守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
ソフトクリームの甘さ。
しぼりたて牛乳の余韻。
帰れるという安心感。
六壁坂の霧も、怪異も、別荘も、もう遠い。
少なくとも、窓の外に見える景色は普通だった。
弥子は後部座席で、ソープが買ってくれたプリンの袋を大事そうに抱えている。
「これは帰ってから食べる……」
「帰ってから食べる……」
泉が苦笑する。
「自分に言い聞かせてるんだ」
「だってアウクソーさんに言われたから!」
アウクソーは別の車にいる。
しかし弥子は、いない相手の管理圧を感じていた。
ネウロが笑う。
「ククク……」
「食欲を制御されるとは、貴様も成長したな」
「うるさい! あんたは参加費払ってから言って!」
「吾輩は怪異を二件処理した。むしろ請求する側だ」
「出た!!」
キラは運転しながら、少し疲れた声で言った。
「その話、帰ってからにしませんか……」
ラクスが穏やかに微笑む。
「そうですわね。まずは無事に戻りましょう」
承太郎は短く言った。
「それが一番だ」
露伴は窓の外を見ながら、メモ帳を閉じた。
「帰るまでが合宿、か」
「いい言葉だな」
泉がすかさず言う。
「先生、そこから次の取材に繋げないでくださいね」
露伴は少しだけ笑った。
「分かっている」
「本当ですか?」
「今日はな」
「今日だけ!」
都内へ戻る途中、一行は一度集合して精算をした。
食費。
宿泊中の買い足し。
乳酸菌飲料。
ビーフカレー材料。
シフォンケーキ材料。
ソフトクリーム。
牧場プリン。
牧場チーズ。
キラは会計メモを見ながら、かなり真剣な顔をしていた。
「えっと……最終的に、別荘の修繕費はゼロです」
泉が感動したように言った。
「そこは本当に良かったです……!」
カイエンも頷く。
「ログナーにもスピードワゴン財団にも迷惑はかけずに済んだな」
ソープが軽く言う。
「ソフトクリーム代は僕の個人負担だから、そこは分けなくていいよ」
カイエンが即座に言う。
「領収書は切るなよ」
「切らないよ」
「本当に?」
「本当に」
その時、カイエンの端末が鳴った。
差出人を見た瞬間、カイエンの顔が固まる。
差出人:AKD総司令
件名:何だこれは。
ソープが覗き込む。
「何か来た?」
カイエンは端末を伏せた。
「来てない」
露伴が即座に反応した。
「来ているな」
「来てない」
「件名が見えた」
「見えてない」
端末は、再び震えた。
カイエンは観念して本文を開いた。
そこには短く、こう書いてあった。
この道は通行止めだ。ほかを当たれ。
地球文化調査費としての請求は不可。
シュペルターのキイ管理については別途報告せよ。
カイエンは無言で端末を閉じた。
ソープは少しだけ目を逸らす。
「……怒ってるね」
カイエンは低く言った。
「おまえのせいもある」
「僕、ソフトクリーム代を払っただけだよ」
「昨日の風呂もある」
「覚えてないんだよね」
「そこが腹立つんだよ」
アウクソーが静かに一礼した。
「マスター、報告書の作成はお手伝いいたします」
カイエンは深く息を吐いた。
「頼む……」
泉がぽつりと言う。
「結局、最後に一番怖いのは請求と報告書なんですね……」
ネウロが楽しそうに笑った。
「ククク……」
「怪異より恐ろしいものは、事務処理か」
キラが心から頷いた。
「本当にそう思います」
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その横で、弥子がネウロに詰め寄っていた。
「で、あんたの参加費!」
ネウロは平然としている。
「払わん」
「払え!」
「吾輩は怪異を処理した。密室死体とカロリー・イーターだ」
「よって、こちらが請求する」
「なんで!?」
露伴が興味深そうに言う。
「いいな」
「参加費を払わず、怪異処理費を請求する探偵事務所」
泉が即座に止める。
「よくないです!」
ネウロはどこからともなく紙を取り出した。
桂木弥子魔界探偵事務所 請求書
第一怪異「セルフ密室化死体」謎喰い処理費
第二怪異「カロリー・イーター」造影・固定・謎喰い処理費
魔界777ツ能力「暴食の造影剤」使用料
弥子のツッコミ労務費
ネウロ不払い分補填
事務所代表者胃痛手当
弥子が紙を奪い取った。
「最後の二つ、完全にこっちの被害じゃん!!」
「あと代表者って誰!?」
「貴様だ」
「違う!!」
承太郎が短く言った。
「くだらねぇ」
キラは疲れた笑みを浮かべた。
「でも、怪異を処理してくれたのは事実なんですよね……」
弥子が叫ぶ。
「キラくん、そこで真面目に悩まないで!」
ラクスは微笑みながら言った。
「今回は、皆さまがそれぞれ役割を果たされた、ということでよろしいのでは?」
その一言で、少しだけ場が落ち着いた。
ネウロは請求書をしまう。
「今回は保留としておいてやる」
弥子が睨む。
「二度と出すな!」
「それは約束できんな」
「しろ!」
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解散の時間が近づいた。
三日間の荷物は、出発時より少し軽くなっていた。
食材は減った。
乳酸菌飲料も減った。
お菓子もかなり減った。
けれど、持ち帰るものは多かった。
弥子はプリンを抱え、満足そうに言った。
「怖かったけど、美味しかったね!」
泉は笑った。
「普通はその順番でまとめないよ」
「でも本当でしょ?」
「……まあ、そうかも」
キラはラクスと荷物を整理しながら、少しだけ安心した顔をしていた。
「今回は、ちゃんと寝られた日もありました」
カイエンが言う。
「それは良かったな、坊や」
「カイエンさんとソープさんのおかげです」
「あと、乳酸菌飲料のおかげです」
アウクソーが静かに頷く。
「継続が大切です」
キラは苦笑した。
「はい」
ソープはキラの方を見て、穏やかに言った。
「君は、かなり強いね」
キラは少し驚く。
「僕がですか?」
「うん」
「怖いものを見ても、困っても、結局ちゃんと周りを見て動く」
「それは、なかなかできることじゃない」
キラは少し照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
カイエンがぼそりと言う。
「坊やは胃痛に強くなったな」
「それは嬉しくないです」
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その夜。
岸辺露伴は、自宅の仕事場でスケッチブックを開いていた。
六壁坂。
密室の死体。
カロリー・イーター。
イビル・バリウム。
霧。
食卓。
ビーフカレー。
シフォンケーキ。
ソフトクリーム。
ソープ。
ソープダッシュ。
そして、描いてはいけないかもしれない、あの湯気の中の姿。
露伴はペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
描きたい。
だが、すべてを描けばいいわけではない。
見たものを全部描くことが、作品になるとは限らない。
ときには、見たものを寝かせる必要がある。
カイエンの言葉を思い出して、露伴は少しだけ不満そうに笑った。
「寝かせる、か」
机の端には、泉からのメッセージが届いていた。
先生、六壁坂の原稿は、まず安全な範囲でお願いします。
あと、ソープさんの件は絶対に慎重にしてください。絶対です。
露伴は短く返信した。
分かっている。
数秒後、泉から返事が来た。
その返事が一番信用できません。
露伴は笑った。
そして、スケッチブックの最初のページにこう書いた。
生活は、怪異に勝つことがある。
食事をして、風呂に入り、眠り、朝を迎える。
それを奪わせないこと。
それが、今回の取材で得た最大のリアリティだった。
露伴は少し考え、もう一行加えた。
ただし、会計には負けかけた。
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数日後。
いつものカフェテラスに、カイエンがいた。
ようやく一息つける。
そう思っていたところへ、岸辺露伴が現れた。
カイエンは露骨に嫌そうな顔をした。
「……またか」
露伴は席に座る。
「聞きたいことがある」
「だろうな」
「シュペルターとは何だ」
「帰れ」
「まだ一問目だ」
「一問目から帰れ」
露伴は怯まない。
「では質問を変える」
「君にとって、六壁坂の旅は何だった?」
カイエンは、少しだけ黙った。
軽口で流そうとしたが、ふと三日間のことが頭をよぎる。
食卓。
霧。
ソープの寝顔。
アウクソーのため息。
キラの疲れた笑顔。
弥子の「楽しかったね」。
カイエンは、カップを持ち上げた。
「……悪くない旅行だったよ」
「疲れたけどな」
露伴は少しだけ意外そうに見る。
「そうか」
「ただし、次は普通の旅行にしろ」
露伴は即答した。
「普通ではない海辺なら考えている」
カイエンはカップを置いた。
「聞かなかったことにする」
そこへ、偶然なのか必然なのか、ソープがやってきた。
「何の話?」
カイエンは即座に言った。
「何でもない」
露伴は微笑む。
「次の取材の話だ」
カイエンが睨む。
ソープは楽しそうに笑った。
「海なら、フローズンヨーグルトよりソルベがいいかな」
カイエンは頭を抱えた。
「おまえも乗るな……」
露伴の目が輝く。
「いい」
「海辺、港町、古い灯台、そして――」
カイエンが遮った。
「やめろ」
ソープは首を傾げる。
「灯台?」
カイエンは即答した。
「おまえだよ」
ソープは少し不満そうに言った。
「僕は灯台じゃない」
露伴は笑った。
「だが、怪異は君を見ると道を開ける」
ソープは困ったように微笑む。
「それは、たまたまだよ」
カイエンと露伴は、同時に言った。
「違う」
ソープは肩をすくめた。
カフェテラスに、穏やかな風が吹いた。
六壁坂は遠い。
けれど、そこで得たものはまだ残っている。
怖いものを見た。
不思議なものを見た。
見なかったことにしたものもある。
それでも、彼らは帰ってきた。
食べて、笑って、疲れて、また次の話をしている。
それで十分だった。
少なくとも今は。