守るべきもの、怒るべきもの、斬るべきもの、喰うべき謎 作:ギアっちょ
目の前には資料。
テーブルにはアイスコーヒー。
そして向かいには、岸辺露伴が座っている。
いや、座っているように見えた。
泉は資料をめくりながら言った。
「先生、六壁坂の原稿ですけど、やっぱりソープさん関連は慎重にお願いしますね」
露伴は頬杖をついたまま、軽く頷いた。
「分かっている」
泉は一瞬、手を止めた。
「……先生?」
「何だ」
「今、素直に“分かっている”って言いました?」
露伴は片眉を上げる。
「僕だって、分かっていることくらいある」
「それはそうなんですけど……」
泉は少しだけ首をかしげた。
いつもの露伴先生なら、ここで一言二言、面倒な理屈を返してくる。
「創作に必要な情報だ」とか、「君はリアリティを軽んじている」とか、そういうやつだ。
だが、今日はやけに聞き分けがいい。
もちろん、露伴先生にも機嫌のいい日くらいある。
たぶん。
きっと。
あってほしい。
泉はそう思うことにした。
そこへ、桂木弥子が小走りでやってきた。
「泉さん、露伴センセ!」
弥子の手には、買ったばかりらしい一冊の本があった。
『ピンクダークの少年』の新刊である。
弥子は目を輝かせていた。
「露伴センセ! ちょうどよかった!」
「新刊買ったんです!」
「サインください!」
泉は微笑ましそうに見た。
「あ、いいね。弥子ちゃん、ちゃんと読者してる」
露伴は、本を受け取った。
「いいだろう」
泉がまた少し止まった。
「……先生、今日は本当に素直ですね」
露伴はペンを取り出し、さらさらとサインを書いた。
筆跡は、それらしい。
勢いもある。
形も似ている。
少なくとも、泉や弥子がぱっと見て疑うようなものではなかった。
弥子は本を受け取り、嬉しそうに抱えた。
「ありがとうございます!」
「大事にします!」
露伴は笑った。
「読者サービスも、たまには必要だからな」
その瞬間。
弥子の顔が、ほんの少しだけ止まった。
「……読者サービス?」
泉も反応した。
「先生、そういう言い方しましたっけ?」
露伴は平然としている。
「言うこともある」
弥子は、サインされた新刊を見つめた。
嬉しい。
嬉しいはずだ。
だが、何かがひっかかる。
露伴先生がサインしてくれた。
それ自体はすごく嬉しい。
でも、露伴先生が「読者サービス」なんて言うだろうか。
弥子の中の露伴像は、そこまで親切ではない。
いや、親切じゃないというか。
親切な時でも、もっとめんどくさい。
弥子は席に座った。
「露伴センセ、今日は取材ですか?」
露伴は答えた。
「いや、今日は普通に話を聞くだけだ」
弥子の目が細くなった。
「普通に?」
泉も小声で言う。
「先生が“普通に”って言った……」
露伴は少し不機嫌そうな顔をした。
「何だ。僕が普通という言葉を使ってはいけないのか」
「いけないというか……」
弥子はケーキのメニューを見ながらも、ちらちら露伴を見ていた。
偽物っぽい。
でも、露伴先生本人に向かって「偽物っぽい」と言うのも失礼だ。
いや、露伴先生なら失礼なことを言っても怒るだけで済むかもしれない。
でも、もし本当に本人だったら、あとで面倒くさい。
弥子は悩んだ。
露伴は、弥子の方へメニューを押した。
「好きなものを頼むといい」
弥子は完全に止まった。
泉も止まった。
「……露伴センセ」
「何だ」
「今、ケーキ勧めました?」
「勧めたが」
弥子はじっと露伴を見る。
「露伴センセって、あたしにケーキを勧める前に」
「まず“君の食欲は資料として面白い”とか言いません?」
泉が頭を抱えた。
「弥子ちゃん、その判定基準ひどいけど……否定できない……!」
露伴は一瞬だけ沈黙した。
そして、少し笑った。
「君たちは、僕を何だと思っているんだ」
弥子と泉は、ほぼ同時に言った。
「岸辺露伴」
露伴の笑顔が、少しだけ崩れた。
「それが答えになってるの、嫌だなあ」
その声が、変わった。
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露伴の姿が、ぐにゃりと歪む。
顔が崩れ、髪が変わり、服の輪郭が揺れる。
そこに座っていたのは、岸辺露伴ではなかった。
怪物強盗Xiだった。
「やあ」
「今回はけっこう上手かったと思ったんだけど」
弥子が叫んだ。
「Xi!!」
「やっぱり!!」
泉は立ち上がりかけた。
「えっ、先生じゃない!?」
「じゃあ、私ずっと偽物と打ち合わせしてたんですか!?」
Xiはにこにこしている。
「うん」
「資料、ちゃんと見たよ」
泉が青ざめる。
「見ないでください!!」
弥子は新刊を抱えたまま、Xiを指差した。
「あんた、露伴センセのふりしてサインしたでしょ!」
Xiは胸を張る。
「似てたでしょ?」
「そういう問題じゃない!」
泉はサインを覗き込む。
「確かに、ぱっと見は似てる……」
弥子はがっくり肩を落とした。
「さっき、つい本物の露伴センセだと思ったからサインねだったのに……」
「これじゃ、怪盗Xiのサインじゃん……」
Xiは笑った。
「レアだよ?」
「価値の方向性が違う!!」
泉は弥子に同情した。
「それは普通にショックだね……」
弥子は新刊を見下ろして、しょんぼりした。
「せっかくの新刊なのに……」
Xiは少しだけ悪びれたような、でも全然悪びれていないような顔をした。
「いやー、でも君が見破るとは思わなかったな」
弥子は顔を上げる。
「あたし?」
「そう」
Xiは楽しそうに言った。
「泉さんじゃなくて、君だった」
泉は少し悔しそうにする。
「私も途中で変だとは思いましたよ!」
弥子は言った。
「露伴センセにしては、ちょっと人当たりが良すぎた」
Xiは笑う。
「そこ?」
「そこ!」
弥子は強く頷いた。
「露伴センセは、優しい時でももっと露伴センセっぽい!」
泉が頷く。
「分かるような、分かりたくないような……」
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その時だった。
カフェテラスの外から、聞き慣れた声がした。
「何を騒いでいるんだ」
全員が振り向く。
そこに、本物の岸辺露伴が立っていた。
本物である。
顔つき。
歩き方。
不機嫌そうな目。
見た瞬間に、「あ、これは本物だ」と思わせる面倒くささ。
泉は思わず声を上げた。
「先生!!」
露伴はテーブルを見た。
Xi。
泉。
弥子。
そして、弥子が抱えた『ピンクダークの少年』新刊。
露伴は目を細める。
「……僕がいるな」
Xiは手を振った。
「さっきまでね」
露伴は一瞬で理解した。
「君か」
「そう。怪物強盗Xi」
「今日は君を装ってみた」
露伴の目が、わずかに鋭くなる。
怒りというより、興味。
興味というより、取材対象を見つけた目。
Xiは少しだけ後ずさった。
「うわ、やっぱり本物は目が怖いな」
弥子は新刊を差し出した。
「露伴センセ……」
「何だ」
「新刊にサインもらったと思ったら、怪盗Xiのサインでした……」
露伴は本を受け取った。
サインを見る。
数秒、黙る。
「……似せてはいる」
弥子が小さく言う。
「やっぱり偽物ですよね」
「当然だ」
露伴は不機嫌そうに言った。
「線に責任がない」
泉が小声で言う。
「線に責任……」
露伴はXiを見た。
「僕の署名を真似るなら、せめて線に覚悟を持て」
Xiは笑った。
「厳しいなあ」
「当たり前だ」
露伴はペンを取り出した。
そして、偽サインの横に、本物のサインを書いた。
弥子は目を丸くする。
「えっ」
露伴は本を返す。
「これでいいだろう」
弥子は本を受け取った。
偽の露伴サイン。
その横に、本物の岸辺露伴のサイン。
並んでいる。
「露伴センセ……!」
露伴はそっぽを向いた。
「勘違いするな」
「僕の作品に、偽物の署名だけが残るのが不愉快だっただけだ」
泉は小さく笑った。
「先生らしいです」
弥子は本を大事そうに抱えた。
「ありがとうございます!」
Xiはそれを見て、にやにやしている。
「結果的に、すごい限定版になったね」
露伴が即座に言う。
「不愉快な限定版だ」
弥子は少し考えた。
「でも……ある意味、世界に一冊?」
泉が苦笑する。
「まあ、それはそうかも」
露伴は不機嫌そうだったが、否定はしなかった。
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露伴はXiへ向き直った。
「それで」
「君は僕の何を真似たつもりだ」
Xiは肩をすくめる。
「声、顔、姿勢、口調」
「あと、ちょっと偉そうな感じ」
泉が小声で言う。
「ちょっとじゃない……」
露伴は続けた。
「足りないな」
「そう?」
「まるで足りない」
露伴ははっきり言った。
「君は僕の傲慢さを真似たつもりだろうが、僕の傲慢は作品に必要だからある」
「君のは、ただのいたずらだ」
Xiは少し黙った。
それから、楽しそうに笑った。
「へえ」
「それ、本物っぽいね」
弥子が泉に小声で言う。
「うん。本物だ」
泉も頷く。
「本物ですね」
露伴は弥子を見る。
「桂木弥子」
「はい?」
「君は、なぜ見破った」
弥子は少し考えた。
「露伴センセにしては、優しかったから」
露伴は眉をひそめる。
「失礼だな」
「でも本当です」
泉がそっと言う。
「先生、今回はそこが決定打でした」
露伴は不愉快そうに黙った。
Xiが笑いをこらえている。
「いやー、勉強になるなあ」
「次はもっと遠慮なく踏み込めばいいのか」
露伴が言った。
「次はない」
Xiは首をかしげる。
「あるかもしれないよ?」
露伴の目が光る。
「その時は、こちらから読む」
「ヘブンズ・ドアー?」
Xiはにこっと笑った。
「それは怖いな」
そう言うと、Xiは椅子から軽く立ち上がった。
「じゃあ、今日はこのへんで」
弥子が叫ぶ。
「待てー!」
「偽サインの件、謝れ!」
Xiは手を振る。
「ごめんねー」
「でも、レアになったでしょ?」
「謝罪が軽い!!」
露伴が一歩前へ出る。
「逃げるのか」
「怪盗だからね」
Xiは通行人の影へ滑り込むように姿を消した。
最後に声だけが残る。
「次は、もっと本物っぽくやるよ!」
露伴は、消えた方を見つめていた。
「……面白い」
泉が即座に言った。
「先生、面白がらないでください」
露伴は答えない。
泉は頭を抱えた。
「また火種が増えた……」
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Xiが去ったあと、弥子は改めて新刊を開いた。
偽サイン。
本物サイン。
並んでいる。
「これ、どうしよう……」
泉が言う。
「大事にしたら?」
弥子は少しだけ笑った。
「そうします」
「偽物サインは嫌だけど、本物もあるし」
露伴は言った。
「偽物の方は、怪物強盗Xiの筆跡資料としては使える」
弥子が本を抱きしめる。
「使わないでください!」
「少し見るだけだ」
「ダメです!」
泉が苦笑する。
「先生、弥子ちゃんの本を資料にしないでください」
露伴は少しだけ不満そうだった。
弥子は本を鞄にしまいながら言った。
「でも、露伴センセ」
「何だ」
「本物のサイン、ありがとうございました」
露伴は目を逸らした。
「だから、僕の作品に偽物だけが残るのが不愉快だっただけだ」
弥子は笑った。
「はいはい」
露伴は眉をひそめる。
「その返事は何だ」
泉は、少しだけ安心した。
偽物は去った。
本物がいる。
そして、本物はやっぱり面倒くさい。
でも、今はそれが少しだけ頼もしかった。
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カフェテラスに、午後の風が吹いた。
泉は資料をまとめ直しながら言った。
「先生、今日の打ち合わせは仕切り直しですね」
露伴は椅子に座る。
「いや、十分収穫はあった」
「偽先生が来ただけじゃないですか」
「偽物によって、本物の輪郭が見える」
露伴は弥子の鞄を見た。
「今回は、僕自身の輪郭がな」
弥子が言う。
「人当たりが良すぎると偽物」
露伴は即座に言った。
「その結論はやめろ」
泉は笑ってしまった。
弥子も笑った。
露伴は不満そうだったが、怒り切ってはいなかった。
彼はメモ帳を開き、一行だけ書く。
怪盗Xiは漫画家を装った。
しかし、優しすぎた。
露伴は少し考え、もう一行加えた。
不愉快だが、面白い。