守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
弥子は満足そうに髪を拭き、ラクスは落ち着いた様子で湯上がりの水を飲んでいる。
アウクソーはタオルの回収と忘れ物確認を済ませ、泉は「何もなかった、何もなかった」と自分に言い聞かせるような顔をしていた。
キラはそれを見て、少し不安そうに尋ねた。
「……本当に、大丈夫でした?」
泉は即答した。
「大丈夫でした」
少し間を置いて。
「たぶん」
キラの顔が曇る。
「たぶん……」
弥子が明るく言う。
「お湯は最高だったよ!」
「それはよかったけど……」
廊下の少し奥では、ソープが壁にもたれていた。
男性モードのままだが、どことなく顔がぼんやりしている。
カイエンがそれを見て、眉を寄せた。
「おい、ソープ」
「おまえ、顔が少し赤いぞ」
ソープは軽く笑う。
「さっき入ったばかりだからね」
「今日はもう、僕は遠慮しておくよ」
キラが少し安心した顔になる。
「あ、それがいいと思います」
「二回続けて入ると、湯あたりしますし」
カイエンはじっとソープを見る。
「……寝ぼけて変な姿になるなよ」
ソープは首を傾げた。
「変な姿?」
カイエンは一瞬だけ言葉を止めた。
「……いや、いい」
「今日はもう寝ろ」
ソープは笑った。
「ひどいなあ」
「まだ寝ないよ」
アウクソーが静かに一礼する。
「ソープ様、念のため水分補給を」
「ありがとう」
泉はその様子を見て、小声で言った。
「なんか、今のカイエンさんの言い方……妙に気になりますね」
露伴は当然のようにメモしていた。
「“寝ぼけて変な姿になるなよ”」
「いい前フリだ」
カイエンが振り返る。
「書くな、漫画家先生」
「もう書いた」
「やれやれ……」
承太郎が短く言った。
「行くぞ」
「風呂が冷める」
男性陣は、順番に浴場へ向かった。
メンバーは、露伴、承太郎、キラ、カイエン、ネウロ。
ソープはいない。
それだけで、キラは少し安心していた。
「今回は……普通に入れそうですね」
カイエンが笑う。
「その願い、ここでは口にしない方がいいぞ、坊や」
「やめてくださいよ……」
浴場は、先ほどと同じく湯気に満ちていた。
石造りの浴槽。
古い木の天井。
曇った窓。
外の森は見えそうで見えない。
露天風呂ではない。
だからこそ、妙に閉じている。
承太郎は浴場全体を一瞥した。
「……妙な風呂だな」
露伴がすぐに反応する。
「いいだろう」
「この閉じた湯気、曇った窓、音の反響」
「人間はこういう場所で、自分の感覚を信用できなくなる」
キラが湯桶を手に止まる。
「今から入る場所の説明としては最悪なんですが」
ネウロがくつくつ笑う。
「ククク……」
「風呂とは面白い」
「人間が自ら衣服を脱ぎ、武器を遠ざけ、湯に身体を沈める」
「無防備を自ら選ぶ場所だ」
承太郎が低く言った。
「黙って入れ」
「命令か?」
「忠告だ」
カイエンが肩をすくめる。
「まあ、今回は静かに入ろうじゃないか」
「さっきの死体もどきで十分だろう」
露伴は真顔で言う。
「十分ではない」
キラが即座に言った。
「十分です」
承太郎も言う。
「十分だ」
カイエンも頷いた。
「十分だな」
ネウロだけが笑った。
「前菜としてはな」
キラは頭を抱える。
「そこ、蒸し返さないで……」
______________________________
湯に入ると、しばらくは誰も喋らなかった。
湯の音だけが響く。
キラは肩まで浸かり、深く息を吐いた。
「……ああ」
「これは、落ち着きますね」
承太郎は黙っている。
カイエンは湯に身を預けながら、窓の方を見ている。
「地球の温泉ってのも、なかなか悪くないな」
「ただ、ここの湯は少し重い」
露伴が問う。
「重い?」
「湯そのものじゃない」
カイエン。
「場の気配だ」
「湯気の中に、何かが混ざっているような感じがする」
キラが顔を引きつらせる。
「やっぱり何かあるんですか……」
ネウロが口元を歪める。
「当然だ」
「六壁坂だぞ」
「何もないなら吾輩は来ていない」
「招待されてないのに来たんだよね?」
「招待など不要だ」
承太郎が短く言った。
「面倒な奴だな」
ネウロは笑う。
「貴様も大差ない」
「危険を嗅ぎつけて来たのだろう、空条承太郎」
承太郎は答えない。
露伴が興味深そうに言う。
「そうだな」
「承太郎は、危険だから来た」
「キラは、危険を丸くするために来た」
「カイエンは、ソープを放っておけないから来た」
「ネウロは、謎を嗅いだから来た」
「僕は、描くために来た」
キラが苦笑する。
「僕だけ、ずいぶん実務的ですね……」
カイエンが言う。
「坊やにはその役が似合ってる」
「褒められてる気がしないんですけど」
承太郎は低く言った。
「露伴」
「風呂で分析するな」
「しているつもりはない」
露伴。
「整理しているだけだ」
「同じだ」
______________________________
湯気の中で、露伴は先ほどの怪異について話し始めた。
「さっきの死体」
「あれは、本当に面白かった」
キラがすぐに言う。
「面白くはなかったです」
「君はそう言うだろうな」
露伴。
「だが、ヘブンズ・ドアーで読めない対象というのは貴重だ」
「人間でもない、物でもない」
「土地の反応が、死体の形を取っていた」
カイエンが頷く。
「斬るには妙だった」
「あれは切断対象じゃない」
「こっちが“死体”として扱うほど、向こうの形が固まる」
承太郎が言う。
「殴っても増えただろうな」
ネウロは満足そうに笑う。
「正解だ」
「人間どもにしては理解が早い」
キラが少しだけ眉を寄せる。
「でも、最後はネウロが食べたんですよね」
「謎を」
「食った」
ネウロ。
「密室、死体、増殖、読めぬ記録」
「なかなか腹に溜まる味だった」
キラは小さく呻く。
「表現がずっと嫌だ……」
露伴はネウロを見る。
「君の言う“謎を食う”という感覚」
「それは、味覚なのか?」
ネウロは露伴へ視線を向ける。
「貴様が漫画を描く時、線の味を舌で感じるか?」
露伴は少し黙った。
「……なるほど」
「答えになっているようで、なっていない」
「だが、分からなくはない」
キラが驚く。
「分かるんですか?」
露伴は言う。
「分かる必要はない」
「分からないまま、描ければいい」
承太郎が帽子のない額を軽く押さえた。
「やれやれだぜ」
______________________________
その時、湯気の流れが少し変わった。
風はない。
内湯だ。
窓も閉まっている。
なのに、湯気が一方向へ引かれるように揺れた。
キラが先に気づく。
「……今、湯気が」
承太郎が静かに目を向ける。
カイエンも湯の中で姿勢を変えた。
露伴は嬉しそうにする。
「来たか」
キラが即座に言う。
「来なくていいです」
ネウロは目を細めた。
「ククク……」
「覗いているな」
「覗いてる?」
キラが窓を見る。
曇ったガラスの向こう。
一瞬、白い影のようなものが揺れた。
だが、すぐに消える。
承太郎は低く言った。
「さっきの続きか」
ネウロは首を横に振る。
「違う」
「先ほどの死体もどきは、もう吾輩の腹の中だ」
「これは別の反応だ」
「この土地が、湯の中の人間を見ているだけだ」
キラは顔を引きつらせる。
「見られてるのが一番嫌なんですけど」
カイエンは湯から上がりかける。
「追い払うか?」
ネウロが笑う。
「必要あるまい」
「今夜はまだ、食うほどの謎ではない」
承太郎が短く言う。
「じゃあ黙らせろ」
ネウロは肩をすくめる。
「吾輩は満腹だ」
「食後すぐの運動は身体に悪い」
弥子がいれば絶対に怒っただろう。
キラが代わりに言う。
「魔人にもそういう概念あるんですか!?」
露伴は窓を見ながら言った。
「見ているだけなら、見せておけばいい」
承太郎が睨む。
「おまえは黙ってろ」
カイエンは窓の向こうを見て、低く言った。
「ここは風呂場だ」
「覗きは趣味が悪いぞ」
その声は軽いが、空気が少しだけ重くなった。
白い影は、それ以上近づかなかった。
湯気は、また普通に漂い始める。
キラは息を吐いた。
「……いまので終わりですか?」
カイエンは湯に戻りながら言う。
「今夜はな」
「今夜は、って言わないでください……」
______________________________
湯気が落ち着くと、キラは少し気になっていたことを口にした。
「そういえば、ソープさんは本当に大丈夫なんでしょうか」
「さっき、少しぼーっとしてましたよね」
カイエンは顔をしかめる。
「湯あたりならまだいい」
露伴がすぐに反応する。
「“まだいい”とは?」
カイエンは露伴を見ない。
「何でもない」
「何でもない時の言い方ではないな」
承太郎が低く言う。
「露伴」
「分かっている」
露伴。
「深追いはしない」
キラが驚く。
「本当に?」
露伴は真顔で答える。
「今は、だ」
カイエンはため息をついた。
「ソープは時々、姿の出力が雑になる」
「疲れていたり、気を抜いていたりすると特にな」
キラは困惑する。
「姿の出力……」
「深く考えるな」
カイエン。
「考えると寝られなくなる」
「すでに寝られる気が少し減りました」
ネウロが楽しそうに笑う。
「ククク……」
「神の化身も湯あたりはするか」
「実に人間臭い」
カイエンが横目で睨む。
「神とか言うな」
露伴の目が光る。
「今、神と言ったな」
「言ったのはネウロだ」
「君は否定しなかった」
「聞かなかったことにしろ」
「断る」
承太郎が湯をすくい、露伴の方へ少しだけ飛ばした。
露伴が目を閉じる。
「……承太郎」
「黙れ」
キラは小声で言う。
「承太郎さん、ありがとうございます……」
______________________________
結局、男湯は思ったより静かに進んだ。
ネウロは余計なことを言う。
露伴はそれを拾う。
キラは胃を痛める。
カイエンはソープのことになると妙に現実的に焦る。
承太郎はその全員を最低限の一言で止める。
だが、大きな怪異は起きなかった。
少なくとも、その時点では。
風呂から上がる前、承太郎が窓を見て言った。
「ここは長居する場所じゃねぇな」
キラが頷く。
「僕もそう思います」
カイエンも湯から立ち上がる。
「明日が本番かもな」
キラは心底嫌そうに言う。
「本番とか言わないでください」
ネウロは満足そうに笑った。
「ククク……」
「初日は前菜」
「二日目は腹ごなし」
「悪くない日程だ」
露伴が言う。
「いい構成だ」
承太郎が即座に言った。
「よくねぇ」
カイエンも続ける。
「よくないな」
キラも言う。
「よくないです」
ネウロだけが笑っていた。
______________________________
男性陣が風呂から戻ると、廊下にはアウクソーが待っていた。
「皆様、異常はありませんか」
キラは少し考えた。
「大きな異常は、なかったと思います」
泉が横から顔を出す。
「大きな、って何ですか」
「小さいのはあったんですか」
キラは正直に言った。
「湯気が少し変で、窓の外に何かいたような……」
泉が叫んだ。
「やっぱりあったんじゃないですか!」
承太郎が短く言う。
「何もしてこなかった」
「それは“何かあった”に含まれます!」
カイエンはアウクソーへ尋ねた。
「ソープは?」
「お休みになられました」
アウクソー。
「やや湯あたり気味でしたので、水分補給の上、休んでいただいております」
カイエンは安心したような、まだ警戒しているような顔をした。
「変な姿にはなってないか?」
アウクソーは一瞬だけ間を置いた。
「現時点では」
カイエンの顔が曇る。
「現時点では、って言うな」
泉が震える。
「えっ」
「ソープさん、寝ぼけると何が起きるんですか?」
カイエンは即答した。
「何も起きない」
露伴がすぐに言う。
「その否定は信用できない」
「信用しろ」
「断る」
キラは小さく呟いた。
「今日、ちゃんと寝られるかな……」
アウクソーは、静かに乳酸菌飲料を一本差し出した。
「キラ様」
キラは受け取った。
「ありがとうございます……」
「やっぱり必要でした」
ラクスが優しく微笑む。
「無理はなさらないでくださいね」
弥子が湯上がりの髪で廊下に出てきた。
「男湯、何かあった?」
全員が一瞬黙る。
承太郎が答えた。
「何もねぇ」
露伴が続ける。
「何もなかったと言うには惜しい」
泉が叫ぶ。
「そこを惜しまないでください!」
ネウロは最後に、廊下の暗がりを見て言った。
「六壁坂は、まだ味見しているだけだ」
「本格的に食卓へ着くのは、明日かもしれんな」
弥子が顔をしかめる。
「その言い方、やめて」
露伴は静かにメモ帳を閉じた。
「初日の夜」
「風呂場にて、土地はまだ覗くだけ」
カイエンは廊下の奥を見た。
「覗くだけで済んでるうちに、寝るか」
承太郎が頷く。
「そうだな」
キラも頷く。
「寝ましょう」
「寝られるうちに」
泉がぽつりと言った。
「その言い方も嫌です……」
六壁坂の初日夜。
食事は済み、風呂も済んだ。
だが、別荘はまだ起きているようだった。
壁の奥。
柱の隙間。
曇った窓の向こう。
何かが、こちらの生活を見ている。
まだ、覗くだけ。
まだ。