「作ります」

 

 料理長の目には、もう迷いがなかった。

 

     ◇

 

 その日の午後。

 

 ホテルの小会議室には、赤ワインの瓶が並べられていた。

 

 若いもの。

 

 樽香の強いもの。

 

 酸味の穏やかなもの。

 

 果実味の濃いもの。

 

 産地も価格も違う。

 

 料理長は一つずつ香りを確かめ、少量を口に含んでいく。

 

「これは酸味が強すぎます」

 

「煮詰めれば落ち着きませんか?」

 

 料理人が尋ねる。

 

「落ち着くが、香りも一緒に痩せる。牛ほほ肉へ合わせるなら、少し若い」

 

 次のワイン。

 

「こちらは?」

 

「樽香が前へ出すぎる。肉よりワインを食べる料理になる」

 

「では、三番目」

 

 料理長がグラスを傾ける。

 

「これを基準にする」

 

「価格は、限定品とは比較にならないほど安いですが」

 

「価格で味を決めるな」

 

「はい」

 

「酸味はある。果実の香りも残る。熟成の深さはないが、だからこそ野菜と香辛料で輪郭を作れる」

 

 料理長は材料表を書き始めた。

 

 牛ほほ肉。

 

 玉ねぎ。

 

 人参。

 

 セロリ。

 

 トマト。

 

 フォン・ド・ヴォー。

 

 赤ワイン。

 

 少量の香草。

 

 通常版では、ヴィンテージワインの複雑さを真似しない。

 

 若いワインの明るい酸味を生かす。

 

 肉の焼き方を少し変える。

 

 香味野菜を深く炒めすぎない。

 

 煮込み時間も調整する。

 

 限定版とは、味の方向そのものを変える。

 

「これは、何と呼びますか?」

 

「まだ料理になっていない」

 

「ですが」

 

「名前は完成してからだ」

 

 料理長は鍋へ視線を向けた。

 

「料理は、名前で美味しくなるわけではない」

 

     ◇

 

 一回目の試作。

 

 肉は柔らかい。

 

 ソースにもコクがある。

 

 しかし酸味が少し前へ出た。

 

「悪くありません」

 

 料理人が言った。

 

「悪くない料理を、新しい名物にはできない」

 

 料理長は即座に答える。

 

 二回目。

 

 フォンを増やし、煮込み時間を長くした。

 

 今度は重い。

 

 ワインの鮮やかさが消えた。

 

「限定版へ寄せようとしすぎた」

 

 料理長は自分で認めた。

 

「別の料理にするとおっしゃっていました」

 

「ああ。わかっていたつもりで、比べていた」

 

 三回目。

 

 牛ほほ肉の表面を強く焼き、香味野菜は軽めに。

 

 ワインの量を抑え、トマトの甘味を加える。

 

 最後に少量のバターでソースを整えた。

 

 料理長が一口食べる。

 

 肉の旨味。

 

 軽やかな酸味。

 

 野菜の甘味。

 

 後味は重くない。

 

 数百年の深さはない。

 

 だが、今日の一皿として完成している。

 

「これです」

 

 料理人たちも試食する。

 

「限定版とは、まるで違いますね」

 

「違っていい」

 

「こちらは、昼にも食べやすい」

 

「パンだけでなく、ライスにも合いそうです」

 

「ランチで出すなら重要だ」

 

 料理長は、少しだけ口元を緩めた。

 

「これなら、お客様へ出せる」

 

     ◇

 

 数日後。

 

 レストランの新しいランチメニューが始まった。

 

ホテル特製・牛ほほ肉の赤ワイン煮込み

 

濃厚コーンポタージュ

パンまたはライス

季節のデザート

珈琲または紅茶

 

 メニューの下には、小さな説明が添えられていた。

 

本品は、限定ディナーのヴィンテージワイン版とは異なるレシピです。

現代の赤ワインとホテル独自の調理法で仕上げています。

 

 初日の予約は満席だった。

 

 限定版を予約できなかった客もいる。

 

 露伴の漫画を読み、料理そのものへ興味を持った客もいる。

 

 給仕は、最初の皿を運びながら説明した。

 

「こちらは限定ディナーとは別のレシピでございます」

 

 客が尋ねる。

 

「漫画のシチューとは違うんですね」

 

「はい。通常の赤ワインを使用し、味の方向も変えております」

 

「赤い汗は?」

 

「出ません」

 

「元のワインにも、変な成分は?」

 

「入っておりません」

 

「本当に普通のワイン?」

 

「本当に普通のワインでございます」

 

 客は少し安心したように笑った。

 

「このホテルで“普通”と言われると、逆に新鮮ですね」

 

 給仕も微笑んだ。

 

「料理長が、一から作り直した料理です」

 

 客が一口食べる。

 

 表情が変わる。

 

「美味しい」

 

 その言葉は、すぐに厨房へ伝えられた。

 

 料理長は頷くだけだった。

 

 だが、次の皿へソースを注ぐ手は、ほんの少し軽くなっていた。

 

     ◇

 

 昼の営業が終わる頃。

 

 アンケートが集まった。

 

限定版は食べていませんが、こちらも十分に美味しかった。

 

酸味が軽く、ランチにちょうどよい。

 

漫画と同じものではなくても満足できた。

 

次は限定版も食べてみたい。

 

この通常版をまた食べたい。

 

 料理長は、最後の一文を何度か読んだ。

 

「限定版の代わりではなく、こちらをまた食べたい」

 

 支配人が言う。

 

「成功ですね」

 

「まだ初日です」

 

「料理長」

 

「継続して選ばれて、初めて定着したと言えます」

 

「それでも、良い始まりです」

 

「はい」

 

 料理長は、素直に頷いた。

 

     ◇

 

 ホテルでは、さらに営業形態を整理した。

 

 ランチ。

 

 濃厚コーンポタージュと、通常ワイン版の牛ほほ肉煮込み。

 

 午後の喫茶時間。

 

 象の消化過程を経た希少珈琲。

 

 ディナー。

 

 通常版のコースに加え、数量限定でヴィンテージワイン版。

 

 客は、自分の目的に合わせて利用できる。

 

 すべてを一度に求める客だけが、数か月先の限定ディナーを待つ必要があった。

 

 問い合わせも少しずつ落ち着いた。

 

 ただし、新しい問題も生まれた。

 

 象の珈琲を飲んだ客が、売店で豆を買いたいと言う。

 

 コーンスープを気に入った客が、缶詰を持ち帰りたいと言う。

 

 ホテル側は、そのたびに説明した。

 

「珈琲豆は、現在ホテル内での提供分のみとなっております」

 

「コーンスープの缶は、直接飲用を推奨しておりません」

 

「粒が出ないから?」

 

「はい」

 

「それも体験してみたいんですけど」

 

「おすすめできません」

 

 不便さまで娯楽として求める客が現れ始めていた。

 

 ジョーイ係長は、その報告を読んで頭を抱えた。

 

「正常化したのに、元の不便を体験したい客が出てきた……」

 

 ホテル支配人が答える。

 

「漫画の影響でしょうか」

 

「岸辺先生、悪意の構造まで格好よく描きすぎなんですわ」

 

「缶の展示だけなら、いかがでしょう」

 

「中身を入れず、構造見本としてならええです」

 

「売店で販売は?」

 

「アカンです。客を苛立たせるだけの商品を、わざわざ復活させんといてください」

 

「残念です」

 

「なんでちょっと残念そうなんですか!」

 

     ◇

 

 ジョーイ係長がホテルを訪れたのは、新しいランチ営業が始まって一週間後だった。

 

 料理長から、試食と販売状況の確認に招かれたのである。

 

 テーブルには、通常ワイン版の牛ほほ肉煮込み。

 

 隣にはコーンポタージュ。

 

 ジョーイ係長は、まず煮込みを一口食べた。

 

「……美味い」

 

「ありがとうございます」

 

「ヴィンテージ版とは違いますな」

 

「同じものを目指していません」

 

「ええ判断です」

 

 ジョーイ係長は、もう一口食べる。

 

「こっちは酸味が軽い。昼でも食べやすいです」

 

「パンにもライスにも合わせられます」

 

「限定版を食べた人も、別物として楽しめますな」

 

「そうなればよいと思っています」

 

「もう、なってますよ」

 

 ジョーイ係長はアンケートを読んでいた。

 

「限定品を入口にして、店そのものを好きになってもらう。ええ流れです」

 

「岸辺先生の漫画がなければ、これほど多くのお客様には知っていただけませんでした」

 

「先生は宣伝したつもりないでしょうけど」

 

「それでも、きっかけには感謝しています」

 

「本人に言うても、関係ない言われますよ」

 

「でしょうね」

 

 二人は少し笑った。

 

 料理長は席へ着かず、ジョーイ係長の向かいに立ったままだった。

 

 何か話がある。

 

 ジョーイ係長は気づいていた。

 

「それで」

 

「はい」

 

「今日は、試食だけやないんでしょう?」

 

「わかりますか」

 

「営業やってますから」

 

 料理長は少し考え、口を開いた。

 

「ヘキサクス社には、ほかにもありませんか」

 

「何がです?」

 

「味や素材は優れているのに、余計な問題のために販売できていない食品です」

 

 ジョーイ係長の手が止まった。

 

「その条件で弊社に聞くと、山ほど出てきます」

 

「やはり」

 

「喜ぶところやないですよ」

 

「料理人としては、興味があります」

 

「会社員としては頭が痛いです」

 

「コーンスープも、ヴィンテージワインも、本来の部分は素晴らしかった」

 

「はい」

 

「問題だけを取り除けば、料理として生かせた」

 

「そうです」

 

「なら、まだ救えるものがあるのではありませんか」

 

 料理長の言葉は、好奇心だけではなかった。

 

 料理にできるものを、捨てたくない。

 

 作った人間の技術や時間を、余計な悪意と一緒に葬りたくない。

 

 その気持ちは、ジョーイ係長にもよくわかった。

 

「危険なもんを、無理に使うつもりはありませんよ」

 

「もちろんです」

 

「安全化できないものは、料理長にも渡せません」

 

「承知しています」

 

「味が良くても、客の身体や生活へ害が出るなら通行止めです」

 

「ログナー司令の判定を受けます」

 

「そこまでわかった上で聞いてるんですな」

 

「はい」

 

 ジョーイ係長は深く息をついた。

 

「わかりました。一度、在庫記録を洗います」

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、期待せんといてください」

 

「なぜです?」

 

「まともに使えそうなもんほど、説明欄の最後に余計な一文があるんです」

 

「例えば?」

 

「食べると関節が鳴る。汗が酸っぱくなる。声が大きくなる。記憶が飛ぶ」

 

「食品の説明ですよね?」

 

「弊社では」

 

 料理長は、しばらく黙った。

 

「……暇なのですか、その会社は」

 

「全員そう言います」

 

     ◇

 

 ヘキサクス社。

 

 営業管理部。

 

 その日の夕方。

 

 ジョーイ係長は、特殊食品在庫一覧を端末へ表示していた。

 

 すでに正常化した商品。

 販売継続中の商品。

 条件付きで利用できる商品。

 封印された商品。

 廃棄候補。

 用途を見つけられない在庫。

 

 一つずつ確認していく。

 

「ホテルで使えるもん……ホテルで使えるもん……」

 

 隣の食品開発スタッフが尋ねる。

 

「料理長からの依頼ですか?」

 

「せや。味はええけど、余計な問題がある食品」

 

「ほとんどでは?」

 

「自社に刺さること言うな」

 

 一覧が流れる。

 

記憶を刺激する梅干し

食欲を消すヨーグルト飲料

関節音を発生させる黒酢

発声を増幅する喉飴

くしゃみを爆発音へ変える山葵

家庭の唐揚げ味へ固定するマヨネーズ

 

「ホテルで出せるか!!」

 

 ジョーイ係長は次々に除外していく。

 

 食品開発スタッフが言う。

 

「こちらはどうでしょう」

 

「何や」

 

「至高のビーフカレー」

 

 ジョーイ係長の指が止まった。

 

 端末へ表示された画像。

 深い褐色。

 大きな牛肉。

 長時間炒めた玉ねぎ。

 複数の香辛料。

 見た目だけなら、何の問題もない。

 

「……これか」

 

「味覚評価は、全試作品中でも最上位です」

 

「知っとる」

 

「ホテル料理への転用には適しているかと」

 

「最終版はアカン」

 

「銀歯が抜ける辛さですからね」

 

「辛さで銀歯が抜けるという文章を、普通に言うな」

 

 ジョーイ係長は記録を開いた。

 

至高のビーフカレー

牛肉、香辛料、玉ねぎ、ブイヨンの品質:極めて良好

総合味覚評価:至高

特殊作用:強烈な辛味刺激により、歯科補綴物の脱落を誘発する可能性あり

会長所見:慣れるとクセになる。

 

「慣れる前に歯医者行きや!」

 

 ジョーイ係長が叫ぶ。

 

 食品開発スタッフは別の記録を開いた。

 

「ですが、危険な辛味成分を追加する前の基礎処方が保存されています」

 

 ジョーイ係長が顔を上げる。

 

「何?」

 

「試作番号、C-0」

 

 画面が切り替わる。

 

至高のビーフカレー 基礎処方

安全性:一般的な辛口カレーの範囲

味覚評価:極めて良好

香辛料の調和:極めて良好

会長所見:刺激が足りない。

 

 ジョーイ係長の眉間へ深い皺が寄った。

 

「足りんのは刺激やない」

 

「はい」

 

「会長の良識や」

 

「はい」

 

 開発スタッフは、否定しなかった。

 

「このレシピ、再現できるんか」

 

「香辛料の配合記録は残っています。炒め玉ねぎの製法、ブイヨン、熟成時間も」

 

「危険成分は」

 

「最終工程で別に追加されています。基礎処方には含まれません」

 

「材料は残っとる?」

 

「一部の香辛料は、密封状態で保管されています。ただし再検査が必要です」

 

 ジョーイ係長は画面を見つめた。

 

 料理長の言葉を思い出す。

 

 まだ救えるものがあるのではないか。

 

 最初から銀歯を抜くために作られたのではない。

 

 開発スタッフは、普通に美味しいカレーを作っていた。

 

 そこへ、余計な刺激を足された。

 コーンスープと同じ。

 ヴィンテージワインと同じ。

 本来の仕事を、悪意が覆い隠している。

 

「ログナー司令へ検査を依頼する」

 

「はい」

 

「危険な辛味成分が、原料にも設備にも残ってへんか確認や」

 

「はい」

 

「ホテルへ持ち込むんは、通行可が出てからや」

 

「承知しました」

 

「それと」

 

 ジョーイ係長は開発スタッフを見る。

 

「基礎処方を作った担当者、まだおるか」

 

「おります」

 

「呼んどいてくれ」

 

「料理長との試作へ参加させますか?」

 

「せや」

 

 ジョーイ係長は端末の画像を見た。

 

「自分らが最初に作ったカレーが、ちゃんと客へ届くとこまで見てもらう」

 

 開発スタッフは、少し驚いた顔をした。

 

 そして頷く。

 

「ありがとうございます」

 

「まだ通行可も出てへん。礼は早い」

 

「それでも、です」

 

 ジョーイ係長は照れたように顔を逸らした。

 

「会社の商品は、売るために作るもんや」

 

「はい」

 

「銀歯を抜くためやない」

 

「はい」

 

「次こそ、普通に食べてもらう」

 

 画面には、危険な最終版ではなく、基礎処方のカレーが表示されていた。

 

 辛さは普通。

 銀歯は抜けない。

 食べても赤い汗は出ない。

 口の中で音も鳴らない。

 記憶も飛ばない。

 ただ、美味しい。

 

 ヘキサクスにとっては、それこそが最も異例の食品だった。

 

 ホテルの料理長は、限定料理だけに頼らない新しい一皿を作った。

 そして、その料理長の熱意が、次に救うべき在庫を見つけ出した。

 至高のビーフカレー。

 余計な悪意を取り除いた、本来の味。

 

 それが再び鍋へ入る日は、もう遠くなかった。

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