守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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男湯で起きた出来事のあと、六壁坂の別荘には、妙な静けさが戻っていた。

怪異が出たわけではない。
死体も増えなかった。
食材も奪われなかった。
霧も廊下へ入ってこなかった。

にもかかわらず、全員がどこか疲れていた。

理由は明白だった。

ソープ様が、うっかりした。

ただし、その一言で済ませるには、あまりにも情報量が多すぎた。


岸辺露伴は六壁坂へ誘う その16

男子部屋Aには、すでにソープが眠っていた。

 

男性モードに戻ったレディオス・ソープは、布団の中で穏やかに寝息を立てている。

 

あれほど浴場と廊下を混乱させた本人とは思えないほど、実に平和な寝顔だった。

 

キラは布団の上に座り、その寝顔を見ていた。

 

「……本当に寝てますね」

 

カイエンは、畳に座り込んで深いため息を吐いた。

 

「寝てるな」

 

「さっきのこと、覚えてるんでしょうか」

 

「たぶん覚えてない」

 

キラは少しだけ沈黙した。

 

「……それ、周りだけが覚えてるやつですね」

 

「そうだ」

 

「つらいですね」

 

「つらいぞ、坊や」

 

カイエンの声には、今日一番の実感がこもっていた。

 

キラは、少しだけ同情した。

 

さっきまで自分も相当混乱していたが、カイエンはその比ではない。

事情を知っていて、隠さなければならず、しかも当の本人は寝ている。

 

これは相当つらい。

 

カイエンは、ソープの布団を見ながらぼそりと言った。

 

「……人騒がせな奴だ」

 

その声は呆れているようで、少しだけ優しかった。

 

キラは小さく笑う。

 

「でも、心配してましたよね」

 

「してない」

 

「してました」

 

「坊や、今日はよく寝た方がいい」

 

「話題変えましたね」

 

カイエンは答えなかった。

 

______________________________

 

 

そこへ、静かに襖が開いた。

 

アウクソーだった。

 

「マスター」

 

カイエンが振り向く。

 

「どうした」

 

「ソープ様のご様子を確認に参りました」

 

アウクソーは音を立てずに部屋へ入り、ソープの寝息、顔色、体温、水分の摂取量を確認する。

 

その手際は医療担当のようでもあり、従者のようでもあり、家族のようでもあった。

 

キラは思わず言った。

 

「アウクソーさん、本当に大変ですね……」

 

アウクソーは静かに答える。

 

「必要なことです」

 

カイエンが少し気まずそうに言う。

 

「……いつも悪いな」

 

アウクソーは一瞬だけカイエンを見た。

 

「マスターも、本日はお疲れかと」

 

「そう見えるかい」

 

「はい」

 

「まあ、疲れたよ」

 

アウクソーは、カイエンの前に水を置いた。

 

「飲酒はお控えください」

 

カイエンは目を逸らした。

 

「……分かってる」

 

「スティルトンチーズも、今夜はお控えください」

 

「……それもか」

 

「はい」

 

キラが小さく笑った。

 

カイエンは少しだけ不満そうにする。

 

「坊や、笑うな」

 

「すみません」

 

アウクソーは最後に、部屋の入り口で一礼した。

 

「では、お休みください」

「明日はご帰宅の準備もございます」

 

カイエンは頷く。

 

「ああ」

 

アウクソーが部屋を出て行ったあと、しばらく沈黙があった。

 

キラは布団に入りながら言った。

 

「カイエンさん」

 

「何だい」

 

「今日は、何も見なかったことにします」

 

カイエンは、少しだけ笑った。

 

「賢いな、坊や」

 

「六壁坂で学びました」

 

「いい学びじゃないな」

 

「でも役に立ちます」

 

カイエンは灯りを落とした。

 

「寝ろ」

「明日は、何も起きずに帰れるといいな」

 

キラは、少し間を置いて答えた。

 

「そうですね」

 

ただし、全員が知っている。

 

六壁坂で「何も起きずに」は、だいたい願望でしかない。

 

______________________________

 

 

男子部屋Bでは、露伴がまだ起きていた。

 

スケッチブックを前に、ペンを持ったまま固まっている。

 

描きたい。

ものすごく描きたい。

 

だが、カイエンに「寝かせておけ」と言われた。

承太郎にも止められた。

アウクソーの視線も、妙に圧があった。

 

だから露伴は、描いていない。

 

描いてはいない。

 

ただ、メモ帳の端に、いくつかの単語だけが並んでいる。

 

湯あたり。

姿の出力。

神性の漏出。

ソープではないソープ。

シュペルター。

 

承太郎が、布団の中から低く言った。

 

「露伴」

 

露伴は手を止めた。

 

「何だ」

 

「寝ろ」

 

「まだ何も描いていない」

 

「単語を書いてるだろうが」

 

「これは記録ではなく、記憶の整理だ」

 

「同じだ」

 

ネウロが暗がりで笑う。

 

「ククク……」

「漫画家よ、今夜の謎は喰えぬぞ」

「喰おうとすれば、喉に詰まる」

 

露伴はネウロを見る。

 

「君は分かっているのか」

 

「何をだ」

 

「ソープが何者なのか」

 

ネウロは楽しそうに目を細めた。

 

「分かる必要があるのか?」

 

露伴は黙る。

 

ネウロは続けた。

 

「貴様は、見たものをすぐ言葉にしようとする」

「だが、今夜のあれは、言葉にした瞬間に安くなる類のものだ」

 

露伴の眉が動いた。

 

「君にしては、まともなことを言う」

 

「失礼な人間だ」

 

承太郎が短く言う。

 

「どっちも黙れ」

 

露伴は、しばらくメモ帳を見ていた。

 

そして、最後に一行だけ書いた。

 

今は描かない。

 

それから、ペンを置いた。

 

承太郎は目を閉じたまま言う。

 

「それでいい」

 

「君に許可された覚えはない」

 

「寝ろ」

 

露伴は渋々、布団に入った。

 

ネウロは窓の外を見ていた。

 

六壁坂の夜は、静かだった。

霧もない。

白い影もない。

 

ネウロは少し退屈そうに笑う。

 

「怪異すら、今夜は遠慮しているようだ」

 

承太郎が言う。

 

「賢いな」

 

露伴は布団の中で呟いた。

 

「それも記録しておきたい」

 

「寝ろ」

 

「分かったよ」

 

男子部屋Bも、ようやく静かになった。

 

______________________________

 

 

女子部屋では、泉が布団の上に正座していた。

 

弥子はお菓子を持っているが、アウクソーに見つかって一袋だけに制限されている。

ラクスは落ち着いた様子で髪をまとめ、アウクソーは戻ってきたばかりだった。

 

泉は、アウクソーを見るなり言った。

 

「ソープさん、大丈夫でした?」

 

「はい」

アウクソー。

「現在は安定しております」

 

弥子が首を傾げる。

 

「明日になったら、覚えてるのかな?」

 

アウクソーは少しだけ間を置いた。

 

「覚えておられない可能性がございます」

 

泉が頭を抱えた。

 

「本人だけ覚えてないやつ……!」

 

ラクスは静かに微笑んだ。

 

「それならば、無理に思い出していただく必要はないかもしれませんね」

 

泉は即座に頷いた。

 

「はい」

「私も見なかったことにします」

「全力でします」

 

弥子が言う。

 

「でも、すごかったよね」

 

泉が弥子を見る。

 

「弥子ちゃん」

 

「はい、見なかったことにします」

 

「よろしい」

 

アウクソーは、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「皆様、お騒がせいたしました」

 

泉は慌てて手を振る。

 

「いやいや! アウクソーさんが謝ることじゃないです!」

「むしろ一番大変でしたよね!?」

 

弥子も頷く。

 

「そうそう」

「アウクソーさん、今日ずっと働いてたもん」

 

ラクスも静かに言う。

 

「本当にお疲れ様でした」

 

アウクソーは、少しだけ目を伏せた。

 

「ありがとうございます」

 

その返事はいつも通り静かだったが、ほんの少しだけ柔らかかった。

 

弥子はお菓子を一つ差し出す。

 

「食べる?」

 

アウクソーは少し迷った。

 

「就寝前ですので、少量であれば」

 

泉が微笑む。

 

「アウクソーさんも、少しは休んでくださいね」

 

「はい」

 

女子部屋は、そこから少しだけ夜更かしをした。

 

話題は、今日のカレー。

ラクスのシフォンケーキ。

ソープのフローズンヨーグルト。

カロリー・イーターへの怒り。

そして、明日無事に帰れるかどうか。

 

弥子は布団に入りながら言った。

 

「明日は牧場行きたいなー」

 

泉が驚く。

 

「まだ食べる話!?」

 

「ソフトクリーム!」

 

ラクスは楽しそうに微笑む。

 

「それは素敵ですわね」

 

アウクソーはすぐに計算する。

 

「残金と移動時間の確認が必要です」

 

泉が小声で言う。

 

「もう明日の予算管理が始まった……」

 

弥子は眠そうに言う。

 

「大丈夫だよ」

「なんとかなるって」

 

泉は少し笑った。

 

「その“なんとかなる”が、一番怖いんだけどね」

 

やがて、女子部屋の灯りも落ちた。

 

______________________________

 

夜の廊下は、静かだった。

 

閉じられた部屋。

封鎖された納戸。

遠くのキッチン。

曇った窓。

 

六壁坂の「なにか」は、今夜もそこにいた。

 

だが、近づかない。

 

昨日は、覗いた。

今朝は、食を奪った。

午後には、霧で道を曖昧にした。

 

けれど今夜は、踏み込まない。

 

理由は、いくつかある。

 

謎を喰う魔人がいる。

殴れば届く男がいる。

斬れば道を断つ騎士がいる。

描こうとする漫画家がいる。

生活を戻す者たちがいる。

 

そして何より。

 

さきほど、湯気の中に現れたものを、六壁坂も見た。

 

それは人間ではなかった。

怪異でもなかった。

六壁坂の土地が触れていいものではなかった。

 

だから、今夜は退く。

 

霧は窓の外で薄く揺れたが、中には入らない。

 

まるで、明日の朝まで待つと決めたように。

 

______________________________

 

夜半。

 

キラは一度だけ目を覚ました。

 

部屋は静かだった。

 

ソープはすやすや眠っている。

本当に、何も知らないような顔で。

 

カイエンも眠っているように見えたが、キラが動いた瞬間、薄く目を開けた。

 

「……どうした、坊や」

 

「すみません」

「ちょっと目が覚めただけです」

 

「寝られる時に寝とけ」

 

「はい」

 

キラは少しだけ迷ってから、言った。

 

「カイエンさん」

 

「何だ」

 

「ソープさんのこと、ちゃんと守ってるんですね」

 

カイエンは、しばらく黙った。

 

それから小さく言う。

 

「守ってるつもりはない」

 

「でも、そう見えます」

 

「腐れ縁だよ」

 

「そうですか」

 

キラはそれ以上聞かなかった。

 

カイエンも、それ以上言わなかった。

 

ソープの寝息だけが、静かに続いている。

 

その平和な音を聞きながら、キラは再び目を閉じた。

 

六壁坂の夜は、まだ怖い。

 

でもこの部屋は、少しだけ安心できた。

 

______________________________

 

二日目の夜は、こうして終わった。

 

怪異は出なかった。

建物も壊れなかった。

食材も奪われなかった。

 

ただ、何人かは見なかったことにした。

何人かは忘れないことにした。

一人は、おそらく何も覚えていない。

 

六壁坂は静かに、夜を越した。

 

明日は三日目。

 

帰る日である。

 

帰れるならば、だが。

 

 

 

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