守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
食卓の片づけが終わる頃には、別荘の中に少しだけ落ち着いた空気が戻っていた。
もちろん、本当に落ち着いているわけではない。
キッチン奥の納戸は封鎖済み。
その中では先ほどまで、密室化して増殖する死体めいた怪異が発生していた。
ネウロがその謎を喰ったことで事態は収まったが、六壁坂という土地そのものが静かになったわけではない。
それでも、食事をして、片づけをして、湯を使う。
生活は続く。
だからこそ、露伴は言った。
「では、次は風呂だな」
泉京香は、反射的に身構えた。
「先生」
「普通に入れますよね?」
露伴は答えた。
「普通に入るだけなら、普通だ」
「その言い方がもう普通じゃないんです!」
弥子はタオルを抱えて立ち上がる。
「お風呂!」
「ごはんのあとのお風呂!」
ラクスが穏やかに微笑む。
「では、まずは女性からでよろしいでしょうか」
アウクソーはすでに準備を整えていた。
「はい」
「浴場の床は少し滑りやすくなっておりますので、お気をつけください」
泉は小さく息を吐いた。
「アウクソーさんがいると安心します……」
露伴が横から言う。
「泉くん、君は風呂でも取材対象として――」
「なりません!!」
承太郎が短く言った。
「行け」
その一言で、女子組は浴場へ向かった。
六壁坂の別荘の温泉は、露天ではなかった。
前回の別荘のように、夜空が見えるわけでもない。
森の風が肌を撫でるわけでもない。
そこにあるのは、古い内湯だった。
石造りの浴槽。
曇った窓。
湯気を吸った木の天井。
足元で小さく跳ねる湯の音。
窓の向こうには、六壁坂の森がある。
だが曇りガラスと湯気のせいで、外はよく見えない。
見えないからこそ、何かがいるようにも思える。
泉は浴場の入口で立ち止まった。
「……なんか、思ってたより雰囲気ありますね」
弥子はあっけらかんとしている。
「いいじゃん!」
「温泉って感じする!」
ラクスは湯気の向こうを見て、静かに言った。
「落ち着いたお湯ですわね」
アウクソーはまず足元を確認する。
「床が濡れております」
「弥子様、走らないようお願いいたします」
「はーい」
泉が小声で言う。
「すごい……完全に生活指導……」
湯に入ると、弥子はすぐに大きく息を吐いた。
「あぁー……」
「生き返る……」
泉も肩の力を抜く。
「分かる……」
「さっきまでのアレ、本当に何だったんだろう……」
弥子は湯に顎近くまで沈みながら言った。
「死体っぽいのが増えて、部屋が密室になって、ネウロが食べた」
「まとめないで」
泉。
「余計怖いから」
ラクスはやわらかく言う。
「でも、皆さまご無事で何よりでした」
アウクソーも頷く。
「はい」
「現時点では、大きな負傷者はありません」
泉はその言い方に引っかかった。
「現時点では、って……」
「今後の安全確認は必要です」
「ですよね……」
弥子は明るく言った。
「でも、お風呂入るとちょっと平気になるね!」
泉は苦笑する。
「弥子ちゃん、本当に強いね」
「え、そう?」
「うん」
「普通、あのあとすぐごはん食べて、お風呂で元気にはならないよ」
弥子は少し考えてから、笑った。
「怖いのは怖いよ」
「でも、怖がっててもお腹は空くし、お風呂は気持ちいいし」
「そこまで怪異に持っていかれたら、なんか悔しいじゃん」
ラクスが静かに微笑んだ。
「それは、とても大切な強さですわ」
アウクソーも言った。
「同感です」
弥子は少し照れた。
「えへへ」
「なんか褒められた」
その時だった。
湯気の向こうから、別の声がした。
「あら」
「もう入っていたのね」
泉の動きが止まった。
弥子も振り向く。
ラクスは静かに目を向ける。
アウクソーは、まるで最初から分かっていたかのように軽く一礼した。
「ソープ様」
湯気の向こうに立っていたのは、ソープダッシュだった。
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泉は完全に処理落ちした。
「えっ」
「えっ!?」
「ソープさん!?」
弥子は目を丸くしている。
「わぁ……」
「ホントに女性なんだ……」
ソープダッシュはにこりと笑った。
「そうよ」
弥子は素直に言った。
「いや、前も綺麗だったけど」
「今度は完全に女子じゃん!」
「ありがとう」
泉が反射的に叫ぶ。
「喜ぶんですね!?」
ラクスは驚きすぎず、ただ柔らかく微笑む。
「ソープ様」
「こちらのお姿でいらしたのですね」
「ええ」
ソープダッシュは自然に言った。
「こちらの方が、ここでは都合がいいでしょう?」
泉が固まる。
「都合がいい……?」
「え、えっと、つまり……?」
アウクソーは淡々と言った。
「ソープ様、足元が滑りやすくなっております」
泉が思わず振り向く。
「そこ!?」
「そこなんですかアウクソーさん!?」
アウクソーは真顔だった。
「安全確認は重要です」
「そうですけど!」
弥子はもう慣れ始めていた。
「まあ、ソープさんならそういうこともあるか……」
泉が愕然とする。
「受け入れるの早くない!?」
「だって前に男の人のソープさん見たし、ソープダッシュも見たし」
弥子。
「今さらかなって」
「今さらの範囲が広すぎる……」
ソープダッシュは湯に入り、ふう、と息をついた。
「いいお湯ね」
「閉じた場所の温泉も悪くないわ」
泉は警戒する。
「閉じた場所って言い方、やめません?」
「でも実際、閉じているでしょう?」
ソープダッシュ。
「外の森と内側の湯気が、窓一枚で分かれている」
「こういう場所は、境界が曖昧になるの」
泉の顔が引きつる。
「やっぱり怖いこと言ってる……」
ラクスが穏やかに言った。
「ですが、今はお湯を楽しみましょう」
ソープダッシュは笑った。
「そうね」
「ラクスさんの言う通り」
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しばらく、湯の音だけが響いた。
弥子はソープダッシュをじっと見ている。
ソープダッシュが目を向けた。
「なあに?」
「いや……」
弥子。
「すごいなあって」
「変身が?」
「それもだけど」
弥子は首を傾げる。
「ソープさんって、男の人でも女の人でも、なんか自然だよね」
泉がうなずく。
「それは分かるかも……」
「混乱はするんですけど、不自然ではないんですよね」
「そこが余計に混乱するんですけど」
ソープダッシュは少し楽しそうに笑う。
「褒め言葉として受け取るわ」
アウクソーが静かに言った。
「ソープ様は、どちらのお姿でもソープ様です」
泉は小声で呟く。
「強い信頼……」
ラクスはソープダッシュを見て言った。
「姿が変わっても、在り方は変わらない」
「そういうことなのでしょうね」
ソープダッシュは、ラクスを見る。
「相変わらず、きれいに言うわね」
「感じたままですわ」
「そういうところ、やっぱり歌姫ね」
弥子がにやりとする。
「ラクスさん、すごいもんね」
「声がふわっとしてるのに、なんか逆らえない感じある」
泉が慌てる。
「弥子ちゃん、言い方!」
ラクスは笑っている。
「まあ」
ソープダッシュも笑った。
「でも分かるわ」
「ラクスさんは、命令しなくても場を動かせる人だもの」
泉は湯の中で縮こまった。
「なんか、また巨頭会談みたいになってきた……」
弥子が首をかしげる。
「巨頭会談?」
アウクソーが真顔で答える。
「はい」
「以前、実質的には二大巨頭会談が行われました」
泉が言う。
「アウクソーさん、その説明やめてください」
「お風呂の中で聞くと余計おかしいです」
ソープダッシュは弥子へ目を向けた。
「あなたは、また違う意味で強いわね」
「え、あたし?」
「ええ」
ソープダッシュ。
「怖いものを見ても、食べて、怒って、笑って、温泉に入れる」
「生活を手放さない」
「それは、かなり強いことよ」
弥子は少し照れる。
「また変な褒め方された」
ラクスが微笑む。
「でも、本当にそうですわ」
泉も頷いた。
「うん」
「弥子ちゃんが普通にしてくれると、こっちもちょっと安心する」
弥子は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、あたしもっと普通にする!」
泉がすかさず言う。
「食べすぎは普通じゃないけどね」
「そこ!?」
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ソープダッシュは、今度は泉を見た。
「あなたも大変ね」
泉は、心の底から言った。
「分かってくださいますか!?」
ソープダッシュは軽く頷く。
「露伴先生の近くにいるのは」
「怪異の近くにいるのと少し似ているもの」
泉が固まる。
「やっぱりそうなんですか!?」
弥子が笑う。
「ちょっと分かる!」
ラクスは困ったように微笑む。
「露伴先生は、好奇心がとても強い方ですから」
「強いで済みますかね……」
泉。
「先生、危ない場所ほど目が輝くんです」
アウクソーが静かに言った。
「危険の認識と、観察欲が同時に成立しているのかと」
泉は深く頷く。
「それです」
「まさにそれです」
ソープダッシュは湯に肩を沈めながら言った。
「でも、あなたがいるから戻ってこられるところもあるんじゃないかしら」
泉は少し驚いた。
「私が?」
「ええ」
ソープダッシュ。
「露伴先生は、かなり遠くまで見に行く人でしょう」
「でも、見たものを現実に持ち帰るには、誰かが現実側で待っている必要がある」
泉は、珍しく黙った。
弥子も少しだけ静かになる。
ラクスは穏やかに泉を見る。
「泉さんは、露伴先生にとって大切な存在なのだと思いますわ」
泉は顔を赤くして、慌てて手を振った。
「いやいやいや!」
「そんな良い話にされても困ります!」
「普段は本当に振り回されてばっかりですから!」
ソープダッシュは笑った。
「それでも、振り回されながらついていくのでしょう?」
泉は小さく唸った。
「……仕事ですから」
アウクソーが静かに言った。
「それは、立派な理由です」
泉は少しだけ照れたように、湯を手ですくった。
「……ありがとうございます」
弥子がにやにやする。
「泉さん、褒められてる」
「弥子ちゃん、そういう時だけ嬉しそうにしないで」
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その時。
窓の外で、何かが動いた。
ほんの一瞬。
曇ったガラスの向こう、森の影の中に、白いものが横切ったように見えた。
泉の肩が跳ねる。
「今、何か……」
弥子も窓を見る。
「見えた?」
ラクスは静かに視線を向ける。
アウクソーはすぐに浴場の入口と窓の位置を確認した。
「外部からの侵入は困難かと」
泉が震える。
「困難ってことは、ゼロじゃないんですね……」
ソープダッシュは、湯気の中でゆっくり窓を見る。
その表情は、さっきまでの柔らかなものとは少し違った。
ただ、見ている。
窓の向こうの何かを。
「……ここはまだ」
ソープダッシュが静かに言った。
「覗くだけにしておきなさい」
弥子が息を呑む。
「誰に言ったの?」
ソープダッシュは、すぐにいつもの笑顔へ戻った。
「さあ?」
泉が小声で叫ぶ。
「さあ、じゃないです!」
「今ぜったい何かに言いましたよね!?」
ラクスは穏やかに言った。
「そういうことにしておきましょう」
泉が振り向く。
「ラクスさんまで!?」
アウクソーはソープダッシュへ一礼する。
「ありがとうございます、ソープ様」
泉はもう限界だった。
「何が!?」
「何に対してのありがとうございますなんですか!?」
弥子は少しだけ窓を見て、それから湯に沈んだ。
「……まあ、今出てこないならいいか」
「よくないよ!」
泉。
「よくないけど、今はそれでいい気もする!」
ソープダッシュは小さく笑った。
「六壁坂は、ちゃんとこちらを見ているわ」
「でも今は、まだお風呂の時間よ」
弥子がすぐ頷く。
「そうそう!」
「お風呂の時間は大事!」
泉は深く息を吐いた。
「このメンバー、肝が据わりすぎてる……」
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風呂を出る頃には、全員それなりに温まっていた。
弥子は満足そうに伸びをする。
「あー、いいお湯だった!」
泉も、少し疲れた顔ながら頷いた。
「怖かったけど……」
「お湯は良かった……」
ラクスは髪を整えながら言う。
「身体が温まりましたわね」
アウクソーはタオル類を確認する。
「忘れ物はございません」
ソープダッシュは、最後にもう一度だけ浴場の曇った窓を見た。
そこにはもう、何もいない。
ただ、湯気で白く曇っているだけだった。
弥子が聞く。
「ソープさん、まだ何かいる?」
「今はね」
ソープダッシュ。
「いないわ」
泉は「今は」という言葉を聞かなかったことにした。
聞こえなかった。
そういうことにした。
脱衣所を出ると、廊下の向こうでキラが待機していた。
「大丈夫でしたか?」
泉が即答する。
「大丈夫でした」
「たぶん」
キラが困る。
「たぶん……」
ラクスが微笑む。
「良いお湯でしたわ」
弥子も言う。
「最高だった!」
ソープダッシュが続ける。
「面白かったわ」
キラが目を瞬かせる。
「ソープさん!?」
「え、今、女性の姿で……」
ソープダッシュはにこりと笑った。
「ええ」
「こちらの方が都合が良かったの」
キラは一瞬で理解を諦めた。
「……そうですか」
その横で、カイエンが廊下にもたれていた。
「やれやれ」
「今度は風呂まで出張かい、ソープ」
「だって、お風呂は女性の時間だったでしょう?」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ」
カイエンは額を押さえた。
「……まあ、何も起きなかったならいい」
泉が小さく言う。
「何も……起きなかった、でいいんですかね……」
ソープダッシュは微笑んだ。
「何かが起きなかった」
「それも大事よ」
ネウロが廊下の暗がりから笑った。
「ククク……」
「神の化身に睨まれて、覗くことしかできぬ土地の怪異か」
「なかなか滑稽だな」
ソープダッシュはネウロを見る。
「覗くだけなら、まだ許すわ」
ネウロの笑みが深くなる。
「その“まだ”が、実に良い」
承太郎が低く言った。
「うるせぇな」
「次は男の番だ」
カイエンが肩をすくめる。
「やれやれ」
「男湯は静かに済ませたいもんだ」
露伴が、いつの間にかメモ帳を持って立っていた。
「今の女子風呂で、何かあったな」
泉が即座に叫ぶ。
「何もありませんでした!!」
露伴は泉をじっと見る。
「その否定の仕方は、何かあった時の否定だ」
「先生はお風呂入ってきてください!!」
ソープダッシュは楽しそうに笑った。
「露伴先生」
「女湯のことを描こうとすると、怒られるわよ」
露伴は少し不満そうに言った。
「分かっている」
「だから、描くのは空気だけだ」
泉が頭を抱えた。
「それもそれで嫌です……」
六壁坂の初日夜。
女子風呂は、ひとまず無事に終わった。
湯気の向こうに何かがいたのか。
窓の外で何が見ていたのか。
ソープダッシュが誰に告げたのか。
それは、まだ誰にも分からない。
だが少なくとも、その夜の女性たちは、無事に湯から上がった。
それだけで、十分だった。
たぶん。