守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎   作:ギアっちょ

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朝食を終え、荷物をまとめ、戸締まりを確認した。

三日間を過ごした六壁坂の別荘は、出発前と同じように静かだった。
だが、まったく同じではない。

キッチン奥の納戸。
昨夜まで湯気をこもらせていた内湯。
カロリー・イーターが潜んでいた食堂。
女子たちが夜更かしをした部屋。
男たちが「見なかったこと」にした男湯。

すべてが、何事もなかったようにそこにある。

泉京香は玄関で靴を履きながら、深く息を吐いた。

「……終わったんですよね?」

岸辺露伴は、別荘の廊下を一度振り返る。

「終わったかどうかは分からない」

「先生、こういう時くらい終わったって言ってください」

「なら、滞在は終わった」

「言い方!」

弥子は大きなバッグを背負い直した。

「まあまあ! とりあえず帰れるなら勝ちでしょ!」
「それに、帰りに牧場!」

キラが会計メモを見ながら言う。

「牧場は、予算を見てからね」

ネウロが笑った。

「ククク……最後の怪異は会計か」

泉が即座に振り向く。

「会計を怪異にしないでください!」

カイエンは玄関の外を見た。

空は明るい。
朝の森も静かだ。

だが、彼は少しだけ眉を寄せた。

「……静かすぎるな」

承太郎も外へ出て、道の先を見た。

「まだ終わってねぇか」

露伴の目が輝く。

「いい」

泉が泣きそうな顔になる。

「よくないです!」

ソープは、そんな一同の後ろからゆっくり外へ出た。

昨日の夜のことなど、ほとんど覚えていないらしい顔で、平然としている。

カイエンはそれを見るたびに、少しだけ頭が痛くなった。

「ソープ」

「何?」

「今日は、余計なことをするなよ」

ソープは首を傾げる。

「余計なことって?」

カイエンは目を閉じた。

「……いい。もういい」

アウクソーが静かに言った。

「ソープ様、足元にお気をつけください」

「ありがとう」

カイエンは小声で呟く。

「足元より、存在そのものに気をつけてほしいんだがな……」

キラは聞かなかったことにした。


岸辺露伴は六壁坂へ誘う その18

全員が荷物を車に積み込み、出発しようとした時だった。

 

森の奥から、白いものが流れてきた。

 

最初は薄い。

朝もやのように見えた。

 

だが、数秒のうちに、それは濃くなった。

 

道が白く沈む。

木々の輪郭が消える。

車の先が見えなくなる。

 

泉が固まった。

 

「……霧?」

 

弥子が一歩下がる。

 

「うわ、濃っ」

 

キラは車のライトをつける。

だが光は、霧の中でぼやけて消えた。

 

「見えませんね……」

 

承太郎が低く言う。

 

「ただの霧じゃねぇな」

 

ネウロは口元を歪めた。

 

「ククク……」

「ようやく見送りに来たか」

 

露伴は、霧の方へ歩き出そうとする。

 

承太郎が腕で止めた。

 

「行くな」

 

「まだ何もしていない」

 

「する顔だ」

 

「よく分かっているじゃないか」

 

泉が叫ぶ。

 

「先生! 最後の最後に突っ込まないでください!」

 

カイエンは霧を見ながら言った。

 

「昨日の森のやつか」

 

ソープが静かに頷く。

 

「似ているね」

「道を隠しているんじゃない」

「帰るという意味を、薄めている」

 

弥子が嫌そうに言う。

 

「帰る意味を薄めるって、何それ」

 

ネウロが答える。

 

「帰ろうと思っても、帰る先が曖昧になる」

「進んでも戻る。戻っても進む」

「やがて、ここにいることだけが正しくなる」

 

泉の顔が青くなる。

 

「やめてください!!」

 

ラクスは静かに霧を見つめていた。

 

「引き止めているのですね」

 

アウクソーが言う。

 

「現状での進行は危険です」

 

キラはハンドルから手を離した。

 

「無理に進まない方がいいですね」

 

露伴はそれでも、霧を見ている。

 

「いいな」

「最後に、土地そのものが意思を見せた」

 

泉が即座に言う。

 

「先生、取材モードやめてください!」

「帰りたいんです!」

 

弥子も強く頷く。

 

「そうだよ! 牧場が待ってるんだから!」

 

カイエンが苦笑する。

 

「理由はともかく、帰るってのは正しいな」

 

承太郎は拳を握りかけた。

 

「殴れるなら殴るが」

 

ネウロが笑った。

 

「無駄だろうな」

「これは胃袋でも死体でもない」

「道の意味に染み込む霧だ」

 

カイエンも軽く肩を鳴らす。

 

「斬っても、道ごと曖昧になりそうだな」

 

露伴は呟く。

 

「なら、どうする」

 

その問いに、ソープが一歩前へ出た。

 

______________________________

 

 

ソープは、霧の前に立った。

 

構えない。

手を上げない。

何かを唱えるわけでもない。

 

ただ、そこに立つ。

 

いつもの男性モードのレディオス・ソープ。

柔らかく、穏やかで、どこかつかみどころがない。

 

だが、カイエンだけはすぐに気づいた。

 

「……ソープ」

 

ソープは振り返らない。

 

霧の向こうへ、静かに言う。

 

「僕たちはもう帰るよ」

 

声は大きくない。

 

なのに、霧の奥まで届いたように感じた。

 

風が止まる。

 

鳥の声も止まる。

 

六壁坂の森そのものが、耳を澄ませたようだった。

 

ソープは、少しだけ間を置いた。

 

「あとは――」

 

その声が、ほんの少しだけ低くなる。

 

「わ か る …ね。」

 

霧が、止まった。

 

弥子が息を呑む。

 

キラは目を見開く。

 

泉は声も出ない。

 

霧は、風に吹かれたわけではない。

逃げたわけでもない。

ただ、理解したように動きを変えた。

 

道の真ん中に、細い線が生まれる。

白い壁のようだった霧が左右へ退く。

 

車一台分の道が、まっすぐに現れた。

 

承太郎が短く言う。

 

「……開いたな」

 

ネウロは愉快そうに笑った。

 

「ククク……」

「命令ですらない」

「ただの確認で、怪異が退くか」

 

カイエンはため息をついた。

 

「だから言ったろ」

「妙な灯台だって」

 

ソープは振り返り、何でもないように言った。

 

「何もしてないよ」

 

カイエンが即座に返す。

 

「してるんだよ、そういう時は」

 

露伴は、ソープを凝視していた。

 

「今、誰に言った」

 

ソープは微笑む。

 

「さあ?」

 

「さあ、ではない」

露伴の声が少しだけ熱を帯びる。

「六壁坂の何かに言ったのか?」

「土地に対してか?」

「怪異に対してか?」

「それとも、もっと上位の――」

 

承太郎が低く言った。

 

「露伴」

 

泉も必死に言う。

 

「先生、今は帰りましょう!」

「道が開いたんですから!」

 

ラクスが静かに続ける。

 

「ここで深追いしない方がよろしいかと」

 

アウクソーも一礼する。

 

「同意いたします」

 

露伴は霧の向こうを見た。

 

行きたい。

見たい。

知りたい。

 

だが、彼も分かっている。

 

これは、今開ける扉ではない。

 

「……分かった」

 

泉が目を丸くする。

 

「先生がまた引いた……!」

 

露伴は言う。

 

「引いたんじゃない」

「寝かせるんだ」

 

カイエンがぼそりと呟く。

 

「便利な言葉を覚えたな」

 

______________________________

 

一行は車に乗り込んだ。

 

キラが運転席に座り、慎重にエンジンをかける。

道は、霧の中に一本だけ通っている。

 

まるで、そこだけ許可された通路のように。

 

泉は助手席で両手を握りしめている。

 

「本当に通っていいんですよね?」

 

キラは苦笑した。

 

「ソープさんが開けてくれた道ですから……たぶん」

 

「たぶん……」

 

弥子は後部座席で言った。

 

「でもさ、今のソープさん、かっこよかったね」

 

ネウロが笑う。

 

「貴様にしては素直な感想だ」

 

「うるさいな」

 

別の車では、カイエンがソープを横目で見ていた。

 

「覚えてるか?」

 

ソープは首を傾げる。

 

「今のは覚えてるよ」

 

「昨夜は?」

 

「?」

 

「……だろうな」

 

「何でまた疲れてるの?」

 

「おまえのせいだ」

 

ソープは困ったように笑った。

 

「理不尽だなあ」

 

アウクソーが静かに言う。

 

「ソープ様、本日は大きなご負担はお控えください」

 

「今のも負担に入る?」

 

「念のため」

 

「はいはい」

 

カイエンは窓の外を見ながら呟いた。

 

「本当に人騒がせな灯台だよ」

 

______________________________

 

車がゆっくり進む。

 

霧は、道の左右に留まったままだ。

近づかない。

入ってこない。

 

だが、見ている。

 

六壁坂は彼らを見ている。

 

露伴は車窓から霧を見つめていた。

 

「六壁坂は、帰したんじゃない」

 

承太郎が聞く。

 

「何だ」

 

「通したんだ」

露伴。

「拒めない相手がいたから、通した」

 

ネウロが笑う。

 

「ククク……」

「土地の怪異も、触れてよいものと悪いものくらいは分かるらしい」

 

承太郎は帽子のつばを押さえた。

 

「賢いな」

 

露伴はメモ帳を開き、一行だけ書いた。

 

六壁坂は、道を開けた。

 

そして少し考え、もう一行。

 

敗北ではない。理解だった。

 

承太郎はそれを見て、何も言わなかった。

 

______________________________

 

 

数分後。

 

突然、視界が開けた。

 

霧が消えた。

 

山道の先には、普通の朝の光があった。

木々の葉が揺れ、遠くに民家の屋根が見える。

 

泉が思わず声を上げる。

 

「抜けた……!」

 

キラも大きく息を吐いた。

 

「よかった……」

 

弥子はすぐに明るい声を出す。

 

「じゃあ牧場行けるね!」

 

泉が笑ってしまう。

 

「切り替え早いなあ……」

 

「だって、帰れたし!」

弥子は胸を張る。

「帰れたなら、次はソフトクリーム!」

 

ラクスが微笑む。

 

「良い締めになりそうですわね」

 

キラは会計メモを見る。

 

「予算が良い締めになればいいんですけど……」

 

ネウロがすかさず言う。

 

「ククク……」

「やはり最後の怪異は会計か」

 

泉が即座に言う。

 

「だから会計を怪異にしないでください!」

 

カイエンは別の車から通信越しに言った。

 

「ソフトクリームくらいなら、まあ何とかなるだろう」

 

キラが少し不安そうに返す。

 

「その“何とかなる”が怖いんです」

 

ソープの声が続く。

 

「足りなければ、僕が出してもいいよ」

「地球文化の追加調査ということで」

 

カイエンがすぐに言う。

 

「ほらスポンサー」

 

「個人負担だよ」

 

露伴が反応する。

 

「領収書は?」

 

カイエン、ソープ、キラがほぼ同時に言った。

 

「切らない」

 

泉が小さく笑った。

 

六壁坂を抜けた。

霧も越えた。

全員、無事だ。

 

怪異はあった。

恐怖もあった。

混乱もあった。

見なかったことにしたものもあった。

 

だが、誰も欠けていない。

 

別荘も壊れていない。

修繕費も発生していない。

 

これは、かなり良い結果だった。

 

ただし、まだ会計は終わっていない。

 

______________________________

 

車は、山道を下っていく。

 

背後には、もう六壁坂の霧は見えない。

 

けれど、露伴は一度だけ振り返った。

 

見えないはずの別荘。

見えないはずの森。

見えないはずの霧。

 

それでも、あの土地はそこにある。

 

露伴は呟いた。

 

「また来るかもしれないな」

 

泉が青ざめる。

 

「先生!?」

 

承太郎が低く言う。

 

「やめとけ」

 

ネウロは笑う。

 

「ククク……」

「六壁坂も、次はもっと深く口を開けて待つかもしれんぞ」

 

弥子が叫ぶ。

 

「待たなくていい!」

 

キラが疲れた声で言う。

 

「できれば普通の旅行にしましょう……」

 

ソープは窓の外を見ながら言った。

 

「普通の旅行か」

「それも、なかなか難しいね」

 

カイエンが即座に返す。

 

「おまえが言うな」

 

ラクスは微笑む。

 

「でも、まずは牧場ですわね」

 

弥子が拳を上げる。

 

「ソフトクリーム!」

 

その声で、車内の空気が一気に日常へ戻った。

 

六壁坂の霧は、もう遠い。

 

次に待つのは、しぼりたての牛乳で作ったソフトクリーム。

 

そして、たぶん。

 

会計という名の、最後の怪異である。

 

 

 

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