守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
テーブルの上には、コーヒーと打ち合わせ用の資料。
だが、泉の表情はすでに警戒している。
「先生」
「今日は本当に、普通の打ち合わせですよね?」
露伴は資料に目を通しながら言った。
「普通の打ち合わせなど存在しない」
「あります!!」
「ありますし、してください!!」
「君は相変わらず、発想が硬いな」
「先生が柔らかすぎるんです。特に危険方面に」
泉はため息をついた。
六壁坂の取材旅行。
怪異。
霧。
風呂。
見なかったことにした出来事。
牧場の会計。
シュペルターとかいう謎のキイ。
あれだけのことがあったのだから、しばらくは静かな日常がほしい。
そう思っていた。
その時、柔らかな声がした。
「ご一緒しても、よろしいでしょうか?」
泉が顔を上げる。
そこに立っていたのは、ラクス・クラインだった。
淡い色の服。
穏やかな微笑み。
柔らかな所作。
いつも通り、どこか場の空気をやさしく整えるような雰囲気。
泉は少し驚いた。
「ラクスさん?」
「お一人ですか?」
ラクスは微笑んだ。
「ええ。少し、外を歩きたくなりまして」
露伴は彼女を見た。
「珍しいな」
「君が一人で来るとは」
「たまには、そのような日もございますわ」
露伴はしばらく観察した。
歩き方。
声。
視線。
手の置き方。
違和感はない。
いや、正確には、少しだけある。
だが、ラクス・クラインという人物は、そもそも簡単に底を見せない。
露伴は席を示した。
「座るといい」
「ありがとうございます」
ラクスは静かに椅子へ腰かけた。
泉はほっとした。
ラクスがいると、場が少し穏やかになる。
先生の暴走も、少しは抑えられるかもしれない。
そう思った。
甘かった。
ラクスは紅茶を注文し、テーブルに置かれた資料を眺めた。
「六壁坂の原稿ですか?」
露伴は答える。
「まだ原稿ではない。整理中だ」
「描けるものと、描くべきではないものが混ざっている」
泉が即座に言う。
「描くべきではないものは、描かないでくださいね」
露伴は答えない。
泉は目を細めた。
「先生?」
「分かっている」
「その返事が一番信用できません」
ラクスは小さく笑った。
「お二人は、いつもこのような感じなのですね」
泉は少し恥ずかしそうにする。
「いつもというか……だいたいというか……」
露伴はラクスを見た。
「君はどう見る? 六壁坂の件を」
ラクスは少し考えた。
「怖ろしい場所でした」
「けれど、それ以上に、皆さまが生活を守ろうとしていたことが印象的でしたわ」
露伴の目が少しだけ細くなる。
「いい答えだ」
泉はラクスに感謝した。
やはり本物のラクスさんは、話がきれいにまとまる。
そう思った。
その時、カフェのスピーカーから小さく音楽が流れ始めた。
古い洋楽のようなメロディ。
軽く、午後に合う曲。
ラクスはふと、口ずさんだ。
ほんの数小節。
泉は目を丸くした。
「わ……」
露伴も少しだけ反応した。
声がきれいだった。
当然だ。
ラクス・クラインなのだから。
しかし、その歌声にはほんのわずかに、何かがあった。
上手い。
確かに上手い。
だが、どこか楽しみ方が軽い。
聴かせるためではないような。
露伴はペンを持った。
ラクス、今日は少し歌い方が軽い。
その程度だった。
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「お菓子あります!?」
次に現れたのは桂木弥子だった。
泉は肩の力を抜く。
「あ、弥子ちゃん」
弥子はラクスを見つけて、ぱっと顔を明るくする。
「あ、ラクスさんだ!」
「キラくんは?」
ラクスは穏やかに答えた。
「今日は、少し別行動ですわ」
「へえ、そうなんだ」
弥子はあっさり納得した。
そして、次の瞬間にはケーキのメニューを見ていた。
「今日はどれにしようかな……」
泉が苦笑する。
「ラクスさんが一人でいることより、ケーキなんだね」
「ラクスさんはラクスさんだから大丈夫でしょ!」
露伴が呟く。
「その理屈は危ういな」
「え?」
「いや、続けろ」
しばらくして、カイエンもやってきた。
「また集まってるのかい」
彼は席にいたラクスを見て、少しだけ眉を上げた。
「おや、歌姫が一人とは珍しいな」
ラクスは微笑む。
「たまには、そのような日もございます」
カイエンは少しだけ彼女を見た。
言葉は丁寧。
所作もきれい。
声も同じ。
だが、どこかほんの少し違う。
しかし、ラクスはもともと底の見えない女だ。
多少の違和感は、気分の違いとも言える。
カイエンは席についた。
「まあ、あの坊やも四六時中一緒というわけではないか」
弥子がケーキを食べながら言った。
「ラクスさん、さっき歌ってたんですよ」
カイエンが少し興味を示す。
「へえ」
ラクスは軽く微笑んだ。
「ほんの少しですわ」
露伴は言った。
「かなり上手かった」
「ありがとうございます」
弥子が身を乗り出す。
「もっと歌ってくださいよ!」
泉が慌てる。
「弥子ちゃん、カフェで急にお願いするのは……」
ラクスは、少しだけ間を置いた。
そして、短く一節だけ歌った。
声は澄んでいた。
泉は素直に感動した。
「やっぱりすごい……」
弥子も拍手する。
「おおー!」
カイエンも感心したように言った。
「さすが歌姫だな」
ラクスは微笑んだ。
「ありがとうございます」
露伴は、またメモをした。
余韻が少し軽い。
それでも、まだ決定的ではなかった。
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その時だった。
通りの向こうから、二人が歩いてきた。
キラ・ヤマト。
そして、ラクス・クライン。
カフェテラスの空気が止まった。
弥子がケーキを持ったまま固まる。
「……あれ?」
泉の顔から血の気が引く。
「え?」
カイエンが目を細める。
「……おい」
露伴の目が輝いた。
「またか」
席にいるラクス。
通りを歩いてくるラクス。
二人いる。
弥子が叫んだ。
「ラクスさんも二人!?」
泉が頭を抱えた。
「またこのパターンですか!?」
カイエンは、席にいるラクスを見た。
「なるほどな」
弥子が即座に突っ込む。
「カイエンさん、また今気づいたんですか!?」
カイエンは少しだけ咳払いした。
「……今回は、少し違和感はあった」
露伴が言う。
「だが気づいてはいなかった」
「うるさい、漫画家先生」
本物のラクスは、キラとともにカフェテラスへ近づいてきた。
彼女は席にいる自分そっくりの人物を見て、少しだけ目を見開いた。
だが、取り乱さない。
「まあ」
キラは完全に固まっていた。
「ラクス……?」
席にいるラクスが、穏やかに微笑む。
「キラ。こちらへいらしたのですね」
本物のラクスも、静かに言った。
「キラ、少しお待ちくださいませ」
キラは二人を見比べた。
声。
姿。
表情。
どちらもラクスに見える。
弥子が小声で聞く。
「キラくん、分かる?」
キラはすぐには答えなかった。
彼は、席のラクスを見た。
「ラクス」
「どうして一人でここに?」
席のラクスは答える。
「少し、お茶をいただきたくなりまして」
「皆さまとお話ししておりましたの」
「キラもご一緒にいかがですか?」
キラは、そこで少し表情を変えた。
「……」
本物のラクスは、黙ってキラを見ている。
席のラクスは微笑んだまま。
「どうしました?」
キラは、静かに言った。
「違う」
弥子が身を乗り出す。
「分かったの!?」
キラは頷いた。
「うん」
席のラクスの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
キラは続ける。
「ラクスは、こういう時に僕をすぐ輪の中に入れようとはしない」
「まず、僕が困っていないか見る」
「それから、どうしたいか待ってくれる」
泉が息を呑む。
カイエンが小さく笑った。
「やるな、坊や」
キラはさらに言った。
「あと、“キラ”の呼び方が少し軽い」
席のラクスは、数秒黙った。
そして。
「……細かいなあ」
声が変わった。
姿が揺れる。
ラクスの顔が崩れ、別の顔になる。
怪物強盗Xiが、椅子に座ったまま笑っていた。
「バレるの早っ!」
弥子が叫んだ。
「Xi!!」
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Xiは、けらけらと笑っていた。
「いやー、今回は自信あったんだけどなあ」
「声も所作も、けっこう頑張ったんだよ?」
泉が青ざめながら言う。
「本当に分かりませんでした……」
弥子も悔しそうに言う。
「歌、普通に上手かったし!」
Xiは胸を張った。
「でしょ?」
「歌姫に化けるなら、歌もやらなきゃ失礼かなって」
カイエンが呆れる。
「妙なところで律儀だな」
露伴はすでにメモしている。
「声色だけでなく、歌唱まで模倣」
「ただし余韻が軽い」
「本物との違いは、技術ではなく“気遣いの順序”に出る」
Xiは露伴を見た。
「うわ、分析されてる」
露伴は目を輝かせている。
「当然だ」
「君は非常に面白い」
本物のラクスは、静かにXiを見た。
「わたくしを装うのでしたら」
「もう少し、相手の心を見てから言葉を選ばれた方がよろしいですわ」
その声は穏やかだった。
だが、Xiは少しだけ肩をすくめた。
「こわ」
「本物の方が圧あるじゃん」
キラが少しだけ笑う。
「そうだよ」
ラクスはキラを見る。
「キラ?」
「いや、何でも」
弥子がXiを指差す。
「また何か食べてないでしょうね!?」
Xiは、テーブルの上を見た。
そこには、ラクスを装って注文した紅茶と、小さなケーキが一つ。
「今日は控えめだよ」
泉が伝票を見る。
「……本当に一つだけですね」
カイエンが言う。
「前回で学んだのか?」
Xiは笑った。
「いや、ラクスさんがケーキ三つ食べたら、さすがにバレるかなって」
弥子が即答する。
「そこは学んでる!」
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Xiは立ち上がった。
「じゃあ、今日はこのへんで」
弥子が慌てる。
「待てー! 今回はケーキ代払ってけ!」
Xiは軽く手を振った。
「今回は一個だけだし、ラクスさんに――」
本物のラクスがにこりと微笑んだ。
「お支払いくださいませ」
Xiの動きが止まった。
「……あ、はい」
泉が小声で言う。
「払った……」
カイエンも小声で言う。
「払わせたな」
露伴がメモした。
「本物の歌姫、偽物に会計を支払わせる」
弥子が感動したように言った。
「ラクスさん強い……」
Xiはしぶしぶ支払いを済ませた。
そして、にやりと笑う。
「次はキラくんに化けようかな」
空気が変わった。
ラクスは笑顔のまま言った。
「それは、おやめになった方がよろしいですわ」
キラも少しだけ目を細める。
「やめた方がいいよ」
Xiは二人を見比べた。
「……うん」
「やめとく」
カイエンが笑った。
「賢い判断だ」
Xiは肩をすくめる。
「じゃあ、またね」
「次はもっと面白い相手に化けるよ」
そう言って、Xiは人混みに紛れて消えた。
今度は会計を残さずに。
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Xiが消えたあと、テーブルには不思議な静けさが残った。
泉は本物のラクスへ頭を下げた。
「すみません……本当に分かりませんでした」
ラクスは穏やかに微笑む。
「お気になさらないでください」
「とてもよく似ておりましたもの」
弥子も言う。
「歌も上手かったしね」
キラは首を横に振った。
「でも、違ったよ」
露伴はキラを見る。
「君は、顔でも声でもなく、振る舞いの順序で見抜いた」
「それは非常に興味深い」
キラは少し恥ずかしそうに言った。
「そんな大げさなものじゃないです」
「ただ、ラクスならこうするって思っただけで」
ラクスは、少し嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、キラ」
弥子がにやにやする。
「いいねえ」
キラが慌てる。
「弥子ちゃん」
カイエンは紅茶を飲みながら言った。
「今回は坊やの勝ちだな」
「ソープの時とは大違いだ」
その瞬間、どこからともなく声がした。
「聞こえてるわよ」
全員が振り向く。
少し離れた席に、いつの間にかソープダッシュがいた。
紅茶を片手に、じとっとカイエンを見ている。
カイエンは目を逸らした。
「……いたのか」
「いたわ」
弥子が笑う。
「ソープさん、また本物?」
ソープダッシュは少しだけ拗ねた顔をした。
「本物よ」
露伴が即座に言う。
「今の言い方は本物だな」
泉が小声で言う。
「分かるようになってきた……かも?」
ソープダッシュはため息をついた。
「まったく」
ラクスはソープダッシュへ微笑んだ。
「偽物が出ると、本物の輪郭が見えるものなのですね」
ソープダッシュは少し考えてから笑った。
「そうね」
「でも、あまり何度もやられると困るわ」
カイエンがぼそりと言う。
「今度は君がケーキ代を払わなくて済んだな」
「それは本当に良かったわ」
露伴はメモ帳を閉じた。
「怪物強盗Xi」
「偽物によって本物を浮かび上がらせる存在」
「非常にいい」
泉が警戒する。
「先生、まさかこのシリーズ続ける気ですか?」
露伴は少しだけ笑った。
「向こうが続ける気なら、僕は見る」
弥子が言う。
「次、誰に化けるんだろ」
カイエンは嫌そうに言った。
「オレは嫌だぞ」
ソープダッシュは笑った。
「カイエンに化けたら、アウクソーさんが一瞬で見抜きそうね」
キラが頷く。
「それは見抜きそうですね」
ラクスも微笑む。
「ええ」
カイエンは何も言えなかった。
カフェテラスに、穏やかな午後の風が吹いた。
六壁坂の霧はない。
怪異もいない。
けれど、日常はまた少しだけおかしな方向へ進み始めている。
怪盗Xiは、もうどこかへ消えた。
だがきっと、また現れる。
誰かの顔で。
誰かの声で。
そして、たぶん。
また何かを食べたり、飲んだり、払わずに逃げようとしたりしながら。