守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
株式会社ヘキサクス。
食品開発部、試作厨房。
その中央に置かれた作業台には、古い資料と、いくつもの密封容器が並べられていた。
クミン。
コリアンダー。
カルダモン。
クローブ。
黒胡椒。
乾燥させた唐辛子。
そして、内容物を示す名称ではなく、ただ管理番号だけが記された黒い容器。
至高のビーフカレー
基礎処方 C-0
ジョーイ係長は、そのラベルを腕組みしながら見つめていた。
「先に確認しとくで」
集められた食品開発スタッフたちへ、声を張る。
「今回取り戻すんは、銀歯が抜ける完成版やない」
「はい」
「会長の要望へ応える前の、安全な基礎処方や」
「はい」
「刺激を弱めるんやない。危険な刺激を、最初から入れへん」
ジョーイ係長は、一人ひとりの顔を見た。
「最終版に寄せようとするな」
開発主任が頷く。
「承知しています」
「ほんまやな?」
「銀歯の脱落を起こす辛味成分は、完全に別工程でした。基礎処方には含まれていません」
「記録上は、やろ」
「はい」
「せやから今日は、ログナー司令に来てもろた」
試作厨房の奥。
白い男が、密封された香辛料を一つずつ確認していた。
ファルク・U・ログナー。
A.K.D.ミラージュ騎士団総司令。
彼の前には、香辛料だけではなく、歯科用の金属片、陶材、接着用樹脂、義歯の模型まで並んでいた。
ホテルの料理長は、その光景を静かに見ていた。
「カレーの安全確認とは思えない検査品ですね」
「弊社の商品なので必要なんです」
ジョーイ係長が答える。
ログナーが一つの容器を開けた。
香りを確認する。
微量を採取し、分析装置へ入れる。
「危険な辛味成分は検出されない」
「原料そのものには?」
「ない」
「保管容器への残留は?」
「ない」
「昔の設備から混入する可能性は?」
「今回使用する設備は新規洗浄済みだ。旧製造設備は使用させない」
「ありがとうございます」
ログナーは、歯科用金属片へ試験液を落とした。
しばらく待つ。
変化はない。
次に接着用樹脂。
陶材。
模型。
いずれにも異常は現れなかった。
「歯科補綴物への化学的作用なし」
料理長が尋ねる。
「辛さによる物理的な脱落は?」
「通常の辛口カレーの範囲だ。発汗、唾液分泌、顎運動を含めても、脱落を誘発する水準ではない」
ジョーイ係長の顔が明るくなる。
「つまり?」
「基礎処方C-0は通行可だ」
「よっしゃ!」
ジョーイ係長が両手を握った。
「銀歯、抜けへん!」
料理長が少しだけ眉を上げる。
「普通のカレーでは、喜ぶ場面ではありませんね」
「弊社では歴史的快挙です」
ログナーが黒い別容器へ視線を移した。
「ただし、最終版に使用された添加物は引き続き通行止めだ」
「永久に止めといてください」
「封印を継続する」
「それでお願いします」
ジョーイ係長は、ようやく作業台へ向き直った。
「ほな、始めよか」
◇
最初に作るのは、ホテル版ではなかった。
古い記録へ残された基礎処方C-0。
開発スタッフが、かつて作ったカレーをそのまま再現する。
ホテルの料理長も、それに同意していた。
「まず元の味を知らなければ、何を残すべきか判断できません」
開発主任は、慎重に資料を開いた。
「玉ねぎは、この色まで炒めます」
添付写真には、濃い飴色まで火を入れた玉ねぎが記録されている。
「時間ではなく、色と香りで判断するのか」
料理長が尋ねた。
「はい。当時は原料ごとの水分量に差がありましたので」
「合理的ですね」
「牛肉は、表面を焼いてから一度取り出します」
「部位は?」
「肩肉です」
「ほほ肉ではないのですね」
「長時間煮込んでも繊維が残り、カレーソースに負けない部位を選びました」
料理長が頷く。
「続けてください」
開発主任は、香辛料を一つずつ量った。
配合表は細かい。
ただ辛くするためではない。
最初に立つ香り。
口へ入れた時の刺激。
牛肉を食べた後に残る余韻。
それぞれの役割が分けられている。
「香辛料は、すべて同時に入れるのではありません」
「香りを立たせる順番がある?」
「はい。油で最初に開くもの。煮込み中に馴染ませるもの。仕上げに加えるもの」
料理長は、配合表よりも開発主任の手元を見た。
「よく考えられていますね」
「商品化するつもりでしたから」
その言葉には、わずかな苦味があった。
商品化はされた。
ただし、自分たちが作ったものとは違う姿で。
最後に危険な刺激を加えられ、誰にも安心して薦められない商品になった。
ジョーイ係長は何も言わず、作業を見守った。
鍋から香りが立ち上る。
玉ねぎの甘い香り。
牛肉の脂。
複雑な香辛料。
試作厨房の外を通った社員が、思わず足を止めるほどだった。
「何か、美味しそうな匂いがしますね」
「近寄ったらアカン!」
ジョーイ係長が厨房の外へ叫ぶ。
「まだ検証中や!」
「でも、安全版なんですよね?」
「安全でも、勝手に食べたらアカン!」
「味見だけでも」
「社員が自然に寄ってくる時点で、商品力はあるな」
ログナーが言った。
「司令、それは評価してええんですか?」
「香りに誘引効果があるという意味ではな」
「危険な作用みたいに言わんといてください」
◇
数時間後。
基礎処方C-0が完成した。
深い褐色のカレー。
大きめに切られた牛肉。
表面には余分な脂が浮いていない。
料理長、ジョーイ係長、開発主任、ログナーの前へ、小さな試食皿が置かれた。
「いただきます」
ジョーイ係長が最初にスプーンを入れる。
一口。
目を閉じる。
最初に玉ねぎの甘味。
次に牛肉の旨味。
香辛料の香りが広がり、最後に辛さが追いかけてくる。
強すぎない。
だが、物足りなくもない。
「……美味い」
自然に言葉が出た。
開発主任も食べる。
スプーンを置かず、二口目を口へ運ぶ。
「これです」
小さな声だった。
「何がや」
ジョーイ係長が尋ねる。
「私たちが、最初に作ったカレーです」
開発主任は皿を見つめた。
「試食会では、評判が良かったんです。辛口ですが食べやすい。牛肉も美味しい。商品化できると」
「せやな」
「その後、会長試食がありました」
「……せやな」
「刺激が足りない、と」
「そこから先は言わんでええ」
「でも」
開発主任は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「久しぶりに食べました。私たちのカレーを」
ジョーイ係長は、返事をしなかった。
代わりに、もう一口食べた。
「料理長」
「はい」
「どうです?」
料理長は、まだ一口目をゆっくり味わっていた。
香り。
甘味。
塩分。
肉の火の入り方。
ソースの粘度。
後味。
すべてを確かめる。
「美味しいです」
開発主任が顔を上げる。
「商品として、十分に完成しています」
「では、このままホテルで」
「いいえ」
料理長の返答は静かだった。
開発主任の表情が固まる。
「使えませんか」
「そうではありません」
「何が問題でしょう」
「これは、あなたたちのカレーです」
料理長は皿を指した。
「非常によくできています。レシピも、工程も、素材の選び方も。だからこそ、このまま私がホテルで出せば、私はあなたたちの過去を再現しただけになる」
「過去を?」
「今回の目的は、展示ではありません」
料理長は開発主任を正面から見た。
「取り戻すのでしょう?」
開発主任が黙る。
「昔の味を、倉庫からそのまま出すことが取り戻すことではない。今のお客様へ届け、また食べたいと思ってもらう。商品としてもう一度生きてもらう」
料理長は、残ったカレーをもう一口食べた。
「この味を土台に、今のホテルの料理へ仕上げたい」
「変えるのですか」
「はい」
「私たちのレシピを」
「変えてはいけませんか?」
試作厨房の空気が、少し張り詰めた。
ジョーイ係長は口を挟まない。
料理長と開発主任。
どちらも、そのカレーへ誇りを持っている。
だからこそ、避けて通れない話だった。
「香辛料の配合は素晴らしいです」
料理長が続ける。
「ただ、ホテルで提供するなら、肉の存在感をもう少し前へ出したい。ソースも、ライスだけでなくパンへ合わせられる形にしたい」
「ホテルの牛ほほ肉を使うのですか」
「候補の一つです」
「基礎処方は肩肉に合わせています」
「だから、あなたの力が必要です」
「私の?」
「肉を変えれば、脂も煮込み時間も変わる。香辛料の出方も変わるでしょう」
「はい」
「私だけでは、元の設計思想を壊す可能性がある」
料理長は、開発主任へ手を差し出すように資料を示した。
「一緒に作り直していただけませんか」
開発主任は、すぐには答えなかった。
古いレシピを見る。
完成したカレーを見る。
そして料理長を見る。
「過去の再現ではなく」
「はい」
「今、売るための商品として」
「はい」
ジョーイ係長が、そこで初めて口を開いた。
「会社の商品は、売るために作るもんや」
二人の視線が向く。
「昔のレシピを額に入れて飾るためやない。料理長の名前だけで上書きするためでもない」
ジョーイ係長は、基礎処方C-0の資料を指した。
「開発部とホテル。両方の仕事で、客の前へ戻す」
開発主任は、ゆっくり頷いた。
「やらせてください」
料理長も頷いた。
「お願いします」
至高のビーフカレー復活プロジェクトは、そこから本当に始まった。
◇
一回目。
牛肩肉を、ホテルで使用している牛ほほ肉へ変更した。
肉は柔らかい。
だが、長時間煮込むことで脂がソースへ溶け込み、香辛料の輪郭がぼやけた。
「美味しいですが、重いですね」
開発主任が言った。
「香辛料を増やしますか」
「量を増やせば、辛さも強くなる」
「香りだけを立てたい」
料理長が考える。
「最初に油で開く香辛料を変えましょう」
「配合ではなく順番を?」
「はい」
二回目。
香辛料の投入順を変えた。
香りは立った。
しかし今度は、牛肉の旨味と喧嘩をした。
「前へ出すぎました」
「では、香辛料を一部、仕上げへ回します」
「煮込まないのですか」
「すべてを馴染ませる必要はありません。最後に残る香りがあってもいい」
三回目。
ホテルのフォン・ド・ヴォーを加えた。
ソースへ厚みが出る。
だが、基礎処方が持っていた玉ねぎの甘味が埋もれた。
開発主任が首を振る。
「これでは、普通のホテルカレーです」
料理長は反論しなかった。
「その通りです」
「美味しくはあります」
「それだけでは駄目です」
「料理長でも、普通を否定するんですね」
「普通であることが悪いのではありません」
料理長は鍋の火を止めた。
「このカレーには、戻るべき場所がある。そこを失ったら、新しくする意味もない」
開発主任は、少し驚いた顔をした。
料理長は基礎処方を壊したいのではない。
ホテルの名物へ横取りしたいのでもない。
元のカレーが持っていた良さを、本気で残そうとしている。
「玉ねぎの炒め方を戻しましょう」
開発主任が言った。
「ホテルの方法ではなく?」
「C-0の色まで炒めます。その代わり、フォンを減らす」
「牛ほほ肉の脂は?」
「最初の焼きで、余分な脂を落とします」
「香辛料は」
「煮込み用と仕上げ用に分ける。ただし、仕上げは香りだけです。辛さを増やさない」
料理長が笑う。
「それで行きましょう」
◇
四回目。
牛ほほ肉は、表面を強く焼いた。
余分な脂を落とし、旨味を閉じ込める。
玉ねぎは、C-0の記録と同じ色まで炒めた。
フォンは控えめ。
香辛料は三段階。
最初。
煮込み。
仕上げ。
鍋から立ち上る香りが、それまでとは違った。
重くない。
薄くもない。
最初に甘い香り。
その奥から肉と香辛料。
開発主任が、鍋の前で目を閉じる。
「近い」
「C-0に?」
「いいえ」
開発主任は首を横へ振った。
「C-0から、ちゃんと先へ進んでいます」
料理長が火を止めた。
「試食しましょう」
白い皿。
ライス。
カレー。
中央には、柔らかく煮込まれた牛ほほ肉。
料理長が一口食べる。
開発主任も続く。
ジョーイ係長は、二人の顔を見ながらスプーンを運んだ。
玉ねぎの甘味。
牛肉の深い旨味。
香辛料の豊かな香り。
辛さはある。
だが、痛みではない。
次の一口を誘う辛さだった。
牛ほほ肉は崩れるほど柔らかい。
それでも、肉を食べたという満足感が残る。
ジョーイ係長は黙って二口目を食べた。
三口目。
「係長」
料理長が呼ぶ。
「何です?」
「感想を」
「今、食べるんに忙しいんです」
「それが感想ですね」
開発主任が、初めて自然に笑った。
ログナーも試食する。
「味に異常なし」
「味の感想を聞いてるんです、司令」
「美味い」
短い。
しかし、ログナーが料理をそう評価するなら十分だった。
「安全性は?」
「危険な辛味成分なし。歯科補綴物への影響なし。精神、記憶、発声、発汗、関節、消化機能への異常作用なし」
料理長が遠い目をした。
「後半は、カレーへ必要な検査でしょうか」
「ヘキサクス製品へは必要だ」
「通行判定は?」
「通行可だ」
ジョーイ係長は立ち上がった。
「決まりや!」
試作厨房へ声が響く。
「これで行く!」
開発主任が鍋を見る。
「料理名は、どうしますか」
料理長が答えた。
「至高のビーフカレー」
「そのまま?」
「これは、皆さんが付けた名前です」
「でも、ホテルの料理として作り直しました」
「名前まで奪う必要はありません」
ジョーイ係長が腕を組む。
「ただ、最終版と区別せんとアカンな」
「正常化版、という表記は?」
開発主任が提案する。
料理長は少し考える。
「お客様が不安になりませんか」
「何を正常化したのか、聞かれますね」
「銀歯です」
「メニューに銀歯を出さんといてください」
ジョーイ係長が即座に止めた。
「では、“ホテル特製”で」
料理長が言う。
ホテル特製
至高のビーフカレー
「説明文に、ヘキサクス社の基礎レシピを使用したことを記載します」
「危険版のことは?」
「書きません」
「銀歯が抜けないことも?」
「書きません」
「聞かれた場合は?」
ジョーイ係長が少し考えた。
「抜けません、とだけ答えましょう」
「答える必要があるのですね」
「絶対に聞く客がおります」
◇
ホテルレストラン。
新メニュー提供初日。
入口には、小さな案内板が置かれていた。
新メニュー
ホテル特製
至高のビーフカレー
ヘキサクス食品開発部の基礎処方C-0をもとに、
当ホテル料理長が新たに仕上げた一皿です。
限定とは書かれていない。
一日何食とも書かれていない。
特別なヴィンテージ食材も使っていない。
仕込みさえ整えれば、継続して提供できる料理だった。
開店前。
開発主任は厨房の隅に立っていた。
「客席へ出なくてよいのですか?」
料理長が尋ねる。
「私は開発者です。料理人ではありません」
「今日くらいは、食べる方の顔を見てもいいのでは?」
「怖いんです」
「何が」
「以前の商品も、味覚評価は高かった」
開発主任は視線を落とした。
「でも、お客様へ薦められなかった。自分で作ったものなのに、売れてほしいと思えなかった」
「今日は違います」
「わかっています」
「ログナー司令も通行可を出した」
「わかっています」
「銀歯も抜けない」
「それもわかっています」
「では」
「それでも、怖いものは怖いんです」
料理長は、無理に勧めなかった。
「ここからでも客席は見えます」
「はい」
「一緒に見ましょう」
◇
最初の注文が入った。
「至高のビーフカレー、二つ!」
厨房へ声が飛ぶ。
料理人たちが動く。
鍋からカレーを取り、皿へ盛る。
牛ほほ肉を中央へ。
ライスの形を整える。
最後に、香りを立たせるための香辛料をほんの少量。
料理長が皿を確認する。
「出してください」
二皿が客席へ運ばれる。
注文したのは、中年の夫婦だった。
夫が給仕へ尋ねる。
「これ、例のカレーですよね?」
「ヘキサクス社の基礎処方をもとに、安全なホテル料理として再構成しております」
「銀歯は?」
「抜けません」
「本当に?」
「検査済みです」
妻が呆れた顔をする。
「あなた、銀歯なんて入ってないでしょう」
「気分の問題だよ」
厨房の中で、ジョーイ係長が小声で言う。
「やっぱり聞いた」
料理長は何も答えなかった。
客がスプーンを入れる。
一口食べる。
厨房からは、表情まではよく見えない。
開発主任の手が白衣の裾を握った。
夫が、もう一口食べる。
妻も食べる。
二人が何か話している。
給仕が水を運ぶため、テーブルへ近づいた。
「お味はいかがでしょうか」
夫が答えた。
「普通にうまいですよ」
開発主任が息を止めた。
「変に辛すぎないし、肉もちゃんと美味しい。これならまた食べたいな」
妻も頷く。
「私も。限定の料理じゃなくても、十分ですね」
「ありがとうございます」
給仕の返事が、厨房まで届いた。
開発主任は、しばらく動かなかった。
「普通にうまい、ですか」
ジョーイ係長が隣へ立つ。
「ええ感想や」
「至高なのに、普通に」
「普通に美味いもんを作るんが、一番難しいんや」
「派手な作用もない」
「要らん」
「食べても何も起きない」
「腹が満たされる。美味かったと思う。それでええ」
開発主任は、目元を拭った。
「やっと売れましたね」
「まだ一皿目や」
「それでも」
「せやな」
ジョーイ係長も客席を見た。
「やっと、売れた」
◇
その日のカレーは、昼営業が終わる前に完売した。
翌日の仕込み分も予約が入った。
アンケートには、さまざまな感想が残された。
牛肉が柔らかくて美味しい。
香りが良い。辛いが食べやすい。
漫画に出た限定料理を目当てに来たが、こちらも気に入った。
銀歯は抜けなかった。
そもそも銀歯はないが、また食べたい。
料理長が最後の二枚を並べて見た。
「銀歯の報告は必要でしょうか」
「しばらく続くと思います」
ジョーイ係長が答えた。
「いっそメニューに書きますか」
「書きません」
「即答ですな」
「料理の価値を歯科補綴物で説明したくありません」
「正しいです」
支配人が売上報告を持ってきた。
「カレーを目的にした予約が増えています」
「初日だけで判断しないでください」
料理長は前回と同じように答えた。
「継続して選ばれて、初めて定着です」
「では、一か月後にまた確認しましょう」
「お願いします」
「ただし、明日の仕込みは増やしてください」
「それは必要ですね」
◇
一か月後。
至高のビーフカレーは、ホテルの定番メニューになっていた。
限定ディナーが予約できない客だけが注文する料理ではない。
カレーを食べるために、ホテルを訪れる客が現れた。
通常ワイン版の牛ほほ肉煮込み。
コーンポタージュ。
象の珈琲。
そして、至高のビーフカレー。
露伴の漫画をきっかけに知った客が、別の料理を好きになり、また訪れる。
ホテルレストランは、「特殊な食品を出す店」から少しずつ変わっていた。
変わった経緯を持つ食材を、料理人の仕事で美味しくする店。
限定品がなくても、訪れたい店。
料理長が目指した形だった。
ヘキサクス社にも、正式な発注書が届いた。
至高のビーフカレー用
特製香辛料ブレンド
月間定期発注
ジョーイ係長は、その書類を何度も確認した。
「定期発注……」
開発主任が隣で頷く。
「はい」
「返品条件も普通」
「はい」
「苦情欄も空白」
「はい」
「事故報告もない」
「ありません」
「商品が売れて、客が喜んで、次の注文が来た」
「はい」
ジョーイ係長は椅子へ深く座った。
「普通の会社みたいや……」
「うちも会社です」
「たまに忘れるんや」
◇
会長室。
ジョーイ係長は、至高のビーフカレーの正常化報告書を提出した。
シックスは、書類へ視線を落とす。
「銀歯が抜けないのか」
「抜けません」
「赤い汗も出ない」
「出ません」
「記憶も失わない」
「失いません」
「関節も鳴らない」
「鳴りません」
「口の中で何時間も音を出さない」
「普通のカレーです!」
シックスは、売上欄を見る。
「売れているな」
「売るために作り直しましたから」
「Xiは食べたか」
「まだです」
「なら、完成とは言えない」
「言えます!」
ジョーイ係長が机へ手をついた。
「これはXiさんへの嫌がらせやありません! ホテルのお客様へ出す商品です!」
「私の一族の品だ」
「会社の商品でもあります!」
「悪意を取り除いて、利益だけを残したか」
「味も残しました!」
「そうか」
シックスは報告書を閉じた。
「好きにしろ」
ジョーイ係長は一瞬、聞き間違いかと思った。
「ええんですか?」
「すでに売っているのだろう」
「はい」
「なら、今さら私の許可を待つ意味はない」
「それはそうですけど」
「ただし、Xiが食べた時の反応は報告しろ」
「そこは諦めへんのですね!」
シックスは答えなかった。
ジョーイ係長は報告書を抱え、会長室を出た。
「なんやねん、もう……」
廊下へ出る。
扉が閉まる。
その瞬間、ジョーイ係長の表情が少し緩んだ。
止められなかった。
銀歯が抜けないカレーを。
ただ美味しく、ただ売れるだけの商品を。
シックスは認めたとは言わない。
だが、封印も回収も命じなかった。
それで十分だった。
◇
その日の夕方。
ホテルレストランの厨房では、翌日分のカレーが仕込まれていた。
料理長が鍋を確認する。
香辛料の香り。
牛肉の状態。
玉ねぎの甘味。
どれも安定している。
開発主任は、定期的な品質確認のためにホテルを訪れていた。
「配合に問題はありません」
「こちらも、仕込み手順を変えていません」
「前回より肉の脂が少ないですね」
「仕入れによる差です。仕上げのフォンを少し調整します」
「香辛料は、そのままで?」
「はい。素材の差を、すべて香辛料で隠す必要はありません」
開発主任が頷く。
「勉強になります」
「こちらもです。香りの設計は、皆さんの方が詳しい」
二人は、同じ鍋を見た。
どちらか一方の料理ではない。
ヘキサクス食品開発部と、ホテル料理長。
過去の基礎処方と、現在の厨房。
その両方がなければ生まれなかったカレーだった。
「料理長」
「何でしょう」
「取り戻せたと思いますか」
料理長は少し考えた。
「いいえ」
開発主任が驚く。
「まだ?」
「取り戻したのではありません」
料理長は、鍋をゆっくり混ぜた。
「昔の場所へ戻したのではなく、前へ進めたのです」
開発主任は、その言葉を聞いて笑った。
「そうですね」
厨房の外から、給仕の声が届く。
「至高のビーフカレー、一つ!」
料理長が答える。
「はい!」
皿が用意される。
ライスが盛られる。
カレーが注がれる。
牛ほほ肉を中央へ置く。
仕上げの香り。
完成した一皿が、客席へ運ばれていく。
辛さはある。
銀歯は抜けない。
食べても、奇妙なことは何も起きない。
ただ美味しく、腹を満たし、また食べたいと思わせる。
かつて会長から「刺激が足りない」と評されたカレーは、余計な刺激を失ったことで、ようやく商品になった。
料理長は、限定料理だけに頼らない店を作った。
開発スタッフは、自分たちの仕事を取り戻した。
ジョーイ係長は、売れない在庫を売れる商品へ変えた。
そして、至高のビーフカレーは、過去へ戻るのではなく、客の待つテーブルへ進んだ。