守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
怪盗Xiはアイを忘れたくない
午後の喫茶店には、穏やかな時間が流れていた。
窓際の席には、二つのコーヒーカップ。
一つは、砂糖もミルクも入れていない黒い珈琲。
もう一つは、少しだけミルクを落としたもの。
怪物強盗Xiとバクスチュアルは、向かい合って座っていた。
テーブルの中央には、小さな皿に載った焼き菓子が一つ。
「食べる?」
Xiが訊く。
バクスチュアルは焼き菓子を見つめ、少し考えた。
「半分」
「全部でもいいよ」
「半分。Xiサンモ、食ベル」
「僕は甘いものが欲しいとは言ってないけど」
「デモ、頼ンダ」
「君が食べるかと思ってね」
Xiは焼き菓子を割った。
少し大きい方を、バクスチュアルの皿へ置く。
彼女はそれを見てから、Xiを見る。
「コッチ、大キイ」
「誤差だよ」
「ウン」
バクスチュアルは、それ以上言わなかった。
少し離れた席では、弥子たちが昼食後の飲み物を楽しんでいた。
弥子の前には、空になった皿が何枚も重なっている。
シン・アスカはストローの刺さったグラスを片手に、窓際の二人を眺めていた。
「なあ」
シンが言った。
「何?」
弥子がケーキを食べながら返す。
「あの二人、いつ見ても一緒にいるよな」
「そうだね」
「一緒に飯食って、珈琲飲んで、たまに手までつないでる」
弥子のフォークが止まった。
シンは気づかず、少し笑う。
「もう付き合ってるようなもんだろ」
その声は、思っていたより店内へ響いた。
Xiがカップを置く。
「違うよ」
いつもの、少し面倒そうな声だった。
シンは笑ったまま続けた。
「またまた。そこまで一緒にいて、今さら違うって言われてもな」
「シン」
弥子が低い声で呼んだ。
だが、シンはまだ空気の変化に気づいていなかった。
「別に隠さなくてもいいだろ。二人とも、もう――」
「違うんだ」
Xiの声が、言葉を切った。
最初よりも、小さかった。
けれど、はっきりしていた。
シンの笑みが消えた。
Xiの顔には、怒りも、いつもの皮肉も浮かんでいない。
ただ、何か遠い場所を見ているようだった。
バクスチュアルが、Xiを見る。
「Xiサン?」
Xiは答えず、席を立った。
上着を手に取る。
テーブルには、まだ半分ほど残った珈琲。
「行こう」
「ウン」
バクスチュアルは何も訊かず、自分も立ち上がった。
二人が出口へ向かう。
「Xi」
弥子が呼び止めた。
Xiは足を止めたが、振り返らなかった。
「ごめんね」
弥子は言った。
「シンは、知らないだけなの」
しばらくして、Xiは小さく肩を動かした。
「分かってるよ」
扉が閉じた。
二人分の珈琲だけが、窓際の席に残された。
◇
シンは、閉じた扉を見ていた。
「……俺、何を言ったんだ?」
弥子は、すぐには答えなかった。
Xiが残したカップから、細い湯気が昇っている。
「シン」
「うん」
「Xiには、昔、大切な相棒がいたの」
「相棒?」
「アイさんっていう人」
シンは黙った。
弥子は、膝の上で両手を重ねた。
「Xiが、自分が誰なのか分からなかった時に、Xiを見つけてくれた人」
「見つけた?」
「Xiは、誰にでも変身できるから」
弥子は、窓の外を見る。
「顔も、声も、身体も変えられる。何にでもなれる。だから、自分の本当の姿が分からなくなってた」
シンは、Xiのことを思い出す。
誰かに化ける時の、あまりにも自然な変身。
姿だけではない。
声も、癖も、表情も、その人物そのものになる。
「アイさんはね」
弥子は続けた。
「Xiが自分で選んだ顔を、好きだって言ったの」
「それが、今の顔?」
「うん」
シンはもう一度、扉へ目を向けた。
「その人は、今どこにいるんだ?」
弥子の目が伏せられた。
「亡くなった」
店内の音が、少し遠くなった。
「もう、帰ってこない人なの」
「どうして……」
弥子は答える前に、一度息を吸った。
「シックスに殺された」
シンの手が、強く握られる。
「Xiを苦しめるために?」
「たぶん、それだけじゃない」
弥子は言った。
「Xiがどういう顔をするのか、見たかったんだと思う」
シンの表情が歪んだ。
「そんな理由で……」
「シックスは、そういうことをする」
弥子は、残された二つのカップを見る。
「Xiは一度、シックスに捕まったの」
身体を調べられた。
記憶へ手を入れられた。
シックスの体細胞から作られた存在だという事実を突きつけられた。
自分は人間ではない。
シックスの子ども。
新しい血族。
生物兵器。
その言葉で、Xiの正体を塗り潰そうとされた。
「Xiは、自分がシックスから作られたものだって知って、自分を見失った」
「でも、戻ってきたんだろ?」
「うん」
弥子は頷いた。
「アイさんを思い出したから」
アイと出会った。
二人で一人の怪盗Xiになった。
「Xiの正体は、シックスに作られた身体だけじゃなかった」
弥子は静かに言った。
「アイさんと一緒に生きて、自分で選んだもの。それもXiだったの」
シンは俯いた。
「俺、知らなかった」
「うん」
「でも、知らなかったからって、何を言ってもいいわけじゃないよな」
弥子は責めなかった。
ただ、静かに答えた。
「そうだね」
シンは立ち上がろうとした。
「謝ってくる」
「今は、やめよう」
弥子が止める。
「でも」
「今は、バクスチュアルさんと一緒にいるから」
「俺が傷つけたのに」
「だからこそだよ」
弥子は、Xiが出ていった扉を見る。
「シンの謝罪を聞くより先に、話さなきゃいけない人がいるのかもしれない」
シンは、ゆっくり椅子へ座り直した。
「次、会ってくれるかな」
「Xiは、そう簡単に人を許す人じゃないよ」
「だよな……」
「でも」
弥子は少し笑った。
「ずっと怒っていられるほど、器用でもないから」
◇
Xiは、黙って歩いていた。
バクスチュアルは、少し後ろをついていく。
呼び止めない。
並ぼうともしない。
ただ、Xiが歩く速さに合わせている。
喫茶店から離れ、人通りの少ない川沿いへ出た。
水面へ午後の日差しが反射している。
Xiは欄干の前で止まった。
バクスチュアルも止まる。
風が、二人の間を通り抜けた。
「訊かないの?」
Xiが言った。
「Xiサン、話シタクナイ」
「そう見える?」
「ウン」
「なら、放っておけばいいだろう」
「ウン」
「……本当に放っておくんだね」
「話シタクナッタラ、聞ク」
Xiは小さく笑った。
「君は、変なところで頑固だね」
「Xiサンモ」
「僕は自由なんだよ」
「ウン。自由ニ、話ス」
「話さない自由もある」
「ウン」
バクスチュアルは、何も急かさなかった。
川の音だけが続く。
やがてXiが、欄干へ両肘を置いた。
「あいつは」
言葉が止まる。
バクスチュアルは待った。
「アイは、僕の相棒だった」
「アイサン」
「最初に会った時、僕は怪物だった」
Xiは水面を見たまま話す。
「人の命を奪って、生き延びようとしていた」
バクスチュアルは動かなかった。
「アイは僕を怖がった。当然だよね」
「ウン」
「でも、あいつは僕を人間みたいに見た」
「Xiサン、人間?」
「さあね」
Xiは口元だけで笑った。
「僕自身にも分からなかった」
何にでもなれた。
誰にでもなれた。
だから、自分だけがどこにもいなかった。
「そして、あいつは僕の相棒になった」
「二人デ?」
「二人で一人の怪盗Xi」
Xiは、自分の手を見る。
「アイが言ったんだ。僕の顔が好きだって」
「今ノ顔?」
「そう」
「Xiサンガ、選ンダ顔」
「……そうだね」
バクスチュアルは、Xiの横顔を見る。
「私モ、知ッテル顔」
Xiは何も言わなかった。
「アイは、僕が何者なのか教えたわけじゃない」
少しずつ、言葉を選ぶ。
「僕が何を選んだかを、覚えていてくれた」
シックスに捕らえられた。
調整された。
身体の中身を調べられた。
自分はシックスの体細胞から作られた生物兵器だと知らされた。
その事実だけを、正体だと思わされた。
「親父は、僕から余計なものを全部消そうとした」
Xiの声から、温度が消える。
「アイとのことも」
「消エタ?」
「消えなかった」
弥子の声で思い出した。
アイの顔。
声。
触れた手。
自分が選んだ姿を好きだと言った言葉。
「僕がシックスの体細胞から作られたことは事実だ」
Xiは言う。
「でも、それだけが僕じゃない」
「ウン」
「アイと二人で怪盗をやったことも、僕なんだ」
「ウン」
「アイが選んだ僕じゃない」
Xiは、少し言い直した。
「アイと一緒に、僕が選んだ僕だ」
バクスチュアルは、ゆっくり頷いた。
「Xiサンノ、中身」
Xiの指が、欄干の上で僅かに動いた。
「……そういう言い方は、好きじゃないな」
「ゴメンナサイ」
「謝らなくていい」
また、川の音が戻る。
バクスチュアルは訊かなかった。
アイがどんな顔だったのか。
どんな声だったのか。
どうやって死んだのか。
Xiが話すまで、待っていた。
「シックスに殺された」
Xiが言った。
「あの日、僕の目の前で」
バクスチュアルの表情は変わらなかった。
だが、指先だけが少し強く握られた。
「僕を困らせるために」
Xiの声が低くなる。
「あのクソ親父は、アイを撃った」
「Xiサンノ、大事ナ人」
「だからだよ」
大切だから狙われた。
相棒だったから奪われた。
名前を与えたから、その名前ごと傷つけられた。
「アイは死んだ」
Xiは、はっきりと言った。
「もう戻らない」
バクスチュアルは、しばらく黙っていた。
「Xiサン」
「何?」
「私ハ、アイサンニ、ナレナイ」
Xiはすぐに顔を上げた。
「ならなくていい」
思ったより強い声が出た。
バクスチュアルが、僅かに目を見開く。
「君はアイじゃない」
「ウン」
「アイの代わりになる必要もない」
「ウン」
「僕は、君を代わりにしたくない」
バクスチュアルはXiを見る。
「私ハ、私」
「そうだよ」
「アイサンハ、アイサン」
Xiの声が出るまで、少し時間がかかった。
「……うん」
「アイサン、消エナイ」
「死んだよ」
「デモ、消エナイ」
Xiは反論しなかった。
バクスチュアルは、自分の胸へ手を置いた。
「Xiサン、覚エテル」
「忘れられるわけがないだろう」
「忘レタクナイ?」
Xiは、川を見る。
水は流れている。
立ち止まらず、同じ場所へ戻らず、今いる場所から離れていく。
「……忘れたくない」
その言葉を口にしたのは、初めてだった。
忘れられない、ではない。
忘れたくない。
アイを思い出すことは、痛い。
怒りも、悔しさも、どうにもならない空白も戻ってくる。
それでも。
彼女を忘れて楽になることを、Xiは望まなかった。
「アイは、僕の相棒だった」
もう一度言う。
「過去の人だ」
バクスチュアルは、黙って聞いている。
「もう一緒に珈琲を飲むこともできない」
「ウン」
「次の約束もできない」
「ウン」
「でも、どうでもよくなったわけじゃない」
「ウン」
Xiは、自分の言葉に少し驚いたようだった。
バクスチュアルは、静かに言った。
「大事ナヒト」
「……そうだね」
過去の人。
戻ってこない人。
それでも、大切なままの人。
バクスチュアルは、一歩だけXiへ近づいた。
「私ハ、隣ニ、イテ、イイ?」
Xiは彼女を見る。
「アイを忘れなくても?」
「ウン」
「僕が、あいつを大事なままでも?」
「ウン」
「君は、嫌じゃないの?」
バクスチュアルは少し考えた。
「アイサンニ、勝チタイ、思ワナイ」
「勝つ?」
「比ベナイ」
彼女は言葉を探す。
「アイサン、過去」
Xiの表情が僅かに硬くなる。
バクスチュアルは続けた。
「デモ、大事」
「……うん」
「私ハ、今、ココニイル」
彼女は、自分の手を差し出した。
「違ウ場所」
Xiは、その手を見る。
「君は、本当に欲張りだね」
「欲張リ?」
「過去も消さずに、今も欲しいって言ってる」
「ダメ?」
「いや」
Xiは、バクスチュアルの手を取った。
「僕よりは、よほどまともだよ」
「Xiサンモ、欲張リ」
「僕が?」
「一人ノ自由、欲シイ」
「うん」
「二人ノ珈琲モ、欲シイ」
Xiは、しばらく黙った。
「……それは、否定しづらいな」
バクスチュアルの手は温かかった。
アイの手とは違う。
握り方も、体温も、言葉も違う。
違っていてよかった。
「珈琲、残してきたね」
Xiが言う。
「ウン」
「別の店へ行こうか」
「戻ラナイ?」
「今は、いい」
「ウン」
「シンの顔を見ると、腹が立つから」
「怒ッテル?」
「少しね」
「次、会ウ?」
「さあ」
Xiは歩き始めた。
バクスチュアルは手をつないだまま、隣を歩く。
「デモ、会ウ」
「どうしてそう思うの?」
「Xiサン、珈琲代、置イテキタ」
Xiは一瞬、足を止めた。
「あれは食い逃げしたくなかっただけだよ」
「ウン」
「シンを許したわけじゃない」
「ウン」
「……君、分かって言ってるだろう」
バクスチュアルは、少しだけ笑った。
◇
翌日。
同じ喫茶店。
シンは店の入口近くで、落ち着かない様子で立っていた。
弥子は奥の席で、すでに二人分以上の朝食を食べている。
扉が開いた。
Xiとバクスチュアルが入ってくる。
シンの背筋が伸びた。
Xiは露骨に嫌そうな顔をした。
「君、待ち伏せ?」
「違う!」
「十分待ち伏せに見えるけど」
「謝りたくて」
Xiは何も言わない。
シンは、頭を下げた。
「昨日は悪かった」
「何が?」
「からかったこと」
「僕は、よくからかわれるよ」
「そういう話じゃない」
シンは顔を上げた。
「俺は知らなかった。でも、知らないなら、勝手に決めつけていいわけじゃなかった」
Xiは、シンを見る。
「弥子から聞いた?」
「少しだけ」
「どこまで?」
「アイさんっていう相棒がいたこと。大切な人だったこと」
「それだけ?」
「それ以上は、俺が聞くことじゃないと思った」
Xiは、少しだけ目を細めた。
「珍しくまともだね」
「謝ってる相手に、そういう言い方するか?」
「許したとは言ってないよ」
「分かってる」
「しばらく君の珈琲に塩を入れるかもしれない」
「やめろよ!」
「冗談だよ」
Xiはシンの横を通り過ぎた。
バクスチュアルも続く。
「Xi」
シンが呼ぶ。
「何?」
「本当に、悪かった」
Xiは振り返らなかった。
「珈琲一杯」
「え?」
「奢って」
シンは目を瞬いた。
「それでいいのか?」
「高い豆にするよ」
「分かったよ!」
弥子が奥から手を振る。
「こっち空いてるよ!」
Xiは、その席を見る。
昨日と同じ窓際。
二つのカップが残された場所。
「四人で座るの?」
「私は、朝食の続きを食べます」
「まだ食べるの?」
「経過観察です」
「何の?」
弥子は答えず、メニューを開いた。
バクスチュアルが、Xiの袖を小さく引く。
「座ル?」
Xiは少しだけ考えた。
「まあ、いいか」
四人が席へ着く。
シンが注文を取りまとめる。
「Xiは何にする?」
「ブルーマウンテン」
「高いやつじゃないか!」
Xiは、少し考えるふりをした。
「じゃあ、象のコーヒー」
「めちゃくちゃ高いやつじゃないか!!」
「謝罪には誠意が必要だろう?」
「分かったよ!」
Xiは、わずかに笑った。
「まぁ、象のコーヒーは冗談だよ。僕はブルマンで。」
そして、隣のメニューを覗き込む。
「バクスチュアルも同じのでいい?」
彼女はメニューを見る。
「私ハ、昨日ノ」
「ミルクを少し入れたものだね」
「ウン」
シンが店員を呼ぶ。
二人分の珈琲が注文された。
昨日と同じように。
けれど、昨日とは少し違う時間が始まる。
Xiは、アイを忘れていない。
これからも、忘れたくない。
アイと過ごした時間が、消えることはない。
その隣で、バクスチュアルが新しいカップへ手を伸ばす。
過去の席を奪わずに。
空席を無理に埋めずに。
ただ、今ここにある自分の席へ座っている。
「Xiサン」
「何?」
「珈琲、来タ」
「そうだね」
「次モ、飲ム?」
Xiは、湯気の向こうにいる彼女を見る。
「気が早いよ」
「ダメ?」
「駄目じゃない」
Xiはカップを持ち上げた。
「次も、一緒に飲もう」
バクスチュアルは、静かに頷いた。
「ウン」
もう戻らない人を、大切に覚えたまま。
Xiは、次の約束をした。