守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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風呂を終えた別荘には、夜の匂いが満ちていた。

湯気の名残。
木造の廊下に染みた湿気。
遠くで鳴る虫の声。
そして、どこか壁の奥に残る、六壁坂そのものの気配。

初日の夜は、まだ終わっていない。

だが、食事は終わった。
風呂も終わった。
最初の怪異は、ネウロの腹に収まった。

少なくとも、今だけは。

各自が部屋へ戻る時間になっていた。


岸辺露伴は六壁坂へ誘う その8

その前に、アウクソーは一人、台所に立っていた。

 

テーブルの上には、明日の朝に使う食材。

パン、卵、缶詰、野菜。

キラが持ち込んだ保存食。

弥子が持ち込んだ菓子とレトルト。

そして、ソープが持ってきたフローズンヨーグルト用の材料。

 

アウクソーは、それらを静かに分類していた。

 

「冷蔵保管」

「朝食用」

「明日の昼以降」

「弥子様の手の届きにくい場所」

 

背後から、泉が顔を出した。

 

「最後の分類、すごいですね……」

 

アウクソーは真顔で答える。

 

「必要な管理です」

 

「否定できないです」

 

そこへ弥子が廊下からひょこっと顔を出す。

 

「今、あたしの名前聞こえなかった?」

 

泉が即座に言う。

 

「聞こえてない聞こえてない」

 

「絶対聞こえた!」

 

アウクソーは静かに、菓子の袋を棚の上段へ移した。

 

弥子が目を細める。

 

「見たよ、アウクソーさん」

「そこ、届かない場所だよね?」

 

「必要な管理です」

 

「二回目!」

 

ラクスが後ろから優しく言った。

 

「弥子さん、夜食はほどほどになさいませ」

 

「はーい……」

 

弥子は素直に引き下がった。

ただし、手にはすでに小袋のお菓子がひとつあった。

 

泉が気づく。

 

「いつの間に!?」

 

「保険!」

 

「何の!?」

 

______________________________

 

 

アウクソーは次に、冷蔵庫の中を確認した。

 

その中には、ソープが持ってきた小さな容器がいくつかある。

 

泉が尋ねた。

 

「これ、ソープさんの?」

 

「はい」

アウクソー。

「フローズンヨーグルト用の素材です」

「明日以降、状態を見てお出しする予定です」

 

ラクスが微笑む。

 

「楽しみですわね」

 

弥子の目が光る。

 

「フローズンヨーグルト!」

「ジョーカーで流行ってるやつ!」

 

アウクソーはすぐに言った。

 

「明日です」

 

「まだ何も言ってない!」

 

「今、召し上がるお顔でした」

 

「読まれてる!」

 

泉は、アウクソーの管理力に心底感心した。

 

「アウクソーさんがいれば、合宿って成立するんですね……」

 

アウクソーは少しだけ目を伏せた。

 

「皆様が無事に過ごされることが第一です」

 

その言い方は、とても静かだった。

 

泉はふと、今日の怪異を思い出す。

 

密室。

死体のようなもの。

増殖。

読めないページ。

 

それでもアウクソーは、夕食を整え、風呂を確認し、今は明日の朝食とデザートの段取りをしている。

 

生活を続ける、というのはこういうことなのかもしれない。

 

泉は少しだけ、安心した。

 

______________________________

 

男子部屋Aでは、キラが布団を敷いていた。

 

今回はベッドではなく、畳の部屋に布団を並べる形だった。

 

カイエンは、窓際で小さなグラスを手にしている。

横には、例のスティルトンチーズ。

 

キラはそれを見て、やや不安そうに言った。

 

「カイエンさん」

「それ、まだ食べるんですか?」

 

カイエンは涼しい顔で答える。

 

「酒に合う」

 

「変な夢を見るかもしれないチーズですよね?」

 

「変な夢くらい、今さらだろう」

カイエンはチーズを一切れ口にする。

「六壁坂に泊まってる時点で、もう半分夢みたいなもんだ」

 

キラは反論できなかった。

 

「それは……まあ……」

 

そこへ、ソープが部屋に戻ってきた。

 

男性モードのレディオス・ソープ。

さっきより顔色は戻っている。

湯あたり気味だった様子も、かなり落ち着いたようだった。

 

キラは少し安心した。

 

「ソープさん、大丈夫ですか?」

 

ソープは穏やかに笑う。

 

「うん」

「少し休んだら戻ったよ」

「心配かけたね」

 

「いえ、無理しないでください」

「明日も何かありそうですし……」

 

言ってから、キラは自分で嫌な顔をした。

 

「自分で言って嫌になりました」

 

カイエンが笑う。

 

「坊やも六壁坂に慣れてきたな」

 

「慣れたくないです」

 

ソープは、カイエンの手元を見た。

 

「それ、また食べてるんだ」

 

「悪くないぞ」

カイエン。

「クセがあるが、酒には合う」

 

ソープも少しだけチーズを見た。

 

「発酵食品としては、確かに面白い」

「ただ、今夜はやめておこうかな」

「変な夢を見るかもしれないし」

 

キラが強く頷く。

 

「それがいいです」

 

カイエンは肩をすくめる。

 

「二人とも慎重だな」

 

その時、部屋の扉が静かに開いた。

 

アウクソーだった。

 

「マスター」

 

カイエンの手が止まる。

 

「……何だい」

 

アウクソーは、カイエンのグラスとチーズを見た。

 

「明日に備え、飲酒はほどほどになさってください」

 

「分かってる」

 

「昨日もそう仰いました」

 

「昨日は昨日だ」

 

「本日は六壁坂です」

 

「……分かった」

 

キラは少し笑いをこらえた。

 

ソープも楽しそうに言う。

 

「カイエン、怒られてるね」

 

「うるさい、ソープ」

 

アウクソーは続けた。

 

「ソープ様も、念のため水分をお取りください」

「明日はフローズンヨーグルトの調整もございますので」

 

ソープは頷いた。

 

「ありがとう」

「明日の朝か、昼の後くらいがいいかな」

 

アウクソーは即座に答える。

 

「昼食後の方が適切かと」

「午前中に何かが起きた場合、冷却状態の維持が必要になります」

 

キラが固まる。

 

「午前中に何かが起きた場合、って前提なんですね……」

 

アウクソーは真顔で言う。

 

「備えです」

 

カイエンが小さく笑った。

 

「坊や、ここでは最悪を想定した方がいい」

 

「それ、寝る前に聞きたくないです……」

 

アウクソーはキラに、そっと一本の乳酸菌飲料を差し出した。

 

「キラ様」

 

キラは受け取った。

 

「ありがとうございます」

「もう完全に寝る前の儀式みたいになってますね……」

 

ソープが笑った。

 

「いいじゃないか」

「眠れるなら」

 

キラは飲みながら言った。

 

「今回は、眠りたいです」

 

カイエンはグラスを置いた。

 

「なら、そろそろ寝るか」

「明日、怪異とやらが出るなら、寝不足は損だ」

 

キラは少し驚いた。

 

「カイエンさんがまともなことを……」

 

「失礼だな、坊や」

 

ソープが柔らかく言う。

 

「カイエンは、こう見えて面倒見がいいんだよ」

 

「そうなんですか?」

 

カイエンが即座に言う。

 

「違う」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「マスターは、必要な時には周囲をよく見ておられます」

 

カイエンは、少しだけ黙った。

 

「……寝るぞ」

 

キラは小さく笑った。

 

この部屋なら、今夜は少し眠れるかもしれない。

 

たぶん。

 

______________________________

 

 

一方、男子部屋B。

 

こちらは、空気が違った。

 

露伴はすでにスケッチブックを開いている。

ネウロは窓際で、夜の森を眺めている。

承太郎は布団の位置を確認していた。

 

承太郎が一言。

 

「寝ろ」

 

露伴は顔を上げない。

 

「まだ早い」

 

「寝ろ」

 

「今日の記録が終わっていない」

 

ネウロが窓際で笑う。

 

「ククク……」

「記録か」

「人間は、自分が理解できぬものほど書き残したがる」

 

露伴はペンを走らせたまま言った。

 

「君の“謎を食う”感覚について、もう少し聞きたい」

 

ネウロは振り返る。

 

「貴様に説明する義理はない」

 

「では質問を変えよう」

露伴。

「今日の怪異は、君にとって美味かったのか」

 

ネウロの笑みが深くなる。

 

「前菜としてはな」

 

承太郎が布団に座る。

 

「その話はもういい」

 

露伴は続ける。

 

「ネウロ」

「君は、謎を喰った後、その謎を記憶として残すのか」

「それとも完全に消化するのか」

 

ネウロは少しだけ興味を持ったように見えた。

 

「ほう」

「そこを聞くか」

 

承太郎が低く言う。

 

「露伴」

 

露伴は一瞬だけ黙る。

 

承太郎は続けた。

 

「明日、何が起きるか分からねぇ」

「寝られる時に寝ろ」

 

その声には、妙な重みがあった。

 

露伴は少しだけ不満そうにスケッチブックを閉じた。

 

「合理的だな」

 

ネウロも窓から離れる。

 

「つまらんが、今夜は腹も膨れている」

「食後の睡眠も、たまには悪くない」

 

承太郎が即座に言う。

 

「黙って寝ろ」

 

ネウロは笑った。

 

「命令が多い男だ」

 

「聞く必要があるから言ってる」

 

露伴は布団に入りながら、最後に一言だけ呟いた。

 

「六壁坂は、今夜ずっとこちらを見ている」

 

承太郎は目を閉じたまま言った。

 

「分かってる」

 

ネウロも、暗がりで笑った。

 

「だからこそ、明日が楽しみだ」

 

承太郎は短く言った。

 

「黙れ」

 

そして、男子部屋Bは意外にも早く静かになった。

 

承太郎がいるからである。

 

______________________________

 

女子部屋は、まだ灯りがついていた。

 

弥子が布団の上に座り、小袋のお菓子を広げている。

ラクスは髪を整え、泉はようやく少し落ち着いた顔で座っている。

アウクソーは、部屋の端で明日の予定を小さなメモにまとめていた。

 

弥子が言う。

 

「今日は濃かったね!」

 

泉が即答する。

 

「濃すぎたよ」

 

「まず到着して、食材並べて、変なチーズ出てきて」

「そのあと死体っぽいの増えて」

「ネウロが食べて」

「ごはん食べて」

「ソープさんが女の人になってお風呂に来て」

 

泉が頭を抱える。

 

「まとめると、本当に意味が分からない……」

 

ラクスは穏やかに微笑んだ。

 

「ですが、皆さまご無事でした」

 

アウクソーも頷く。

 

「初日としては、負傷者なし」

「食材損耗も許容範囲内です」

 

弥子が反応する。

 

「食材損耗って、あたし見て言ってる?」

 

「数値上の事実です」

 

「否定しづらい!」

 

泉は少し笑った。

 

怪異の土地にいる。

怖いはずだ。

実際、怖い。

 

でも、この部屋には妙な安心感があった。

 

ラクスがいて、アウクソーがいて、弥子がいる。

三人とも、全く違う形で強い。

 

泉はぽつりと言った。

 

「なんか……」

「皆さんがいると、怖いけど、少し大丈夫な気がします」

 

弥子がすぐにお菓子を差し出す。

 

「じゃあ、これ食べる?」

 

泉は一瞬きょとんとした。

 

「え?」

 

「甘いもの食べると落ち着くよ」

 

ラクスが優しく言う。

 

「そうですわね」

「少しだけいただきましょうか」

 

アウクソーも、ほんの少しだけ頷いた。

 

「就寝前ですので、少量であれば」

 

弥子が嬉しそうに笑った。

 

「やった!」

 

泉はお菓子をひとつ受け取り、苦笑する。

 

「弥子ちゃん、ほんとに自然にお菓子出てくるね」

 

「持ってきたから!」

 

「それはそう」

 

しばらく、女子部屋では小さな夜更かしが続いた。

 

話題は、男の悪口にはならなかった。

 

露伴先生の危なっかしさ。

キラの胃の心配。

カイエンが案外世話焼きなこと。

ソープの不思議さ。

ソープダッシュの美しさ。

ネウロのチーズの危険性。

承太郎が一言で場を止める頼もしさ。

 

そして、六壁坂がまだ何かを見ていること。

 

泉がふと言う。

 

「ソープさんって、ほんと何なんでしょうね」

 

ラクスは少し考えて、穏やかに答えた。

 

「すぐに答えを出さない方がよい方かもしれません」

 

弥子が首を傾げる。

 

「どういうこと?」

 

ラクスは微笑む。

 

「分かろうと急ぐと、かえって見えなくなることもありますもの」

 

アウクソーは静かに言った。

 

「ソープ様は、ソープ様です」

 

泉は小さく笑った。

 

「それが一番強い答えかも……」

 

その時、部屋の外で、ぎし、と廊下が鳴った。

 

全員が一瞬、黙る。

 

弥子がお菓子の袋を握ったまま固まる。

 

泉が小声で言う。

 

「……誰か、歩きました?」

 

アウクソーがすぐに立ち上がる。

 

「確認いたします」

 

ラクスも静かに身体を起こす。

 

だが、次の瞬間。

 

廊下の音は止まった。

 

何もない。

 

ただ、古い家が鳴っただけのようにも聞こえる。

 

アウクソーは扉の前でしばらく耳を澄ませたあと、戻ってきた。

 

「現時点で、接近する気配はありません」

 

泉は息を吐いた。

 

「現時点で……」

 

弥子は小声で言った。

 

「さっきソープさんに覗くだけにしろって言われてたから、まだ覗いてるだけなのかな」

 

泉は顔を引きつらせる。

 

「それ、安心材料になる?」

 

ラクスは静かに言った。

 

「今夜は、こちらから深追いしない方がよさそうです」

 

アウクソーも頷く。

 

「同意いたします」

「就寝しましょう」

 

弥子はお菓子を片づけながら言った。

 

「じゃあ、明日に備えて寝るかー」

 

泉は布団に入りながら呟いた。

 

「明日に備えて、って言葉が怖い……」

 

ラクスが灯りを少し落とす。

 

「おやすみなさいませ」

 

「おやすみー」

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみなさいませ」

 

女子部屋も、やがて静かになった。

 

______________________________

 

夜が深くなる。

 

三つの部屋の灯りが落ちる。

 

女子部屋。

男子部屋A。

男子部屋B。

 

その間をつなぐ廊下は、暗い。

 

古い木の床。

壁にかかる額。

閉じられた納戸。

封鎖された扉。

 

どこかで、家が鳴る。

 

ぎし。

 

また、静かになる。

 

六壁坂の「なにか」は、まだ中へ入ってこない。

 

ただ、見ている。

 

食事を見た。

風呂を見た。

眠りにつく人間たちを見ている。

 

生活が置かれた。

 

怪異は、そこに入り込む機会を待っている。

 

だが、今夜はまだ動かない。

 

一度、謎を食われた。

一度、ソープに釘を刺された。

一度、カイエンに窓の外から睨まれた。

 

そして、各部屋にはそれぞれ、簡単に触れてはいけない者たちがいる。

 

だから、六壁坂はまだ待つ。

 

じっと。

 

ただ、見ている。

 

______________________________

 

消灯後。

 

キラは布団の中で、目を閉じていた。

 

今日は、眠れそうだった。

 

本当に。

 

男子部屋Aは静かだ。

カイエンも、アウクソーに止められたおかげで酒は控えめ。

ソープも体調は戻ったらしい。

 

しばらくして、隣からソープの声が小さく聞こえた。

 

「キラくん」

 

「はい?」

 

「今日は、ちゃんと寝るといいよ」

 

キラは少し笑った。

 

「そうします」

 

カイエンも眠そうに言う。

 

「寝とけ、坊や」

「明日、何があっても寝不足よりはマシだ」

 

「……はい」

 

キラは、なぜか少し安心した。

 

この二人は、厄介だ。

不思議で、危険で、時々説明不能だ。

 

でも、今夜は少なくとも、こちらを気遣ってくれている。

 

キラは小さく呟いた。

 

「おやすみなさい」

 

ソープが答える。

 

「おやすみ」

 

カイエンも言った。

 

「おやすみ、坊や」

 

そして、静かになった。

 

キラは久しぶりに、合宿先でちゃんと眠れそうな気がした。

 

六壁坂の夜でさえ。

 

 

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