守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
玉ねぎを炒める甘い匂い。
牛肉の脂が鍋底で焼ける音。
人参、じゃがいも、ルーが溶けていく重い香り。
それは、昨夜の怪異の気配や、今朝のカロリー・イーターが残した嫌な空腹感を、力ずくで塗り替えるような匂いだった。
弥子はキッチンの入口で、ほとんど拝むように鍋を見ていた。
「ビーフカレー……」
「ちゃんとしたビーフカレー……!」
キラが鍋をかき混ぜながら苦笑する。
「弥子ちゃん、まだ完成してないよ」
「匂いでもう完成してる!」
アウクソーが隣で冷静に言った。
「完成までは、あと二十分ほど必要です」
「二十分……長い……」
ネウロが背後から笑う。
「ククク……」
「食への執着で時間感覚まで歪むか、騒音娘」
「うるさい! あんたは謎食べたでしょ!」
「吾輩の食事と貴様の食事は別だ」
「毎回それ言う!」
一方、カイエンは牛肉の量を見て満足そうに頷いていた。
「いい肉だな」
「スポンサーの面目は立ったんじゃないか?」
ソープは椅子に座りながら、やや呆れたように返す。
「僕は材料費を出しただけだよ」
「スポンサーと言われるほどのことはしてない」
露伴が即座にメモする。
「ビーフカレーの材料費を負担する謎の整備士」
「よい。非常に俗っぽくてよい」
ソープは苦笑した。
「僕、俗っぽいかな?」
カイエンが即答する。
「今さらだろう、ソープ」
泉が小声で言う。
「星団一とか言いかけてた人が言うと、情報量が怖いです……」
アウクソーがすっとカイエンを見る。
「マスター」
カイエンは目を逸らした。
「何も言ってない」
カレーの鍋が煮込まれている間、別の作業台ではラクスがシフォンケーキの準備をしていた。
卵を分ける。
卵白を泡立てる。
砂糖を少しずつ加える。
粉をふるう。
油と牛乳を合わせる。
動きは穏やかだが、迷いがない。
泉は感心して見ていた。
「ラクスさん、普通にお菓子作れるんですね……」
ラクスは微笑んだ。
「特別なものではありませんわ」
「皆さまで召し上がれる、軽いものがよろしいかと思いまして」
キラは少し嬉しそうだった。
「ラクスのシフォンケーキ、楽しみだな」
その一言に、弥子がすかさず反応する。
「キラくん、食べたことあるの!?」
「うん。前に少し」
「ずるい!」
ラクスはくすっと笑う。
「今日は皆さまの分もございますから」
ソープは作業の様子を興味深そうに見ていた。
「卵白で空気を抱かせるのか」
「なるほど。軽さの作り方が、僕のフローズンヨーグルトとは違うね」
ラクスは手を止めずに答える。
「ソープ様のデザートは、とても爽やかで素敵でした」
「ですから、夜は少し温かみのある甘さがよいかと」
露伴のペンが走る。
「来たな」
泉が即座に嫌な顔をする。
「先生、何が来たんですか」
「第二回二大巨頭会談だ」
泉は頭を抱えた。
「普通にお菓子作りでいいじゃないですか!!」
ソープは楽しそうに笑った。
「巨頭会談というほど大げさじゃないよ」
ラクスも微笑む。
「ええ。これはただの、お茶菓子ですわ」
カイエンが横から言う。
「そう言いながら、二人とも妙に負けず嫌いだな」
ソープとラクスが、同時に穏やかに笑った。
キラは小さく呟いた。
「……なんか、静かに怖い」
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やがて、カレーが完成した。
大鍋いっぱいのビーフカレー。
深い色のルー。
ごろごろした牛肉。
柔らかく煮えたじゃがいも。
甘くなった玉ねぎ。
弥子は両手を合わせる前から、すでに戦闘態勢だった。
「いただきます!!」
「まだ全員座ってない!」
泉のツッコミと同時に、全員が席につく。
ラクス、アウクソー、キラが盛りつけを手伝い、弥子の皿だけ明らかに大きい。
弥子はそれを見て、胸を張った。
「これは……一ヤコ仕様?」
アウクソーは淡々と答える。
「一・二ヤコです」
「単位が進化してる!!」
ネウロが笑う。
「ククク……」
「ようやく自覚が出たか」
「出てない!」
カイエンは一口食べて、目を細めた。
「うまいな」
「肉がちゃんと主役を張ってる」
ソープも続ける。
「スパイスと肉の重さがちょうどいい」
「昼のフローズンヨーグルトとは逆で、これはしっかり腹に落ちる料理だね」
キラはほっとしたように笑った。
「今回はちゃんと、食べた分だけ力になりますね」
承太郎も黙って食べていたが、露伴が見逃さない。
「承太郎、どうだ」
「普通にうまい」
露伴はすぐに書く。
「空条承太郎、本日二度目の最大級評価」
「書くな」
「もう書いた」
泉はカレーを食べながら、小さく息を吐いた。
「……美味しい」
「なんか、ほんとに安心します」
ラクスが微笑む。
「温かい食事は、気持ちも戻してくれますから」
弥子は勢いよく頷いた。
「そう! カレーは偉大!」
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カレーの大鍋は、ほぼ空になった。
主な原因は弥子である。
ただし、カイエンもかなり食べた。
承太郎も静かに食べた。
キラも安心したのか、前日よりしっかり食べた。
アウクソーは在庫表を確認しながら言った。
「想定内の消費量です」
弥子が驚く。
「想定内なの!?」
「はい」
「一ヤコ換算を導入しておりますので」
「やっぱり実用化してる!!」
その後、ラクスのシフォンケーキが運ばれてきた。
ふわりと焼き上がった、淡い色のケーキ。
切り分けると、中はきめ細かく、軽そうだった。
添えられたのは、少しの生クリームと果物。
弥子は目を輝かせる。
「おおお……!」
「ふわふわ!」
ラクスは少しだけ照れたように言う。
「お口に合えばよいのですが」
キラが一口食べた。
その瞬間、表情がほどける。
「……おいしい」
「すごく軽い。甘いけど、重くない」
ラクスは嬉しそうに微笑む。
「よかったですわ」
ソープも一口食べ、少し目を細めた。
「これはいいね」
「空気を食べさせるような菓子だ」
「でも、味はちゃんと残る」
ラクスは静かに返す。
「ソープ様のフローズンヨーグルトが、冷たさと酸味で軽さを出すなら」
「こちらは、焼き上げた空気で軽さを出すものですわ」
露伴のペンが止まらない。
「第二回二大巨頭会談、議題は“軽さの表現”」
泉が叫ぶ。
「だから普通にデザートの感想でいいんですって!!」
カイエンも食べる。
「うん、悪くない」
「カレーの後でも入るな」
弥子はすでに二切れ目を見ている。
アウクソーが静かに言う。
「弥子様、おかわりは一切れまでです」
「読まれてる!」
ネウロは、シフォンケーキを眺めていた。
弥子が言う。
「あんたも味見する?」
「人間の焼き菓子に興味はない」
「フローズンヨーグルトもそう言って食べたじゃん」
ソープが面白そうに見る。
ラクスも微笑んでいる。
ネウロは少しだけ沈黙したあと、ほんの一口食べた。
「……ふん」
「脆いな」
泉が困る。
「それ、褒めてます?」
ネウロは言った。
「だが、崩れ方は悪くない」
弥子が笑う。
「それ絶対気に入ってるやつ!」
「黙れ、騒音娘」
ラクスは穏やかに一礼した。
「ありがとうございます」
ネウロはそれ以上何も言わなかった。
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食後の食堂には、柔らかい空気が残っていた。
ビーフカレーの満腹感。
シフォンケーキの軽い甘さ。
乳酸菌飲料の瓶。
片づけられていく皿。
六壁坂の別荘とは思えないほど、そこには日常があった。
泉は椅子に座ったまま、ぽつりと言った。
「なんか……今日は勝った感じがしますね」
キラが頷く。
「はい」
「食べ物を奪われたあとに、ちゃんと食べて、デザートまで食べられたので」
ラクスが言う。
「それは、とても大切なことですわ」
ソープも静かに続けた。
「怪異に生活を壊されても、戻せる」
「それどころか、少し豪華にして返す」
「人間は、なかなか強いね」
弥子は満足げに言った。
「奪われたら、取り返して、もっと美味しく食べる!」
カイエンが笑う。
「名言だな」
承太郎は短く言った。
「悪くねぇ」
露伴は、珍しく少し静かにその場を見ていた。
そしてメモ帳に一行だけ書く。
六壁坂二日目夜。
食卓は怪異に勝った。
泉がそれを見て、少しだけ笑った。
「今日は、それでいいと思います」
ネウロは窓の外を見ながら、くつくつ笑った。
「ククク……」
「食卓では勝った、か」
「では、次はどこで負けるかな」
弥子が即座に叫ぶ。
「負けない!!」
キラが頭を抱える。
「ネウロ、食後にそういうこと言わないで……」
その時、ソープが軽く立ち上がった。
「さて」
「少し休んだら、風呂にしようか」
カイエンが即座にソープを見る。
「おまえは軽くにしておけよ」
ソープはきょとんとする。
「分かってるよ」
カイエンは疑わしそうだった。
「本当に分かってるか?」
「失礼だなあ」
アウクソーが静かに言った。
「ソープ様、水分補給を忘れずにお願いいたします」
「はいはい」
泉はそのやりとりを見て、少しだけ嫌な予感を覚えた。
「……なんで、お風呂の話になっただけで不穏なんですか?」
露伴はメモ帳を閉じた。
「それは、前フリだからだ」
「先生!!」
六壁坂の二日目夜。
ビーフカレーとシフォンケーキは、大成功だった。
食卓は怪異に勝った。
だが、夜はまだ終わっていない。