守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 ――キラ、承太郎、カイエン、ネウロのごった煮会話劇 作:ギアっちょ
秋も深まりつつある、少し肌寒い日の夕方。
「今日はおでんよ」
桂木遥のその一言に、娘の弥子は珍しく安心した。
おでん。
大根。
卵。
こんにゃく。
ちくわ。
はんぺん。
煮込むだけで、そうそう酷いことにはならない。
少なくとも、母の料理の中では比較的安全な部類ではないだろうか。
「おでんかぁ。いいね、お母さん」
「でしょう? ちょっと冷えてきたものね」
「うんうん。こういう日は温かいものが……」
弥子はそこで言葉を止めた。
テーブルの中央には、大きな土鍋が置かれている。
その蓋を、遥が笑顔で持ち上げた。
「はい、できあがり」
ぱかっ。
「…………」
弥子は黙った。
カイエンも黙った。
アウクソーも黙った。
ジョーイ係長も黙った。
ログナーだけが無言で鍋の中を見ていた。
鍋の中。
黒。
ただひたすらに、黒。
醤油が濃いなどという次元ではない。
向こう側が見えない。
汁の表面が照明を反射しているというより、むしろ周囲の光を吸い込んでいるようにすら見える。
弥子がようやく口を開いた。
「……お母さん」
「なあに?」
「これ、おでん?」
「そうよ?」
ジョーイ係長が横から覗き込む。
「墨汁やろ」
「失礼ね。ちゃんと食べ物よ」
「食べ物の色ちゃいますやん!!」
カイエンが腕を組んだ。
「これ、本当に鍋から出していい液体なのかヨ」
「だからおでんだってば」
遥は不満そうだった。
弥子は恐る恐る、お玉で汁をかき混ぜる。
黒い液体の中から、黒い楕円形の物体が浮かび上がった。
「…………」
箸で摘まむ。
「これ何?」
「卵よ」
「卵ってここまで黒くなるの!?」
「よく味が染みてるでしょう?」
次に浮かんだのは、黒い円柱。
「これは……ちくわ?」
「ソーセージ」
「おでんに!?」
「美味しいわよ」
その横から、さらに黒い物体が浮かび上がった。
弥子は首を傾げる。
「こっちは?」
「ハンバーグ」
「なんで!?」
「お肉も食べた方がいいでしょう?」
「おでんで栄養バランスを取ろうとしないで!」
さらに探索する。
餃子。
焼売。
手羽先。
厚揚げ。
冷凍たこ焼き。
そして通常のおでんの具であるはずの大根や卵まで、すべてが同じような漆黒に染まっている。
ジョーイ係長が頭を抱えた。
「具材の識別性が死んどる……」
「味は違うわよ?」
「そういう問題やありません!」
ログナーが鍋の横へ検査機器を置いた。
弥子が振り返る。
「ログナーさん、どうですか?」
「待て」
数秒。
さらに数秒。
ログナーが表示を確認する。
「毒性反応なし」
「おっ」
「薬物反応なし。精神作用なし。神経系への影響なし。異常な微生物も検出されない」
弥子の顔が明るくなった。
「じゃあ今回は大丈夫なんですね!」
「少なくとも、検査結果の範囲ではな」
そこでログナーは鍋を見た。
「ただし」
「ただし?」
「なぜ、おでんの汁からイカ墨、黒胡麻、黒ニンニク、昆布、焦がし葱、竹炭が同時に検出される」
遥が答えた。
「黒いものって身体に良さそうでしょう?」
「色で健康効果を決めないで!!」
弥子の叫びが食卓に響いた。
ジョーイ係長が額を押さえる。
「なんで全部入れたんですか……」
「一つずつ身体に良いなら、全部入れた方がもっと良いかなって」
「足し算ちゃうんですよ健康食品は!!」
しかし。
そこまで聞いても、一人だけ表情を変えない男がいた。
カイエンである。
いや。
正確には、鍋を見る目が異様に険しい。
アウクソーが静かに声をかけた。
「マスター」
「なんだヨ」
「今回は安全です」
「食わねぇヨ」
弥子が振り返った。
「えっ」
カイエンは即答した。
「オレは食わねぇ」
「でもログナーさんが大丈夫って」
「知らねぇヨ」
ログナーが淡々と言う。
「通行可だ」
「お前までそっちにつくのかヨ!」
「検査結果を述べているだけだ」
アウクソーも続ける。
「マスター。私も確認しました。今日は問題ありません」
カイエンが立ち上がった。
「オレはな!」
全員が見る。
「学習したんだヨ!!」
沈黙。
ログナーが一言。
「ようやくか」
「うるせぇヨ!!」
カイエンは指を折りながら数え始めた。
「変な酒飲んで身体から酸っぱい匂いはする! 妙な料理を食ったら酷い目に遭う! 美女とディナーだと思ったらXiだった!」
弥子が小声で言う。
「最後のは料理関係ないですよね」
「うるせぇヨ!!」
アウクソーが静かに補足した。
「マスターは最近、食事の前に内容を確認するようになりました」
「そうだヨ!」
「大きな進歩です」
「子供扱いすんなヨ!」
ログナーが頷いた。
「危機管理能力の向上は評価できる」
「だから食わねぇ!」
その間にも、弥子は鍋を見ていた。
黒い。
どう見ても黒い。
母親の料理を幼い頃から知る弥子の脳内で、本能的な警報が鳴っている。
だが。
香りは悪くない。
むしろ昆布と魚介、肉の旨味が混ざった、かなり食欲をそそる匂いだ。
「…………」
弥子は黒い大根を箸で摘まんだ。
「弥子?」
遥が見る。
「……いただきます」
一口。
噛む。
「…………」
全員の視線が集中した。
カイエンだけが少し離れた位置から見守っている。
弥子が目を見開いた。
「……美味しい」
「やった」
遥が笑った。
ジョーイ係長が驚く。
「ホンマに!?」
「うん。すごく味が染みてる。見た目は最悪だけど」
「余計な一言ねぇ」
「大根の中まで出汁が入ってるし、黒胡麻も意外と邪魔してない。イカ墨も旨味になってる……」
ジョーイ係長も恐る恐る卵を取った。
一口。
「…………」
「どうです?」
「……悔しいけど、旨い」
「でしょ?」
遥が得意げに微笑んだ。
ログナーも少量を口にする。
「味覚上の問題なし」
「もっと普通に褒めてあげてください!」
その後。
食卓の空気は、急速に普通の夕食へ戻っていった。
いや。
鍋の色だけは最後まで普通ではなかったが。
「この餃子、美味しい!」
「中にチーズ入れてあるの」
「さらに何か入ってる!」
ジョーイ係長が黒いハンバーグを箸で割る。
「これも普通に旨いやないですか」
「でしょう?」
「なんで成功してるんや……」
ログナーも静かに食べている。
アウクソーも問題なく口にしている。
遥にも弥子にも、当然異変はない。
ただ一人。
カイエンだけが腕を組んだままだった。
「…………」
ちら。
鍋を見る。
弥子は見逃さなかった。
「カイエンさん」
「なんだヨ」
「食べたいんですか?」
「食いたくねぇヨ」
「でもずっと見てますよ」
「見てねぇヨ」
アウクソーが言った。
「マスターは先ほどから、大根を四回、牛すじを三回見ています」
「数えんなヨ!!」
遥が嬉しそうに言った。
「カイエンさんの分、取っておきましょうか?」
「いらねぇヨ!」
「じゃあ明日の朝に」
「聞けヨ!!」
その夜。
結局カイエンは、一口もおでんを食べなかった。
◆
そして。
翌朝。
テーブルに再び、あの土鍋が置かれた。
遥が蓋を開ける。
「昨日より味が染みてるわよ」
ぱかっ。
「…………」
弥子は固まった。
昨日も黒かった。
しかし今朝の鍋は。
さらに黒い。
もはや墨汁ではない。
黒い汁には明らかな粘度が生まれ、お玉を持ち上げると、
とろり。
と、漆黒の液体がゆっくり鍋へ戻っていく。
ジョーイ係長が一歩下がった。
「……昨日より育ってません?」
「おでんよ?」
「知ってます!!」
カイエンが勢いよく立ち上がった。
「見ろ!!」
ログナーが振り返る。
「何をだ」
「これだヨ!!」
鍋を指差す。
「オレの判断が正しかったってことだろうがヨ!!」
ログナーは無言で再び検査を始めた。
「何調べてんだヨ」
「再検査だ」
「見りゃ分かるだろ!」
数秒後。
ログナーが結果を確認する。
「腐敗なし」
「は?」
「毒性なし。異常菌なし。成分変化も通常の煮込み料理の範囲内だ」
「はぁ!?」
「通行可だ」
カイエンは鍋とログナーを交互に見た。
「その見た目で!?」
「見た目は判定基準ではない」
アウクソーも静かに頷いた。
「マスター。今日も大丈夫です」
「お前らの大丈夫が怖ぇんだヨ!!」
弥子は覚悟を決め、黒い大根を取った。
口に入れる。
「…………」
そして。
肩を落とした。
「どうした」
ログナーが訊く。
弥子は悔しそうに答えた。
「昨日より美味しい……」
「なんでやねん!!」
ジョーイ係長が叫んだ。
確かに。
一晩置いたことで具材からさらに旨味が出て、その出汁が再び大根や卵へ染み込んでいる。
見た目は完全に呪物。
味は極めて良好。
カイエンが無言で鍋を見る。
「…………」
アウクソーが隣から言った。
「マスター」
「なんだヨ」
「大根を見ています」
「見てねぇヨ」
「五回目です」
「数えんなって言ってるだろうがヨ!!」
遥がにこやかに言った。
「カイエンさん」
「なんだヨ」
「今夜の分も残しておきますね」
カイエンの顔が引きつった。
「まだ煮込むのかヨ!?」
「おでんって、二日目が美味しいでしょう?」
「もう二日目だヨ!!」
「じゃあ三日目はもっと味が染みるわね」
カイエンは漆黒の鍋を見た。
昨日より黒い。
昨日より濃い。
昨日より旨いらしい。
そして明日は、さらに味が染みるという。
「……これ以上黒くする気かヨ!!」
桂木家のおでんは。
まだ、食卓から消える予定がなかった。