守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
六壁坂の別荘には、静かな光が差し込んでいた。
昨日までの重たい霧は、今のところ見えない。
窓の外の森も、朝の空気を吸って、少しだけ普通の山の景色に戻っている。
少なくとも、見た目だけなら。
食堂では、アウクソーがすでに朝食の支度を始めていた。
昨夜のビーフカレーの残り。
パン。
卵。
サラダ。
買い足した果物。
そして、人数分より少し多めの某乳酸菌飲料。
アウクソーは、食材リストを確認しながら静かに呟いた。
「本日の朝食は、残りカレーの活用が適切かと」
背後から弥子の声がした。
「朝カレー!?」
アウクソーは振り返らずに言う。
「はい」
「勝った!!」
「まだ勝敗は決しておりません」
「朝カレーがある時点で勝ちだよ!」
そこへ泉が眠そうな顔でやってきた。
「おはようございます……」
「朝から弥子ちゃんが強い……」
弥子は胸を張る。
「カレー食べて帰る日!」
「これはもう勝ちでしょ!」
泉は苦笑した。
「六壁坂に泊まって、朝にそう言えるの、やっぱりすごいよ……」
少し遅れて、カイエンが食堂に現れた。
顔は普通だ。
だが、どこか疲れている。
寝不足ではない。
むしろ、ちゃんと眠ったように見える。
それでも疲れている。
精神的に。
弥子がさっそく聞いた。
「カイエンさん、おはよー」
「変な夢見た?」
カイエンは椅子に座りながら、低く答えた。
「見てない」
「じゃあよかったじゃん」
カイエンは少し遠い目をした。
「夢ならよかった」
その一言で、近くにいたキラがそっと視線を逸らした。
泉も、何かを察して黙った。
弥子だけが首を傾げる。
「え? どういうこと?」
ネウロがどこからともなく現れる。
「ククク……」
「変な夢を見るチーズなど不要だったな」
「現実の方が、よほど悪夢だったということだ」
カイエンが即座に言う。
「黙れ」
露伴も食堂に入ってきながら言った。
「いい」
「非常にいい朝の一言だ」
「おまえも黙れ、漫画家先生」
承太郎はその後ろからやってきて、短く言った。
「朝飯前から騒ぐな」
カイエンは深く息を吐いた。
「まったくだ」
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そして、問題の本人がやってきた。
レディオス・ソープである。
男性モード。
顔色は良い。
足取りも軽い。
昨日の夜、脱衣所と浴場に混乱を撒き散らした人物とは思えないほど、爽やかな顔である。
「おはよう」
その声は、あまりにも平和だった。
キラが一瞬だけ固まる。
泉も目を逸らす。
弥子は口を開きかけて、泉に袖を引かれて閉じた。
アウクソーは、いつも通り静かに一礼する。
「おはようございます、ソープ様」
「お加減はいかがでしょうか」
ソープはにこりと笑った。
「うん」
「なんだか、ぐっすり眠れた気がするよ」
カイエンの眉間が、ぴくりと動いた。
キラは小さく咳払いした。
泉は全力で湯呑みを見るふりをした。
露伴はペンを構えかけた。
承太郎が低く言った。
「露伴」
露伴は一応ペンを下ろした。
カイエンは、ソープをじっと見た。
「ソープ」
「何?」
「昨日の風呂のこと、覚えてるか?」
ソープは首を傾げた。
「?」
カイエンは目を閉じた。
「……だろうな……」
「何かあった?」
「あった」
「僕、何かした?」
「した」
「何を?」
「聞くな」
ソープはますます不思議そうな顔をした。
「気になるじゃないか」
「気にするな。オレが疲れる」
ソープは少し困ったように笑った。
「迷惑をかけたなら、ごめんね」
カイエンは、その一言に一瞬だけ詰まった。
「……次から風呂は短くしろ」
「分かった」
「本当に分かれよ」
「分かってるよ」
カイエンは、深く息を吐いた。
「その返事が一番信用できない」
アウクソーは静かに補足した。
「ソープ様、昨夜はややお疲れでございました」
「本日は入浴時間と水分補給にご注意ください」
「そんなに?」
「はい」
ソープは素直に頷いた。
「分かった。気をつけるよ」
カイエンはぼそりと言った。
「朝から剣技デコピンを入れたい気分だ……」
ソープがぎょっとする。
「何それ怖い」
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朝食は、三日目にしてかなり豪華だった。
残りのビーフカレーを使った朝カレー。
パン派用のトースト。
卵料理。
サラダ。
果物。
スープ。
乳酸菌飲料。
弥子は当然、朝カレーを選んだ。
しかも大盛りである。
アウクソーが皿を置きながら言う。
「弥子様用、一ヤコ朝食です」
弥子が抗議する。
「朝からその単位!?」
ネウロが楽しそうに笑う。
「定着したな」
「してない!」
カイエンも朝カレーを見て言った。
「悪くないな」
「昨日のカレーは朝でもいける」
キラも一口食べて、ほっとしたように言う。
「ちゃんと力になりますね」
弥子が強く頷く。
「大事!」
「食べ物はちゃんと力にならないと!」
ラクスは微笑む。
「昨日のことがありましたものね」
泉がカレーを食べながら言った。
「なんか、普通に朝ごはんを食べられるだけで、ありがたく感じますね……」
露伴はそれを聞いて、静かに言う。
「六壁坂で得られた最大のリアリティだな」
「普通の朝食は、普通ではない」
泉は少しだけ考えた。
「……今日は、それ、ちょっと分かります」
承太郎は黙って食べていたが、皿の減りは早かった。
露伴が言う。
「承太郎、朝カレーはどうだ」
「普通にうまい」
「三日目朝、空条承太郎、安定の最大級評価」
「書くな」
「もう書いた」
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食事中、露伴は何度もソープの方を見ていた。
聞きたい。
昨夜のことを。
ソープの姿のことを。
“神性の漏出”という単語が、正しいのかどうかを。
そしてついでに、シュペルターのことも。
だが、カイエンがそれを察している。
露伴が口を開きかけるたびに、カイエンが視線を向ける。
承太郎も、低く「露伴」と言う。
アウクソーも、静かに一礼する。
それらが積み重なって、露伴は珍しく我慢していた。
泉はそれを見て、小声で言う。
「先生が我慢してる……」
弥子も小声で返す。
「すごいね」
ネウロが笑った。
「ククク……」
「漫画家にとって、描けぬ情報ほど毒になる」
露伴は不機嫌そうに言う。
「描かないとは言っていない」
「今は描かないだけだ」
カイエンは即座に返す。
「一生寝かせておけ」
「それは無理だ」
「無理でも努力しろ」
ソープは不思議そうに二人を見ている。
「何の話?」
カイエンは即答した。
「何でもない」
露伴も、少し間を置いて言った。
「今は、何でもない」
ソープは首を傾げたまま、朝カレーを食べた。
「変なの」
カイエンは額を押さえた。
「変なのはおまえだ……」
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朝食後、いよいよ帰り支度が始まった。
三日間過ごした別荘には、生活の痕跡があちこちに残っている。
食器。
寝具。
タオル。
持ち込んだ食材の残り。
空になった乳酸菌飲料の瓶。
弥子のお菓子袋。
封鎖された納戸。
アウクソーは、淡々と片づけの指示を出していた。
「ゴミは分別」
「使用済みタオルはこちらへ」
「保存食の残りは持ち帰り」
「冷蔵品は保冷バッグへ」
「弥子様、お菓子の袋はお持ち帰りください」
弥子が慌てて袋を集める。
「はい!」
泉はその様子を見てしみじみ言った。
「アウクソーさんがいなかったら、この合宿成立してませんよね……」
キラも頷く。
「本当にそう思います」
ラクスも優しく言った。
「アウクソーさん、本当にお疲れ様です」
アウクソーは少しだけ目を伏せる。
「皆様が無事に過ごされたのであれば、何よりです」
カイエンはそっと目を逸らした。
「……いつも悪いな」
アウクソーは、静かにカイエンを見た。
「マスター」
「何だい」
「シュペルターのキイはお持ちですか」
カイエンは一瞬、固まった。
「……持ってる」
露伴が即座に反応した。
「シュペルター」
カイエンはしまった、という顔をした。
アウクソーも、ほんの一瞬だけ「あ」と思ったようだった。
露伴の目が輝く。
「昨日もその名前が出たな」
「そのキイで起動するものなのか?」
「機体か?」
「君の乗機か?」
「もっと詳しく訊かせてくれ」
カイエンは即答した。
「教えん」
ソープも穏やかに言った。
「企業秘密だね」
露伴は二人を見比べる。
「君たち、今の沈黙でほぼ答えているぞ」
「答えてない」
「何も言ってないよ」
「ならヘブンズ・ドアーで――」
承太郎が低く言う。
「やめとけ」
アウクソーも静かに言った。
「お控えください」
ネウロが笑う。
「ククク……」
「その扉を開けるには、少々鍵が違うようだな」
露伴は不満そうにした。
泉は頭を抱える。
「先生! 帰り支度中です!」
「牧場に行くかどうかの話もまだです!」
弥子がぱっと顔を上げる。
「牧場!」
ソープも少し笑った。
「ソフトクリームの話だったね」
弥子は元気よく手を挙げる。
「行きたい!!」
キラは会計メモを見て、少し不安そうに言った。
「予算、確認してからですね……」
ネウロが楽しそうに笑った。
「ククク……」
「最後の怪異は会計か」
泉が真顔で言った。
「それが一番怖いです」
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出発の準備がほぼ整った頃、露伴は一人、窓の外を見ていた。
六壁坂の森は静かだった。
昨日、霧が出た場所。
道の意味を薄めた場所。
こちらを覗いていた何か。
今朝は、それが遠い。
消えたわけではない。
ただ、距離を取っている。
ソープが露伴の横に来た。
「見ているの?」
露伴は答える。
「見られていた場所を見ている」
「なるほど」
「君は、覚えていないのか」
露伴は静かに言った。
「昨夜のことを」
カイエンが遠くで反応しかけたが、承太郎が視線だけで止めた。
ソープは少し考えた。
「断片的には」
「でも、はっきりしない」
「湯気の中にいたような気がする」
露伴は目を細める。
「そうか」
ソープは窓の外を見た。
「六壁坂は、今朝は静かだね」
「なぜだと思う?」
ソープは微笑んだ。
「さあ」
「昨日、少し驚いたのかもしれないね」
露伴は、その横顔を見る。
やはり、この人物は描ききれない。
描ききれないからこそ、描きたい。
露伴がそう思った時、カイエンが後ろから声をかけた。
「ソープ」
「こっちを手伝え」
ソープは振り返る。
「はいはい」
露伴はその背中を見送った。
そして、小さくメモした。
六壁坂は静かだった。
理由は、おそらく彼だ。
泉がそれを覗き込んで、言った。
「先生」
「それ、今は描かないんですよね?」
露伴は少しだけ笑った。
「今は、ね」
泉は深くため息をついた。
「帰るまで我慢してください」
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荷物はまとまった。
食材の残りも整理された。
ゴミも片づけた。
戸締まりも確認した。
封鎖していた納戸は、最後に露伴と承太郎とアウクソーで確認し、異常なしと判断された。
弥子は玄関で靴を履きながら言う。
「なんだかんだ、すごい合宿だったね」
キラが苦笑する。
「すごかったね……」
泉は力なく言う。
「私はしばらく六壁坂という言葉を聞きたくないです」
ネウロが笑う。
「ククク……」
「だが、六壁坂は貴様らを覚えたぞ」
泉が青ざめる。
「やめてください!!」
ラクスは穏やかに言った。
「無事に帰るまでが旅ですわ」
承太郎が短く頷く。
「そうだな」
カイエンは玄関の外を見た。
「霧が出なきゃいいがな」
ソープは静かに言った。
「出るかもしれないよ」
全員の視線がソープに向いた。
ソープはにこりと笑う。
「でも、帰るよ」
その声は穏やかだった。
だが、どこか強い。
カイエンは小さく言った。
「……頼むから、今日は寝ぼけるなよ」
ソープはきょとんとする。
「まだ言うの?」
「言うよ」
アウクソーが静かに補足した。
「ソープ様、本日は無理をなさらないでください」
「はいはい」
弥子が元気よく言う。
「じゃあ、帰りに牧場!」
キラが会計メモを見ながら言った。
「行けるかどうかは、予算次第で……」
ネウロが不穏に笑う。
「最後の謎だな」
泉が即座に言った。
「会計を謎にしないでください!」
露伴は玄関を出る前に、最後に別荘を振り返った。
六壁坂の別荘は、静かにそこにある。
何かを隠し、何かを見送り、また次の誰かを待つように。
露伴は呟いた。
「いい取材だった」
泉が即座に言う。
「私は大変でした」
「それも含めてだ」
「含めないでください!」
こうして、三日目の朝が終わった。
六壁坂は、まだ彼らを完全には帰していない。
だが少なくとも、朝食は無事に終わった。
そして、彼らはようやく帰路につく。
帰れるならば。