守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
弥子は満足そうに椅子へ沈み、キラは食材リストを確認し、ラクスは空になった器をそっと重ねている。
ソープは、自分のフローズンヨーグルトが概ね好評だったことに、少しだけ満足そうだった。
「さて」
露伴が地図を広げた。
その一言で、泉京香の表情が曇る。
「先生」
「その“さて”は、絶対に平和じゃない“さて”ですよね」
露伴は平然と言った。
「午後は二手に分かれる」
キラが頷く。
「買い出しは必要ですね」
「カロリー・イーターの影響もありますし、夕食と明日の朝食分を考えると、補充しておいた方がいいです」
アウクソーもリストを確認しながら言う。
「同感です」
「米、野菜、肉、飲料、卵、菓子類、保存食の補充が必要です」
弥子が手を挙げた。
「お菓子類!」
アウクソーは静かに見る。
「必要量のみです」
「必要量の定義が厳しい!」
カイエンは椅子にもたれて言った。
「夕食は何にするんだい」
弥子が即答した。
「カレー!」
キラも少し笑う。
「前回はチキンカレーでしたよね」
ラクスが微笑む。
「では今回は、ビーフカレーはいかがでしょう」
弥子の目が輝いた。
「ビーフカレー!!」
カイエンがにやりと笑う。
「いいじゃないか」
「今回はスポンサーもいるしな」
その瞬間、ソープがカイエンを見た。
「僕を見ない」
「まだ何も言ってないだろう」
「目で言ってる」
泉が小声で言う。
「スポンサーって、まさか……」
カイエンは軽い調子で言った。
「まあ、星団一の金持ちが――」
アウクソーがすっと前に出た。
「マスター」
カイエンは口を閉じた。
露伴はすでにメモ帳を開いている。
「今、星団一と言ったな」
カイエンは即答した。
「言ってない」
「言った」
「聞き間違いだ」
ソープは紅茶を飲みながら、困ったように笑った。
「ビーフカレーの材料くらいなら、僕が出してもいいよ」
「ただし、経費ではなく個人負担で」
カイエンがつまらなそうに言う。
「なんだ、経費じゃないのか」
「君が経費と言うたびに、ログナーの眉間の皺が増えるんだ」
キラが小声で言った。
「誰か分からないけど、苦労してそうな人ですね……」
結局、午後の班分けはこうなった。
買い出し班
キラ、ラクス、アウクソー、泉。
ハイキング班
露伴、承太郎、カイエン、ソープ、弥子、ネウロ。
泉は班分けを見た瞬間、胸をなで下ろした。
「よかった……」
「私は買い出し班……」
露伴が言う。
「不満か?」
「全くありません」
泉は即答した。
「むしろ山の中よりスーパーがいいです」
弥子は不満そうに手を挙げる。
「あたしも買い出し班じゃないの?」
ネウロが即座に言う。
「貴様が買い出し班に入ると、現地で消費が始まる」
「始まらない!」
アウクソーが静かに言った。
「弥子様には、ハイキング用のおやつをお渡しします」
「ただし、一回分です」
「一回分……」
「一回分です」
弥子は少しだけしょんぼりしたが、渡された小袋を見てすぐ元気になった。
「じゃあ行く!」
泉が小声で呟く。
「立ち直りが早い……」
ラクスは買い出しリストを見ながら言った。
「ビーフカレーの材料と、夕食後のお菓子の材料も少し買いましょうか」
キラが顔を向ける。
「ラクス、何か作るの?」
「ええ」
ラクスは微笑む。
「軽いシフォンケーキなど、いかがでしょう」
弥子が叫んだ。
「シフォンケーキ!!」
ソープが楽しそうに言う。
「へえ」
「それは楽しみだね」
露伴のペンが動く。
「フローズンヨーグルトに続き、歌姫のシフォンケーキ」
「巨頭会談第二ラウンドは菓子で行われる」
泉が頭を抱えた。
「普通におやつ作りでいいじゃないですか!!」
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買い出し班は、車で近くの小さなスーパーへ向かった。
六壁坂の山道を降りると、少しだけ空気が軽くなる。
泉は助手席で深く息を吐いた。
「ああ……」
「普通の道路って素晴らしい……」
キラが運転しながら苦笑する。
「分かります」
「なんか、舗装道路だけで安心しますね」
後部座席では、ラクスとアウクソーがリストを確認している。
「牛肉、玉ねぎ、人参、じゃがいも、カレールー」
ラクス。
「卵、小麦粉、砂糖、牛乳、油」
「シフォンケーキ用には、あとは果物も少しあるとよろしいですわね」
アウクソーが頷く。
「生クリームも補充いたします」
「また、乳酸菌飲料も追加しておきましょう」
キラは一瞬だけ黙った。
「また増えるんですね」
ラクスは微笑む。
「皆さまでいただくものですから」
泉が小声で言う。
「もう公式ドリンクですね……」
スーパーに着くと、そこは驚くほど普通だった。
店内BGM。
野菜売り場。
肉のパック。
お菓子棚。
冷蔵ケース。
泉は泣きそうな顔で言った。
「普通って、ありがたいですね……」
キラがカゴを持つ。
「まず肉ですね」
「人数を考えると、多めに」
アウクソーが冷静に言った。
「弥子様換算を含め、通常十人分では不足します」
「ビーフカレー用牛肉は、最低でも十五人分相当を推奨します」
泉が呟く。
「一ヤコ計算が実務に……」
ラクスは楽しそうに材料を選んでいる。
「シフォンケーキは軽めにしましょう」
「ソープ様のフローズンヨーグルトの後ですから、重くなりすぎない方がよろしいかと」
キラが少し笑った。
「ラクス、ちょっと楽しそうだね」
「ええ」
ラクス。
「とても素敵なデザートでしたもの」
「わたくしも、少しだけ頑張りたくなりました」
泉はそれを聞いて、小さく呟いた。
「やっぱり巨頭会談の続きなんですね……」
アウクソーが真顔で言う。
「食後菓子による文化交流かと」
「言い方!!」
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一方、ハイキング班は別荘の裏手から森へ入っていた。
先頭は露伴。
ただし承太郎がすぐ横につき、勝手に奥へ進みすぎないようにしている。
その後ろに、カイエンとソープ。
弥子はおやつ袋を抱え、ネウロは薄く笑いながら歩く。
道は、いかにも山道だった。
木の根。
湿った土。
苔。
ところどころに差し込む光。
しかし、普通のハイキング道とは少し違う。
道が、こちらを試しているように曲がる。
目印にした木が、振り返ると違って見える。
遠くに見えるはずの別荘が、すぐに森に隠れる。
弥子が少し不安そうに言った。
「……これ、帰れる道だよね?」
承太郎が短く答える。
「戻れる」
「その言い方、安心していいやつ?」
「俺が覚えてる」
「それは安心!」
露伴は地面を見ていた。
「足跡が残りにくい」
「土が柔らかいのに、記録を残したがらない」
ソープが周囲を見回す。
「この道、少し変だね」
露伴がすぐ反応する。
「分かるのか?」
「道というより」
ソープ。
「歩かせ方が変だ」
「こちらが選んで進んでいるようで、選ばされている感じがする」
ネウロが笑う。
「ククク……」
「人間どもを誘導する気配だな」
「だが、臆病だ」
「まだ手を出すほどの度胸はない」
カイエンがちらりとソープを見る。
「そりゃ、妙な灯台が歩いてるからな」
ソープは困ったように笑う。
「僕は何もしていないよ」
ネウロが言う。
「そこにいるだけで、怪異には十分な圧だろう」
弥子が首をかしげる。
「ソープさん、やっぱりそんなにすごいの?」
カイエンは即座に言った。
「深く聞くな」
露伴が即座に言った。
「そこを聞きたい」
承太郎が低く言う。
「今は道を見ろ」
露伴は少し不満そうにしながらも、前へ進んだ。
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しばらく歩くと、薄い霧が出てきた。
まだ昼過ぎだ。
山の中とはいえ、不自然に濃い。
霧は地面から立ち上るように、低く漂っている。
弥子はおやつ袋を握りしめた。
「うわ……」
「なんか出そう」
ネウロがにやりと笑う。
「出たがってはいる」
弥子が嫌な顔をする。
「出たがらないでほしい」
ソープは霧に手を伸ばした。
霧は指先に触れる直前、少しだけ逃げるように流れた。
ソープは目を細める。
「ただの霧じゃない」
「道を隠すというより、帰る意味を薄めている」
露伴が低く言う。
「帰る意味を薄める……いい表現だ」
カイエンは周囲を見ながら言った。
「昨日の死体、今朝の空腹」
「そして今度は道か」
「生活の次は移動に触る気かね」
承太郎が短く言う。
「まだ来てねぇ」
「分かるのかい?」
「気配が遠い」
ネウロは笑う。
「ククク……」
「覗き、啜り、誘う」
「六壁坂はなかなか慎重だ」
弥子が言う。
「慎重っていうか、しつこい」
「貴様にしては的確だ」
「褒めるなら普通に褒めて!」
その時、霧の向こうで、何かが動いたように見えた。
白い影。
人の形ではない。
獣でもない。
ただ、そこに何かがいると分かる程度の、薄い揺らぎ。
露伴が一歩出ようとする。
承太郎が腕で止めた。
「行くな」
「見えたんだぞ」
「だから行くな」
ソープも静かに言った。
「今日はまだ、向こうから来ない」
「こちらから追うと、道の方が閉じる」
カイエンは小さく息を吐く。
「ソープがそう言うなら、戻るか」
露伴は不満そうだった。
「ここで戻るのか」
承太郎が低く言う。
「戻る」
ネウロは肩をすくめる。
「今は食うほどの謎ではない」
「まだ熟していない」
弥子がほっとしたように言う。
「じゃあ戻ろ!」
「おやつもまだあるし!」
カイエンは笑った。
「それが一番まともな判断かもな」
露伴だけが霧の向こうを見ていた。
「六壁坂は、まだ奥がある」
ソープはその横で、少しだけ声を落とした。
「奥がある場所ほど、入口では軽く触るだけにしておいた方がいい」
露伴はソープを見た。
「君は、ずいぶん慣れている言い方をするな」
ソープは微笑む。
「整備士だからね」
カイエンが呟く。
「便利な逃げ口上だな」
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買い出し班は、大量の荷物を抱えて戻ってきた。
牛肉。
野菜。
カレールー。
卵。
小麦粉。
砂糖。
生クリーム。
果物。
飲料。
乳酸菌飲料。
そして、なぜか弥子用に追加のお菓子が少し。
泉が言った。
「少しです」
「本当に少しだけです」
アウクソーが頷く。
「管理可能な量です」
キラは袋を下ろしながら言う。
「ビーフカレーは、かなり多めに作れそうです」
ラクスが微笑む。
「シフォンケーキの材料も揃いました」
そこへ、ハイキング班も戻ってきた。
弥子が真っ先に買い出し袋を見る。
「肉!」
キラが苦笑する。
「ただいまより先に肉なんだ」
「だってビーフカレーでしょ!」
カイエンが買い出し袋を見て満足そうに言う。
「お、いい肉じゃないか」
「スポンサーの面目も立つな」
ソープがすぐ言う。
「僕は材料費を出しただけだよ」
露伴が戻りながら言った。
「午後の森では、霧が出た」
泉の顔色が変わる。
「やっぱり何かあったんじゃないですか!」
承太郎が答える。
「何もしてこなかった」
「それ、何かはいたってことですよね!?」
弥子が頷く。
「いた気がする」
「でも、出てこなかった」
ネウロが笑う。
「まだ怖がっているのだろう」
「昨日から痛い目を見ているからな」
ラクスは静かにソープを見る。
「無理に追わなかったのですね」
ソープは頷く。
「今はまだ、触れなくていい」
「向こうも、こちらを測っているだけだ」
泉は小さく呻いた。
「測らなくていいです……」
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夕方。
台所では、ビーフカレーの準備が始まった。
買ってきた牛肉が切られ、玉ねぎが炒められる。
人参、じゃがいも、香辛料。
鍋の中で、だんだんと夕食の匂いが立ち上っていく。
弥子は完全に機嫌が良かった。
「カレーの匂い!」
「これは勝ち!」
キラは鍋を見ながら言う。
「かなり量ありますね」
アウクソーが答える。
「一ヤコ換算を含めて調整しております」
弥子が反応する。
「だからその単位!」
カイエンは肉を見て言った。
「ビーフカレーとはいいね」
「昨日の保存食飯も悪くなかったが、やっぱり肉が入ると違う」
ソープは少し笑う。
「君、結局よく食べるね」
「食える時に食う」
カイエン。
「六壁坂では大事だろう」
承太郎が短く言う。
「それはそうだ」
露伴は台所の様子を見ながらメモしている。
「食事を奪う怪異を倒した日に、ビーフカレー」
「生活はより強く戻る」
泉が少し笑った。
「今日はそれ、ちょっと分かります」
ラクスはシフォンケーキの材料を台に並べている。
「夕食後に間に合うよう、こちらも準備いたしますね」
弥子が目を輝かせる。
「カレーのあとにシフォンケーキ!」
キラが微笑む。
「今日はかなり豪華だね」
ネウロが横から言う。
「人間どもめ」
「怪異に食を奪われた反動で、さらに食へ執着するか」
弥子が即座に返す。
「当然でしょ!」
「奪われたら取り返して、もっと美味しく食べるの!」
ソープが、それを聞いて少しだけ笑った。
「いい答えだね」
カイエンも頷く。
「まったくだ」
外では、森が少しずつ夕方の色に沈んでいく。
霧は、まだ遠くにあった。
今日はもう、食卓を邪魔させない。
少なくとも、彼らはそう決めていた。
ビーフカレーの匂いが、六壁坂の別荘に広がっていく。
それは、怪異の気配よりも強く、確かに人間たちの生活の匂いだった。