守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
ホテルレストランの入口には、夕方の柔らかな光が差し込んでいた。
ランチ営業は終わり、ディナーの準備が始まるまでの短い時間。
客席には数組の客がいるだけで、昼間の賑わいが嘘のように静かだった。
自動扉が開く。
最初に入ってきたのは、帽子を深くかぶった青年だった。
周囲を一度見渡す。
入口。
受付。
窓。
厨房へ通じる扉。
非常口。
一通り確認してから、背後へ小さく手招きした。
「大丈夫。今なら人は少ないよ」
青年の後ろから、一人の女性が姿を現した。
整った顔立ち。
人間離れした美しさ。
だが、その歩き方には少しだけ迷いがあった。
「Xiサン」
「何?」
「非常口、二ツ。厨房側ニ、搬入口」
「見なくていいよ」
「Xiサン、先ニ確認シタ」
「僕は習慣なんだ」
「私モ、習慣」
「……そうだったね」
二人は、なるべく目立たないようにレストランへ入った。
怪物強盗Xi。
そして、ファティマ・バクスチュアル。
世界でも指折りの危険人物と、感情を持たないよう作られた特別な人造生命。
その二人が今日ここへ来た目的は、強盗でも、調査でも、潜入でもない。
夕食を食べるためだった。
「いらっしゃいませ」
受付の給仕が笑顔で迎える。
「ご予約のお名前をお願いいたします」
「……Xiで」
「Xi様ですね。二名様で承っております」
給仕は予約表を確認した。
特に騒ぐ様子はない。
Xiは少しだけ安堵した。
「できれば、端の席がいいんだけど」
「承知いたしました。こちらへどうぞ」
二人が窓際の奥へ案内されようとした、その時。
「ほんまに正面玄関から来たんですね」
聞き慣れた声がした。
Xiの肩が、わずかに跳ねる。
振り返ると、ジョーイ係長が腕を組んで立っていた。
「……いたの」
「取引先の様子を見に来とったんです」
「僕たちは普通に食事へ来ただけだよ」
「怪物強盗が予約して、正面玄関から入って、普通に食事する」
ジョーイ係長は目頭を押さえた。
「成長したんか、何か企んどるんか、判断に困りますわ」
「今日は何も盗まないよ」
「“今日は”を付けるな!」
店内へ声が響いた。
近くの客が振り返る。
ジョーイ係長は慌てて頭を下げた。
「失礼しました」
Xiが小声で言う。
「僕より目立ってるよ」
「誰のせいや!」
バクスチュアルが、ジョーイ係長を見る。
「ジョーイ係長」
「はい?」
「Xiサン、今日、盗マナイ」
「それは本人からも聞きました」
「信用、シテ」
ジョーイ係長は、一瞬だけ言葉を止めた。
バクスチュアルの表情はほとんど変わらない。
それでも、彼女がXiのために言葉を選んだことは伝わった。
「……わかりました」
ジョーイ係長は頷く。
「今日は普通のお客さんとして扱います」
「最初からそうしてよ」
「非常口を確認してから入ってきた客に言われたないです」
◇
二人が案内されたのは、客席の奥。
周囲から少し離れた、静かな席だった。
バクスチュアルは椅子へ座ると、テーブルの上を見た。
白いナプキン。
グラス。
カトラリー。
小さな花。
「今日ハ、食事」
「うん」
バクスチュアルはメニューを開いた。
限定ディナー。
ヴィンテージワインを使った牛ほほ肉の煮込み。
濃厚コーンポタージュ。
象の消化過程を経た希少珈琲。
漫画に描かれた料理には、予約済みを示す印がついていた。
その次のページ。
ホテル特製
至高のビーフカレー
ヘキサクス食品開発部の基礎処方をもとに、
当ホテル料理長が新たに仕上げた一皿です。
バクスチュアルの指が、その文字の上で止まった。
「至高ノ、ビーフカレー」
「それにしようか」
「限定版、選バナイ?」
「今日は、そっちじゃなくていいよ」
「ドウシテ?」
Xiは限定ディナーのページを一度見た。
「僕たちの周りには、放っておいても変なものや特別なものが集まってくるだろう?」
「……ウン」
「だから、今日は普通に注文できるものがいい」
「普通」
「嫌?」
バクスチュアルは少し考えた。
「普通、ヨク、ワカラナイ」
「僕もだよ」
Xiは笑った。
「だから、一緒に試そう」
バクスチュアルは再びメニューを見る。
「普通ノ、カレー」
「ちょっとだけ特別らしいけどね」
「普通デ、特別?」
「そういうものもあるんじゃないかな」
「……食ベタイ」
「じゃあ、二つ」
注文を聞きに来た給仕へ、Xiが告げる。
「至高のビーフカレーを二つ」
「辛さは通常の辛口となっておりますが、よろしいでしょうか」
Xiはバクスチュアルを見る。
「大丈夫?」
「試ス」
「では、二つお願いします」
給仕が一礼する。
「承知いたしました」
そこへ、ジョーイ係長が小声で補足した。
「念のため言うときますけど、安全版です」
「知ってるよ」
「銀歯も抜けません」
「食事の前に銀歯の話をするのをやめてくれない?」
バクスチュアルがXiの口元を見る。
「Xiサン、銀歯、アル?」
「ないよ!」
「ナラ、問題ナイ」
「そういう問題じゃないんだ」
◇
厨房。
注文が伝えられる。
「至高のビーフカレー、二つ!」
料理長が鍋の状態を確認した。
香辛料の香り。
牛ほほ肉の柔らかさ。
ソースの濃度。
どれも問題ない。
隣には、ヘキサクス食品開発部の開発主任が立っていた。
定期的な品質確認のため、今日もホテルを訪れている。
「二皿とも、同じ仕上がりで」
「はい」
料理人がライスを盛る。
カレーを注ぐ。
中央へ牛ほほ肉を置く。
最後に、香りを立たせるための香辛料をわずかに加えた。
料理長が皿を見る。
「出してください」
二皿が客席へ運ばれていく。
開発主任は、その後ろ姿を見ながら尋ねた。
「今日のお客様は?」
「怪物強盗Xiと、ファティマ・バクスチュアルです」
「……大丈夫なのですか?」
「ジョーイ係長は、今日は盗まないと聞いているそうです」
「“今日は”」
「深く考えない方がよいでしょう」
◇
テーブルへ、二皿のカレーが運ばれた。
深い褐色。
湯気とともに立ち上る香り。
大きな牛ほほ肉。
ライスとの境目へ、濃厚なソースが静かに広がっていく。
バクスチュアルは、すぐにはスプーンを取らなかった。
香りを確かめる。
皿を見る。
「玉葱……長時間、加熱」
「たぶんね」
「牛肉……繊維、柔ラカイ」
「まだ食べてないよ」
「見レバ、推定可能」
「分析する前に食べよう」
「安全確認」
「ログナー司令が通行可を出している」
「……ナラ、安全」
バクスチュアルはスプーンを取った。
小さくすくう。
口へ運ぶ。
最初に玉ねぎの甘味。
続いて牛肉の旨味。
複数の香辛料が、時間差で広がる。
辛い。
だが、痛みではない。
身体を傷つける刺激でもない。
温かい。
バクスチュアルは、ゆっくり飲み込んだ。
「どう?」
Xiが尋ねる。
「辛イ」
「無理そう?」
「違ウ」
もう一口。
今度は牛肉も一緒に。
「辛イ。デモ、痛クナイ」
「うん」
「肉、柔ラカイ」
「うん」
「香リ、多イ。デモ、邪魔シナイ」
「よくわかるね」
「味覚情報、正常」
「感想は?」
バクスチュアルのスプーンが止まった。
「感想……」
「分析じゃなくて、バクスチュアルがどう思ったか」
彼女は皿を見る。
感情を持たない。
好き嫌いは設定されていない。
以前なら、そう答えていた。
だが、珈琲の香りを知った。
もう一口飲みたいと思った。
違う道を選びながら、何度もXiと同じテーブルへ座った。
今、目の前には温かいカレーがある。
「……美味シイ」
Xiが微笑む。
「そっか」
「コレガ、普通?」
「どうだろう」
「普通ノ、味?」
「たぶん、“普通に美味しい”っていう味だよ」
「普通ニ、美味シイ」
「うん」
バクスチュアルは、その言葉を確かめるように繰り返した。
「普通ニ……美味シイ」
そして、また食べる。
一口。
もう一口。
Xiも自分の皿へスプーンを入れた。
「本当に美味しいね」
「Xiサンモ、好キ?」
「好きだよ」
「設定?」
「僕には、好き嫌いの設定なんてないよ」
「デハ、自分デ、選ンダ?」
「そうだね」
「私モ……選ンデ、イイ?」
「もちろん」
バクスチュアルは皿を見た。
「私ハ、コノカレー、好キ」
静かな声だった。
誰かに命じられた答えではない。
マスターの好みに合わせた言葉でもない。
彼女自身が選んだものだった。
Xiは、何もからかわなかった。
「うん。僕も好きだよ」
◇
二人の皿が半分ほど空いた頃。
料理長と開発主任が、客席へ姿を見せた。
ジョーイ係長も一緒だった。
「お食事中、失礼いたします」
料理長が頭を下げる。
「お味はいかがでしょうか」
「美味しいよ」
Xiが答える。
「あのクソ親父の会社が作ったものとは思えないくらい」
ジョーイ係長が眉を上げる。
「褒めてます?」
「最大限に」
「わかりにくいわ!」
バクスチュアルも顔を上げた。
「美味シイ」
開発主任の表情が柔らかくなる。
「ありがとうございます」
「危険、ナイ」
「はい」
「銀歯、抜ケナイ」
「そこも確認していただかなくて大丈夫です」
料理長が静かに答えた。
Xiは、カレーをもう一口食べる。
「これは、元のカレーから危険な辛さを抜いただけなの?」
「いいえ」
開発主任が答えた。
「最初に、安全だった基礎処方を再現しました。
その後、料理長とともに、ホテルの料理として新しく作り直しました」
「元に戻したんじゃないんだ」
「はい」
料理長が続ける。
「昔の場所へ戻したのではなく、そこから先へ進めた料理です」
「先へ」
「開発部のレシピだけでも、この味にはなりませんでした。
私たちの技術だけでも同じです」
「多くの人間が、少しずつ先へ運んだカレーです」
開発主任が言った。
Xiは皿を見つめた。
「それなのに、“至高のビーフカレー”なんて、
あのクソ親父が付けそうな名前のままなんだね」
「そこなんですわ」
ジョーイ係長が腕を組んだ。
「今のところは、ホテル特製・至高のビーフカレー。
でも、危険な最終版と名前が同じなんです」
「正常化版では、少し説明的すぎます」
料理長が言う。
「復刻版でもありません」
開発主任も続けた。
「元へ戻したのではないから」
「新しい商品名を考えているところなんです」
ジョーイ係長がXiを見る。
「怪盗はん、何かええ名前ありません?」
「僕に聞くの?」
「さっきから、普通に美味しい言うて食べてますやん」
「それだけで命名権がもらえるの?」
「売店の応募箱へ入れるくらいの気持ちでええです」
「軽いなぁ」
Xiは考える。
皆が先へ進めたカレー。
昔へ戻るのではなく、違う道を通って新しい場所へ着いた料理。
どこかで聞いた言葉が、記憶の中へ浮かんだ。
「……LED」
「何です?」
ジョーイ係長が聞き返す。
「陛下が言ってた」
Xiは皿へ視線を落としたまま言う。
「LEDは、先を行くものっていう意味だって。LEADの過去形」
バクスチュアルが、ゆっくり顔を上げる。
「LED……ミラージュ」
「そう」
Xiは頷いた。
「ログナー司令も、このカレーの安全確認に関わったんだろう?」
「はい」
「開発した人たちが、昔のレシピを残した。ジョーイ係長が見つけた。料理長が、今の料理へ作り直した」
Xiは、皿の中のカレーをスプーンで小さく混ぜた。
「誰か一人が作ったんじゃない。みんなに導かれて、先へ進んだ」
バクスチュアルが呟く。
「先ヲ……行ク、カレー」
「うん」
Xiは顔を上げた。
「LEDカレー」
数秒。
ジョーイ係長が目を見開く。
「それ、めっちゃええやん!!」
「そんなに?」
「Xi、あんた、あの親父より全然ええ名前付けるやん!」
「比較対象が低すぎない?」
「至高のカレー言うて銀歯抜く親父より、百倍まともです!」
「クソ親父に聞かれたら怒られるよ」
「もう何回も怒られとります!」
料理長は、静かに名前を繰り返す。
「LEDカレー」
開発主任も頷いた。
「昔のカレーではない。先へ進んだカレー」
「この料理に、ふさわしいと思います」
「本当に採用するの?」
Xiが少し驚いて尋ねる。
料理長は答えた。
「正式な候補として、支配人へ提案します」
「候補?」
ジョーイ係長が言う。
「いや、もう決定でええでしょう!」
「商標や表記の確認が必要です」
「そこはワシがやります!」
「急に仕事が早いな」
「ええ名前を逃す営業がおるか!」
バクスチュアルがメニューを見る。
「LEDカレー……光ル?」
「光りません」
料理長が即答した。
「食べると?」
「光りません」
「銀歯ハ?」
「抜けません」
「普通?」
「はい。普通に美味しいカレーです」
バクスチュアルは、小さく頷いた。
「良イ名前」
Xiは照れたように笑った。
◇
料理長たちが厨房へ戻った後。
二人は、残ったカレーをゆっくり食べた。
限定品ではない。
特別なヴィンテージ食材も使っていない。
予約さえ取れれば、また食べられる。
ありふれた料理。
それでも、いくつもの人間の仕事が重なった、少しだけ特別な一皿。
「Xiサン」
「何?」
「LEDハ、先ヘ進ンダ、意味?」
「そうらしいよ」
「Xiサンモ……LED?」
「僕も?」
「違ウ道、通ッタ」
Xiは黙った。
「シックスカラ、生マレタ。デモ、シックスノ望ンダ道、行カナカッタ」
「……そうだね」
「怪物強盗ニ、ナッタ」
「そこは、先へ進んだと言っていいのかな」
「進ンダ。良イ方向カ、未判定」
「厳しいなぁ」
バクスチュアルは、しばらくXiを見た。
「デモ、今、普通ノカレー、食ベテル」
「うん」
「盗マナイ」
「今日はね」
「支払ウ?」
「もちろん払うよ」
「ナラ、前ヨリ、先」
Xiは困ったように笑う。
「普通に食事代を払うだけで評価される怪盗って、どうなんだろうね」
「Xiサンハ、Xiサン」
「それ、褒めてる?」
「感想」
「そっか」
今度はXiがバクスチュアルを見る。
「君も先へ進んでるんじゃない?」
「私?」
「前は、好き嫌いは設定されていないって言ってた」
「ウン」
「でも、今はこのカレーが好きだと言った」
バクスチュアルは、自分の空になった皿を見る。
「私ガ、選ンダ」
「そう」
「私モ、LED?」
「なれると思うよ」
「Xiサント、一緒ニ?」
Xiの動きが一瞬止まる。
「……先へ?」
「ウン」
「そうだね」
彼は少しだけ視線を逸らした。
「一緒に行けたらいいね」
バクスチュアルは、小さく頷いた。
「次モ、一緒ニ食ベル」
「もう次の食事の話?」
「LEDカレー、マタ食ベタイ」
「気に入ったんだ」
「私ハ、コノカレー、好キ」
「じゃあ、また来よう」
「約束?」
「うん。約束」
◇
食後の飲み物を尋ねられた。
「象の希少珈琲もご用意できますが」
給仕が案内する。
Xiはバクスチュアルを見る。
「どうする?」
バクスチュアルは少し考える。
「今日ハ、普通ノ珈琲」
「僕も同じで」
「ホテルブレンドを二つ、承知いたしました」
特別な珈琲ではない。
象の消化過程も経ていない。
希少な由来もない。
ホテルが日常的に提供している、普通のブレンド珈琲。
二つのカップが運ばれてきた。
Xiとバクスチュアルは、いつものように香りを確かめる。
「以前ノ珈琲ト、違ウ」
「うん」
「苦味、少シ強イ」
「嫌?」
「嫌ジャナイ」
「また、それだ」
「今ハ、好キト言ッテモ、イイ?」
「もちろん」
「コノ珈琲モ、好キ」
「僕もだよ」
二人は、同じ珈琲を飲んだ。
特別な事件は起きなかった。
感情を消す命令もない。
怪物を止める戦いもない。
ただ、食事の後に珈琲を飲んでいる。
それだけの時間だった。
◇
会計の伝票が運ばれてきた。
Xiは伝票へ手を伸ばす。
「支払いは、今日は僕が全部出すよ。彼女の分も合わせて」
ジョーイ係長の眉が、ぴくりと動いた。
「彼女ぉ?」
「……何だよ」
「いやぁ、こら妬けますなぁ」
「そ、そういう意味じゃないから!」
Xiが慌てて否定する。
その隣で、バクスチュアルが静かに首を傾げた。
「違ウ……?」
「えっ」
「私ハ……Xiサンノ、『彼女』デハ、ナイ?」
「いや、今の“彼女”は、そういう彼女じゃなくて!」
「ドウイウ、彼女?」
「それは……その……!」
Xiの顔が、見る間に赤くなっていく。
ジョーイ係長は、笑いを堪えながら伝票を受け取った。
「怪物強盗にも、盗めへん言葉があるんやなぁ」
「うるさいよ!」
「前はカイエンさんに払わせたそうやないですか」
「あれは怪盗としての仕事だよ!」
「今日は?」
Xiは一瞬だけ、バクスチュアルを見た。
「……今日は、僕が払いたかったんだ」
バクスチュアルは数秒、Xiの横顔を見つめた。
「ゴチソウサマ、Xiサン」
「うん」
「次モ……一緒ニ、食ベル?」
Xiは再び目を逸らす。
「……そのつもりだよ」
ジョーイ係長が、にやりと笑った。
「やっぱり彼女やないですか」
「だから違うって言ってるだろ!!」
「違ウ……?」
「バクスチュアルまで繰り返さなくていい!」
◇
二人がレストランを出た後。
料理長、開発主任、ジョーイ係長は、空になった皿を見ていた。
「完食ですね」
料理長が言った。
「二人とも、また食べたい言うてました」
ジョーイ係長は満足そうに頷く。
「LEDカレー」
開発主任が、試しに紙へ書く。
LEDカレー
先へ進んだ、至高のビーフカレー。
「良い名前です」
「せやろ?」
「係長が考えたのではありません」
「正式採用へ走るんはワシです!」
料理長が笑う。
「支配人へ提案しましょう」
「商品名の確認はヘキサクスで進めます」
「ログナー司令にも報告を」
「司令は、“名前に危険性なし、通行可”とか言いそうですな」
「アマテラス陛下にも?」
ジョーイ係長は少し考えた。
「由来を聞いたら、喜ばれると思います」
「シックス会長は?」
「最後にします」
「なぜです?」
「銀歯が抜けへんのが不満とか言い出すからです」
◇
数日後。
ホテルレストランのメニューには、新しい名前が加わった。
ホテル特製 LEDカレー
ヘキサクス食品開発部と当ホテル料理長が、
過去の基礎処方を新たな一皿へ進めたビーフカレーです。
辛さは通常の辛口です。
支配人の判断で、
銀歯は抜けません。
という説明は載せられなかった。
だが、注文した客の多くが、給仕へ同じ質問をした。
「LEDって、光るんですか?」
「光りません」
「食べると身体が?」
「光りません」
「銀歯は?」
「抜けません」
給仕たちは、もう慣れていた。
LEDカレーは、特別な限定料理ではなかった。
毎日仕込み、毎日提供できる。
客が注文し、食べ、代金を支払い、また来たいと思う。
普通の商品だった。
そして、普通の商品として売れることこそ、このカレーが長い道の末に手に入れた、最も特別な価値だった。
その日、怪物強盗Xiは何も盗まなかった。
二人分の食事代を正しく支払い、名前のなかったカレーへ、新しい名前を一つ残した。
バクスチュアルは、誰にも設定されていない「好き」を一つ見つけた。
二人は普通のカレーを食べ、普通の珈琲を飲み、次も一緒に食事をする約束をした。
ただ一つ。
Xiが口にした「彼女」という言葉の意味だけは、まだ普通には決まらなかった。