守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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ビーフカレーとシフォンケーキの余韻が、まだ別荘の中に残っていた。

食堂には、カレーの香り。
台所には、洗い終えた食器。
テーブルには、乳酸菌飲料の空き瓶が数本。

そして廊下には、これから風呂へ向かう女子組の足音が響いていた。

弥子は機嫌が良かった。

「カレー食べて、シフォンケーキ食べて、これから温泉!」
「勝ったね!」

泉はタオルを抱えながら苦笑する。

「何に勝ったのか分からないけど、今日は確かに勝った気がする……」

ラクスは穏やかに微笑む。

「食卓が守られた一日でしたもの」

アウクソーは、いつも通り冷静に言った。

「入浴後は水分補給をお願いいたします」
「特にソープ様は、昨日やや湯あたり気味でしたので」

泉が振り返る。

「ソープさん、また来るんですか?」

その声に答えるように、廊下の向こうから軽い足音がした。

「あら」
「呼んだ?」

湯気の前に現れたのは、ソープダッシュだった。

弥子が手を振る。

「ソープさん! また女子モード!」

ソープダッシュはにこりと笑う。

「今日は軽くね」
「昨日みたいに長くは入らないわ」

泉は疑いの目で見る。

「本当に軽くで済むんですか?」

「済ませるわよ」

アウクソーがすかさず言った。

「ソープ様、水分補給を忘れずにお願いいたします」

「はいはい」

ラクスは少し心配そうに微笑む。

「ご無理はなさらないでくださいませ」

ソープダッシュは肩をすくめた。

「大丈夫よ。今日は本当に、少しだけ」

泉は小声で呟いた。

「その“大丈夫”が一番信用できないんですよね……」


岸辺露伴は六壁坂へ誘う その14

二日目の内湯も、相変わらず湯気が濃かった。

 

石造りの浴槽。

曇った窓。

六壁坂の森を隠す白いガラス。

昨日と同じはずなのに、少しだけ空気が違う。

 

昨日は「見られている」感じがあった。

今日は、それよりも少し遠い。

 

警戒しているのはこちらだけではない。

六壁坂の何かも、こちらを測っている。

 

そんな気配だった。

 

弥子は湯に入って、すぐに声を上げた。

 

「あー……」

「カレーの後の温泉、最高……」

 

泉も肩まで湯に沈み、息を吐く。

 

「今日は……昨日より少し平和な気がする」

 

ソープダッシュが笑った。

 

「気がするだけでも大事よ」

 

「えっ、気がするだけなんですか?」

 

ラクスがやわらかく言う。

 

「今この時間が穏やかであるなら、それでよいのではありませんか」

 

アウクソーも頷く。

 

「現時点では、浴場内に危険な兆候はありません」

 

泉は半分安心し、半分不安になった。

 

「現時点では……」

 

弥子は湯の中で両手を伸ばした。

 

「でもさー、今日はごはん守れたし、デザートも美味しかったし、なんか六壁坂に勝ってる感じあるよね」

 

ソープダッシュは、その言葉に少しだけ目を細めた。

 

「勝っている、か」

「面白い言い方ね」

 

「違う?」

 

「いいえ」

ソープダッシュは湯気の向こうを見た。

「怪異に食卓を奪われて、それを取り返して、さらに美味しいものを食べた」

「それは、十分に勝ちと言っていいと思うわ」

 

ラクスは静かに頷いた。

 

「壊されたものを、元に戻すだけではなく、少し豊かにして返す」

「それも、日常を守るということなのでしょうね」

 

泉はその会話を聞きながら、ぽつりと言った。

 

「また巨頭会談っぽくなってきた……」

 

弥子が笑う。

 

「お風呂でも会談するんだ」

 

アウクソーが真顔で補足する。

 

「湯中会談、でしょうか」

 

泉が吹き出した。

 

「アウクソーさん!?」

 

ソープダッシュも笑った。

 

「それは少し面白いわね」

 

______________________________

 

弥子はラクスの方を向いた。

 

「ラクスさん、シフォンケーキめっちゃ美味しかった!」

「ふわふわだった!」

 

ラクスは嬉しそうに微笑む。

 

「ありがとうございます」

 

泉も頷いた。

 

「あれ、本当に軽かったです」

「カレーの後なのに食べられるの、すごいですね」

 

ソープダッシュが言った。

 

「ラクスさんらしいお菓子だったわ」

「押しつけず、でもちゃんと残る」

 

ラクスは少しだけ首を傾げる。

 

「そうでしょうか」

 

「ええ」

ソープダッシュ。

「あなたの声と似ている」

「柔らかく入ってきて、気づけば場の空気を変えている」

 

泉は湯の中で小さく縮こまった。

 

「やっぱりただのデザート感想じゃない……」

 

ラクスは穏やかに返した。

 

「ソープ様のフローズンヨーグルトも、素敵でしたわ」

「冷たさと酸味で、気持ちを切り替えてくれるようでした」

 

ソープダッシュは楽しそうに笑う。

 

「ありがとう」

「次は、あなたのケーキに合うものを考えようかな」

 

弥子が即反応する。

 

「次あるの!?」

 

アウクソーが静かに言った。

 

「材料と時間があれば可能かと」

 

泉が呟く。

 

「この別荘、怪異よりデザートの予定が増えてる……」

 

弥子は力強く言った。

 

「いいことじゃん!」

 

「まあ……それはそうかも」

 

______________________________

 

しばらくして、アウクソーがソープダッシュを見た。

 

「ソープ様」

 

「なあに?」

 

「そろそろお上がりになられた方がよろしいかと」

 

ソープダッシュは不満そうにする。

 

「まだそんなに入っていないわ」

 

「お顔が赤くなっております」

 

泉がぎょっとする。

 

「あ、本当だ」

 

弥子も覗き込む。

 

「昨日よりはマシだけど、ちょっと赤いかも」

 

ソープダッシュは軽く笑った。

 

「平気よ」

「昨日より短いし」

 

ラクスがやわらかく、しかしはっきり言った。

 

「ソープ様」

「ここで無理をされると、カイエンさんがまた心配なさいますわ」

 

その一言で、ソープダッシュは少し黙った。

 

そして、苦笑する。

 

「それは面倒ね」

 

泉が思わず言った。

 

「心配されるの、面倒なんですか?」

 

「カイエンはね」

ソープダッシュ。

「心配すると、言葉が雑になるの」

 

弥子が笑う。

 

「分かる!」

「“おいソープ!”って言いそう」

 

アウクソーは静かに言った。

 

「マスターは、ソープ様のことを案じておられます」

 

ソープダッシュは、少しだけ表情をやわらげた。

 

「分かってるわ」

 

その声は、さっきまでより少しだけ低かった。

 

泉は一瞬、違和感を覚えた。

 

ほんの一瞬だけ、ソープダッシュの輪郭が、湯気の中で揺れたように見えた。

 

女性の姿でありながら、どこか別のものが重なったような。

 

光ではない。

影でもない。

 

ただ、存在の格が一段深くなるような、奇妙な感覚。

 

泉は瞬きをした。

 

次の瞬間には、いつものソープダッシュだった。

 

「……今」

 

弥子が首を傾げる。

 

「泉さん?」

 

泉は口を閉じた。

 

見間違いかもしれない。

湯気のせいかもしれない。

六壁坂のせいかもしれない。

 

あるいは。

 

アウクソーだけが、少しだけソープダッシュに近づいた。

 

「ソープ様」

「お上がりください」

 

ソープダッシュは、今度は素直に頷いた。

 

「そうね」

「今日はここまでにするわ」

 

______________________________

 

 

脱衣所に戻ると、アウクソーはすぐに水分を用意した。

 

「こちらを」

 

ソープダッシュは受け取り、一口飲む。

 

「ありがとう」

「少し、効いたみたい」

 

泉が不安そうに聞く。

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫よ」

「ただ、六壁坂の湯は少し重いわね」

 

弥子がタオルで髪を拭きながら言った。

 

「湯が重いって、どういうこと?」

 

ソープダッシュは少し考える。

 

「お湯そのものじゃなくて、場所の記憶が湯気に混ざる感じ」

「閉じた場所だから、逃げにくいのかも」

 

泉が顔を引きつらせる。

 

「やっぱり怖い説明だった……」

 

ラクスは静かに言った。

 

「今夜は、早めにお休みになった方がよさそうですわ」

 

アウクソーも頷く。

 

「同感です」

 

ソープダッシュは少しだけ笑った。

 

「みんなに管理されてる気分ね」

 

弥子が明るく言う。

 

「昨日はアウクソーさんにカイエンさんが管理されてたし、今日はソープさんの番だね!」

 

ソープダッシュは楽しそうに笑った。

 

「それは嫌だなあ」

 

その時、脱衣所の外からカイエンの声がした。

 

「ソープ」

「大丈夫か?」

 

ソープダッシュは、扉越しに答える。

 

「大丈夫よ」

「軽く済ませたわ」

 

カイエンは少し間を置いた。

 

「その声で“大丈夫”って言われると信用できんな」

 

ソープダッシュはむっとした。

 

「失礼ね」

 

アウクソーが扉の方へ言う。

 

「マスター」

「ソープ様には水分補給をしていただいております」

「ただし、少しお休みになられた方がよろしいかと」

 

カイエンの声がすぐ返る。

 

「ほら見ろ」

 

ソープダッシュが小さく言う。

 

「うるさいなあ」

 

弥子がにやにやしている。

 

「仲いいねえ」

 

ソープダッシュは即答した。

 

「腐れ縁よ」

 

ラクスが微笑む。

 

「長いご縁なのですね」

 

「ええ」

ソープダッシュは少しだけ遠い目をした。

「長いわ」

 

その言い方が、また少しだけ普通ではなかった。

 

泉は、聞かなかったことにした。

 

今日は、聞かなかったことにする能力がだいぶ鍛えられている。

 

______________________________

 

女子組が脱衣所から出ると、廊下には男性陣が待っていた。

 

キラは心配そうに立っている。

承太郎は壁にもたれ、無言。

露伴はメモ帳を持っている。

ネウロは面白そうに笑っている。

カイエンは、ソープダッシュを見た瞬間に眉を寄せた。

 

「やっぱり少し赤いじゃないか」

 

ソープダッシュは肩をすくめる。

 

「軽く入っただけよ」

 

「その“軽く”の基準が信用ならん」

 

露伴がすぐに言う。

 

「カイエン」

「君はソープの状態変化に敏感だな」

 

カイエンは即答した。

 

「慣れだ」

 

露伴の目が光る。

 

「慣れが必要な状態変化なのか」

 

「風呂の話だ、漫画家先生」

 

「風呂で済む話ではないように見える」

 

カイエンは露伴を睨む。

 

「済ませろ」

 

ネウロがくつくつ笑う。

 

「ククク……」

「湯で輪郭が緩むとは、面白いものだな」

 

ソープダッシュはネウロを見る。

 

「見ていたの?」

 

「匂いだけで十分だ」

 

泉が即座に叫ぶ。

 

「それはそれで嫌です!!」

 

キラはソープダッシュに言った。

 

「本当に無理しないでくださいね」

「今日はもう休んだ方がいいと思います」

 

ソープダッシュは少し優しく笑った。

 

「ありがとう、キラくん」

「少し休むわ」

 

アウクソーがそっと付け加える。

 

「ソープ様、こちらへ」

 

ソープダッシュはアウクソーに促されて、廊下の奥へ歩き出した。

 

その背中を見送りながら、カイエンは小さく呟いた。

 

「……寝ぼけるなよ、本当に」

 

露伴が聞き逃さない。

 

「今、寝ぼけると言ったな」

 

カイエンは額に手を当てた。

 

「聞こえてない」

 

「聞こえた」

 

承太郎が短く言った。

 

「露伴」

 

露伴は一応黙った。

 

一応である。

 

カイエンは男性陣に向き直る。

 

「さっさと風呂に入るぞ」

「余計なことが起きる前に」

 

泉が小声で言った。

 

「その言い方、完全に余計なことが起きる前フリです……」

 

ネウロは楽しそうに笑っていた。

 

「ククク……」

「今夜は、湯気よりも面白いものが見られるかもしれんな」

 

キラは心底嫌そうな顔をした。

 

「見たくないです……」

 

六壁坂の二日目夜。

 

女子風呂は無事に終わった。

 

少なくとも、怪異は出なかった。

窓の外にも何も現れなかった。

湯は穏やかだった。

 

ただ、ソープダッシュがほんの少し湯あたりし、ほんの少し輪郭を揺らしただけ。

 

ほんの少し。

 

カイエンだけが、その“ほんの少し”をとても嫌そうに見ていた。

 

 

 

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