守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
舗装された道路。
遠くに見える民家。
青空。
山の影。
車の窓から差し込む陽射し。
さっきまで、帰るという意味そのものを曖昧にする霧に囲まれていたとは思えない。
泉京香は助手席で深く息を吐いた。
「……普通の道路って、本当にありがたいですね」
キラは運転しながら苦笑する。
「分かります」
後部座席の弥子は、すでに完全に次の目的地へ意識が向いていた。
「牧場! ソフトクリーム! しぼりたて牛乳!」
ネウロが隣で笑う。
「ククク……」
「怪異の霧を抜けた直後に乳製品へ突進するとは」
「貴様の脳は実に単純だな、騒音娘」
弥子は胸を張った。
「単純じゃない! 前向きなの!」
ラクスが微笑む。
「ええ。とてもよいことだと思いますわ」
別の車では、カイエンが窓の外を見ながらぼそりと言った。
「本当に牧場へ行くのか」
ソープが楽しそうに答える。
「行くんだろう?」
「地球文化の追加調査だよ」
カイエンは横目で見る。
「便利な言い方だな」
「君の“整備士だからね”よりは便利じゃないよ」
「それは君の台詞だろうが」
アウクソーは後部座席で静かに言った。
「到着後、集合時間を決めた方がよろしいかと」
「また、会計管理も必要です」
カイエンは少し嫌な顔をした。
「最後に出たな」
「会計という怪異が」
ソープは笑った。
「怪異じゃないよ」
カイエンは言った。
「弥子がいる時点で、十分怪異だ」
牧場は、六壁坂から車でしばらく走ったところにあった。
山に囲まれた、広々とした場所。
牛舎。
小さな売店。
遠くに草を食む牛。
木製のベンチ。
そして、売店の看板にはこう書かれている。
しぼりたて牛乳ソフトクリーム
弥子が車から降りた瞬間、両手を上げた。
「勝った!!」
泉が笑う。
「今日はそれ何回目?」
「何回でも勝てる時は勝つ!」
キラは会計メモを見ながら、少し慎重な顔をしている。
「えっと、残金がこれくらいで……」
「全員一つずつなら、まあ大丈夫そうです」
弥子がすぐに反応した。
「一つずつ!?」
キラは目を逸らした。
「基本は、一つずつ」
「基本は!」
アウクソーが静かに言った。
「弥子様、追加注文は会計確認後です」
「読まれてる!」
ソープは売店の方を眺めていた。
「なるほど」
「牛乳そのものを前に出す冷菓か」
「フローズンヨーグルトとは、また違うね」
ラクスが微笑む。
「楽しみですわ」
承太郎は牧場の景色を見て、短く言った。
「……悪くねぇな」
露伴はすかさずメモする。
「空条承太郎、牧場にも最大級評価」
「書くな」
「もう書いた」
泉は少しだけ笑った。
六壁坂を抜けたあとだからか、承太郎の「悪くねぇ」がやたらありがたく聞こえる。
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売店で注文したソフトクリームは、白く、なめらかで、少しだけ重みのある巻きだった。
弥子は受け取った瞬間、目を輝かせる。
「おおお……!」
「これ絶対うまいやつ!」
キラが苦笑する。
「溶ける前に食べよう」
全員がそれぞれソフトクリームを受け取る。
ソープはじっと見つめてから、一口。
少し驚いたように目を細めた。
「……なるほど」
「これは、乳そのものの力が前に出るんだね」
「酸味や軽さで切るんじゃなくて、甘さと脂肪の丸さで押してくる」
カイエンが横から食べながら言う。
「うまい、でいいだろ」
「うん。うまい」
弥子はすでに感動していた。
「牛乳が本気出してる味!!」
泉が笑う。
「すごい感想だけど、分かる」
ラクスも一口食べて、穏やかに頷く。
「とても優しい味ですわね」
キラも少し笑った。
「六壁坂のあとにこれは……かなり癒やされますね」
承太郎は黙って食べていた。
露伴が尋ねる。
「承太郎、どうだ」
「普通にうまい」
露伴は満足げにメモした。
「空条承太郎、ソフトクリームにも最大級評価」
「だから書くな」
ネウロはソフトクリームを見下ろしていた。
弥子が言う。
「食べないの?」
「人間の乳脂肪に興味はない」
「フローズンヨーグルトもシフォンケーキも味見したじゃん」
ソープが面白そうに見る。
ラクスも微笑む。
ネウロはわずかに沈黙し、ほんの少しだけ舐めた。
「……ふん」
「悪くない」
弥子が勝ち誇った。
「気に入った!」
「黙れ、騒音娘」
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問題は、そのあとだった。
ソフトクリームを食べ終えた弥子が、売店のメニューを見つめて言った。
「牛乳も飲みたい」
泉が言う。
「まあ、せっかくだしね」
「あと、チーズケーキもある」
キラが会計メモを見る。
「弥子ちゃん」
「あと、ヨーグルトもある」
アウクソーが静かに言う。
「弥子様」
「あと、持ち帰り用プリンも――」
ネウロが笑う。
「ククク……」
「会計の霧が濃くなってきたな」
キラは真面目に計算した。
全員分のソフトクリーム。
追加の牛乳。
お土産の少量。
弥子の追加希望。
そして、いつの間にかカイエンが買っていた牧場チーズ。
キラの顔が曇る。
「……足りません」
泉が固まる。
「えっ」
弥子も固まる。
「えっ」
カイエンがチーズの袋を見下ろす。
「おや」
アウクソーが静かに言った。
「マスター」
カイエンは視線を逸らした。
「いや、これは酒のつまみに……」
「本日の会計には含まれております」
「……そうか」
キラは追い詰められたように言った。
「ここは……」
全員がキラを見る。
キラは真面目な顔で続けた。
「『桂木弥子魔界探偵事務所』で……!」
弥子が叫んだ。
「なんでうち!?」
ネウロは楽しそうに笑った。
「ククク……よかろう」
「では、担保を出そう」
弥子が嫌な予感を覚える。
「ネウロ、あんた何を――」
ネウロがすっと手を出した。
その手にあったのは、小さなキイだった。
カイエンの顔から血の気が引いた。
「……おい」
ソープが目を瞬かせる。
「それ」
アウクソーの表情が一瞬で引き締まった。
ネウロはにやりと笑った。
「シュペルターのキイだ」
露伴の目が輝いた。
「待て」
「いま“シュペルター”と言ったな」
カイエンはネウロへ詰め寄った。
「それ、どこから出した」
「貴様の懐からだ」
「返せ!!」
「断る」
弥子が叫ぶ。
「あんた何やってんの!?」
ネウロは平然としている。
「会計の謎を解くには、担保が必要だろう」
泉が叫ぶ。
「牧場の売店で何を担保にしてるんですか!!」
キラは青ざめる。
「シュペルターって、ソフトクリーム代の担保になるものなんですか!?」
露伴はカイエンとソープを交互に見た。
「その“シュペルター”について、もっと詳しく訊かせてくれ」
「キイで起動するということは、機体だな?」
「君の乗機か?」
「構造は?」
「サイズは?」
「動力は?」
カイエンは即答した。
「教えん!!」
ソープも穏やかに言った。
「企業秘密だね」
露伴は目を細める。
「君たち、今の沈黙でほぼ答えているぞ」
「答えてない」
「何も言ってないよ」
ネウロがキイを指先でくるくる回す。
「このキイがなければ動かぬのだろう?」
カイエンはソープを見た。
「ソープ~」
「スペアキーは?」
ソープはにこりと笑った。
「無いよ」
「作った本人だろ!?」
「作った本人だからこそ言うけど」
ソープは落ち着いて言う。
「キイがなければ駄目だよ」
「融通きかねぇな!」
「それ、設計思想への文句?」
「今は会計の話だ!!」
アウクソーの視線が、すっとカイエンへ向く。
「マスター」
「重要物の管理が甘いかと」
カイエンは完全に沈黙した。
「……返す言葉もない」
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ソープは、小さくため息をついた。
それから、売店の方へ歩く。
「まあ、最後くらい僕が出してもいいよ」
「ソフトクリームは、地球文化の追加調査ということで」
弥子の顔が輝く。
「ソープさん!」
カイエンが即座に言う。
「最初からそうしろ!」
ソープは振り返った。
「君がキイを盗られるから面白くなったんじゃないか」
「面白くない!」
ネウロは笑っている。
「ククク……良い余興だった」
弥子が怒る。
「あんたが原因でしょ!」
キラは安堵と疲労が混ざった顔で言った。
「ありがとうございます、ソープさん……」
「本当に助かりました」
ソープは支払いを済ませ、何事もなかったように戻ってくる。
「はい」
「これで会計は解決」
ネウロがようやくキイをカイエンへ投げた。
カイエンは即座に受け取る。
「おまえにだけは二度と近づけん」
「貴様の懐が甘いだけだ」
「黙れ」
アウクソーが静かに言った。
「マスター」
「今後は、キイの携行方法を見直してください」
「……はい」
弥子が驚く。
「カイエンさんが素直に返事した」
キラが小声で言う。
「アウクソーさんには逆らわないんだ……」
カイエンは苦々しく言った。
「逆らえない時もある」
露伴はまだ諦めていない。
「カイエン」
「シュペルターとは何だ」
「教えん」
「ソープ」
「企業秘密だよ」
「アウクソー」
「お答えできません」
「ネウロ」
「吾輩は知っていても教えん」
露伴は不満そうにメモした。
「全員、口が堅い」
泉が言った。
「先生、牧場です」
「帰りましょう」
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牧場を出る頃には、空気がすっかり日常へ戻っていた。
弥子は満足そうに歩いている。
手には、ソープが追加で買った小さなプリンがある。
アウクソーがすぐに言う。
「弥子様、それは帰宅後です」
「はい!」
カイエンはキイを内ポケットに入れ直し、さらに上から手で押さえている。
ソープが笑う。
「そんなに警戒しなくても」
「おまえは黙ってろ」
「今日はおまえとネウロのせいで、余計に疲れた」
「僕、何かした?」
カイエンは一瞬だけ空を見た。
「……したよ」
「いろいろな」
キラは車に乗り込みながら、ようやく息を吐いた。
「これで、本当に帰れますね」
ラクスが微笑む。
「ええ」
「帰るまでが合宿ですもの」
承太郎は短く言った。
「もう寄り道はするな」
露伴は少しだけ考える。
「途中に面白い場所があれば――」
全員が同時に言った。
「行かない」
露伴は不満そうだった。
「まだ何も言っていない」
泉がきっぱり言う。
「言う前に止めました」
ネウロは車に乗りながら笑った。
「ククク……」
「六壁坂の怪異より、帰路の会計の方がよほど混乱を招いたな」
弥子が言う。
「でもソフトクリーム美味しかったから勝ち!」
キラが笑った。
「うん」
「それは、勝ちでいいと思う」
ソープは窓の外を見て、少しだけ満足そうに言った。
「地球の牧場文化も、なかなか良かったね」
カイエンが即座に言う。
「文化調査って言えば何でも通ると思うなよ」
「通っただろう?」
「通したんだよ、こっちが」
アウクソーは静かに補足する。
「本日の追加支出は、ソープ様の個人負担として処理いたします」
カイエンが安堵した顔をした。
「よし」
ソープは笑った。
「領収書は?」
カイエン、キラ、泉が同時に叫んだ。
「切らない!!」
車が動き出す。
牧場が後ろへ遠ざかる。
六壁坂の霧も、別荘も、怪異も、もう遠い。
残ったのは、ソフトクリームの甘さと、ビーフカレーの満腹感と、シフォンケーキの軽さと、フローズンヨーグルトの爽やかさ。
そして、誰も怪我をせず、ちゃんと帰れるという事実。
弥子は後部座席で、小さく言った。
「……楽しかったね」
泉は少し驚いて、それから笑った。
「大変だったけどね」
「うん」
弥子は笑った。
「でも、楽しかった」
ラクスも頷く。
「ええ」
キラは前を見ながら言った。
「次は、もう少し普通の旅行がいいですね」
露伴が後ろから言う。
「なら、次は普通ではない海辺にしよう」
泉が叫んだ。
「先生!!」
車内に笑い声と悲鳴が混ざる。
合宿は、まだ終わっていない。
家に帰るまでが、合宿である。
そして今のところ、全員ちゃんと帰れそうだった。
たぶん。