守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
山の空気が、少し変わっていた。
さっきまであった鳥の声が、いつの間にか遠い。
風は吹いているのに、
木立の奥だけが妙に静かだ。
九人は、自然と足を止めていた。
アウクソーが周囲へ視線を走らせる。
「……この先、少し空気が違います」
泉がすぐ不安そうな顔になる。
「空気って、そういうの分かるものなんですか……?」
承太郎が短く言う。
「分かる奴には分かる」
キラも袋を持ち直しながら、低く言った。
「たぶん……」
「何かいる」
弥子だけがまだ半歩遅れている。
「え、何?」
「鹿とか?」
ネウロが口元を吊り上げる。
「ククク……」
「騒音娘、こういう時に限って鈍いな」
「何よその言い方!」
露伴だけは、
妙に静かな目をしていた。
「いい……」
「よくないです!!」
泉が即座に言う。
「こういう時のセンセの“いい”は、ほんとに良くないんですから!」
カイエンが少し前へ出る。
その動きがあまりに自然だったので、
最初は誰も気づかないほどだった。
「やれやれ……」
小さく呟く。
その声で、キラが振り向く。
「カイエンさん?」
カイエンは目を細めたまま、
斜面の向こうを見ていた。
「……いるな」
その一言とほぼ同時だった。
茂みの奥で、
太い枝が、ばき、と鳴った。
泉が息を呑む。
弥子の顔から、ようやく笑いが消える。
ラクスも静かに視線を上げた。
そして次の瞬間、
黒い影が木立の間から姿を現した。
熊だった。
大きい。
人の腰ほどもある肩。
黒茶の毛並み。
湿った鼻先。
こちらをじっと見る目。
誰も、すぐには声が出なかった。
一拍遅れて、
泉がひゅっと息を吸い込む。
「く、熊……」
弥子が反射でネウロを見る。
「ネウロ、なんか魔界777ツ能力(どうぐ)ないの!?」
ネウロは即答した。
「断る」
「そんなことで吾輩の魔力を使わせるな」
「そんなことじゃないでしょ!!」
弥子。
承太郎が低く言う。
「騒ぐな」
キラもすぐ続ける。
「みんな、下がって」
「刺激しないで、ゆっくり……」
ラクスが静かに泉の肩へ手を添えた。
「泉さん、こちらへ」
「慌てずに」
アウクソーも周囲を見る。
「キラ様、弥子様と泉様を少し後方へ」
「道幅のある場所まで」
「うん」
キラは頷く。
だがその視線は熊から外さない。
露伴は、喉の奥で小さく息を呑んでいた。
来た。
これが、山の本物だ。
しかも今、全員の反応が一斉に出た。
誰が騒ぎ、誰が止め、誰が前へ出るのか。
……いい。
いや、良くはないが、いい。
「センセ」
泉が小声で言う。
「メモとか絶対しないでくださいよ……」
「分かってる」
露伴は珍しく本当に分かっていた。
今は、ただ見ているしかない。
そして、カイエンが一歩前へ出た。
「やれやれ……」
「ここはオレの出番かな」
弥子が振り向く。
「カイエンさん!」
カイエンは熊から目を離さないまま、
軽く肩を回した。
「別に、殺し合う気はないんだがね」
「向こうが引いてくれるなら、それでいい」
承太郎が横目で見る。
「できるのか」
「やるしかないだろう」
カイエン。
「ここに不良が何人いても、熊には通じん」
「言うじゃねぇか」
承太郎。
ネウロが愉快そうに笑った。
「ククク……
よい」
「人間の剣聖、存分にやれ」
「おまえは本当に他人事だな!」
キラ。
熊は低く唸った。
距離はまだある。
だが、今のままではこちらが退く前に踏み込んでくるかもしれない。
アウクソーが低い声で言う。
「マスター」
カイエンはほんの少しだけ口元を上げた。
「分かってる」
その瞬間、
露伴は見た。
カイエンの空気が、
切り替わった。
ついさっきまで、
山菜を摘みながら軽口を叩いていた男の空気ではない。
場の中心をさらう気だるさも、
色気も、
一瞬で奥へ沈む。
そこに立っているのはただ、
本物だった。
カイエンが右手を軽く上げる。
剣は、抜かない。
少なくとも、露伴の目にはそう見えた。
ただ、
その指先の角度だけで、
何かが決まった気がした。
「下がっていろ」
カイエンが言う。
「すぐ終わる」
次の瞬間。
ソニックブレード。
音は、風を裂くように短かった。
ヒュッ――と、
本当に一瞬だけ空気が鳴る。
熊のすぐ前、
地面の草が弾けた。
土が細く跳ねる。
見えない刃が、足元をかすめる。
熊が身を震わせた。
さらにもう一度。
今度は、熊の鼻先より少し前の空間を、
何かが走る。
斬ってはいない。
当ててもいない。
だが、伝わった。
“その先へ来るな”という意志が、
熊にまで届いたのだ。
熊は本能で悟ったらしい。
目の前の人間は、
獲物ではない。
危険だ。
低く唸り、
数歩後ずさる。
カイエンは追わない。
ただ、立っていた。
熊と対峙しながら、
それでもどこか気だるげで、
しかし一歩も譲らない。
その静かな圧に押されるように、
熊はついに踵を返し、
木立の奥へと駆け去っていった。
しばらく、
誰も動かなかった。
虫の声だけが、ようやく戻ってくる。
弥子が最初に息を吐く。
「……た、助かった……?」
キラがようやく肩の力を抜いた。
「助かった……」
「たぶん……うん、助かった……」
泉はその場にしゃがみ込みそうになる。
「し、死ぬかと思いました……」
ラクスが静かに言う。
「皆さま、お怪我はありませんか?」
アウクソーは周囲を確認しながら頷いた。
「大丈夫です」
「マスター、ありがとうございます」
カイエンは肩をすくめた。
「やれやれ」
「大したことはしてないさ」
露伴が、ほとんど呆然とした声で言った。
「今のは何だ」
キラが振り向く。
「露伴先生、そこ!?」
「いや、待て」
露伴は本気だった。
「抜いたのか?」
「抜いていないように見えた」
「だが、今のは間違いなく“何か”だった」
カイエンは露伴を見もせず言う。
「熊を追い返しただけだろう」
「違う」
露伴。
「どうやって追い返した」
「さてね」
「君、今わざとぼかしたな」
「手品師が種を明かすと思うかい?」
カイエン。
その顔はもう、
また少し軽い男の顔へ戻り始めていた。
だが露伴には分かる。
今、たしかに見たのだ。
軽い男の奥にある本物を。
駄目だ。
まだ足りないどころじゃない。
今の一瞬だけで、また遠くなった。
こいつはやはり、描ききれない。
弥子だけは、数秒遅れて別方向に戻ってきた。
「あーあ……」
「残念、ジビエ食べたかった……」
全員が弥子を見た。
泉が真っ先に言う。
「第一声それ!?」
キラも呆れる。
「今の流れで!?」
ネウロがくつくつ笑う。
「ククク……
騒音娘らしい」
弥子は本気だった。
「だってせっかく山なのに!」
アウクソーが静かに言った。
「鹿肉でしたら、別荘の冷凍庫に在庫がありました」
弥子がぴたりと止まる。
「……えっ」
「えっ?」と泉も言う。
アウクソーは淡々としている。
「昨夜確認済みです」
「衛生面を考えるなら、そちらのほうが安全かと」
弥子の顔が一気に明るくなる。
「あるの!?」
「最初からあったの!?」
キラ。
「お尋ねになりませんでしたので」
アウクソー。
「その返し強いなあ……」
泉。
ラクスがやわらかく微笑む。
「では、今夜は山菜と鹿肉で決まりですわね」
承太郎が短く言う。
「悪くねぇ」
カイエンも小さく頷いた。
「やれやれ」
「命拾いしたうえで、夕食まで決まったか」
ネウロは面白そうだ。
「ククク……
熊に追われた直後に献立を決める人間」
「実に滑稽でよい」
露伴だけはまだ、
熊が消えた森のほうを見ていた。
その目は明らかに興奮している。
泉がそれに気づいて、半分諦めた声を出す。
「……センセ」
「またすごい顔してますけど」
露伴は小さく息を吐いた。
「当然だ」
「今のは、非常によかった」
「よくないですよ!!」
泉。
「いや、良くはない」
露伴は珍しく訂正した。
「だが、非常にいい」
キラが頭を抱える。
「もうその理屈やめてよ……」
アウクソーが静かに言う。
「では、一度別荘へ戻りましょう」
「山菜も十分です」
「この先は、予定通り本日の夕食準備に移れます」
弥子がすぐ頷く。
「賛成!」
「山菜! 鹿肉!」
「立ち直り早いなあ……」
泉。
承太郎が歩き出す。
「戻るぞ」
カイエンは最後に一度だけ、
熊の去った方角を見た。
「やれやれ……」
「こっちも山で生きてるってわけだ」
その言葉は軽い。
だが、少しだけ本物の重さを残していた。
露伴は、それを聞き逃さなかった。
露伴のメモ・二日目午前終了時
・気配変化に先に反応したのはカイエン、承太郎、アウクソー
・泉は常識的な恐怖
・弥子はネウロに即依存
・ネウロは断る
・キラとラクスは後方の安定
・カイエン、ソニックブレードで熊を撃退
・抜いたかどうか不明
・追うのではなく退かせる
・本物
・まだ描ききれない
最後にひとこと。
――山へ来た価値があった。