守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
株式会社ヘキサクス、特殊食品正常化室。
その朝、ジョーイ係長は少しだけ機嫌がよかった。
「おはようございます」
「おはようございます、ジョーイ係長」
イエッタが、いつもの穏やかな声で挨拶する。
ジョーイ係長は自分の机へ鞄を置き、椅子へ座った。
首を回す。
肩も回す。
痛くない。
眠気も、いつもより少ない。
社員販売で購入した、ホテル特製・休息枕。
高さは低め。
昨夜、自宅で初めて使った。
「昨夜は、よくお休みになれましたか?」
「おかげさまで」
ジョーイ係長は満足そうに頷いた。
「ぐっすり寝て、朝もちゃんと起きられましたわ」
「それは何よりです」
「自分で正常化した商品を、自分で買う。営業として理想的な流れやな」
「社員割引も適用されています」
「そこも理想的です」
イエッタは、僅かに微笑んだ。
その直後。
正常化室の大型画面に、次の在庫候補が表示された。
深緑色のガラス瓶。
金色の文字。
HEXA EXTRA VIRGIN OLIVE OIL
至高のオリーブオイル
ジョーイ係長は、笑顔のまま固まった。
「……寝起き一番に見るもんやないな」
「次の審査対象です」
「オリーブオイルですよね?」
「はい」
「食品ですよね?」
「元は食品として開発されました」
ジョーイ係長は椅子へ深く座り直した。
「“元は”いう言葉が、もう怖い」
イエッタが、過去の事故記録を表示する。
「会長の一族自慢の庭で栽培されたオリーブから搾油。
香り、味、酸度ともに最高水準です」
「そこだけ聞いたら、高級食材やな」
「サラダ、パン、肉料理、パスタなどに適しています」
「売れるやないですか」
「ただし、常人が摂取すると、全身の摩擦係数が三日ほど限りなくゼロへ近づきます」
ジョーイ係長は無言で画面を見た。
「具体的には、箸、ドアノブ、スマートフォンなどを保持できなくなる可能性があります」
「生活で掴むもん、ほぼ全滅やないか!」
「歩行時にも支障が予想されます」
「足まで滑るんか!」
「衣服も身体から滑り落ちる可能性があります」
「人としての尊厳まで滑り落ちるやないか!!」
ジョーイ係長は事故記録の最後まで目を通した。
幸い、誰も実際には口にしていない。
怪物強盗Xiが強く警戒し、ログナーが検査対象として封印した。
当時すでに、工業用潤滑剤として利用できる可能性も指摘されている。現物の瓶は二重容器に封じられ、現在もログナーの管理下にあった。
「食用としては?」
「通行止めです」
「即答やな」
「マスターの過去の判断です」
ジョーイ係長も、すぐに判定欄へ入力した。
食品用途 永久使用禁止
続いて、注意事項へ書き加える。
食卓、厨房、レストラン、食品倉庫への搬入禁止
「徹底的ですね」
「食える見た目と香りしとるから、余計に危ないんです」
「では、廃棄しますか?」
「いや」
ジョーイ係長は、記録に残された一文を見た。
工業用潤滑剤として、検討の余地あり。
「前にも、シャンプーを工業用洗浄剤にできました」
「はい」
「この油も、食卓から思い切り遠ざけたら、真っ当な仕事ができるかもしれん」
「工業用途の一次評価を開始しますか?」
「お願いします」
ジョーイ係長は深緑色の瓶を指差した。
「このオリーブオイル、食べ物を辞めてもらいましょう」
◇
まず、至高のオリーブオイルを開発した食品研究部から、製造記録が提出された。
原料となったオリーブ。
搾油方法。
精製工程。
品質検査。
そして、最後に追加された特殊加工。
ジョーイ係長は書類をめくった。
「基礎のオリーブオイルは、ほんまに普通なんですか?」
「はい」
食品研究部の担当者が答える。
「香りも味も良いものでした」
「ほな、なんで全身を滑らせたんです?」
「会長から、より滑らかな口当たりを実現するよう指示がありまして」
「口当たりの範囲を全身まで広げるな!!」
特殊作用を追加したのは、油に含まれる一部成分を極端に強化する処理だった。
摂取すると、成分が身体へ急速に浸透。
皮膚表面だけではなく、筋肉や関節の摩擦まで減少させる。
痛みや損傷を起こすわけではない。
ただし、日常生活のあらゆる動作が成立しなくなる。
「会長からの開発指示書です」
担当者が、古い資料を差し出した。
ジョーイ係長は読み上げる。
「『人生には、もう少し滑らかさが必要だ』」
数秒、黙る。
「言葉だけやと、人生相談みたいなんが腹立つな!」
イエッタが資料を確認した。
「特殊低摩擦成分を油から分離することは可能です」
「普通のオリーブオイルへ戻せます?」
「可能です。ただし、原料費と再精製費を考慮すると、市販の高級オリーブオイルより大幅に高価になります」
「食品として救う意味は薄い?」
「はい」
「なら、普通のオリーブオイルは普通のメーカーに任せましょう」
ジョーイ係長は、特殊成分の資料へ視線を移した。
「こっちは?」
「工業用添加剤として、非常に高い低摩擦性能が期待できます」
「売れる?」
「適切に制御できれば」
ジョーイ係長の目に、営業の光が戻った。
「制御しましょう」
◇
ヘキサクス軍需技術部。
普段、特殊食品正常化室が訪れることのない部署である。
壁には、機動兵器の駆動系統図。
装甲車両の部品。
宇宙用作業機械の関節ユニット。
試験用の軸受。
そして、何に使うのかジョーイ係長には分からない巨大な金属塊が並んでいた。
軍需技術部の主任技師は、至高のオリーブオイルの分析資料を受け取った。
数分、黙って読む。
「低摩擦添加剤として使えます」
ジョーイ係長は目を瞬いた。
「もう分かったんですか?」
「はい」
「ほんまに?」
「弊社は兵器メーカーですので」
ジョーイ係長は、思わず天井を見た。
「初めて、ヘキサクスの本業に救われた……!」
食品研究部では、
口にすると、手足が滑る。
それは事故だった。
軍需技術部では、
可動部の摩擦損失を低減する。
それは性能だった。
主任技師は、特殊成分の構造を拡大する。
「ただし、オリーブオイルをそのまま兵器へ使用することはできません」
「駄目なんですか?」
「高温時の安定性、酸化、金属や樹脂への影響を確認する必要があります。植物由来の基油部分は除去します」
「オリーブオイルやなくなる?」
「特殊低摩擦成分だけを抽出し、軍用合成油へ添加します」
「ほな、食用油という経歴は完全に消えるんやな」
「はい」
ジョーイ係長は力強く頷いた。
「それでお願いします!」
「香りも除去します」
「全力で消してください!」
「深緑色のガラス瓶も使用しません」
「無骨な金属缶に入れてください! 食卓から一番遠い見た目にするんや!」
イエッタが訊いた。
「商品区分を、食品から工業製品へ変更しますか?」
「変更やない」
ジョーイ係長は言った。
「配属転換や」
「配属転換?」
「この油、入る部署を間違えたんです」
食品研究部の担当者が、少し複雑そうな顔をする。
「食品としては、失敗でしょうか」
ジョーイ係長は首を横へ振った。
「美味しい油を作ったところまでは、失敗やありません」
「ですが、販売はできません」
「会長が余計なもん足したからです」
ジョーイ係長は特殊成分の資料を指した。
「ほんで、その余計なもんが、別の部署では役に立つ」
少し笑う。
「商品を直すだけが正常化やない。働く場所を変えるんも、正常化です」
◇
共同試験には、A.K.D.とコンパスも参加した。
A.K.D.側には、元の瓶を管理するログナーがいる。
コンパス側には、モビルスーツの駆動系を理解するキラとアスランがいる。
そして、なぜかカイエンとシンもいた。
試験場には、三種類の設備が用意されていた。
ヘキサクス製機動兵器の関節試験機。
廃棄予定のミラージュ用関節ユニット。
コンパスから提供されたモビルスーツ用の無人駆動試験装置。
現役機体には使用しない。
ログナーの判断である。
カイエンが、廃棄予定の関節ユニットを見た。
「最初からミラージュマシンに入れりゃいいんじゃねぇかナ」
ログナーは即答した。
「通行止めだ」
「まだ試してもいねぇだろ」
「だからだ」
「慎重すぎねぇかヨ」
「お前が雑すぎる」
「うるせぇヨ」
アウクソーが静かに付け加える。
「マスター。未知の潤滑剤を、実戦用機体へ直接使用することは推奨できません」
「アウクソーまでログナー側かヨ」
「安全側です」
「それをログナー側って言うんだヨ」
離れた場所では、アスランが試験項目を確認していた。
「温度、圧力、回転数、負荷、酸化安定性、シール材への影響、長期使用時の沈殿、それから漏洩した場合の除去方法も必要だ」
シンは渡された資料の厚さを見ていた。
「潤滑油一個に、こんなに試験するんですか?」
「当然だ」
「動くところに塗って、滑ればいいんじゃないのか?」
「滑れば滑るほどいいわけじゃない」
「そうなのか?」
キラが試験装置を見ながら説明する。
「適度な抵抗が必要な場所もあるんだ。摩擦がなくなりすぎると、位置を保持できなかったり、制御した角度を越えて動いたりする」
ジョーイ係長が顔をしかめた。
「人間がドアノブ掴まれへんかった問題が、機械でも起きるんか」
「似た問題ですね」
「全部に塗ったら?」
「駄目です」
キラとアスランが同時に答えた。
ジョーイ係長は頷いた。
「分かりやすい」
アスランは続ける。
「特にブレーキ、クラッチ、保持機構、足裏の接地部分には使用できない。外装に付着すれば整備員が部品を保持できなくなる可能性もある。機体輸送時には――」
シンが頭を抱える。
「説明が長い!」
「安全のために必要だ!」
キラが柔らかく言った。
「まず試験を始めよう、アスラン」
◇
最初の試作品は、特殊成分の濃度が高すぎた。
無人の関節試験装置が動く。
指定角度は、四十五度。
装置は滑らかに動き始めた。
四十五度を越える。
五十度。
六十度。
七十度。
「止まりませんけど!?」
ジョーイ係長が叫ぶ。
キラが制御盤を操作する。
緊急停止。
装置は八十三度で止まった。
「制御信号より、関節の慣性が勝っています」
「滑らかすぎるんか!」
「はい」
シンが試験装置を見る。
「速く動くなら、性能上がってるんじゃないか?」
アスランが首を横へ振る。
「指定した位置で止まれない機械は、高性能とは言えない」
「せっかく速くなったのに」
「味方の横を通り過ぎて壁に突っ込む機体が欲しいのか!」
「それは嫌だ!」
カイエンは面白そうに笑った。
「乗りこなせば速そうだナ」
ログナーが見る。
「お前には使わせん」
「まだ何も頼んでねぇヨ」
「顔に書いてある」
「顔まで監視対象かヨ」
イエッタが演算結果を表示する。
「添加濃度を、現在の七パーセントまで低下させる必要があります」
ジョーイ係長が訊く。
「そんなに減らして、意味あるんです?」
「十分な低摩擦効果が残ります」
「元が効きすぎなんやな……」
濃度を調整する。
基油を変更する。
温度特性を整える。
素材ごとに配合を分ける。
二度目の試験。
関節試験装置は、指定角度の四十五度で止まった。
再始動。
滑らかに動く。
停止。
位置を保持する。
温度上昇も、従来の潤滑剤より低い。
キラが測定値を確認する。
「これなら制御できます」
アスランも頷いた。
「長時間試験と耐久試験は必要だが、実用化の可能性は高い」
ログナーが、A.K.D.側の試験結果を見る。
「関節部の摩耗も減少している」
カイエンが言う。
「今度こそミラージュマシンに入れていいんじゃねぇか?」
「まだ通行止めだ」
「いつ通れるんだヨ!」
「耐久試験後だ」
「前より一歩進んだナ」
「勝手に進むな」
◇
耐久試験は数週間続いた。
高温。
低温。
真空に近い環境。
高負荷。
連続駆動。
停止と再始動。
油漏れ。
部品交換。
整備員が誤って外装へ付着させた場合の除去方法。
多くの条件を試した。
結果は良好だった。
適切な場所へ、規定量を使う。
その条件さえ守れば、可動部の摩擦が減る。
発熱が抑えられる。
部品の摩耗が減る。
必要な駆動出力も僅かに低下する。
動きは滑らかになる。
しかし、制御不能にはならない。
ログナーから判定が届いた。
規定された駆動部への使用に限り、通行可だ。
キラも、コンパス側の報告書へ署名した。
モビルスーツ用試験規格を満たす。
ただし、使用箇所と添加濃度を厳守すること。
アスランの補足資料は、二十三ページあった。
シンがそれを見て言った。
「潤滑油の説明書ですよね?」
「必要な情報だ」
「機体の取扱説明書より厚くなりそうなんですけど!」
「事故が起きてからでは遅い!」
ジョーイ係長は、分厚い資料を受け取った。
「食用禁止は、どこに書いてあります?」
「一ページ目だよ」
キラが答えた。
一ページ目の最上部。赤い太字。
工業用。食用不可。人体への使用禁止。
ジョーイ係長は満足そうに頷いた。
「そこだけは、誰でも読める大きさにしといてください」
◇
商品名を決める会議。
机の上には、深緑色の瓶はなかった。
代わりに置かれているのは、無骨な黒い金属缶。
注入口には、誤って食品容器へ移せない特殊規格の接続口が付いている。
オリーブの絵もない。
料理の写真もない。
美味しそうな言葉もない。
軍需技術部の主任技師が、名称案を表示する。
HEXA μ-ZERO
ヘキサ・ミューゼロ
高負荷駆動系用・低摩擦添加剤
ジョーイ係長は頷いた。
「ええやないですか」
「元のオリーブオイルであることは、記載しますか?」
「記載しません」
食品研究部の担当者が、少しだけ寂しそうに言う。
「我々が育てたオリーブ由来ではあるのですが」
ジョーイ係長は考えた。
「技術資料には、原料の由来として残しましょう」
「商品名には?」
「残しません」
「香りも?」
「ありません」
「味の評価も?」
「誰にもさせません」
「分かりました」
ジョーイ係長は、黒い金属缶へ手を置いた。
「食べ物として作った人の仕事を消すわけやない」
低摩擦添加剤の表示を見る。
「けど、これから働く場所は食卓やない」
その手を、軍需技術部の試験装置へ向けた。
「機械の中です」
◇
営業は、驚くほど順調だった。
ヘキサクスには、もともと兵器販売の顧客網がある。
新しい低摩擦添加剤は、
ヘキサクス製機動兵器。
A.K.D.の一部整備施設。
コンパスのモビルスーツ整備部門。
宇宙作業機械。
大型輸送装置。
精密工場。
それぞれで、用途を限定して採用された。
ホテルへ何度も頭を下げた。
料理長と試作を重ねた。
駄菓子店を探した。
酒販店と販路を考えた。
それまでの苦労とは、まるで違う。
軍需営業担当者が、契約書を持ってきた。
「A.K.D.向け、初回発注分です」
ジョーイ係長は数量を見た。
「二百リットル!?」
「はい」
「一回で?」
「はい」
「売上は?」
経理担当者が数字を表示する。
ジョーイ係長は、しばらく声を失った。
「……桁、間違ってません?」
「間違っていません」
「LEDカレー何皿分や、これ……」
「比較対象として不適切です」
「分かってますけど!」
正常化室の売上表に、巨大な緑色の柱が立った。
至高のオリーブオイル。
食品としては販売不能。
食べれば三日間、生活が滑り落ちる。
それが今では、兵器会社の正規工業製品として、まとまった数量で出荷されている。
廃棄費用はない。
値引き販売でもない。
ホテルへ加工を依頼する必要もない。
弥子やすえぞうへ試食してもらう必要もない。
ジョーイ係長は売上表を見ながら、両手を震わせた。
「普通に性能試験して、普通に規格を通して、普通に売れた……!」
イエッタが答える。
「はい」
「こんなことが、ヘキサクスでも可能やったんやな!」
「本来は兵器メーカーです」
「食品より先に、そっち思い出してほしかったですわ!」
◇
新商品の採用報告会。
A.K.D.側からはログナーとイエッタ。
コンパス側からはキラ、アスラン、シン。
ヘキサクス側からは軍需技術部、営業部、そしてジョーイ係長が参加した。
会議は順調に進んだ。
試験結果。
採用箇所。
供給体制。
保管条件。
廃油の回収。
異常時の対応。
すべて確認された。
「これで終わりですね」
ジョーイ係長が言った。
「普通に売れる商品が完成した。追加の危険作用もない。人体に使わん。食卓にも置かん」
安心した顔で資料を閉じる。
その時。
会議室の扉が開いた。
白い服。
柔らかな表情。
レディオス・ソープが、興味深そうに黒い金属缶を見ている。
「面白いね」
ジョーイ係長の顔から、血の気が引いた。
イエッタが、静かにログナーを見る。
ログナーはすでにソープへ向き直っていた。
「陛下」
「何だい、ログナー」
「完成品の使用範囲は、規定された駆動部に限られております」
「分かっているよ」
ソープは金属缶の横にある試験データを見る。
「摩擦係数が、温度と圧力で僅かに変化している」
キラも資料を見る。
「確かに、変化はあります」
ジョーイ係長が、慌てて二人の間へ入る。
「許容範囲です! もう安全確認も終わりました!」
「この変化を、もっと積極的に制御できるかもしれないね」
ソープの目が、技術者の光を帯びる。
ジョーイ係長は黒い金属缶を抱えた。
「これは潤滑油です!」
「うん」
「新型ミラージュの企画書やありません!」
「まだ、そうは言っていないよ」
ログナーが言う。
「陛下。おやめください」
「まだ何も始めていないけれど」
「始めないでください」
ソープは少し考えた。
「機体内部に循環経路を設けて、駆動箇所ごとに添加濃度を変えるだけだよ」
ジョーイ係長が叫ぶ。
「もう始まっとる!!」
キラが、つい技術者の顔になる。
「でも、負荷に応じて粘度と摩擦を自動調整できれば、関節ごとの損失を抑えられるかもしれません」
ラクスは、その場にはいなかった。
キラを止める者はいなかった。
アスランも資料を見る。
「理論上は可能かもしれない。ただし循環経路の破損、制御系の異常、濃度調整の遅延、戦闘損傷時の漏洩、それから既存機体へ追加する場合の重量増加を――」
シンが頭を抱えた。
「二人とも乗るなよ!」
カイエンは面白そうに言う。
「完成したら、俺のに付けてくれヨ」
ログナーが見る。
「通行止めだ」
「まだ設計もしてねぇだろ」
「だからだ」
ソープは、さらに楽しそうに続けた。
「イレーザーエンジンの排熱を利用すれば、油温も安定させられる」
ログナーの声が少し低くなる。
「陛下。潤滑剤の採用試験から、新型駆動系の開発へ移行しないでください」
「新型ではないよ。既存構造の再設計だ」
「同じです」
「名前だけでも考えていいかな」
「おやめください」
「フリクションレス・ミラージュ――」
「陛下」
「はい」
ソープは、ようやく口を閉じた。
ジョーイ係長は、黒い金属缶を抱いたまま、ログナーを見た。
「司令がおってくれて、本当によかった……」
ログナーは簡潔に答える。
「記録しているだけだ」
イエッタが補足する。
「マスターは、陛下が『面白いね』と発言された時点で、開発移行の可能性を警戒していました」
「先読みの精度が高すぎる!」
ソープは少し不満そうに、資料を見る。
「少し試すだけなら」
「陛下、通行止めです」
「無人機で」
「通行止めです」
「模型で」
「通行止めです」
「演算だけ」
ログナーは数秒、黙った。
「イエッタの監督下に限り、机上演算までです」
ソープの顔が明るくなる。
「ありがとう、ログナー」
ジョーイ係長は頭を抱えた。
「一本、通ってしもた!!」
イエッタが静かに答える。
「実機製作には進ませません」
「頼みます。ほんまに頼みます!」
◇
その日の夕方。
特殊食品正常化室。
ジョーイ係長は、至高のオリーブオイルの在庫記録を更新した。
至高のオリーブオイル
食品用途 永久使用禁止
工業転用 完了
正常化済み
その下に、新商品を記入する。
HEXA μ-ZERO
高負荷駆動系用・低摩擦添加剤
販売開始
数字は黒字。
しっかりとした売上。
回収費も補償費も発生していない。
ジョーイ係長は満足そうに頷いた。
「食卓から遠ざけたら、よう働く油になったな」
「適材適所です」
イエッタが答えた。
「ほんま、それですわ」
ジョーイ係長は椅子へ背を預けた。
「今度こそ、苦労なく真っ当に売れた」
「開発試験には数週間を要しています」
「いつもの商品に比べたら、苦労のうちに入りません」
「売上も良好です」
「最高や」
「ただし」
ジョーイ係長の笑顔が止まった。
「何です?」
イエッタが、A.K.D.への報告画面を表示する。
陛下による新型潤滑循環駆動系の机上演算、開始。
「もう始めとる!!」
「マスターの許可範囲内です」
「誰か陛下から、油と設計図を遠ざけてぇぇぇぇぇ!!」
正常化室に、係長の絶叫が響いた。
その頃、A.K.D.では。
ソープが楽しそうに演算画面を眺めていた。
その隣で、ログナーが腕を組んでいる。
「演算だけですよ、陛下」
「分かっているよ」
「部品発注は認めません」
「していないよ」
「図面に部品番号を書かないでください」
「まだ候補を書いただけだよ」
「消してください」
イエッタから送られた監視記録には、短く追記された。
正常化商品は成功。
派生開発については、引き続き監視が必要。
オリーブオイルは、無事に食卓から遠ざけられた。
だが、ソープの好奇心から遠ざけることまでは、できなかった。