守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
株式会社ヘキサクス、特殊食品正常化室。
その日の審査対象は、冷蔵庫に入っていなかった。
現物が、社内にないためである。
ジョーイ係長の机に置かれているのは、一本の古い商品企画書だけだった。
表紙には、清流と青々とした葉。
中央には、力強い筆文字で、
至高のわさび
と書かれている。
「見た目は、普通に高級そうやな」
ジョーイ係長は、資料をめくった。
「原料は、ヘキサクス所有の峡谷農園で栽培された本わさび」
イエッタが説明する。
「年間を通して水温の安定した湧水を使用し、収穫まで長い時間をかけています」
「ええワサビやないですか」
「香り、甘味、辛味ともに、食品研究部の評価は非常に高いものでした」
「売れるやないですか!」
「ただし」
ジョーイ係長は、資料を机へ置いた。
「今日は何が起きるんです?」
「摂取した常人がくしゃみをすると、大型犬の遠吠えに近い音が発生します」
ジョーイ係長は、しばらく黙った。
「ワサビを食べたら?」
「はい」
「くしゃみが?」
「遠吠えになります」
「なんでや!!」
「さらに、作用は約三日間持続します」
「食事終わってからも鳴くんかい!」
「過去の予測では、対象者一名のくしゃみに反応し、周辺の犬が連鎖的に吠える可能性も指摘されています」
「地域の犬ネットワークを起動する薬味を売るな!!」
ジョーイ係長は事故記録を読み進めた。
幸い、実際に食べた者はいない。
Xiと弥子へ贈られた二本は、危険性を見抜いたネウロによって回収された。
現在も、魔界の危険香辛料を封印する容器に保管されているらしい。
「……なんで食品会社の商品が、魔界規格の容器に入っとるんや」
「安全性を考慮した結果と思われます」
「そこまでせんと保管できへん時点で、食品として終わっとる!」
イエッタが、在庫記録を表示する。
「ただし、ネウロ氏が保管している二本以外にも、ヘキサクス社内へ未出荷在庫があります」
「どれくらい?」
「完成品が二百四十本。業務用原料が十八キログラム」
「結構あるな……」
「さらに、峡谷農園では現在もワサビが栽培されています」
ジョーイ係長は画面を見た。
継続して収穫できる。
一度きりの在庫処分ではない。
特殊作用だけを取り除ければ、定期的に売れる商品になる。
「まず、事故品の現物を調べましょう」
「ネウロ氏から検体を提供していただく必要があります」
「……素直に返してくれます?」
「可能性は低いと思われます」
「ですよね」
◇
桂木弥子魔界探偵事務所。
ジョーイ係長が訪ねると、ネウロは椅子に座ったまま、興味なさそうに彼を見た。
「至高のわさびを返せ、だと?」
「全部やありません。分析に必要な分だけ、検体として提供してほしいんです」
「断る」
「まだ最後まで説明してません!」
「我が輩の所有物を減らす話であろう」
「元は僕に送られた物だけどね」
窓辺に立っていたXiが言った。
バクスチュアルも、その隣にいる。
弥子も、机の前で腕を組んでいた。
「私に届いた分もありますよね?」
「貴様らは不要だと言ったではないか」
ネウロは二人を見る。
Xiが顔をしかめた。
「食べたくないとは言ったよ。でも、魔界の拷問道具に寄付した覚えはない」
「拷問道具ではない。尋問補助香辛料だ」
「言い換えても同じです!」
ジョーイ係長が叫んだ。
ネウロは愉快そうに口元を歪めた。
「一口食わせ、質問をする。嘘をつけば、くしゃみをさせる」
「何のために!?」
「遠吠えの音量によって、精神的動揺を測定できる」
「食品正常化室で、その商品化は扱いませんからね!」
弥子が、封印容器を見る。
「でも、あのワサビ自体は、すごく香りが良かったんですよね」
「分析結果では、基礎品質は高い」
ネウロが答える。
「それを危険なだけの品へ変えた悪意も、実に分かりやすい」
ジョーイ係長は頭を下げた。
「その悪意を分解するために、現物が必要なんです」
ネウロの目が細くなる。
「正常化した後は?」
「ホテルの料理や、売店商品として販売したいと考えてます」
「奴隷一号に試食させるのか?」
「もちろんです!」
弥子が即答した。
ジョーイ係長が振り返る。
「弥子さん、検査する側の顔してますけど、食べたいだけですよね?」
「消費者代表です」
「今日は言い訳が短い!」
ネウロは少し考え、指を鳴らした。
机の上へ、二つの黒い容器が現れる。
表面には、意味の分からない魔界文字が何重にも刻まれていた。
「必要な量だけ採取しろ」
「ありがとうございます!」
「ただし、正常化品の試食には我が輩も立ち会う」
「完成品へ拷問機能を戻そうとせんでくださいね」
「味に悪意が残っているか確認するだけだ」
「その確認項目、必要です?」
Xiが、封印容器を見ながら言った。
「僕の分は、全部持っていっていいよ」
「よろしいのですか?」
「僕は食べない。正常になったとしてもね」
ジョーイ係長は、少しだけ表情を改めた。
「分かりました」
安全になったからといって、被害を受けかけた本人が受け入れる必要はない。
ジョーイ係長は、余計な説得をしなかった。
バクスチュアルが、Xiの横で短く言う。
「食ベナクテ、イイ」
Xiは、彼女を見る。
「うん。そうするよ」
◇
正常化室へ戻った検体は、厳重な設備の中で分析された。
ネウロが保管していたこともあり、品質の劣化はほとんどない。
イエッタが成分を分離する。
ワサビ本来の香り。
辛味。
甘味。
植物由来の揮発成分。
そして、それらとは明らかに異なる特殊成分。
「異常作用の原因を特定しました」
イエッタが画面を表示する。
「ワサビの揮発性成分へ、共鳴増幅作用を持つ物質が結合されています」
「共鳴増幅?」
「くしゃみが発生した際、鼻腔、口腔、咽頭の共鳴状態を変化させ、音を増幅します」
「人間の鼻を、三日間犬用スピーカーに変えとったんか!」
「表現としては、概ね正確です」
「正確なんや……」
さらに特殊成分は体内に長く残り、通常なら短時間で消えるワサビの刺激を、何度も再活性化させる。
食べてから三日間。
少し埃を吸っただけでも。
香水の匂いを嗅いだだけでも。
場合によっては、朝日を見ただけでも。
くしゃみと遠吠えが発生する。
「生活できへんやないですか!」
開発担当者が、分析結果を確認する。
「特殊成分は、製造後の加工工程で追加されています。ワサビそのものには含まれていません」
「農場は無罪?」
「はい」
「食品研究部の基礎処方も?」
「無罪です」
ジョーイ係長は、ほっと息を吐いた。
「ほな、悪いところだけ外せますね」
「可能です」
イエッタが答える。
「遠吠え化成分と長期残留性を除去できます」
「くしゃみ自体は?」
「ワサビの刺激によって起きる可能性は残ります」
ジョーイ係長は腕を組んだ。
「くしゃみを我慢させる成分を足すとかは?」
イエッタは静かに首を横へ振った。
「推奨しません」
「やっぱり?」
「反応を起こしてから抑えるのではなく、最初から過剰な刺激を与えない処方にすべきです」
「せやな」
ジョーイ係長はすぐに頷いた。
「お客さんに我慢させて成立する商品は、正常やない」
ワサビは辛くてよい。
鼻へ抜けてもよい。
だが、食事を中断させるほど苦しませる必要はない。
まして三日間、遠吠えさせる必要などない。
「鼻へ綺麗に抜けて、すっと引く」
ジョーイ係長は言った。
「それを目指しましょう」
◇
ヘキサクス峡谷農園。
山あいを流れる清流のそばに、幾重ものワサビ田が広がっていた。
大きな石の間を、澄んだ湧水が流れている。
緑の葉が水面へ揺れ、冷たい空気の中に、僅かな青い香りが漂っていた。
ジョーイ係長は、思わず立ち止まった。
「……ほんまに、ええ畑やな」
農場責任者は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「ありがとうございます」
「水温の管理も?」
「一年を通して記録しています。日照が強すぎる場合は遮光し、病気が出ないよう一株ずつ確認しています」
「収穫まで、どれくらいです?」
「株によりますが、長いものでは二年近くかかります」
ジョーイ係長は、水の中で育つワサビを見る。
一本を育てるのに、長い時間がかかる。
農場の人々が、毎日水を見て、葉を見て、根を守っている。
それが収穫後、犬の遠吠えを発生させる商品へ加工されていた。
「皆さんは、遠吠えさせようと思って育ててませんよね?」
農場責任者は、目を丸くした。
「もちろんです」
「すいません。この会社、そこから確認せなあかんのです」
同行したホテルの料理長が、収穫された一本を受け取った。
先端を少し削り、香りを確かめる。
「甘い香りがありますね」
「はい。辛味だけでなく、香りと甘味を重視しています」
料理長は、その場ですり下ろされたワサビを少量味わった。
目を閉じる。
鼻へ抜ける辛味。
その後に残る、青い香り。
「このワサビなら」
料理長が言った。
「余計な作用などなくても、十分に料理へ使えます」
農場責任者は、わずかに息を吐いた。
「そう言っていただけると、ありがたいです」
「今までは、品質を上げても、最後に別の商品へ変えられてしまいましたから」
ジョーイ係長は農場を見る。
ここにも、作ったものをまともに売れずにいた人たちがいる。
「今度は、そのままの仕事を商品にしましょう」
「そのまま?」
「皆さんが育てたワサビを、ワサビとして売ります」
ジョーイ係長は笑った。
「犬の声は、足しません」
◇
農場視察の報告を受けたゾディア会長は、通信画面の向こうで静かに資料を眺めていた。
「特殊作用を除去するのか」
「除去します」
ジョーイ係長が答える。
「遠吠えもしません。三日間残りもしません」
「随分と静かな商品になるね」
「ワサビは元から、静かに食べるもんです」
シックスは、農場の品質記録を見る。
「再生産分は、もっと辛味を増せ」
ジョーイ係長は身構えた。
「特殊作用は入れませんよ」
「入れろとは言っていない」
シックスは、平然と答えた。
「ワサビとして、より辛くしろと言っている」
ジョーイ係長は黙った。
普通の商品改善案だった。
それだけに、かえって不安になる。
「……どのくらい増やす気です?」
「十倍でいい」
「やっぱり普通やなかった!!」
料理長が、通信画面へ向き直る。
「辛ければ良いわけではありません」
「なぜだね?」
「料理を引き立てるのが、薬味の役割です」
料理長は、すり下ろしたワサビを見せる。
「ワサビだけが口の中へ残り続ければ、肉も魚も蕎麦も味わえません」
「では、辛いものを好む者には?」
「辛口を別に用意します」
ジョーイ係長が顔を上げる。
料理長は続けた。
「標準品は、香りと甘味のバランスを重視する。辛味の強い株は選別し、辛口として少量生産する」
「二種類にするんですね」
「はい。食べる方が選べるようにします」
シックスは、少し考えた。
「辛口は、私の名を冠してもいい」
「嫌です」
ジョーイ係長が即答した。
「まだ名称を提案していないが」
「事故の由来まで伝わりそうなんで嫌です!」
「一族自慢の極辛本わさび」
「犬が飛んできそうやから却下です!」
最終的に、
清流本わさび
清流本わさび・辛口
という、極めて普通の名称になった。
シックスは不満そうだった。
ジョーイ係長は満足だった。
◇
倉庫に残っていた至高のわさびは、状態ごとに分類された。
特殊成分を分離できる完成品。
加工前の冷凍原料。
安全な基礎処方の中間素材。
特殊成分が容器へ浸透し、廃棄するしかないもの。
救えるものだけを救う。
無理なものは廃棄する。
新たに農場から届くワサビには、最初から特殊加工を行わない。
試作品は、ホテルの厨房で仕上げられた。
料理長が、円を描くようにワサビをすり下ろす。
辛味を一気に飛ばさない。
繊維を壊しすぎない。
料理に合わせ、量も変える。
最初の試食に用意されたのは、和牛のローストビーフだった。
薄く切った肉に、塩。
そして、ほんの少量の正常化わさび。
弥子が、目の前の皿を見つめていた。
「では、食べます」
「少量からお願いします」
ジョーイ係長が言う。
「検査ですから」
「分かっています」
「二枚目へ手を伸ばしてますけど」
「継続品質の確認です」
「一口目もまだや!」
ネウロは、少し離れた席から弥子を見ている。
Xiとバクスチュアルも、試食室にいた。
Xiは食べない。
だが、結果を見届けるために来ていた。
弥子が、ローストビーフを口へ運ぶ。
噛む。
肉の脂。
塩味。
その後から、ワサビの香りが鼻へ抜けた。
弥子の目が少し開く。
「美味しいです」
ジョーイ係長が身を乗り出す。
「鼻は?」
「すっとします」
「痛い?」
「いいえ。香りが抜ける感じです」
「くしゃみは?」
弥子は、少し黙った。
鼻が僅かに動く。
試食室にいた全員が、一歩下がった。
「待ってください!」
弥子が慌てる。
「普通のくしゃみですから!」
「まだ確認できてません!」
ジョーイ係長は机の陰へ半分隠れた。
「無理に我慢せんでください! 自然に出してください!」
「そんなに警戒されたら、余計に出しづらいです!」
弥子は鼻を押さえず、顔を少し横へ向けた。
そして、
「くしゅん!」
小さなくしゃみが一つ。
静寂。
窓は震えない。
犬の遠吠えも聞こえない。
誰の端末にも、近隣動物からの応答通知は届かない。
ジョーイ係長は、ゆっくり机の陰から立ち上がった。
「普通や……」
「普通ですね」
イエッタが記録する。
「普通のくしゃみや!!」
ジョーイ係長は拳を握った。
キラもアスランもいない。
それでもなぜか、試食室に拍手が起きた。
Xiが呆れたように言う。
「普通のくしゃみで、こんなに喜ぶ会社はここくらいだよ」
「シックス製品を扱ってると、普通の価値が上がるんです!」
ネウロは面白くなさそうに顎へ手を添えた。
「音量が足りんな」
「音量を商品評価に入れんといてください!」
弥子は、すでに二枚目のローストビーフを食べていた。
「辛味はあります。でも、肉の味もちゃんと分かります」
料理長が訊く。
「辛味は、どのくらい残りますか?」
「もう引いてきました」
「それでよいのです」
料理長は、ワサビを見る。
「料理を引き立てた後、いつまでも居座らず、静かに引く」
ジョーイ係長も頷いた。
「薬味の仕事、ちゃんとできてますね」
◇
続いて、辛口の試食。
標準品より、明確に辛い。
だが、異常作用はない。
弥子は蕎麦と一緒に味わった。
「辛いです!」
ジョーイ係長が身構える。
「くしゃみは!?」
「出そうです」
全員がまた下がった。
「くしゅん!」
普通だった。
ネウロがつまらなそうに目を細める。
「やはり音が小さい」
「辛口は音が大きなる商品やありません!」
辛口は、辛味を好む客向けに少量だけ提供する。
標準品とは容器の色を変える。
料理ごとの使用量も、説明書へ記載する。
ホテルでは、
和牛ステーキ。
ローストビーフ。
蕎麦。
刺身。
焼き魚。
茶漬け。
さまざまな料理に使われることになった。
ただし、料理長は何にでも載せることを拒んだ。
「必要な料理へ、必要な量だけ使います」
「売りたいからいうて、全部ワサビ味にしたらあきませんもんね」
「はい」
ジョーイ係長は、すぐに納得した。
一度売るのではない。
また食べたいと思ってもらう。
そのためには、薬味が料理を押しのけてはいけない。
◇
商品名は、
ホテル特製 清流本わさび
産地表示には、
ヘキサクス峡谷農園産
と記された。
売店では、冷蔵の小瓶と使い切りの小袋を販売する。
標準品と辛口。
家庭用だけでなく、蕎麦店や和食店へ向けた業務用も用意された。
広告文句は、
鮮烈な香り。すっと引く辛味。
鼻づまりが治るとは書かない。
健康効果も謳わない。
遠吠えしないとも書かない。
一般の客には、意味が分からないからである。
試験販売初日。
ホテルのレストランでは、ローストビーフと清流本わさびの組み合わせが好評だった。
売店でも、食事で味わった宿泊客が小瓶を買っていく。
「これ、さっきのレストランで使われていたものですか?」
「はい。同じワサビです」
「家でもローストビーフに合わせてみます」
最初の一瓶が売れた。
次に、辛口が売れた。
さらに、標準品が二瓶。
派手な商品ではない。
だが、料理の記憶と一緒に持ち帰ってもらえる。
支配人は、販売記録を見ながら微笑んだ。
「また一つ、ホテルの味を持ち帰っていただける商品が増えましたね」
「ありがとうございます」
ジョーイ係長は頭を下げた。
「しかも今回は、継続して仕入れられます」
「農園から、定期的に?」
「はい。来月も、その次も」
ジョーイ係長は、嬉しそうに言った。
「一回売って終わりやない。次も買ってもらうんが商売です」
◇
峡谷農園へ、初回の正式発注が届いた。
農場責任者は、注文書を何度も確認した。
標準品。
辛口。
ホテル向け。
売店向け。
業務用。
これまで育ててきたワサビが、初めて危険な追加加工をされずに出荷される。
農場のスタッフが、収穫する株を選ぶ。
水から引き上げる。
葉を整える。
根茎を洗う。
品質ごとに分ける。
農場責任者は、箱へ産地証明を入れた。
ヘキサクス峡谷農園産 本わさび
犬の絵はない。
遠吠えの注意書きもない。
ただ、育てた場所と、収穫日と、品質が記されている。
「普通に出荷できるんですね」
若い農場スタッフが言った。
責任者は頷いた。
「普通に、ワサビとしてな」
◇
特殊食品正常化室。
販売報告が届いた。
ホテルからの追加発注。
業務用の問い合わせ。
農園からの次回出荷予定。
ジョーイ係長は、在庫表を更新した。
至高のわさび
遠吠え作用除去済み
長期残留作用除去済み
旧在庫正常化完了
その下へ、新しい商品名を書く。
ホテル特製 清流本わさび
継続販売開始
「よし」
ジョーイ係長は満足そうに頷いた。
「犬ネットワーク、解散や」
イエッタが、定期報告を作成している。
「マスターへも、安全性確認済みと報告します」
「お願いします」
「ゾディア会長から、農園への新しい指示も届いています」
ジョーイ係長の笑顔が止まった。
「何です?」
「次期収穫分について、辛味の強い株を優先的に選抜するように、と」
「十倍ですか?」
「料理長との協議を受け、一・三倍へ修正されています」
ジョーイ係長は目を丸くした。
「会長が妥協した!?」
「辛口商品の売上が良好なため、段階的な改良を認めたものと思われます」
「売上が、会長のアクセルを少し戻した……!」
その時、正常化室の通信端末が鳴った。
ゾディア会長からだった。
画面に映ったシックスは、清流本わさびの販売資料を見ている。
「遠吠えは、完全に消えたそうだね」
「消しました」
「三日間の作用も」
「残りません」
「音も出ない」
「普通のくしゃみなら出ることありますけどね」
「随分と静かになったものだ」
ジョーイ係長は、追加発注書を持ち上げる。
「静かに売れてます」
「辛口は?」
「好評です。ただし、十倍にはしません」
「分かっているよ」
シックスは僅かに笑った。
「一・三倍から始める」
ジョーイ係長は警戒したまま、画面を見る。
「……本当に、それだけですか?」
「何を疑っている?」
「会長が普通に商品を改善しようとすると、何か裏がある気がするんです」
「失礼な男だね」
「これまでの実績です!」
通信が切れた。
ジョーイ係長は、少しだけ肩の力を抜いた。
イエッタが端末を確認する。
「現時点で、特殊作用追加の申請はありません」
「ほんまに?」
「はい」
「よかった……」
「ただし、農場拡張計画が提出されています」
「売れてるから?」
「はい。栽培面積を一・五倍へ拡張する計画です」
ジョーイ係長は、しばらく黙った。
「……普通の設備投資や」
「はい」
「会長が、普通に売れる商品へ、普通に投資しとる」
「株主総会後の制度が機能している可能性があります」
ジョーイ係長は椅子へ座った。
そして、静かに呟いた。
「遠吠えより、この方が驚くな……」
正常化室には、誰のくしゃみも響かなかった。
清流本わさびは、料理を引き立て、静かに辛味を残し、静かに売れていった。