守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇   作:ギアっちょ

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ジョーイ係長は至高のカレーを取り戻したい

 株式会社ヘキサクス。

 

 食品開発部、試作厨房。

 

 その中央に置かれた作業台には、古い資料と、いくつもの密封容器が並べられていた。

 

 クミン。

 

 コリアンダー。

 

 カルダモン。

 

 クローブ。

 

 黒胡椒。

 

 乾燥させた唐辛子。

 

 そして、内容物を示す名称ではなく、ただ管理番号だけが記された黒い容器。

 

至高のビーフカレー

基礎処方 C-0

 

 ジョーイ係長は、そのラベルを腕組みしながら見つめていた。

 

「先に確認しとくで」

 

 集められた食品開発スタッフたちへ、声を張る。

 

「今回取り戻すんは、銀歯が抜ける完成版やない」

 

「はい」

 

「会長の要望へ応える前の、安全な基礎処方や」

 

「はい」

 

「刺激を弱めるんやない。危険な刺激を、最初から入れへん」

 

 ジョーイ係長は、一人ひとりの顔を見た。

 

「最終版に寄せようとするな」

 

 開発主任が頷く。

 

「承知しています」

 

「ほんまやな?」

 

「銀歯の脱落を起こす辛味成分は、完全に別工程でした。基礎処方には含まれていません」

 

「記録上は、やろ」

 

「はい」

 

「せやから今日は、ログナー司令に来てもろた」

 

 試作厨房の奥。

 

 白い男が、密封された香辛料を一つずつ確認していた。

 

 ファルク・U・ログナー。

 

 A.K.D.ミラージュ騎士団総司令。

 

 彼の前には、香辛料だけではなく、歯科用の金属片、陶材、接着用樹脂、義歯の模型まで並んでいた。

 

 ホテルの料理長は、その光景を静かに見ていた。

 

「カレーの安全確認とは思えない検査品ですね」

 

「弊社の商品なので必要なんです」

 

 ジョーイ係長が答える。

 

 ログナーが一つの容器を開けた。

 

 香りを確認する。

 

 微量を採取し、分析装置へ入れる。

 

「危険な辛味成分は検出されない」

 

「原料そのものには?」

 

「ない」

 

「保管容器への残留は?」

 

「ない」

 

「昔の設備から混入する可能性は?」

 

「今回使用する設備は新規洗浄済みだ。旧製造設備は使用させない」

 

「ありがとうございます」

 

 ログナーは、歯科用金属片へ試験液を落とした。

 

 しばらく待つ。

 

 変化はない。

 

 次に接着用樹脂。

 

 陶材。

 

 模型。

 

 いずれにも異常は現れなかった。

 

「歯科補綴物への化学的作用なし」

 

 料理長が尋ねる。

 

「辛さによる物理的な脱落は?」

 

「通常の辛口カレーの範囲だ。発汗、唾液分泌、顎運動を含めても、脱落を誘発する水準ではない」

 

 ジョーイ係長の顔が明るくなる。

 

「つまり?」

 

「基礎処方C-0は通行可だ」

 

「よっしゃ!」

 

 ジョーイ係長が両手を握った。

 

「銀歯、抜けへん!」

 

 料理長が少しだけ眉を上げる。

 

「普通のカレーでは、喜ぶ場面ではありませんね」

 

「弊社では歴史的快挙です」

 

 ログナーが黒い別容器へ視線を移した。

 

「ただし、最終版に使用された添加物は引き続き通行止めだ」

 

「永久に止めといてください」

 

「封印を継続する」

 

「それでお願いします」

 

 ジョーイ係長は、ようやく作業台へ向き直った。

 

「ほな、始めよか」

 

     ◇

 

 最初に作るのは、ホテル版ではなかった。

 

 古い記録へ残された基礎処方C-0。

 

 開発スタッフが、かつて作ったカレーをそのまま再現する。

 

 ホテルの料理長も、それに同意していた。

 

「まず元の味を知らなければ、何を残すべきか判断できません」

 

 開発主任は、慎重に資料を開いた。

 

「玉ねぎは、この色まで炒めます」

 

 添付写真には、濃い飴色まで火を入れた玉ねぎが記録されている。

 

「時間ではなく、色と香りで判断するのか」

 

 料理長が尋ねた。

 

「はい。当時は原料ごとの水分量に差がありましたので」

 

「合理的ですね」

 

「牛肉は、表面を焼いてから一度取り出します」

 

「部位は?」

 

「肩肉です」

 

「ほほ肉ではないのですね」

 

「長時間煮込んでも繊維が残り、カレーソースに負けない部位を選びました」

 

 料理長が頷く。

 

「続けてください」

 

 開発主任は、香辛料を一つずつ量った。

 

 配合表は細かい。

 

 ただ辛くするためではない。

 

 最初に立つ香り。

 

 口へ入れた時の刺激。

 

 牛肉を食べた後に残る余韻。

 

 それぞれの役割が分けられている。

 

「香辛料は、すべて同時に入れるのではありません」

 

「香りを立たせる順番がある?」

 

「はい。油で最初に開くもの。煮込み中に馴染ませるもの。仕上げに加えるもの」

 

 料理長は、配合表よりも開発主任の手元を見た。

 

「よく考えられていますね」

 

「商品化するつもりでしたから」

 

 その言葉には、わずかな苦味があった。

 

 商品化はされた。

 

 ただし、自分たちが作ったものとは違う姿で。

 

 最後に危険な刺激を加えられ、誰にも安心して薦められない商品になった。

 

 ジョーイ係長は何も言わず、作業を見守った。

 

 鍋から香りが立ち上る。

 

 玉ねぎの甘い香り。

 

 牛肉の脂。

 

 複雑な香辛料。

 

 試作厨房の外を通った社員が、思わず足を止めるほどだった。

 

「何か、美味しそうな匂いがしますね」

 

「近寄ったらアカン!」

 

 ジョーイ係長が厨房の外へ叫ぶ。

 

「まだ検証中や!」

 

「でも、安全版なんですよね?」

 

「安全でも、勝手に食べたらアカン!」

 

「味見だけでも」

 

「社員が自然に寄ってくる時点で、商品力はあるな」

 

 ログナーが言った。

 

「司令、それは評価してええんですか?」

 

「香りに誘引効果があるという意味ではな」

 

「危険な作用みたいに言わんといてください」

 

     ◇

 

 数時間後。

 

 基礎処方C-0が完成した。

 

 深い褐色のカレー。

 

 大きめに切られた牛肉。

 

 表面には余分な脂が浮いていない。

 

 料理長、ジョーイ係長、開発主任、ログナーの前へ、小さな試食皿が置かれた。

 

「いただきます」

 

 ジョーイ係長が最初にスプーンを入れる。

 

 一口。

 

 目を閉じる。

 

 最初に玉ねぎの甘味。

 

 次に牛肉の旨味。

 

 香辛料の香りが広がり、最後に辛さが追いかけてくる。

 

 強すぎない。

 

 だが、物足りなくもない。

 

「……美味い」

 

 自然に言葉が出た。

 

 開発主任も食べる。

 

 スプーンを置かず、二口目を口へ運ぶ。

 

「これです」

 

 小さな声だった。

 

「何がや」

 

 ジョーイ係長が尋ねる。

 

「私たちが、最初に作ったカレーです」

 

 開発主任は皿を見つめた。

 

「試食会では、評判が良かったんです。辛口ですが食べやすい。牛肉も美味しい。商品化できると」

 

「せやな」

 

「その後、会長試食がありました」

 

「……せやな」

 

「刺激が足りない、と」

 

「そこから先は言わんでええ」

 

「でも」

 

 開発主任は笑おうとした。

 

 うまく笑えなかった。

 

「久しぶりに食べました。私たちのカレーを」

 

 ジョーイ係長は、返事をしなかった。

 

 代わりに、もう一口食べた。

 

「料理長」

 

「はい」

 

「どうです?」

 

 料理長は、まだ一口目をゆっくり味わっていた。

 

 香り。

 

 甘味。

 

 塩分。

 

 肉の火の入り方。

 

 ソースの粘度。

 

 後味。

 

 すべてを確かめる。

 

「美味しいです」

 

 開発主任が顔を上げる。

 

「商品として、十分に完成しています」

 

「では、このままホテルで」

 

「いいえ」

 

 料理長の返答は静かだった。

 

 開発主任の表情が固まる。

 

「使えませんか」

 

「そうではありません」

 

「何が問題でしょう」

 

「これは、あなたたちのカレーです」

 

 料理長は皿を指した。

 

「非常によくできています。レシピも、工程も、素材の選び方も。だからこそ、このまま私がホテルで出せば、私はあなたたちの過去を再現しただけになる」

 

「過去を?」

 

「今回の目的は、展示ではありません」

 

 料理長は開発主任を正面から見た。

 

「取り戻すのでしょう?」

 

 開発主任が黙る。

 

「昔の味を、倉庫からそのまま出すことが取り戻すことではない。今のお客様へ届け、また食べたいと思ってもらう。商品としてもう一度生きてもらう」

 

 料理長は、残ったカレーをもう一口食べた。

 

「この味を土台に、今のホテルの料理へ仕上げたい」

 

「変えるのですか」

 

「はい」

 

「私たちのレシピを」

 

「変えてはいけませんか?」

 

 試作厨房の空気が、少し張り詰めた。

 

 ジョーイ係長は口を挟まない。

 

 料理長と開発主任。

 

 どちらも、そのカレーへ誇りを持っている。

 

 だからこそ、避けて通れない話だった。

 

「香辛料の配合は素晴らしいです」

 

 料理長が続ける。

 

「ただ、ホテルで提供するなら、肉の存在感をもう少し前へ出したい。ソースも、ライスだけでなくパンへ合わせられる形にしたい」

 

「ホテルの牛ほほ肉を使うのですか」

 

「候補の一つです」

 

「基礎処方は肩肉に合わせています」

 

「だから、あなたの力が必要です」

 

「私の?」

 

「肉を変えれば、脂も煮込み時間も変わる。香辛料の出方も変わるでしょう」

 

「はい」

 

「私だけでは、元の設計思想を壊す可能性がある」

 

 料理長は、開発主任へ手を差し出すように資料を示した。

 

「一緒に作り直していただけませんか」

 

 開発主任は、すぐには答えなかった。

 

 古いレシピを見る。

 

 完成したカレーを見る。

 

 そして料理長を見る。

 

「過去の再現ではなく」

 

「はい」

 

「今、売るための商品として」

 

「はい」

 

 ジョーイ係長が、そこで初めて口を開いた。

 

「会社の商品は、売るために作るもんや」

 

 二人の視線が向く。

 

「昔のレシピを額に入れて飾るためやない。料理長の名前だけで上書きするためでもない」

 

 ジョーイ係長は、基礎処方C-0の資料を指した。

 

「開発部とホテル。両方の仕事で、客の前へ戻す」

 

 開発主任は、ゆっくり頷いた。

 

「やらせてください」

 

 料理長も頷いた。

 

「お願いします」

 

 至高のビーフカレー復活プロジェクトは、そこから本当に始まった。

 

     ◇

 

 一回目。

 

 牛肩肉を、ホテルで使用している牛ほほ肉へ変更した。

 

 肉は柔らかい。

 

 だが、長時間煮込むことで脂がソースへ溶け込み、香辛料の輪郭がぼやけた。

 

「美味しいですが、重いですね」

 

 開発主任が言った。

 

「香辛料を増やしますか」

 

「量を増やせば、辛さも強くなる」

 

「香りだけを立てたい」

 

 料理長が考える。

 

「最初に油で開く香辛料を変えましょう」

 

「配合ではなく順番を?」

 

「はい」

 

 二回目。

 

 香辛料の投入順を変えた。

 

 香りは立った。

 

 しかし今度は、牛肉の旨味と喧嘩をした。

 

「前へ出すぎました」

 

「では、香辛料を一部、仕上げへ回します」

 

「煮込まないのですか」

 

「すべてを馴染ませる必要はありません。最後に残る香りがあってもいい」

 

 三回目。

 

 ホテルのフォン・ド・ヴォーを加えた。

 

 ソースへ厚みが出る。

 

 だが、基礎処方が持っていた玉ねぎの甘味が埋もれた。

 

 開発主任が首を振る。

 

「これでは、普通のホテルカレーです」

 

 料理長は反論しなかった。

 

「その通りです」

 

「美味しくはあります」

 

「それだけでは駄目です」

 

「料理長でも、普通を否定するんですね」

 

「普通であることが悪いのではありません」

 

 料理長は鍋の火を止めた。

 

「このカレーには、戻るべき場所がある。そこを失ったら、新しくする意味もない」

 

 開発主任は、少し驚いた顔をした。

 

 料理長は基礎処方を壊したいのではない。

 

 ホテルの名物へ横取りしたいのでもない。

 

 元のカレーが持っていた良さを、本気で残そうとしている。

 

「玉ねぎの炒め方を戻しましょう」

 

 開発主任が言った。

 

「ホテルの方法ではなく?」

 

「C-0の色まで炒めます。その代わり、フォンを減らす」

 

「牛ほほ肉の脂は?」

 

「最初の焼きで、余分な脂を落とします」

 

「香辛料は」

 

「煮込み用と仕上げ用に分ける。ただし、仕上げは香りだけです。辛さを増やさない」

 

 料理長が笑う。

 

「それで行きましょう」

 

     ◇

 

 四回目。

 

 牛ほほ肉は、表面を強く焼いた。

 

 余分な脂を落とし、旨味を閉じ込める。

 

 玉ねぎは、C-0の記録と同じ色まで炒めた。

 

 フォンは控えめ。

 

 香辛料は三段階。

 

 最初。

 

 煮込み。

 

 仕上げ。

 

 鍋から立ち上る香りが、それまでとは違った。

 

 重くない。

 

 薄くもない。

 

 最初に甘い香り。

 

 その奥から肉と香辛料。

 

 開発主任が、鍋の前で目を閉じる。

 

「近い」

 

「C-0に?」

 

「いいえ」

 

 開発主任は首を横へ振った。

 

「C-0から、ちゃんと先へ進んでいます」

 

 料理長が火を止めた。

 

「試食しましょう」

 

 白い皿。

 

 ライス。

 

 カレー。

 

 中央には、柔らかく煮込まれた牛ほほ肉。

 

 料理長が一口食べる。

 

 開発主任も続く。

 

 ジョーイ係長は、二人の顔を見ながらスプーンを運んだ。

 

 玉ねぎの甘味。

 

 牛肉の深い旨味。

 

 香辛料の豊かな香り。

 

 辛さはある。

 

 だが、痛みではない。

 

 次の一口を誘う辛さだった。

 

 牛ほほ肉は崩れるほど柔らかい。

 

 それでも、肉を食べたという満足感が残る。

 

 ジョーイ係長は黙って二口目を食べた。

 

 三口目。

 

「係長」

 

 料理長が呼ぶ。

 

「何です?」

 

「感想を」

 

「今、食べるんに忙しいんです」

 

「それが感想ですね」

 

 開発主任が、初めて自然に笑った。

 

 ログナーも試食する。

 

「味に異常なし」

 

「味の感想を聞いてるんです、司令」

 

「美味い」

 

 短い。

 

 しかし、ログナーが料理をそう評価するなら十分だった。

 

「安全性は?」

 

「危険な辛味成分なし。歯科補綴物への影響なし。精神、記憶、発声、発汗、関節、消化機能への異常作用なし」

 

 料理長が遠い目をした。

 

「後半は、カレーへ必要な検査でしょうか」

 

「ヘキサクス製品へは必要だ」

 

「通行判定は?」

 

「通行可だ」

 

 ジョーイ係長は立ち上がった。

 

「決まりや!」

 

 試作厨房へ声が響く。

 

「これで行く!」

 

 開発主任が鍋を見る。

 

「料理名は、どうしますか」

 

 料理長が答えた。

 

「至高のビーフカレー」

 

「そのまま?」

 

「これは、皆さんが付けた名前です」

 

「でも、ホテルの料理として作り直しました」

 

「名前まで奪う必要はありません」

 

 ジョーイ係長が腕を組む。

 

「ただ、最終版と区別せんとアカンな」

 

「正常化版、という表記は?」

 

 開発主任が提案する。

 

 料理長は少し考える。

 

「お客様が不安になりませんか」

 

「何を正常化したのか、聞かれますね」

 

「銀歯です」

 

「メニューに銀歯を出さんといてください」

 

 ジョーイ係長が即座に止めた。

 

「では、“ホテル特製”で」

 

 料理長が言う。

 

ホテル特製

至高のビーフカレー

 

「説明文に、ヘキサクス社の基礎レシピを使用したことを記載します」

 

「危険版のことは?」

 

「書きません」

 

「銀歯が抜けないことも?」

 

「書きません」

 

「聞かれた場合は?」

 

 ジョーイ係長が少し考えた。

 

「抜けません、とだけ答えましょう」

 

「答える必要があるのですね」

 

「絶対に聞く客がおります」

 

     ◇

 

 ホテルレストラン。

 

 新メニュー提供初日。

 

 入口には、小さな案内板が置かれていた。

 

新メニュー

 

ホテル特製

至高のビーフカレー

 

ヘキサクス食品開発部の基礎処方C-0をもとに、

当ホテル料理長が新たに仕上げた一皿です。

 

 限定とは書かれていない。

 

 一日何食とも書かれていない。

 

 特別なヴィンテージ食材も使っていない。

 

 仕込みさえ整えれば、継続して提供できる料理だった。

 

 開店前。

 

 開発主任は厨房の隅に立っていた。

 

「客席へ出なくてよいのですか?」

 

 料理長が尋ねる。

 

「私は開発者です。料理人ではありません」

 

「今日くらいは、食べる方の顔を見てもいいのでは?」

 

「怖いんです」

 

「何が」

 

「以前の商品も、味覚評価は高かった」

 

 開発主任は視線を落とした。

 

「でも、お客様へ薦められなかった。自分で作ったものなのに、売れてほしいと思えなかった」

 

「今日は違います」

 

「わかっています」

 

「ログナー司令も通行可を出した」

 

「わかっています」

 

「銀歯も抜けない」

 

「それもわかっています」

 

「では」

 

「それでも、怖いものは怖いんです」

 

 料理長は、無理に勧めなかった。

 

「ここからでも客席は見えます」

 

「はい」

 

「一緒に見ましょう」

 

     ◇

 

 最初の注文が入った。

 

「至高のビーフカレー、二つ!」

 

 厨房へ声が飛ぶ。

 

 料理人たちが動く。

 

 鍋からカレーを取り、皿へ盛る。

 

 牛ほほ肉を中央へ。

 

 ライスの形を整える。

 

 最後に、香りを立たせるための香辛料をほんの少量。

 

 料理長が皿を確認する。

 

「出してください」

 

 二皿が客席へ運ばれる。

 

 注文したのは、中年の夫婦だった。

 

 夫が給仕へ尋ねる。

 

「これ、例のカレーですよね?」

 

「ヘキサクス社の基礎処方をもとに、安全なホテル料理として再構成しております」

 

「銀歯は?」

 

「抜けません」

 

「本当に?」

 

「検査済みです」

 

 妻が呆れた顔をする。

 

「あなた、銀歯なんて入ってないでしょう」

 

「気分の問題だよ」

 

 厨房の中で、ジョーイ係長が小声で言う。

 

「やっぱり聞いた」

 

 料理長は何も答えなかった。

 

 客がスプーンを入れる。

 

 一口食べる。

 

 厨房からは、表情まではよく見えない。

 

 開発主任の手が白衣の裾を握った。

 

 夫が、もう一口食べる。

 

 妻も食べる。

 

 二人が何か話している。

 

 給仕が水を運ぶため、テーブルへ近づいた。

 

「お味はいかがでしょうか」

 

 夫が答えた。

 

「普通にうまいですよ」

 

 開発主任が息を止めた。

 

「変に辛すぎないし、肉もちゃんと美味しい。これならまた食べたいな」

 

 妻も頷く。

 

「私も。限定の料理じゃなくても、十分ですね」

 

「ありがとうございます」

 

 給仕の返事が、厨房まで届いた。

 

 開発主任は、しばらく動かなかった。

 

「普通にうまい、ですか」

 

 ジョーイ係長が隣へ立つ。

 

「ええ感想や」

 

「至高なのに、普通に」

 

「普通に美味いもんを作るんが、一番難しいんや」

 

「派手な作用もない」

 

「要らん」

 

「食べても何も起きない」

 

「腹が満たされる。美味かったと思う。それでええ」

 

 開発主任は、目元を拭った。

 

「やっと売れましたね」

 

「まだ一皿目や」

 

「それでも」

 

「せやな」

 

 ジョーイ係長も客席を見た。

 

「やっと、売れた」

 

     ◇

 

 その日のカレーは、昼営業が終わる前に完売した。

 

 翌日の仕込み分も予約が入った。

 

 アンケートには、さまざまな感想が残された。

 

牛肉が柔らかくて美味しい。

 

香りが良い。辛いが食べやすい。

 

漫画に出た限定料理を目当てに来たが、こちらも気に入った。

 

銀歯は抜けなかった。

 

そもそも銀歯はないが、また食べたい。

 

 料理長が最後の二枚を並べて見た。

 

「銀歯の報告は必要でしょうか」

 

「しばらく続くと思います」

 

 ジョーイ係長が答えた。

 

「いっそメニューに書きますか」

 

「書きません」

 

「即答ですな」

 

「料理の価値を歯科補綴物で説明したくありません」

 

「正しいです」

 

 支配人が売上報告を持ってきた。

 

「カレーを目的にした予約が増えています」

 

「初日だけで判断しないでください」

 

 料理長は前回と同じように答えた。

 

「継続して選ばれて、初めて定着です」

 

「では、一か月後にまた確認しましょう」

 

「お願いします」

 

「ただし、明日の仕込みは増やしてください」

 

「それは必要ですね」

 

     ◇

 

 一か月後。

 

 至高のビーフカレーは、ホテルの定番メニューになっていた。

 

 限定ディナーが予約できない客だけが注文する料理ではない。

 

 カレーを食べるために、ホテルを訪れる客が現れた。

 

 通常ワイン版の牛ほほ肉煮込み。

 

 コーンポタージュ。

 

 象の珈琲。

 

 そして、至高のビーフカレー。

 

 露伴の漫画をきっかけに知った客が、別の料理を好きになり、また訪れる。

 

 ホテルレストランは、「特殊な食品を出す店」から少しずつ変わっていた。

 

 変わった経緯を持つ食材を、料理人の仕事で美味しくする店。

 

 限定品がなくても、訪れたい店。

 

 料理長が目指した形だった。

 

 ヘキサクス社にも、正式な発注書が届いた。

 

至高のビーフカレー用

特製香辛料ブレンド

月間定期発注

 

 ジョーイ係長は、その書類を何度も確認した。

 

「定期発注……」

 

 開発主任が隣で頷く。

 

「はい」

 

「返品条件も普通」

 

「はい」

 

「苦情欄も空白」

 

「はい」

 

「事故報告もない」

 

「ありません」

 

「商品が売れて、客が喜んで、次の注文が来た」

 

「はい」

 

 ジョーイ係長は椅子へ深く座った。

 

「普通の会社みたいや……」

 

「うちも会社です」

 

「たまに忘れるんや」

 

     ◇

 

 会長室。

 

 ジョーイ係長は、至高のビーフカレーの正常化報告書を提出した。

 

 シックスは、書類へ視線を落とす。

 

「銀歯が抜けないのか」

 

「抜けません」

 

「赤い汗も出ない」

 

「出ません」

 

「記憶も失わない」

 

「失いません」

 

「関節も鳴らない」

 

「鳴りません」

 

「口の中で何時間も音を出さない」

 

「普通のカレーです!」

 

 シックスは、売上欄を見る。

 

「売れているな」

 

「売るために作り直しましたから」

 

「Xiは食べたか」

 

「まだです」

 

「なら、完成とは言えない」

 

「言えます!」

 

 ジョーイ係長が机へ手をついた。

 

「これはXiさんへの嫌がらせやありません! ホテルのお客様へ出す商品です!」

 

「私の一族の品だ」

 

「会社の商品でもあります!」

 

「悪意を取り除いて、利益だけを残したか」

 

「味も残しました!」

 

「そうか」

 

 シックスは報告書を閉じた。

 

「好きにしろ」

 

 ジョーイ係長は一瞬、聞き間違いかと思った。

 

「ええんですか?」

 

「すでに売っているのだろう」

 

「はい」

 

「なら、今さら私の許可を待つ意味はない」

 

「それはそうですけど」

 

「ただし、Xiが食べた時の反応は報告しろ」

 

「そこは諦めへんのですね!」

 

 シックスは答えなかった。

 

 ジョーイ係長は報告書を抱え、会長室を出た。

 

「なんやねん、もう……」

 

 廊下へ出る。

 

 扉が閉まる。

 

 その瞬間、ジョーイ係長の表情が少し緩んだ。

 

 止められなかった。

 

 銀歯が抜けないカレーを。

 

 ただ美味しく、ただ売れるだけの商品を。

 

 シックスは認めたとは言わない。

 

 だが、封印も回収も命じなかった。

 

 それで十分だった。

 

     ◇

 

 その日の夕方。

 

 ホテルレストランの厨房では、翌日分のカレーが仕込まれていた。

 

 料理長が鍋を確認する。

 

 香辛料の香り。

 

 牛肉の状態。

 

 玉ねぎの甘味。

 

 どれも安定している。

 

 開発主任は、定期的な品質確認のためにホテルを訪れていた。

 

「配合に問題はありません」

 

「こちらも、仕込み手順を変えていません」

 

「前回より肉の脂が少ないですね」

 

「仕入れによる差です。仕上げのフォンを少し調整します」

 

「香辛料は、そのままで?」

 

「はい。素材の差を、すべて香辛料で隠す必要はありません」

 

 開発主任が頷く。

 

「勉強になります」

 

「こちらもです。香りの設計は、皆さんの方が詳しい」

 

 二人は、同じ鍋を見た。

 

 どちらか一方の料理ではない。

 

 ヘキサクス食品開発部と、ホテル料理長。

 

 過去の基礎処方と、現在の厨房。

 

 その両方がなければ生まれなかったカレーだった。

 

「料理長」

 

「何でしょう」

 

「取り戻せたと思いますか」

 

 料理長は少し考えた。

 

「いいえ」

 

 開発主任が驚く。

 

「まだ?」

 

「取り戻したのではありません」

 

 料理長は、鍋をゆっくり混ぜた。

 

「昔の場所へ戻したのではなく、前へ進めたのです」

 

 開発主任は、その言葉を聞いて笑った。

 

「そうですね」

 

 厨房の外から、給仕の声が届く。

 

「至高のビーフカレー、一つ!」

 

 料理長が答える。

 

「はい!」

 

 皿が用意される。

 

 ライスが盛られる。

 

 カレーが注がれる。

 

 牛ほほ肉を中央へ置く。

 

 仕上げの香り。

 

 完成した一皿が、客席へ運ばれていく。

 

 辛さはある。

 

 銀歯は抜けない。

 

 食べても、奇妙なことは何も起きない。

 

 ただ美味しく、腹を満たし、また食べたいと思わせる。

 

 かつて会長から「刺激が足りない」と評されたカレーは、余計な刺激を失ったことで、ようやく商品になった。

 

 料理長は、限定料理だけに頼らない店を作った。

 

 開発スタッフは、自分たちの仕事を取り戻した。

 

 ジョーイ係長は、売れない在庫を売れる商品へ変えた。

 

 そして、至高のビーフカレーは、過去へ戻るのではなく、客の待つテーブルへ進んだ。

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