守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
こつん。
それは本当に小さな音だった。
食器棚の中で、湯呑みがひとつ触れ合ったような。
誰かが壁の向こうで、爪先を立てて歩いたような。
だが、その場にいた全員が一瞬、動きを止めた。
「……今の、何?」
弥子が、菓子袋を抱えたまま言った。
泉はすでに顔が青い。
「先生」
「今の、聞こえましたよね?」
露伴は、笑っていた。
「聞こえた」
「なんで嬉しそうなんですか!」
「六壁坂が、ようやく返事をした」
「返事しなくていいです!!」
承太郎は、廊下の奥を見ていた。
「キッチンの奥だな」
キラはすぐに立ち上がる。
「確認しましょう」
「でも、全員で固まって行った方がいいです」
ラクスが静かに頷いた。
「その方がよろしいですわね」
アウクソーは、懐中ライトを手に取る。
「足元にお気をつけください」
カイエンは気だるげに肩をすくめた。
「やれやれ」
「夕食前に一仕事か」
ソープは廊下の先を見つめて、少しだけ目を細めている。
「面白いね」
「音がしたのはキッチンの奥なのに、気配はもっと奥から来ている」
泉がすがるように言った。
「そういうこと言わないでください!」
ネウロだけが、明らかに楽しそうだった。
「ククク……」
「よい」
「生活の隙間から、謎が顔を出した」
弥子が眉をひそめる。
「ネウロ」
「あんた、嬉しそうすぎる」
「当然だ」
ネウロ。
「この土地は、ようやく吾輩に献立を出す気になったらしい」
キッチンの奥には、小さな廊下があった。
別荘の古い間取り図には、そこは「納戸」と書かれている。
だが実際には、納戸というより、使われなくなった小部屋のようだった。
扉は閉まっている。
古い木製の扉。
錆びた取っ手。
鍵穴はあるが、外から鍵はかかっていない。
アウクソーが確認する。
「鍵は開いています」
承太郎が低く言う。
「離れてろ」
露伴が前に出ようとする。
「僕が開ける」
承太郎が即座に止めた。
「下がれ」
「取材だ」
「死にたいのか」
「死ぬつもりはない」
「なら下がれ」
露伴は不満そうに一歩下がった。
泉が小声で言う。
「承太郎さん、本当にありがとうございます……」
承太郎が取っ手に手をかける。
扉は、思ったより簡単に開いた。
ぎい、と音がする。
中は暗かった。
懐中ライトの光が入る。
そこに、何かがあった。
部屋の中央。
古い畳の上。
白い布がかけられた、人型の何か。
泉が息を呑む。
「……え」
キラが咄嗟にラクスの前へ出る。
弥子は目を見開いた。
「なに……これ……」
露伴は、ほとんど囁くように言った。
「死体だ」
泉が叫んだ。
「言い切らないでください!!」
ソープは一歩だけ部屋の中を覗き込んだ。
「匂いが薄い」
「本物の腐敗臭ではないね」
カイエンが目を細める。
「なら、これは何だい」
ネウロは、ゆっくりと口元を歪めた。
「死体の形をした謎だ」
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部屋に入ったのは、承太郎と露伴、そしてアウクソーだけだった。
他の者は廊下に残る。
アウクソーが慎重に布の端へ手を伸ばす。
「確認いたします」
布を少しだけめくる。
そこにあったのは、確かに人の形だった。
だが、顔は見えない。
皮膚も肉も曖昧で、まるで古い紙と乾いた土を混ぜて人の形にしたようなもの。
本物の死体ではない。
しかし「死体」に見える。
そう見えてしまう。
露伴の目が輝いた。
「いい……」
「これは“死体そのもの”じゃない」
「見る者に死体だと認識させるための形だ」
泉が廊下から悲鳴を上げる。
「先生、冷静に分析しないでください!」
その時。
ぱたん。
背後で扉が閉まった。
全員が振り向く。
承太郎がすぐに扉へ手を伸ばす。
開かない。
「……閉じたな」
キラが廊下側から扉を引く。
「こっちからも開きません!」
泉が青ざめる。
「密室!?」
「これ密室ですよね!?」
露伴は笑っていた。
「いい」
「閉じ込められた」
「よくないです!!」
承太郎が扉を見て、低く言った。
「スタープラチナで壊すか」
ソープが廊下側から止める。
「待って」
「壊せるかもしれないけど、壊すと部屋ごと変質する可能性がある」
カイエンも言う。
「同感だ」
「斬るには、まだ早い」
その瞬間。
部屋の隅で、何かが動いた。
露伴がライトを向ける。
そこに、もうひとつ白い布があった。
「……増えた」
アウクソーが静かに言う。
「先ほどは、ありませんでした」
泉が廊下側で固まる。
「増えたって言いました?」
「死体が?」
「密室の中で?」
弥子が叫ぶ。
「やだやだやだ!」
「怪異の方向性が本気じゃん!」
ネウロは笑った。
「ククク……」
「死体が密室を作り、密室が死体を増やす」
「よい」
「なかなか悪くない趣向だ」
露伴が言う。
「違うな」
ネウロが目を向ける。
「ほう?」
露伴は部屋の中央の白布を見た。
「密室が死体を増やしているんじゃない」
「死体が増えるために、部屋を密室にしている」
ネウロの笑みが深くなった。
「少しは見る目があるな、漫画家」
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露伴は白布の人型へ近づいた。
泉が悲鳴を上げる。
「先生! 近づかないでください!」
「黙っていろ、泉くん」
露伴。
「この程度で退いていたら、漫画家はやっていられない」
「この程度!?」
露伴は手を伸ばす。
「ヘブンズ・ドアー」
人型の表面が、紙のように開きかけた。
だが、次の瞬間。
文字が滲んだ。
ページが増える。
行が裂ける。
読もうとするほど、文字が奥へ沈む。
露伴の表情が変わった。
「……読めない」
承太郎が横目で見る。
「おまえがか」
「読めないんじゃない」
露伴は苛立った声で言う。
「読ませる対象が固定されていない」
「これは“誰かの情報”じゃない」
「死体という概念のふりをした、土地の反応だ」
ソープが外から静かに言う。
「なるほど」
「個人ではなく、環境側の記録か」
アウクソーが続ける。
「この部屋そのものが、対象なのかもしれません」
その時、三つ目の白布が現れた。
今度は、扉のすぐ横。
承太郎の背後だった。
スタープラチナが即座に反応する。
だが、拳は止まった。
承太郎が低く言う。
「……殴ると増えそうだな」
ネウロが愉快そうに笑う。
「正解だ」
「力で乱せば、死体は“被害”として増える」
「閉ざされた部屋に、被害者が増える」
「実に分かりやすい」
キラが扉の向こうで言う。
「つまり、攻撃するとダメってことですか?」
カイエンが肩をすくめる。
「少なくとも、今はな」
泉が震える声で言う。
「じゃあ、どうするんですか……?」
その問いに、ネウロがゆっくり前へ出た。
「決まっている」
弥子がネウロを見る。
「あんた、もう分かったの?」
「半分はな」
ネウロ。
「残り半分は、今から引きずり出す」
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ネウロは扉の前に立った。
密室の中には入っていない。
だが、彼は閉じた扉の向こうを見ているようだった。
「この怪異は、人間の恐怖をよく知っている」
ネウロは言った。
「閉じた部屋」
「正体不明の死体」
「増える被害者」
「読めない記録」
「壊せば悪化する状況」
露伴が頷く。
「定番を押さえている」
泉が叫ぶ。
「定番とか言わないでください!」
ネウロは続ける。
「だが、出来が甘い」
「死体が増える理由が、部屋の内側にしかない」
「外から見ている者の恐怖も、部屋に取り込もうとしている」
「つまり――」
ネウロの目が鋭くなる。
「これは死体ではない」
「死体を見た人間が作る“解釈”を餌にしている」
ソープが静かに言う。
「観測されるほど、定義が増える」
アウクソーが続ける。
「定義が増えるほど、部屋が閉じる」
キラが理解した。
「だから、見る人が増えるほど密室化して、死体も増える……?」
ネウロは笑った。
「そうだ」
「なかなか良い流れだ、キラ・ヤマト」
キラが微妙な顔をする。
「褒められても嬉しくないな……」
弥子が言う。
「じゃあ、見なければいいの?」
ネウロは首を横に振る。
「違う」
「見て、理解して、定義を奪う」
露伴が目を細めた。
「怪異のルールをこちらが確定するのか」
「そうだ」
ネウロ。
「この死体は、死体ではない」
「密室は、密室ではない」
「これは“見られることで成立する未完成の謎”だ」
部屋の中で、四つ目の白布が現れかけた。
だが、その途中で止まった。
ネウロが笑う。
「ほう」
「焦っているな」
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ネウロは、ゆっくりと扉に手を当てた。
その手が、まるで扉の奥へ沈むように見える。
泉が小さく悲鳴を上げた。
弥子は息を呑む。
「ネウロ……」
ネウロの声が低くなる。
「密室が死体を隠すのではない」
「死体が密室を作るのでもない」
「貴様は、人間に“死体だ”と思わせることで、部屋を閉じさせていただけだ」
扉の向こうで、白布が震えた。
一枚。
二枚。
三枚。
布の下の人型が、まるで水に溶けるように揺らぐ。
「よい味だった」
ネウロが言う。
「だが、もう終わりだ」
そして、にやりと笑った。
「この『謎』はもう、吾輩の舌の上だ」
その瞬間。
部屋の中の白布が、一斉にめくれた。
中身はなかった。
いや、あったはずのものが、形を保てなくなった。
死体に見えたものは、乾いた紙の屑のように崩れ、畳の上へ散る。
閉じていた扉が、音もなく開いた。
空気が流れ込む。
密室が、密室でなくなる。
露伴と承太郎、アウクソーが外へ出る。
泉がその場にへたり込みそうになる。
「……終わったんですか?」
ネウロは満足そうに舌なめずりした。
「ふむ」
「悪くない」
「前菜としては、なかなかだった」
弥子が怒鳴る。
「前菜って言うな!!」
キラは胸を撫で下ろす。
「誰も怪我しなくてよかった……」
ラクスも静かに頷く。
「ええ、本当に」
カイエンは部屋の中を覗き込む。
「やれやれ」
「斬る前に終わったか」
承太郎が短く言う。
「殴る前にな」
ソープは崩れた紙屑のようなものを見て、興味深そうに言った。
「人の認識を使って密室化する怪異」
「地球の土地は、ずいぶん面白いね」
カイエンが即座に言う。
「面白がるな」
「明日もあるんだぞ」
「明日もあるの?」
「ありそうだろ」
露伴が、輝くような顔で言った。
「ある」
泉が叫ぶ。
「言わないでください!!」
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結局、その部屋は封鎖された。
アウクソーが扉に印をつけ、キラが念のため通路を塞ぐ。
承太郎が周囲を確認し、カイエンが外側の気配を見る。
ソープは柱や壁の状態を観察していた。
ネウロは、少しだけ機嫌が良さそうだった。
弥子がじろりと見る。
「あんた、満足そうね」
「当然だ」
ネウロ。
「久々に、そこそこ腹に溜まる謎だった」
「腹に溜まるとか言わないで」
「明日は少し運動してもよいな」
キラが嫌な予感を覚える。
「運動……?」
ネウロは笑う。
「腹ごなしだ」
弥子が顔をしかめる。
「まさか、魔界777ツ能力?」
「ククク……」
「必要ならな」
露伴はそれを聞いて、すぐにメモした。
「初日、謎を摂取」
「翌日、腹ごなしの可能性」
泉が露伴の手元を見て、青ざめる。
「先生」
「それ、完全に次の事件の前フリですよね?」
露伴は、六壁坂の暗い廊下を見た。
「前フリではない」
「じゃあ何ですか?」
露伴は静かに言った。
「生活は、まだ始まったばかりだ」
外では、森が静かに揺れていた。
最初の怪異は消えた。
だが、六壁坂そのものは、まだ何も終わっていない。
むしろ、ようやくこちらを見始めたのだ。